丸尾武雄師

 

無益なしもべ

「あなたたちも命じられたことをみな成し終えたら、“私たちはとるに足りないしもべです。すべきことをしたにすぎません”と言え。」(ルカ1710

 

 

毎日となえる「教会の祈り」の中に右の一節を書いた御絵を1枚はさんでいる。1949320日司祭叙階記念の御絵である。司祭に叙階されて33年になろうとしている。毎日この聖書の言葉を口にしながら、いつになったら安心して喜びの中に言えるのだろうかと案じている。

 

ある教会在任の時、22年間教会から離れていた人の臨終に立ち合い、4時間25分の間改心をすすめて、つばきをかけられ、神の存在は否定され、罵倒されながら、最後の改心を願って、祈るような気持ちですすめてみたけれど、彼の首は縦に動かず、はっきりと横にふられた。そして間もなく大きな息をして帰らぬ人となった。

 

またある時、夜11時半過ぎ、隣の市の病院から病人のために電話があった。どうしてこんなに遠い所の教会に電話したのだろう。近い所に教会はいくつもあるのに、自分の教会の信者でもないのにと一瞬考えた。しかしここまで電話するにはそれなりの本人の希望があるのだろうと思い出かけた。病院に着いたのは夜中の1時少し前であった。病室に入り、すぐ告白をと思いすすめても何の反応もない。告白が必要なければ病者の秘跡をと思いすすめても応えはない。不思議に思って付き添いの人に尋ねてみた。私に電話した人はいない。

 

(あとで分かったことであるが、同病院にいる信者の方がこの病人のことを思って電話したとのこと。)病人は確かに重態である。しかしそれほど切迫してはいないようである。それにしてもなんとか「ゆるしの秘跡」と「聖体の秘跡」をと考え、側によってすすめてみた。ロザリオを片手に、すすめては、間を置き、ロザリオをとなえ、またすすめる。このようにすること2時間余、とつぜんこの病人は「神父様、今夜はだいじょうぶのごとあるから帰ってください」と言う。驚きのあまりしばらくこの病人の顔を眺めていた。それでもなおしばらくさとしてみたり、願ってみたりしたが、何の反応もない。ついに付き添いの人に近くの教会を教え、急な場合はいつでも電話するようにと頼んで帰って来た。教会に着いたのは朝の5時前だった。そして、どうしてこのようなことが起こりえるのであろうかと疑問の毎日が続いた。

 

今年11月3日、浦上教会でコルベ神父様の列聖記念ミサが盛大にささげられた。そして静かに聖コルベ神父様の生涯を見る時、本当に彼こそ「私たちはとるに足りないしもべです。すべてきことをしたにすぎません」と喜びをもって言える人だと痛感させられる。

私が何を宣べ伝え、何を教え、何をなしても、まだまだ生命をかけてはいない。キリストのため、人々のために生命をかけてなした時初めて右の聖書の言葉がでてくるのではないだろうか。私が生命をかけてなしていたら、22年間教会から離れていた人も、「今夜はだいじょうぶのごとあるから帰ってください」と言った人も、今は神の救いのみ手にだかれているのではないだろうかと痛感している昨今である。(黒崎教会主任司祭)

カトリック教報、昭和61年2月1日

教会見て歩き、黒埼教会

 

慶応元年、プチジャン神父によって発見された外海地区の信徒は、秘跡を授かるために、船で大浦天主堂まで通っていた。その後、クーザン神父が慶応3年に、キリシタン復活後初めて黒崎地区でミサを捧げている。このミサに参加した信徒数は、250人と言われている。しかし、この時までは自分がキリスト信者であることを名乗り、公に信仰に生きる人はいなかったという。そのような時に浦上の信徒、岩永又一親子は熱心に伝道に力を尽くし、その結果、19戸の人々が家の中の神棚を取り払い、公然と信仰を表明するようになった。

 

この地区には、下黒崎湯穴に「聖心」に奉献された仮聖堂があり、宣教師たち

はそこで信徒に秘跡を授けていた。明治20年、外海小教区より独立。コンパス司教により黒崎小教区が設立された。

 

マルコ・ド・ロ神父の指導により基礎が築かれ、大正9年、黒埼教会信徒246戸の祈りと血のにじむような犠牲的奉仕によって聖堂は建立された。角力灘に向かって高台に建った教会は66年の間の風雪にもめげず先祖の信仰の遺産を秘めて、赤レンガ造りの美しい姿を見せている。

 

現在主任司祭の丸尾武雄神父のもとに520人の信徒からなり、高齢者信徒の多い落ち着いた祈りの深い神の家族である。しかし、ややもすると信仰生活の中に迫害のあとの姿がまだ残っていて、保守的な面に留まりやすいという反省から、司牧委員会のメンバーは、先祖からの信仰の遺産は大切に守り育てながらも自分たちの教会だけを見るのではなく、一歩外に出て、他の教会も訪ね、信仰、活動、施設などを研修し参考にしている。これまで福岡、大分、山口の各教会を訪問したという。

 

ミサ後に行われる聖書研究会や主任司祭の手作りテキストによる大人の公教要理勉強会に、積極的に参加する信徒も多い。毎年春に城山公園で行われる高齢者との懇談会には全信徒が集い、信仰生活の先輩たちに感謝を表し、ミニ運動会や歌などで一日を楽しく喜びを分かち合う。また、中学卒業生、聖職者志願者の前途を祝しての集いも開かれる。

 

秋には教会の運動会が賑やかに開催され、この日は老いも若きも一堂に集い、触れ合いによって和を広げ、共同体の一員としての意義を高めている。ビンセンシオ会は、隣人愛の教えに従って、信者、未信者を問わず生活に困窮している人々や老人家庭を訪れて相談相手となり、物心両面の支えとなっている。毎月20軒の家庭を訪問して奉仕を続けている。

 

多くの司祭や修道士、修道女を神の働き手として送り出した信徒たちは、祈りを大切にしよく祈る。「信徒の1人ひとりが神との会話を大切にし、神の愛の手のもとに、生活の中に溶け込んだ希望のある信仰生活の土台をますます強めていって欲しい。司祭が上から命令し、先に立って進むというよりも、信徒と一緒になって歩んで行きたい」と丸尾神父は語っておられた。

霜ふかく 教会の庭 石蕗咲けり(兵頭京子)

カトリック教報、平成元年6月1日

教会見て歩き、青砂ケ浦教会

 

キリシタン弾圧を逃れるため信者が移住し隠れ住んだ上五島。それだけに上五島各地には由緒ある教会が今も美しい姿を残し、信徒の祈りの場所となっている。青砂ケ浦教会(丸尾武雄神父)は小高い丘を背に、波静かな奈摩湾を前にして建っている。赤レンガと碧い海が調和して実に美しいたたずまいである。信者たちの祖先は迫害を逃れて西彼杵郡外海地方(旧大村藩領地)から移住してきた人たちである。

 

1907年(明40)聖堂建設に着工。19101017日、大天使ミカエルを守護者とする教会が落成献堂された。当時の信徒戸数は50世帯であった。現在は212世帯1,100余人の信徒を抱える。先祖から受け継いだ信仰を大切にしながら、よい意味での長崎の信仰を守り続けている。

 

主日のミサ時間は夏時間と冬時間に分かれている。5月から8月までは朝8時から、9月から4月までは朝9時からとなっている。土曜日の夕方6時は年間を通して変わらない。平日のミサにあずかってみた。聖堂には多くの信徒が朝早くから来ていた。とくに子供たちの典礼奉仕の姿は純粋でさわやかな感じを受けた。

 

高齢者も多いが、信徒の年齢層は比較的バランスがとれているようだ。信徒の大半が漁業によって生計を立てているため、青・壮年の男性は1年の多くを船の上で過ごす。そのため、仕事の第一線を退いた男性信徒と婦人会の女性信徒たちが教会をしっかりと支えている。「婦人会のメンバーは、皆さんが朗らかで、助け合いの気持が強く人情味豊です。イワシ一匹でも半分にして分け合い、他の人の喜びを自分の喜びとすることのできるお母さん方です。家庭の中では、父親の役割をもしっかりと務め、内助の功、大です」と、丸尾神父。

 

今年70歳を迎える丸尾師は一時体調を崩したこともあったが、現在はすっかり元気になり、子供たちの宗教教育に力を注いでいる。祈ることの大切さ、祈りの言葉をはっきりと、聖体拝領の態度を美しく、など具体的なことをきめ細かく指導している。聖歌の練習では低学年の子供たちも大きな声で歌えるようになり、主日のミサではお母さん方とともに声の奉仕を務めている。

 

子供たちの心の中に召命の心が育つことを願いながら、侍者や聖歌奉仕の子供たちと海岸の散歩や山登りをいっしょに楽しむことも心がけているとのこと。

聖堂は現在の信徒数に対しては狭く、祝祭日には信徒が外にあふれる状態である。子供たちの「けいこ」も保育園に場所を借りている現状で、信徒が一堂に集まれる場所が欲しいとの願いのもとに、信徒会館建設が計画されている。

敷地の造成はすでに完了して、建物は8月完成の予定だという。信徒会館完成のあかつきには、信徒の交流は今までより、いっそう密になるに違いない。開かれた素晴らしい教会共同体へと発展していくを願いながら青砂ケ浦を後にした。

聖堂を巡りて白き花密柑(兵頭京子)

「丸尾神父様の思い出」小島貴大

自分は、丸尾神父様が赴任している間、6年間ミサ使いをしていました。この6年間には様々な思い出があります。神父様は忙しい中でも、自分たちの休日には、ドライブや食事に連れて行ってくれたりしたことがありました。行く場所はたいてい決まっていたのですが、連れて行ってもらうということにうれしさを感じていました。その他にも、大切なミサの中で鐘を鳴らさなければならない時に、鳴らすことを忘れてしまった時がありました。そういう時でも神父様は「次は間違えるな」と言うだけで、怒ろうとはしませんでした。また、神父さまは、聖歌の稽古の時には厳しく、何度も歌わされた記憶があります。当時は嫌々していましたが、今思えば厳しくなるのも当然のことだということが分かります。今あげたことだけでなく、他にもまだまだ神父様との思い出はたくさんあります。

 

今、神父様は長崎の大司教館におられると聞いたので、5年ぶりに会いに行きました。一度倒れたと聞いたことがあったので心配していましたが、自分が会った時には、元気にしておられ、長崎県内の教会についての本を作成しておられました。これからも、末永くお体に気をつけて、長生きされます様に祈っています。

牢屋の窄殉教祭ミサ説教

「松ケ浦牢屋」殉教130周年を迎えて、大山教会丸尾武雄

 

私たちは今、130年前、先祖たちが血と涙と汗と、迫害の多くの苦難に耐え、生命をかけて信仰のあかしをした尊い土地に立っています。先祖たちの信仰のあかしが染み込んでいる土地に立っているのです。

 

先祖たちは1587年、秀吉が禁教令を発布し宣教師を追放してから270余年の間、パパ様から派遣される宣教師の到来を今日か明日かと待ちに待っていたのです。

日本から宣教師が追放されてから278年目に、長崎に大浦天主堂が建てられ、宣教師が到来したことが知らされると、先祖たちは先を争って長崎に至り、大浦天主堂の門をたたき、宣教師と会い、教えを受け、ミサ聖祭に参加し、秘跡を受け、喜びと希望に満たされて島に帰って来て、宣教師の到来の喜びを皆に伝えています。

 

私たちは今日、先祖の殉教地で、パパ様のご名代のアンブローズ・デ・パオリ大司教さまを迎え、島本大司教さま、司祭方、修道者、信徒の皆さんと一緒に先祖の勲をたたえ、主なる神さまに賛美と感謝をささげることが出来るのは、子孫である私たちにとって大きな喜びであり誉れでもあります。

 

先祖たちが宣教師の到来を知り、教えを受け、秘跡を受けて喜びと希望に満たされたのも束の間、明治元年の大迫害となったのです。私たちの先祖が、西彼杵の外海地方からこの地に移住してきてから70年目のことです。

 

私たちの先祖は外海から、とだれしも知っています。先祖はどうして本土の広い外海地方から、この辺ぴな五島の島々に、しかも、島々の中でももっとも辺ぴな島の端に移り住んだのでしょうか。それは迫害を逃れて、あるいは生活の安定を求めて、と言われる人々もいます。迫害なら外海も五島も変わることはない。かえって中央から遠く離れている五島の方が野卑で残虐であったかもしれない。

 

生活の安定を求めて、五島まで多くの苦難と危険を侵してまで移り住んだとは思われない。五島の牛の背の広さぐらいの断崖の上で、石ころだらけの土地よりも、広い外海の土地の方が生活の安定はあったでしょう。先祖がこの五島まで生命の危険を侵してまで移住して来たのは、神さまの教えに従って生活が出来る所を求めてきたのです。当時、外海地方の大村藩では生まれてくる子供は長男だけを生かして、その他の二男、三男は殺さねばならなかったのです。かくれて育てても、毎年、人別改めの時、捜し出され、殺すか殺されるかであったのです。

 

もし、それを逃れたとしても戸籍には入籍できないし、無籍者、日陰者ととして生涯を送らねばならなかったのです。「わが子を殺す」という神のおきてに背くことは、キリシタンにとって耐えられない問題であったのです。このような苦難の中にあった時、1797年、第28代五島侯盛運は大村領主純伊侯に山林開墾のため住民の移住を願っています。そこで大村藩所属西彼杵の外海地方のキリシタン108人が、第1回目の移住民として、いわゆる政治的な交渉によって、福江島の平蔵、黒蔵、楠原の平らな裕福な土地に移住しています。この第1回目のキリシタンに移住民が、外海にいるキリシタンたちに「五島では子供の数の制限はなく、何人でも育てることができるし、迫害もそれほど厳しくない」と伝えたのです。

 

これを知った外海のキリシタンたちは、わが子を殺さなくてもよい、子供の数の制限のない五島へ五島へと逃げるがごとく、危険を侵してまでも渡って行ったのです。それで、最初に移住した先祖たちは生活は苦しくても子供の数が制限されず、ひそかであっても信仰が守られたことは、大きな喜びであったと伝えられています。

 

次に明治元年の迫害は久賀島からといわれています。迫害といえば、隠れてひそかに信仰を守っていたキリシタンたちが、暴き出されて迫害を受けるというのが普通考えられています。先祖たちの迫害はそれとは違っていたのです。先祖たちの迫害はそれとは違っていたのです。先祖たちの代表たちが長崎に行き、宣教師と会い、教えを受けて帰ってくるや、彼らは他のキリシタンたちと話し合い、宣教師の教えに従って他の宗教のものすべてを焼き捨て、先祖たちは自分たちの方から「私たちは、今からキリストの教えに従ってだけ信仰を守っていきます。

 

他の宗教の定めは一切お断りいたします」と宣言し、これを書面にしたため、代官日高藤一に提出したのが迫害の発端となったのです。即ち、先祖の自発的な「信仰宣教」が迫害の火種となったのです。そのため、他所よりも迫害は厳しく残酷を極めています。多くの責苦があった中で、他に類のない残酷な責苦、それは「松ケ浦牢屋の責苦」です。6坪(約20平方メートル)程の狭い牢の中に240人、250人もの人々が大人も子供もその中に押し込められ、身動きもできず、競り上げられ、足は地につかず、座ることも、横になることも、眠ることもできず、食べ物は朝と夕べに小さなサツマイモ一切れずつ、それも子供をもつ親は、飢えに泣き叫ぶ子供に奪われ、親の口に入ることはなかった。寒い冬の毎日を着の身着のまま、非衛生的な牢の中で8カ月間も強いられていたのです。飢えと寒さと牢自体の拷問によって、8カ月の間に42人もの生命が信仰のあかしとして神にささげられていったのです。

私たちの先祖がこれほどの残酷な迫害に遭いながらも、1人の落後者も出ないで最後まで信仰のあかしをなしたのは、神の助け、支え、導きによるものです。神の支えなしには到底できることではない。

 

子供としての私たちが今なさなければならないことは、先祖を助け、支え、導いてこられ、信仰の恵みを私たち子孫に伝えてくださった父と子と聖霊のあふれる慈しみに対して、心から感謝と賛美の生活をささげることではないでしょうか。130年前の先祖のこの地における信仰のあかしは単なる過去の歴史ではないのです。今私たちがその信仰のあかしを生きることです。

「神の恩恵に支えられた先祖の旅路」カトリック大山教会丸尾武雄

あとがき

「ゼズス様の五つの傷に対して祈らねばならない」

これは、8歳だった「マリアさも」の辞世の句である。「松ケ浦の狭い牢屋」の中で、飢えと寒さと非衛生的な弾圧の中にあって、この祈りと共に自分の身も心も生命をも、静かに主に奉献して逝ったことは一つの神秘である。

中村市蔵とつよは、つぎつぎと、たき10歳、さも8才、もよ5歳の3名の我が子の死を牢中で体験している。母親つよは、後になって娘らの臨終を語る毎にあふれ落ちる涙と共に「今こそ思い出しては、涙もこぼし泣きもしますが、その当時は親も子も決して泣いたり悲しんだりしませんでした」と。

 

想像を絶する残酷な拷問の中で、聖母の取次ぎと神の助けを求めながら、主に仕え信仰を守り通し、子孫に伝えて来られたことは、神の助け、支え、導きなしには出来ることではない。

 

私たちの子孫は、多くの書籍、言い伝え等を通して、自分たちの先祖の信仰の旅路を知っている。そして先祖の信仰をたたえ、感謝し、「きびしい迫害に耐えた殉教者」の子孫としての誇りさえもっている。私たちの子孫が最先にしなければならないことは、神の溢れるいつくしみによって、私たちの先祖を助け、支え、導いて下さった主なる神に対して、すべての生活の中で、賛美と感謝を捧げて行かなければならないと思う。

 

主なる神の助け導きなしには、私たちの先祖の信仰の旅路は失敗していたであろう。先祖が神の恩恵を受け入れ、それに応えて信仰の旅路を続けてくれたことのすばらしさを忘れてはならない。私たちの子孫は、今私たちが体験しているように、神の恩恵を受け入れて、これに応えて旅路を続けなかった先祖の子孫が、どうなっているかを一つの証しとして見せられている。

 

子の書は、先祖の信仰の旅路を大筋だけ簡単に記している。主なる神が先祖になされた偉大なみ業に対して感謝し、賛美を捧げるための一助となれば幸いである。カトリック大山教会にて丸尾武雄


  
   


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