丸尾武雄師

 

トマス・アクィナス丸尾武雄

1919年(大正8年)55日、五島市久賀島生まれ。

1949年(昭和24年)319日、大浦天主堂で山口司教より叙階。

1949年(昭和24年)11月、井持浦教会助任。

1952年(昭和27年)4月、奈留教会主任。

1966年(昭和41年)9月、紐差教会主任。

1970年(昭和45年)3月、公神学校校長。

1975年(昭和50年)2月、黒埼教会主任。

1988年(昭和63年)3月、青砂ケ浦教会主任。

1996年(平成8年)3月、大山教会主任。

2005年(平成17年)213日、帰天。85歳。

祝、司祭叙階50周年

この3月、丸尾武雄神父と濱田増治神父が金祝を迎える。二人は共に長崎教区出身で、50年前、一緒に司祭叙階の恵を受けた。その二人が共に現役で金祝を迎えたことは大変めでたい。

 

二人の司祭叙階は1949320日、山口司教(当時)から大浦天主堂で授けられた。トマス・アクィナス丸尾武雄神父(長崎教区司祭)79歳。191955日福江市生まれ。浜脇教会出身。丸尾神父の談話。「戦争や原爆など人生の荒波を生きてきました。聖母マリアの取次ぎと神のご加護を感謝します。これからも皆さんのご支援をよろしくお願いします」

司牧歴、19494月公教神学校、4911月井持浦教会助任、524月なる教会主任、669月紐差教会主任、703月公教神学校校長、752月黒埼教会主任、883月青砂ケ浦教会主任、963月大山教会主任。

カトリック教報、昭和4231

「キリストの十字架のもとに」

丸尾武雄

人間は皆、時代の中に生き、時代の流に左右されるといわれます。私たちの生きる現代も、時の流に左右されているのかもしれません。実は人間が時の流れを整えなければならないのでしょうが、はたしてどうでしょうか。

世の初めから世の終わりまで、とめどもなく流れ続け、移りかわりゆく時代の流れの中で、いつも変わることのないもの、すべての時代を支配しているもの、それはなんでしょうか。それこそ、完全な御方、自力で昔もましまし、今もましまし、将来も永遠にまします御方、神なのです。人間は皆、この神にむかって進んでいるのです。善人はよきしもべとして、悪人は悪いしもべとして、皆この神のもとに帰って行くのです。

 

人間は皆、よきしもべとして神のもとに帰っていくがため、団体としても、個人としても、努力に努力を重ねているのです。種々のアクチオ・カトリカもそのためなのです。多くの方々が誠意と熱意とをもって、自分に課せられたものを研究し前進しているのを見て、だれしもが敬意をもって協力しているのです。自分だけでなしに、より多くの人々をよきしもべとして神のもとに帰らせるため、種々の方法が研究され、実施されています。そして、よきしもべとして神のもとに帰らせることがいかに困難であるかも知らされるのです。

 

今度(このたび)の公会議によって教皇様は、真理の探求、使命に対するめざめ、教会の刷新および進歩等強調されています。また、信徒使徒職に関する教令でも、毎日曜日ミサ聖祭にあずかり、しばしば秘蹟に近づき、聖体訪問、ロザリオ、朝夕の祈りをかかさず唱えるいわゆる熱心な信者だけでは足りないので、自分のうけた恩恵を他人にも分配するよう、各自に課せられた役割を果たさなければならないとされています。それで多くの方々は積極的に布教活動に従事し、いろいろの催し、集合など、その努力はなみなみならぬものがあります。

 

しかしながら、ここで大事なことを忘れかけていることに気づいたのは私一人なのでしょうか。一体人間には、どのようにして救霊と永遠の幸福との道が開けたのでありましょうか。聖母マリアお告げの祝日に人類は救主の御来臨の間近いことを喜び合い、クリスマスの日には、人類の救われる日が一日も早かれと念願しつつ、幼児の姿の救主を礼拝したのでした。でも、聖母マリアのお告げの日にも、クリスマスの日にも人類の救済はなしとげられていません。キリスト様が公生活に入り、救いについての教えをのべ、奇跡を行いましたが、それでも救霊の道は完成されませんでした。キリスト様が御父に対して人類の罪のおわびをなし、つぐないを果たし、人類に対する愛ゆえに十字架上に命をささげ、人類救済の神の御計画がなしとげられた時はじめて人々に救いの道が開けたのでした。救霊の恩ちょうは、この十字架の聖祭から流れてくるのではないでしょうか。私たちは救霊の柱となるこの聖祭を忘れかけているのではないでしょうか。

 

種々の布教事業に専念することは当然のことです。しかし、救済の土台を忘れた布教事業は、はたして救主から祝福されるでしょうか。多くの信徒の方々が誠意と熱意とをもって布教に従事しているのを見て、うれしく敬意をもって祝福しているのは、一部の老人組だけなのでしょうか。現代っ子ならずとも、十字架の聖祭と、ミサ聖祭の価値がおなじであることは、充分理解できていることです。それならば、私たちの布教活動の土台ともなるこのミサ聖祭をもっと勉強し、理解し、その御旨を実行に移すべきではないでしょうか。ミサ聖祭の土台なしに、救霊も、布教活動も考えられないのではないでしょうか。骨抜きになった布教活動にならないように、キリストの十字架の元にたたずみ、反省したいものです。

カトリック教報、昭和4351

「聖母とその子ら」丸尾武雄

大天使ガブリエルは、人類救済に関する神の計画を聖母に告げられた。「あなたに挨拶します。恩寵に満ちた方、主はあなたと共においでになります。・・・その子をイエズスと名づけなさい。・・・そこでマリアは、“私は主のはしためです。あなたのお言葉の通りになさいますように”と答えた。そして天使は去った」。これはルカによる救い主御来臨のお告げの場面です。“あなたのお言葉の通りになりますように”とのマリアの承諾によって、マリアを通してこの・・・?・・・ったのでしょうか。

 

救い主のこの世における行跡はだれしもが知っていることなのです。しかし、一言で表すならば、イエズス・キリストはこの世で完全な祈りを人類の救いの為になされたのではないでしょうか。キリストの30年間の私生活もまた3年間の公生活も、そして最後の十字架上の犠牲も、人類救済の為のおん父に対する完全な祈りではなかったでしょうか。

 

キリストは十字架上からおん母に向かい“婦人よこれがあなたの子です”と仰せられました。十字架につけられ、血まみれ・・・?・・・母は愛と同情と悲しみと人類の救いの為に神の意志に従うという堅い決意をもって眺めていたでありましょう。今ご自分にささげている愛と同情と悲しみと、人類救済の為に神の意志に従うという心を、あなたはおん母として子供である人類の為に捧げて下さいと願われたのでした。また弟子たちや人類を代表して十字架のもとに立っている最愛の弟子聖ヨハネに対しては“これがあなたの母です。”と仰せられました。母親は自分の子供の健やかな成長と幸福のためには、己が生命さえもおしまないといわれます。また子・・・?・・・す。

 

だからこそ子供たちは母親に対して深い信頼と愛とをもっています。十字架上のキリストは人々に向かって救いに関する一切のことを、このお母さんであるマリアを通して相談しお願いするようにとさとされたのであります。マリアは人類救済の最上の協力者として“あなたのお言葉の通りになりますように”と答えられたのでした。マリアの唯一の承諾は人類の救いの為にイエズス(救主)の母となることでした。人類の救いの道はイエズスによってのみあたえられ完成されました。しかしこのイエズスはマリアによってのみ、人類にあたえられ救いの事業を完成されたのであります。“救い・・・?・・・意味をもっています。私たちが救いを求めるならば、確実な道マリア道を選ばねばならない。この道にはいつくしみと寛容と偉大な援助とがあります。

 

そして希望の”救いの丘“に確実に導いてくれます。聖母はルルドの出現の時も、ファチマの出現の時も、人類に対して贖罪々々と繰り返されています。この贖罪の行為が真心からなされる時、神に対する真実な礼拝が心と行為でなされています。また受けた恩寵に対する感謝の誠意は堅く意志の奥深く根をおろしています。

 

そして限りある自分の姿を眺めて人間はひたむきに神の助けを願っているのです。聖母はこのような贖罪を人間が献(ささげ)てくれるのを待っているのです。聖母は人類の贖罪(いのり)を受け納め、十字架上のおん子の贖罪と一緒におん父天主様にささげたいのです。それはおん子の贖罪なしには人類は救われないし、おん子は聖母なしに救いのみ業をなすことを望まれないからであります。“聖母は十字架のもとにたたづみたもう”とのお言葉の通りであります。(紐差教会主任)

カトリック教報、昭和43年6月1日

「湖のほとりから」丸尾武雄

「群集が、神の御言葉を聞こうとして押し迫ったので、イエズスは、ゲネザレトの湖畔に立ち・・そのうちの一そうシモンの船にのり・・群集に教え給うた」(ルカ五の1-13

 

聖書に見えるキリスト様は、よく湖辺を歩かれ漁師と親しく話され、漁師を愛され、漁師を相手に神の国のことについて説教をなさっています。また湖辺にて多くの病人、悪魔つきをいやしています。(マルコ三の7-12)ペトロやアンドレア、ヨハネやヤコブが使徒として召されたのも湖の静かなほとりでした。(マテオ四の18-23)罪人の改心を忍耐と愛とをもって世の終わりまで待つことを申されたのも同じ湖のほとりでした。(マテオ十三の24-30

 

キリスト様は、月日のたつにしたがい、ガリレヤ、ユデヤの平野に移り弟子たちを選び、奇跡を行い、救いの道を述べ、自分が神の子であることを示しています。或いは静かな山奥に退き、人々のために祈り、人々に代わって御父に感謝し、最後にカルワリオの丘の上に至りて愛の教えは最高に達しています。

ところで、聖パウロが「ユデヤ人にとってはつまずくもの、ギリシャにとっては愚かなこと」と言ったもの、即ち十字架につけられたキリスト様を、多くの方々が昼夜探し求めているのは何のためでしょうか。いな、むしろ、キリスト様の方から、忘恩に忘恩を重ねた人間の愛を求めているのはなんのためでしょうか。

 

これに対して御主は「斯くまで世を愛し給う」と答えられています。

人祖が楽園において神にそむいた時、赦しを願ったのはアダムとエワではありませんでした。犯罪の当日に許してやりましょう、と、そのため救主を使わそうと申し出たのは神様の方からではありませんでしたか。この時から善牧者なるキリスト様は迷える羊を尋ねてその後を追っているのです。

 

「我が好むはあわれみなり、犠牲にあらず」(マテオ九の13)と申された主は、何時の世でも御自分に反抗する者に、憐れみと慈しみ、十字架上の死に至るまでの愛を以ってお返しになるのです。それは何故でしょうか。「斯くまで世を愛して」居られるからです。

 

キリスト様は罪を犯した女に対して、なぜおまえは、そんな大きな罪を犯したのかとはとがめていません。「だれも汝を罪に定めざりしか・・主よ、だれも・・我も汝を罪に定めじ」(ヨハネ八の1-11)と申されて、いつくしみとあわれみを与えています。迷える1頭の羊を発見した時、群れをはなれてわがままをしていた羊を叱ったでしょうか。

 

返って喜びにあふれ肩にのせて家に帰り、隣人や友達を呼んで祝宴を催しているではありませんか。キリスト様と共に十字架につけられた一人の強盗が「主よみ国に至り給わん時我を記憶し給え」と願った時、主はこの強盗に向かって生涯の悪行をせめたでしょうか。そうでなしに「今日汝我と共に楽園にあるべし」と約束されたではありませんか。キリスト様を銀貨30枚で売ったイスカリオテのユダのためにも、十字架上のキリスト様の手は閉ざされることなく開かれていたのではないでしょうか。

 

夜中に湖の上を歩いていたキリスト様を見て弟子たちは化け物だと思って恐れ叫び出しました。その時主は「たのもしかれ我なるぞ恐るることなかれ」(マテオ十四の36)と言われました。キリスト様が化け物であり、単なる人間であり、一時的ごまかしであれば恐れるのは当然でしょう。然しながら主は宇宙の創造者支配者、生命であり、光りであり、真理なのです。十字架上の死に至るまで己が羊のために生命までも与え給う程に世を愛し給う主なのです。いつくしみとあわれみの御腕に抱かれて何人が信頼しない者がありましょうか。「医者を要するのは健やかなる人にあらず病める人なり」(マテオ九の12-13)と教えられた御主は、今も人類に対してこの無限ないつくしみに信頼するよう求めているのです。「たのもしかれ、我なるぞ」と、2千年前にゲネザレト湖のほとりで弟子たちにさとされたこの言葉は、今も世の終わりまでも人類に繰り返されているのです。(紐差教会主任)

カトリック教報、昭和43年7月1日

「大きな壁の前に立って」丸尾武雄

この原稿を書いている最中に母の死を知らされました。人間だれしも生涯には種々な壁の前に立って己がなすべきことを反省させられる時期があります。この時期を有効に用いることによって私たちは神へ一歩近づくのではないでしょうか。

 

ルカ福音書十五章に有名な放蕩息子のたとえ話があります。彼は父親に無理にお願いして、自分の分け前の財産をかき集めて遠くに行って贅沢三昧にふけっていました。間もなく破たんの日が訪れ無一文になり乞食の生活をしなければならなくなったのです。来る日も来る日も豚の餌桶(はみおけ)をみつめ、自分の前に立ちふさがった大きな壁を眺めながら、ありのままの自分の姿を反省してみるのでした。家を出るとき父親の諭しも聞かず、強情を重ね自由な世界を求めて「俺にも自由に生活する権利があるのだ、父親の助言など必要でない、俺はもう子供ではないのだ、よけいなおせっかいは止めてくれ」と、どなり散らして出発したことでしょう。その日の元気な彼が今では豚の餌をあさって生命をつないでいるのです。

 

お金のある時は多くの人が慕い集まって来たことでしょう。しかし、今ではだれ一人としてかえりみる者はない。全くの孤独になってしまったのです。助けを求めようにもだれも相手にはしてくれません。「我ここにて飢え死なんとす」とあるごとく生死の壁の前に立たされたのです。次にマテオ福音書十九章に一人の青年富者とキリストとの対話がしるされています。この青年は真面目に毎日を過ごしていたらしい。

 

キリストが「生命に入りたければ掟を守りなさい」・・・「あなたが若し完全になりたいと望むならば行って持てる物を売り、これを貧しい者に施してその後私の許に来て従いなさい」と。青年はこの言葉を聞いて悲しみながら去って行きました。完全な者に近づくためキリストを選ぶか否かこの青年にとってはかたい壁の前に立たされたのでした。

 

人間がなんらの壁の前にも立たされることもなく、自己を反省することもなくして、ただ他人の生活を誹謗することで英雄気取りしているとしたらどうでしょう。でも多くの人はいろいろな分野に於いて苦難の壁にぶっつかっているのではないでしょうか。苦難の壁が余りにも険しい時、眼前に立ち塞がっている岸壁を眺めて途方に暮れた経験をおもちの方も多いことと思います。

 

旧約に於けるエリア預言者が神からの召命(おぼしめし)を受けて、それに忠実であろうとすればするだけ困難は次々起こってきます。イザベルから生命を奪われるのを恐れて、ユダノベェル・シェバにのがれ、えにしだの木陰で「主よ、もうこれで結構です。・・・私の命を取り去ってください」(列王上十九の1-21)と祈ったように人生の途上で挫折しそうな時もあるのではないでしょうか。

 

こんな時私たちはどうすればよいのでしょうか、主は「御父の家に帰れ」と諭されています。しかし、この言葉の前に多くの人は立ち止まるのです。「自分のように弱い者、欠点だらけの者、罪深い者、忘恩者には御父の家に帰る資格がない」と。それでも主は私たちが御父の家に帰るのを待っています。人間の弱さや欠点を主は万も承知の上で「御父の家に帰りなさい」と諭してくださるのです。エリアが御父のもとに帰り、放蕩息子が父の家に帰ったように私たちも御父の家に帰らねばならない。青年富者の如く主の御許から去るならば、そこには失望と挫折しかないのです。

 

しかし、多くの方々は御父の家を知らない。そのため帰る道を知らない。帰ろうとも望まないのです。彼等の頭の中には御父の家は恐ろしいもの、審判の庭、地獄の門の如く描かれています。キリスト様が生命かけて説かれた慈しみと憐れみの御父の家を人間のだれかが地獄の門にすりかえたのではないでしょうか。生命ある限り、生命かけて御父の家に帰らねばならない。そこには生命あり、愛あり、つきることなき幸があるのです。(紐差教会主任)

特集=省みる1

「時の流れの中で」丸尾武雄

感謝の心で

「そのうちの一人は病が治ったことを知ると、大声で神をたたえながら引き返して来て、イエズスの足もとにひれふして感謝した。これはサマリア人であった。」(ルカ171516

 

今年も11月の月を迎え、忘れかけていた個人をしのび、できれば墓参りをして、その冥福を祈りたいと思っている。今月中旬、生前大変お世話になった人々に、小さいながら感謝の気持ちで、平戸の紐差修道院の墓地に詣でた。墓前でとなえるロザリオの中に、生前誠意をもって共同体のためにつくしてくれた故人の姿と、それに対して何もむくいることのできなかった自分の姿とが、浮かび出ては消え、消えてはまた現れてくる。真に故人は生きているという体験の一時であった。そして貧しく弱い祈りではあったが、心から感謝とお詫びを申し上げ、「主よ、彼等に百倍をもってむくいてください」と祈りながら帰って来た。

 

一杯の水の重み

「あなたたちがキリストの者であるという理由で、1ぱいの水を飲ませてくれる者があれば、実に私は言う、その人はけっして報いを失わない。」(マルコ941)今まで多くの方々から物心両面にわたってささえられてきた自分を思うとき、言葉に出せない感謝の念にかられる。そして多くの人々から教えられ、導かれてきた自分を眺める。しかしその成果はあまり残っていないのに気づく。

 

心に残っているものといえば、小さいとき母にしかられた思い出くらいのものである。私が小学一年生の頃だったと思う。夏休みのある日、お腹をすかして家にかけこみ、昼食をとろうとして乱雑に十字架の印をし、食前の祈りを始めたとたん、母の大きな雷鳴がおちた。母があれほどまで真剣に怒ったのは、それ以前も、それ以後もなかった。「イエズスさまの十字架の印を乱雑にするくらいなら、めしは食うな!」と。このとき以来、今に至るまで、十字架の印をする度にあの時の真剣な母の言葉がよみがえってくる。そして、その度に十字架のありがたさと、その重みが日一日と強くせまってくるように感じられる。

 

母は学問もなく、人なみの教養もない片田舎の平凡な一母親であったが、死ぬまで十字架の印を乱雑にすることはなかった。死ぬ4年前から名古屋の長男の家にいたが、死後間もなく平戸の紐差教会にいた私のもとに知らせに来てくれた。聖霊降臨の大祝日の前夜9時頃、机に向かって説教の準備をしていると、ドアが開いたような感じがしたので後をふりむくと、母がにっこり笑って立っていた。不思議と驚きで、ただ、「あら、お母さんは・・・」と言うと、十字架の印をして手を合わせて静かに消えていった。その瞬間母の死を感じ取った。

 

心に静けさを取り戻し、ロザリオをとなえて床についた。その夜11時少し過ぎた頃、玄関のベルが鳴り「電報!」という声がした。助任神父様が出て受け取ってくれた。母の死の通知だとは察していたが、その夜は何も知らせられず、翌朝聖霊降臨の大祝日にその電報を受け取った。40年前、かってなかった叱り方をして我が子にキリストの十字架の重みを教えた母が、最後にキリストの十字架の喜びをもってその子に別れに来たのであろう。水一杯の重みにさえ報いてくださる主が、十字架の重みに報いてくださらないことはないであろう。

真理とは何か

 

「イエズスは『わたしは真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く』と答えられた。ピラトは『心理とは何か』と言った。」(ヨハネ183738

第二次世界大戦の渦に巻きこまれ、朝鮮半島で軍務に服していた私達は、昭和17年1月の終わり、京城の竜山から平城北方の大同蕨舎に演習のため移動した。いわゆる耐寒大演習のためであった。山間に点在するこの蕨舎での生活は想像以上にきびしく、夜間は零下45度を下ることもしばしばだった。毎日のはげしい演習と耐寒との生活は、各兵士を極度に疲れさせていた。そのうえ昼間の演習あるいは夜間の演習のあと、隔日毎に歩哨の任務につかなければならなかった。

 

2月の終わり頃、私は急に発熱し、意識不明になってしまった。その時は、どれだけの時間あるいは日数がたっていたのかということは分からなかったが、意識が快復しかけた時びっくりした。自分がどこにいるのかまだはっきり分からなかったし、自分の回りを78人の軍医や衛生兵、看護婦がとりかこんでいたからである。あとで分かったのだが、発熱して意識不明になってから2昼夜余そのままの状態だったので、急々に雪の中を平城陸軍病院まで運んだとのことだった。

 

少しずつ快復するにつれて日1日と意識もはっきりしてきた頃、軍医がレントゲン写真を見せて、この状態では当分部隊に復帰するのは無理だろうと説明してくれた。はげしい軍務の間は静かな祈りもできなかったが、なんだか落ち着いた気持ちで祈りもでき、気長に快復を待つ気持ちになっていた。しかしまだまだ重態の域を脱し得ず、みんなの厄介者になっていたある日、1人の衛生兵が私の貴重品袋から小さなラテン語の聖書を取り出し、「これはなんだ」とたずねる。「それは聖書だよ」と答える。「ああ、あのバイブルっていうやつか」と無造作に返ってくる。彼はしばらくそれを眺めていた。「これは英語ではないな、ドイツ語か」と聞く。「それはラテン語だよ」と答えた。「ラテン語、そんな外国語があったかな・・・」と言いながら少し読み始めたが、英語式読み方とも言えない、変な読み方である。それでも23行は読んだ。「お前これ分かるのかい」。「分からないから勉強してるんだ」。「ここに何が書いてあるんだ」。「ゆっくり読んでみたら」というと、彼は少しずつ変な読み方で読み出した。

 

彼が開いていたのはヨハネ1824節からで、キリストがピラトから尋問されている場面であった。すると彼は急に、[Quid est veritas]とはどんな意味かと聞く。「真理とは何か」という意味だと言うと少し考え込んでいた彼は、「心理とは何か、真理とは何か・・・」とつぶやきながら部屋を出て行った。

 

それから毎日私の部屋に入って来る度ごとに「真理とは何か・・・」と独りごとを言いながら私の看護にあたっていた。暇な時は私の部屋に来て、興味本位かどうか分からないが聖書を読んでいた。1ヵ月ほど過ぎた4月の初旬、自信たっぷりな顔で私の部屋に入って来て、「真理というのはキリストのことか」と尋ねる。「そうだよ」と答えると、何か貴重なものを発見したような喜びを浮かべながら、すぐ出て行った。それから何日かして私は京城の陸軍病院に護送され療養の身となり、彼は南方前線に派遣されて帰らぬ身となった。

 

それまでこの「真理とは何か」という言葉にそれほど関心を持っていなかったが、これ以来私も「心理とは何か」と口ずさみながら「私は道であり、真理である」(ヨハネ146)とのキリストの言葉を悟り、受け入れたいと念願している。キリストを知らなかった一兵卒から「真理というのはキリストのことだ」と教えられ、目があっても見えなかった自分を反省している。


  
   


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