カトリック教報、昭和62年6月1日
愚問愚答“生きている”神 浦上教会中村満
「神様はいると思いますか」「はい、確かにそう信じています」「神様は生きていると思いますか」「はあ?・・・はい、そう思いますが、なにか?」。
ある人との問答の中の一コマである。こちらが何かを聞こうと意図しているのか分からず少し面食らったようだ。
最近、私は、この問答の後半のものに興味を持っている。「神はいる」というのと「神は生きている」というのとは、どこか違うように思われるからである。そして、この違いが神様についての私たちの理解の上で、信仰の上で、非常に大切なものを含んでいるような気がするからである。
私たちは神がいるということは、はっきり信仰によって知り、信じている。しかし、神は生きているということは、そう分かっていながらも、どこかで忘れていたり、よく理解していなかったりするように思う。
神について考えるとき、神はなぜか遠くにいる方として、はるか天のかなたにいる方として想像してしまう。頭のどこかで神はなにもしないで、じっとしているような方として想像してしまう。私たちと共にいる神、しかも生きている、生きて共にいる神としての理解が欠落しているように思う。
教会の中での子供たちの姿を見ながら、この頃そういう思いを強めている。子供たちにとって神様は、あるいはイエズス様は、自分たちの前におられる方、ご聖体の秘蹟を通して現存される方ではあるようだ。
しかし子供たちの神様は、あるいはイエズス様は、ただそこにいるだけの方、じっとしているだけの方で、悪く言うなら命のない、生きていない銅像のような方であるらしい。そんな気がしてならない。自分たちの前にいて、しかも生きている方として、今も厳然として生きて方としての「生きている」という理解がないように思う。「生きている」ということを理解しているならば、祈りにしても、典礼行為にしても、もっと生き生きとしたもの、生き生きした祈りの姿、典礼の雰囲気が出てくるはずだから。こう言いながらも、自分にもこの「生きている」という視点が少し欠けているのではないかだろうかと、反省することしきりである。ところで、聖書を見ると、この「生きている」という点が、神について、あるいはイエズスについての理解の上で重要なポイントになっているように思う。新約聖書を見ると弟子たちの生き方を180度方向転換させ、イエズスについての正しい理解をもたらしたのは復活体験であった。
逃げ散ったはずの弟子たちが、イエズスこそキリストだ、イエズスこそ待ちわびていたキリストであり、メシアであり、救い主だと恐れなく宣べて廻り、そのために自分の命も捧げていくようになる。
そのきっかけは、復活したイエズスとの出会い、生きているイエズスとの出会いであった。自分たちが3年の間、寝食を共にしたイエズス。敵対していたユダヤ人たちにとって十字架につけられ殺されてしまったイエズス。自分たちがよくしている、しかも殺されて死んだイエズス。そのイエズスが生きている。今、実際に私たちと共に生きている。イエズスは生きているんだ。今も、いや今、生きている。実際に私たちと共に。これが弟子たちの復活体験であったと思う。
そして、これが同時に弟子たちの復活についての証言内容の一つであった。イエズスは生きているという復活体験は弟子たちの生涯を決定づけ、弟子たちの宣教活動を支えている。イエズスが生きている以上、イエズスが教え、行い、世にもたらしたもの、それが何であれ、決して滅びることなく、消えてしまうことなく、今も、現在のものとして、自分たちの目の前にある。
イエズスの教えと業(わざ)が過去のものではなく、現在のものとして、現実のものとして今ここにある。イエズスは今も生きている。だから、イエズスのもたらしたものすべて、愛にしても、ゆるしにしても、それが時間の中で色あせてしまうことはないのである。時間と空間の隔たりを超えて、生き生きとした現実のものとして今もあるのである。
このような理解、確信のもとに弟子たちは宣教に邁進していると思う。生きているイエズスと共に生きていたからこそ、弟子たちは命を捧げ得たし、弟子たちの語る、生きているイエズスと出会ったからこそ、多くの人たちはイエズスを信じ得た。
こう考えるならば、私たちの信仰生活においても、神は生きている、イエズスは生きているという、この「生きている」ということをよく理解することが重大なことの一つであるといえると思う。
「生きている」ということを理解できれば、神との、イエズスとの生きた交わり、生き生きとした、命の通った交わりが生じてくるし、生きている神に生かされた信仰生活、生きているイエズスと共なる生き方ができると思うからである。信仰と生活の一致のカギの一つは、こんなところにもあるのではないだろうか。
今を生きている私たちにとって、私たちのすべての行為、生き方を受け止めることのできる方は、私たちと共に、今、生きている方しかないと思うからである。
また、今、日本の教会の私たちが取り組んでいる福音宣教という観点から見ても、この「生きている」という視点は重要だと思う。
福音とは、最終的には、イエズス自身のことを指す。しかも復活して今も生きているイエズス自身のことを指す。福音はイエズス・キリストの生涯、生と死、死と復活、苦しみ、すべてイエズスが語ったこと、行ったこと、イエズスが生きたすべての神秘全体を網羅しているが、それは同時にイエズスという方、その方自身に集約されている。
従って、福音とは文章化された抽象的な教え、理論化された観念的な教えではない。実在の伴うものである。今も生きているイエズス、厳然として生きているイエズスを指している。この方自身に出会う。この方自身に至る、それが福音であり、福音宣教の中心である。福音宣教の最終目的は生きている神、生きているイエズスに出会わせること、生きている神の命に与らせることだからである。
さて、このように考えてくると、神は、あるいはイエズスは生きているという現実は、それほどたやすく片づけられてはいけないことのように思われる。この「生きている」という現実をどう捉えるかが、私たちの神理解において、私たちの信仰生活において重大なウエイトを占めると思うのだが。私たちの信仰生活を左右するぐらい大切なことだと思うのだが、弟子たちがそうであったから。
しかし、これは皆すでに理解していた愚答であったかもしれない。お許しを……。 |