宮本勝美師

 

宮本 勝美 神父    2005年(昭和17年)320

お絵描き  

私の一つの趣味はお絵描きである。いつかも絵のことに一寸触れたことがあるが、上手だから画いているのではない。いわば暇つぶしである。実際、絵を画き始めてから、一服しようかなと思って時計を見ると1時間以上経っていることが多い。好きな時に好きなことが出来るというには、引退司祭の特権だと思う、有難いことだ。かといって何の役にも立たないことをするのは、いかにももったいない。「時は金なり」という諺があるが現在お金に縁が無い私の場合「時は宝なり」と思っている。そういう感じが脳梗塞の前科を持つ老人の実感である。

 

ところで“お絵描き”という言い方は元来、幼稚園などで使われる言葉だとばかり思っていたのだが、実はそうではないと知ったのは23年前のことだった。社会人も学んでいるというある定時制高校の教師と話をしている時に、学科のことでその先生の口から、“お絵描き”という言葉が出た時である。この年になってもまだ、普通に使う用語さえ碌に知らないことに一寸悲哀を感じたものだ。  ところで1週間前に歯医者に行った時、若い看護婦さんにこんなことを聞かれた。「宮本さん普段どんなことをしているんですか」と。そこで私は、「そうですね。例えば本を読んだり時には原稿を書いたり、お絵描きをしたりしていますよ」と言った。するとその看護婦さんは、クスンと笑って、「お絵描きですか」と言った。じいさんがお絵描きと言ったのが幼児っぽくって可笑しかたのか、それともいい大人が幼児語を使うのが滑稽だったからつい可笑しくなったのかはわからない。彼女はお絵描きと聞いてふと思い出したのだろうか。

 

まず「宮本さんはカトリックですか」と聞いた後で「私はバチカンに行ったことがあります。宮本さんは」と言うから「私も行ったことがあります。あの大聖堂はすごいですね」と言うと「ほんとにすばらしかったです。ただ一つ美術館に行けなかったことは心残りです。」と言う。「それは残念でしたね。若いうちに又、いらっしゃいよ。年を取ると旅行が大変で行きたくても行けませんよ」と言うと「そうでしょうね」と相槌を打ち、「ミケランジェロの絵を見たかったんですが」と如何にも残念そうに話した。シスチ-ナ礼拝堂のことだろうと思った。

 

ところが私が今始めているのは大浦天主堂の模写である。観光客用に作られた絵葉書なので一目見ただけであんまり綺麗すぎて、私みたいなずぶな素人にはとても手におえるものではないと思ったが、そこがまた素人である。とにかくやってみようと決心して画用紙に向かった。  絵には当然、天主堂を中軸にその左側はうっそうとした樹木。天主堂の下側は中央の石段を挟んで、これ又うっそうとツツジが被いつくしている。右上には-天主堂の右側-まず昔の神学校、その右下にはやはり昔の司教館兼司祭館がある。

 

 

これで全部である。ご存知の通り大浦天主堂は現在、国宝に指定されている唯一のカトリック教会である。1865年にパリ外国宣教会のブチジャン神父―後の第一代長崎司教―によって建てられたゴチック式の教会だ。 司祭館や神学校は、その後建てられたが、これらも間違いなく120年ぐらいは経っている。なぜそう断言できるかと言えば父が生まれる相当前に建てられたそうだからである。

 

父は126年前に生まれ当時4年制の小学校を卒業すると同時に、その神学校に入学した。10歳ぐらいだったのだろうか。父は1年居ただけで家に帰ったそうだ。私がその話を聞いたのは小学校の3年生の時だったような気がする。「いやあ惜しかったなあ。だってもしお父さんが神父様になっていたら、僕たちは神父様の子だって威張られておれたのに」と私は頓狂な声を上げた。一家団欒の最中だったので両親と大きい兄弟たちがどっと笑い声を上げた。一瞬どうしてと私は思った。「だってもしお父さんが神父様になっていたら、お母さんも居なかったし、お前たちだって居なかったんだろう。」と母が言った。私はあっそうかと言って頭をかいた。

 

それでもちょっと残念だったので、「どうしてお父さんは帰ってきたの、確かおばあさんが恋しくなったんだろう」と言ったら父は「ここが悪くてね、付いて行けなかったんだよ」と頭を指先でトントンとたたきながら、ちょっとは恥ずかしそうに言った。それから半ば真顔になって「どうだ、誰かお父さんの敵(かたき)を取りに行かんか」と私たちを見回した。無念を晴らしてくれ、父に代わって神父になってくれと言いたかったのである。こういうようなことがあったためかどうかは知らない。ある日突然、強い召し出しへの憧れを感じたのは小学校の3年生の時であった。それ以来、召命への望みが消えることはなかったが、1931年(昭和6年)に小学校卒業と同時に第1歩を踏み出してから、1950年(昭和25年)に叙階されるまで、何と長く険しい道のりだったことだろう。このことについては他の拙著に書いたので重複しないようここでは触れないことにする。とにもかくにも、かつて父が昔言った敵を取ることは出来た。両親が生きている間に司祭になれて良かった。父はその時ちょうど70歳、母は67歳であった。

 

二人の喜びようはなかった。私は二人に最高の御恩がえしが出来たと思っている。母は家族全員がそろった席で皆に行った。「みんなこれから兄さんとか勝美とか言ったらいけないよ。神父様っていうんだよ。」と。以後、両親と上の兄弟たちは決して私を名前で呼んでくれなかった。それはとても淋しかった。けれどもそのことは私に、自分が肉親の情にとらわれることなく、みんなのために働く司祭なのだと、自覚を植えつけてくれた。一方弟と妹だけは一生、神父様とは呼んでくれなかった。兄さんであった。二人にしてみれば、この他人じみた神父様と言う言葉は、とても出せなかったのであろう。私はそのことで救われた感じがしていたのだから、まだ完全に“しゃば”との縁切りが出来ていなかった証拠ではないだろうかと少々後ろめたい気持ちがしている。ところで今私は大浦天主堂の絵はがきを画きながら、父が113,4年前にここに住み、同じこの光景を眺めていたのだなと、なつかしく追憶している。

追憶  

年寄りが昔のことを語るようになったら、先が近いように言われる。そうかもしれない、私も年に不足はない。昨日所要があって、ある奥さんに電話をした。彼女はまだ40代の人だが話のついでに確か聖地巡礼の危険性に触れた時わたしは何時死んでもよいと思っていますが…と言っていた。以前にも同じことを言うのを聞いたことがあるから、満更虚勢でもないのかなとも思う一方、ちょっと素直には信じられない気持ちはぬぐえない。それはともあれ、私がここで追憶を語ろうという気持ちになったのは外でもない。多分にさっき父の追憶をたどったことに触発されたのだろうと思う。その上今日は1224日、今夜はクリスマス前夜祭、師走も暮れである。自然と昔のことを思い出したくなるというものである。

 

さて、いくら追憶とはいっても、この年になると思い出は余りにも多すぎてどうしようもない。それでも今日はブラジルで出会った人たちの中の数人について述懐することにする。最初に浮かぶのは木村義巳神父である。彼は1958年の10月であったが、私よりも半年あとでブラジルにやってきた。前の年に誕生したばかりのマリンガ教区の司教の招請に応えて来たのだった。出身は長崎県で福岡教区司祭、私よりも4っ年上の先輩だった。小柄だが負けん気の強い性格と司教の全面的なバックアップ、あまつさえマリンガ地区の日系人の強力な支援の下に短期間に非常な実績を残した人であった。そんな人であったから、ブラジルに行くことが決まってからポルトガル語を猛勉強したと言う。

 

けれども如何せん独学だったので、ブラジル人を相手にした時、聞いても分らないし、こっちが言うのもさっぱり相手に通じなかったという。時は待ってくれない。新米宣教師が必ず通らなければならない関門がある。それは名士らによる歓迎会である。それには御馳走が付きものである。  到着した日だったのだろうか。司教館で歓迎晩餐会が行われた。市長をはじめ議員たちマリンガ市内の主任司祭、日系人の代表者たち数十人が食卓を囲んでいる。司教が片方の中央に座り、その真正面に木村師が座るとまあこういう感じだったろうと思う。ブラジルの御馳走の中心はなんといっても肉類であるが、大宴会ともなると肉料理だけで56種類は下らない。今夜は特別メニュ-が加えられていた。刺身である。マグロもあった。

 

これはもちろん日本人たちの配慮であった。宴会の途中で、しげしげと木村師を見つめていた司教が言った。「神父さん、あんたはマーグロだね」。マーグロと聞いてマグロはおいしいかと尋ねているのだと思った木村師はにっこり笑って、習い覚えたポルトガル語を使うのはこの時とばかりに大きな声で「はい司教様、マグロ ゴストーヅ」と言った。途端に室内はシーンとなった。同時に皆は顔を下に向け、何やら必死にこらえているといった感じだ。この異様な雰囲気を見て木村師は身のすくむ思いをしながら、ちらちらと一同を見回した。

 

すばやく一人の日本人が木村師の所に行って手短に説明した。それを聞いた途端に木村師は「アッ」と叫ぶと両手で頭を抱え込んだ。そこでどっと一同は爆笑した。マ-ゴロは痩せている、マグロは魚の名、ゴスト-ヅはおいしい、司教は「あんたは痩せているね」と言ったのだが、木村師は「マグロ(の刺身)はおいしいです」と言ったことになる。私も言葉ではさんざん失敗したが、木村師はこのことで大勢の人々に好感を持たれるようになったというから、何が幸いするか分らないものである。

 

木村師はブラジルに渡る前に佐賀県の斑島の教会で、確か13年間主任司祭をしていた。その間、幼稚園を作るとか色々な面で教会内外で大いに活躍していたらしい。いわゆる事業家肌だったようである。ブラジルに渡った翌年には彼はさっそく委員会を立ち上げて、マリンガ市内に教会や中学校を建てる運動を始めた。土地は間もなく手に入った。移民の信者の一人が自分の荘園を寄贈したのである。一番頭を痛めるのは建設費であるが、これも司教をはじめ市会議員や市の有力者と日本人の幅広い支援を受けて、驚くほど早く完成することが出来た。3年とはかからなかったような気がする。

 

あっぱれである。建物はとりあえず木造であったがそれでも20年くらいは持っていた。もっとも木村師はそれまで生きてはいなかったが……。ブラジル在わずか9年で、胃癌のため他界したのである。けれどもその数年間にジヤイメ・コエリヨ司教は彼の功績に報いるためにロ-マに申請して、彼を高位聖職者である“モンセイニヨール”にして、紫のス-タン(司祭服)をきせた。モンセイニヨールをよくモシニョ-ルと発音する。我々は半分やっかみ精神から彼をからかって、「もう死によーる」と言ったものである。  モンセイニヨールには必ずバチカンの役職名が付く。木村師はモンセイニヨール・カマレイロであった。ためしに辞書を引いて見るとカマレイロは侍従でとある。

 

つまり木村師はパパ様の侍従の一人だったのである。因みにカマレイロとは“ベット係り”のことだが、木村師は残念ながら一度もロ-マに行ったことはなかったし、もちろんパパ様のベットに触ったこともなかった。つまり称号は称号に過ぎないのである。或る日木村師は私に行った。「あんたモンセイニヨールに志願しないか。実はもう一つ席が空いているんだそうだ。モンセイニヨール・ラトリネイロって言うんだ」。彼はそう言って意味ありげにニヤッと笑った。私はその笑いが気になって「なんだそりゃあそのラトリネイロと言う意味は」と言うと彼は「それは後のお楽しみ、まぁ辞引きを引いて見なさいよ」と言ってとうとうその用語の意味を教えてくれなかった。

 

仕方がないから家に帰って、と言っても2時間かけて120キロの道のりを我が家に戻ると、忘れないうちに早速辞引きを引いてみた。ラトリネイロ=“便所掃除人”とあった。これが「もう死によーる」のかわいい仕返しであった。彼は自分の病状が非常に悪いということを知っていたらしい。また80歳の母親に会いたいという願いもあって福岡に帰った。最終的には親しい友人が主任司祭をしている新田原の教会に落ちついたが、1年もしないうちに召されて、そこの教会墓地に葬られた。享年53歳。母親より数年前の帰天であった。

 

木村師の訃報を聞いたマリンガの司教は取るも取りあえず日本に飛び、新田原に駆けつけたと主任司祭に案内されて、教会墓地に行った。真新しい土饅頭の上に木村義巳の名が記された粗末な木の十字架が立っている。司教はそれを見ると駆け寄り我を忘れて墓の上に泣き伏した。正に号泣であった。「あれを号泣と言うんでしょうね。私はもう何も言えなくて、ただ呆然として司教様が泣き止むのを待っていました」と主任司祭は話してくれた。マリンガの司教がどれほど木村師を愛し、信頼し、望みを託しておられたかを物語る逸話である。私は木村師のモンセイニヨールのスータンを一着形見に貰い受けて日本に持って帰った。現在浜寺教会のキリスト教資料館に納められている。さて私は木村師が来伯する前の半年間は月に一回、マリンガ地区の司教館に赴いていたから、その地方の大勢の日本人の知己を得た。

 

これは私の宣教生活の中で、どんなに大きな支えになったか分らない。特に長崎教区から来ていた旧信者はそうであった。実は福岡教区からの旧信者もたくさんいた。私は今彼ら一人一人の顔が。まざまざと目に浮かぶ。真っ黒に日焼けした彼らの顔はみんな笑っている。本当にみんな明かるかった。彼らの殆んどは農業移民で入植後、契約期間を脱出して独立するまで早くて10年、遅い人で30年ぐらい!悲惨な時代があったとは、とても思えないように彼らは元気で明かるかった。よくしゃべり、よく飲み笑い歌った。この明かるさと元気の下はいったい何だろうと私は思った。大勢の人に、何度も接しているうちに、みんなに共通した一つの回答が分った。それは「希望」であった。そうだ。希望こそ彼らを不屈不橈な者にしていたのである。

 

今年はだめだったが来年こそは、今年はコーヒ-が800俵しかなかった来年は千俵取ろう、いや千三百は取らなければと希望は膨らむ。何故?なぜって子供達に、せめて中等教育をさせたいからさ。いやいや女の子は一人ぐらい学校の先生にしたいし、男の子は一人ぐらい医者か弁護士にしたいからね。移民の願いは切実であった。自分たちは学問がないばかりに、こんな苦労をしなければならないだ。だから子供たちだけにはこんな苦労をさせたくないという気持ちで一杯であった。実際、当時のブラジルは読み書きの出来る人は、人口の三割ぐらいだと言われていたから、ちょっとでも勉強した人は食いはぐれが無かったほどだ。嘘だと思われる人のために数例をあげよう。

 

私が住んでいたロンドリ-ナから三百キロ奥地に新しい日本人の移民地が出来た。入植者は自分たちの住まいは麦わらとバナナの葉っぱで囲った小屋なのに、浄財を集めて瓦葺の木造の教会と小学校の校舎を作った。けれども先生はいない。そこで植民者は、その年に小学校―当時4年制―を卒業したばかりの女の子を先生にした。町役場もそれを認めた。大きな町でさえ教員資格を持った人は少なく、代用教員が多かった時代である。ましてや開拓地のために正教員を見つけるのは考えるだけ野暮であった。  知人の日本人の男の子で中学を出たのがいた。仕事にもつかないで1年ぐらいぶらぶらしていると思っていたら、何時の間にか姿が見えなくなった。何処に行ったのかなと思って父親に尋ねたら曰く、「牧師になるんだと言って出て行ったよ」と困った顔をしながら、にが笑いをしていた。牧師と言っても貧しく無学の人々に民家で聖書を読んで聞かせたり、一緒に讃美歌を歌ったり、めでたしや主の祈りを唱えたりする。“クレンテ”=信じる人=と言われるグループのリーダーである。勿論資格も何も要らない。ブラジル人の社会ではそんな人が無数にいた。それは読み書きの出来る人たちの生活の手段にもなっていた。

 

あれから40年以上経った。教育も随分と普及したから今ではきっと様変わりしていることと思う。“牧師”になったあの子も、健在ならばもう60に近い。気になるのは、あの子が長崎出身の旧信者の子だったことである。  私はこういう人たちの規正のために、少なくとも週に1回はごミサを捧げているのだが…。  マリンガ教区にも五島列島から来た旧信者の移民が沢山いた。彼らが住んでいたのは主にマリンガ、フロリア-ノ、フロレスタの三地区であった。

 

私は彼らと同じ下五島の出身だったからとても喜ばれた。彼らは行政上、現在は三井楽町(福江島)に属する嵯峨の島から来た人が大半だったが、言葉が三井楽弁ではないし名前が木村姓が多い。変だなと思って聞いてみるとやはり、先祖が私と同じ久賀島の屋曾根から嵯峨の島に渡ったのだと言う。全くの奇遇と言わなければならない。  木村姓の人達が同じ地域に住んでいるわけも分った。彼らはみんな従兄弟同士だったのである。隣近所に身内がいるのは確かに助けになる。けれども一旦仲たがいすると始末に負えない。

 

開拓時の張合いもいつの間にかライバル意識になり、最後にはそれが高じて妬みや憎しみの発展していく。兄弟や親族の間にはよくあることだ。宣教師同士でもそういうことはあったから人のことはあんまり言えないが…。人間だな、情けないよ。

 

ここで話題を変えよう56軒あった木村家の中に木村義男さんと言う人がいた。私と同じ年配の人で、大変世話好きな人だった。彼はフロレスタと言う町の近くにコーヒ-園を営んでいた。先に書いたように私は月に一度フロレスタに行って告白を聞き日本語のミサをした。お昼は大抵木村さんの所でよばれた。時にはほかの木村さんの所でよばれた。義男さんはよく投網を打ちに行っていた。彼の家の近くにかなり大きいイワイと言う川があった。私も二・三度そこに行ったことがあるが、そこら辺の水は澄んでいた。一帯の川床は岩だったからである。だからそこで獲れる魚は泥臭さが無くておいしかった。普通はクリンバタという一・二キロの魚が取れた。この魚は刺身にしても煮ても焼いてもおいしい魚だった。ある日彼は例によって一人で投網に出かけた。目指す川は家から四キロぐらいだが車で行くから訳はない。

 

川を見ると今日は水嵩が増えている。留めてある小船に乗って浅瀬の多い向こう岸に渡る。まあ今日はクリンバタの二、三匹もかかったらいいとこだなと思いながら網を打つ。二度三度と打ったが手応えがない。岸と瀬の間に投げてみた。何気なく投げた網が大きく動いた。なんだこりゃ、クリンバタじゃない。大きいぞ、用心深く静かに網を手繰ってみた。すると大きなものが、激しく水しぶきを上げて網の下で踊った。大変だ。逃げられる。網を破られる。咄嗟に彼は怪物目がけて飛び込み、網ごとそれを抱きかかえた。

 

1メ-トル4・50センチはあろうか。こいつを逃がしてなるものか20年間、投網を打ち続けて初めて出会った大物であった。普段こんな所に大きな魚はいないのだが、水嵩が増えたために上流から流れに乗って来たのだろう。木村さんは格闘しながら逃げようともがく大魚に、十重二十重に網を巻きつけていった。口では簡単に言うけれども、それは大変な作業であった。その間にしこたま水を飲まされた。そうだ早くこいつを船に引き上げなければ、こっちが参ってしまう。何しろ相手は水の中で生きているものだが、こっちはそうではない。空気なしには生きて行けない。いくら俺は人間様だと威張ってみても、水の中ではどうしようもない。

 

魚一匹にもかなわないんだから。格闘すること1時間漸くにして魚を船に担ぎ上げた。木村さんは格闘と安堵感から、へたへたと船の中に座り込んだ。そして良く見るとその魚は魚屋の店先でしか見たことことのないドラ-ドであった。普通はアマゾンのような大河に住んでいる魚だ。何はともあれ早く家に持ち帰って家族に見せて喜び合うこと、12人家族に十分なだけ取った後は、近くの兄弟や従兄弟たち親しい友人らに御裾分けと自慢話をして回るという仕事が待っている。何しろ冷蔵庫がまだ無い時代だから。家に帰ってまずしたことは魚をはかりに掛ける事だった。41キロあった。それから家族の分を切り取ってから町の教会に急いだ。

 

そこには刺身好きのイタリア人主任司祭、アントニオ神父がいた。教会のすぐ近くには従兄弟の福松さんがいた。福松さんの兄の三五郎さんは、かなり遠い所に住んでいたから行くのを止めて、自宅の近くの数軒に配ることにした。とにかく移民は大家族が多かったから、それほど沢山の家族には行き渡らないのである。家々で声を弾ませ熱弁をふるう義男さんの顔が、ありありと目に浮かぶ。  どうしているだろうか、私よりも一つ二つ年長だったのだが…。三五郎さんは健在なら90歳を越えている筈だ。マリンガでは木村師の後任者だった北海道出身の田中神父が、心不全で亡くなったという話を聞いている。去る10月に訪日したリノ神父やロンドリナの大司教からも是非もう一度ブラジルにと言われるけれども、考えてみると昔なじみの人達の9割がもういないことを思うと、どうしても気が進まない。それだけではない。

 

なんといっても飛行機の旅は67年前の経験でこりごりなのだ。これが一番大きな理由である。尚私が名前を呼んだ人たちはみんな木村姓である。木村姓が沢山いるので名前で呼ばなければ誰のことか分らないので、みんな名前で呼ぶ。それは親しみがあって最高である。

人が変わる

何かが切っ掛けで、何かを境に、人間がガラッと変わる事がある。人が変わると言っても普通、人間性全体が変わるのでなくて、際立って悪かった点がすっかりなくなるか反対に突出していた良かった面が消えて跡形も無くなってしまうかすることを言うのではなかろうか  それは又性質だけでなく考え方、思想の変化についても言えるし、一時的な外見上の変化も、変化に違いない。

 

勿論、外見上の変化をさして“人が変わる”とは言わないが話のついでにこの種の変化の一例をあげると梅沢登美男と言う俳優の女形姿と舞である。この姿を見る限り誰もこれが男だとか、しかもあの梅沢だと思う者はいないだろう。それ程の変わりよう、一大変化だと言いたいのである。ことのついでに付け加えれば、彼の歌う“摩周湖の夜”は天下一品である。  何が人を変える切っ掛けになり得るだろうか。思春期、恋愛、失恋、結婚、出産、受験、成年、就職、成功、失敗、スポーツ、芸術、宝くじ、ギャンブル、病気、災害、死、兵役、戦争、敗戦等々様々考えられる。これらのどれにも当てはまらない動機もあるだろう。

 

自分のことを言って恐縮だが、私も何度かそれまでの考えとガラッと変わった経験がある。それは先ほどの大戦でフィリピン(途中台湾に変更)に向けて、鹿児島湾を出港した時のことである。それまでは「人は死んでも、俺は生きて帰る。死んでたまるか」と言う考えであった。それが180度変わった体験である。私が乗ったのは15隻の船団の最後尾にいた、30トンのおんぼろ輸送船であった。我々は船尾に集まって暮れなずむ鹿児島湾とその奥にかすんで見える市街地を、眼底に焼き付けるように眺めていた。

 

出港の合図。それを機に咽をも割けよと万歳三唱。続いて“海行かば水漬く屍、山行かば草むす屍…”の歌が湧き起り、はらわたをえぐる。エンジンとスクリュウの回る音。静かに船が動き出す。その時だった。「さようなら日本、両親、兄弟」親族の顔が浮かぶ。そして一億の国民と国土。この日本の為なら、この命がなんだろう。喜んで捧げよう。そんな考えが頭の中を駆け抜けた。変化である。これを人が変わると言うのだろうか。けれども変わったのは人格全体ではなくて、国の為なら自分の命を捧げてもよいという考え、気持ちになったという面だけである。何故変わったのか自分では分らない。

 

全く理屈抜きの瞬間的な変化であったとしか言いようがない。繰り返すが、この変化は私の人格全体が変わったのではなくて只死生観だけの変化だったということは、お察しの通りである。その死生観も兵役に服している間だけの間だけであったようだから、何とも妙な体験だったと思っている。今は?冗談じゃないという感じである。それとは逆に今でもずっと続いている一つの変化の体験を語ろう。それは司祭職への召命である。  ここに1枚の、ぼろぼろのス-タンがある。紙のように薄いペラペラの絹地のス-タンで、私が大神学校に入学した時にプレゼントしてもらったものだ。だからもう64年前になる。もちろん何10年も前から使用しないで、言い盡しがたい思い出、宝物として大切に保管している。

 

私が小神学校の3年生になった年だったろうか。一念発起して蚕を飼い始めた。その時から当時、過酷だった農作業と家事全般の傍ら、蚕を飼って糸を紡ぐと言うことは、それだけでも大作業だった。その時もう60に近かった母は、目標を目指して希望に燃えているように見えた。目標とは言うまでもなく、その糸で織った布で私のス-タンを作ることであった。我が家には古い機織り機が土間の片隅に眠っていた。母はそれをきれいに掃除して皆に手伝わせて縁側に据え付けた。紡いだ糸を自分で織ろうというのである。外のことだったらとっくに「いらんことするな」と言って止めさせたであろう父も、このことに関して最大限の理解と協力を惜しまなかったらしい。何しろ息子のス-タンを作るための仕事なのだから、自分も望むところだったろうし、母の執念には圧倒されて激励こそすれ文句一つ言えなかったようだ。

 

  翌年の夏休みに帰省してみると、母はにこにこしながら箪笥から白い反物を抱えてきて見せ「出来上がったよ」と言った。もちろん私も嬉しかった。あと1年もしたら大神学校に入って憧れのス-タンが着れるのだという思いが湧き上がるのを覚えた。それと同時に正直なところ、もう後戻りは出来ないという思いがした。つまり母の手織りの布で作られたス-タンは私にとっては、良くも悪くも大きなプレッシャ―に感じさせられたことは事実である。  ある朝母は真っ白い反物を後生大事に風呂敷に包んで、福江行の渡海船に乗るべく、いそいそと家を出て行った。黒く染めるためである。その後染め上った新品のその布を、何時頃、何処に持って行って誰に縫ってもらったかは全く覚えていないけれども、とにかく大神学校入学前に出来上がっていたのは確かである。

 

昭和14年の4月に私は晴れて東京カトリック大神学校に入学した。21歳であった。そして待望のあのス-タンを着用することになる。こうして、ようやく積年の思いが叶った母の喜びは察して余りがある。  これらの喜びとは裏腹に日本は戦乱の渦に巻き込まれ、更に深みへと突き進んで行っていた。昭和12年の7月に中国で盧溝橋事件が発生して、それが切っ掛けになって日中戦争に発展した。盧溝橋事件と言うのは、北京郊外の盧溝橋付近で、日本と中国の軍隊が衝突した事件である。

 

昭和16年(1941年)の3月だったろうか。一神学生の火の不始末から校舎が全焼。新校舎の完成までの半年間休校。その年の128日に第2次世界大戦に突入。その前に全外国人教区長が日本人と交替、神学生の殆んどが次々に応召(召集令状を受けて軍隊に入ること)。残ったごく少数の学生は北海道のトラピストなどに分散。戦死した学生も10指を下らなかった。昭和20815日敗戦。私は翌21年の2月に復員。弟と二人で食糧生産に励みながら司祭職への進退について真剣に考えていた。

 

そんな私を見ていた父は、ある日男親らしく、もし止めるなら今が良いタイミングだ。こんな時勢だから諦めやすいし、誰もお前がだらしないなどとは言わないと言った。その時母も近くに座っていたが、とても苦渋に満ちた顔で父の言葉を聞いていた。その顔は今にも泣き出しそうで必死に涙をこらえている風であった。百姓でありながら米と芋は殆んど都市部に住む人々のために供出させられ、自分たちの食べるものが無くて体は骨と皮ばかりになっていた。そんな家族の姿を見て男の子が簡単に皆を見殺しにする気にはなれない。だからと言って、あと3年すれば司祭になれる。

 

今までの苦労はなんだったのか。あの召命への憧れは、あのス-タンを着た時の喜びと誇りは何処へ行ったのか。考えても祈っても決断はつかなかった。でもある日突然、一つの思いが浮かび、直ぐ実行しなければという強い衝動に駆られた。それは場所を変えなければ、はっきりした判断も決断も出来ないということだった。私はすぐに両親にその考えを伝え、早速、かつて友人で先輩司祭が主任をしている佐渡ヶ島に手紙を書いた。彼は大いに喜んで私を呼んでくれた。私はめでたく佐渡で召命への道を選び神学校に復帰して司祭になり今日に至っているというわけである。“場所を変えなければ”と言うあのひらめきは、明らかに聖霊の照らしであったと信じている。同様に母に反物を織らせた方も聖霊であったと。


  
   


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