中山助人神父さまの略歴 霊名 マチアス 生年月日 大正3年(1914年)11月22日 受洗教会 長崎教区 浜脇教会(受洗日 1914年12月25日) 司祭叙階年月日 1943年4月3日 司祭叙階場所 広島教区 岡山天神町教会 大神学校名 東京公教神学校 司祭叙階後、幟町教会助任司祭、細江教会主任司祭、呉教会主任司祭、幟町教会主任司祭 帰天 1976年1月12日 幟町カトリック教会在職中に死去(カトリック廿日市霊園に埋葬) 広島教区 幟町カトリック教会主任司祭 その他の主な兼務職 聖母幼稚園園長、カトリック教育協議会理事、教区典礼委員長、 エキュメニズム教区担当、教区カトリック幼稚園協会会長。 |
カトリック新聞 中山助人師(広島教区・広島市幟町カトリック教会主任司祭)1月12日午前7時、心不 全のため同市幟町、田坂内科で急死。61歳。長崎県福江市田ノ浦町出身。住所は同幟町4 の29、幟町教会。喪主は広島教区野口由松司教。 昭和18年、東京カトリック神学院卒。岡山天神教会で司祭叙階、幟町教会助任司祭、細 江(下関市)教会主任司祭、呉(呉市)教会主任司祭を経て、42年から幟町教会主任司祭。 故マチア中山助人師の葬儀は1月15日正午から教区葬として、広島市幟町平和記念聖 堂で行われた。 聖堂中央の聖壇に安置された慰霊には、多数の献花がささげられ、広島教区司祭、修道 者、親族、信徒ら千数百人の参会者が集まり、丸川神父(野口司教代理)の司式する共同 |
悼む 中山神父さま 1月12〜14日。地下聖堂には、ひきりなく訪れる人々で一杯でした。マチア 中山神父さまの死を悼んで、神父さまにお別れにくる人々の姿は中山神父さまが、生前多くの人々を一人一人深く愛していらしたことを表しているかのようでした。 12・13日の地区別お通夜に引き続き、14日は丸川師司式による荘厳なお通夜 が執り行われました。この中で丸川師は、故中山神父について次のような説教 をなさいました。“私が今のようになったのは神の恩寵によるものである”とい う聖パウロのことばを引用して「神父さまは、神の恵みによって一生神さまのみを見つめて走り続けられました。この場でともに祈っている司祭方の中に故人の影響を受け司祭の道を目指した人も少なくない。故人は祈りごミサを大切になさりミサの前後によくいのられた。一方布教面でもその力を発揮され、幼稚園を盛り上げられた。ご自分のことは省みず、人のお世話をよくなさった。温厚なお方であったが、神さまのことを第一とするとき、当然厳しさも出てきた」等々と。引き続き、ルーテル教会柏木先生のことばをいただきました。―ルーテル教会は、1年余り前、聖年の行事の一つとして幟町教会から巡礼に出かけたところ―先生は、故人のカトリック、プロテスタント一致運動の働きを述べた後「故人の信仰の業、証は今生きていると信じます。私たちの残された旅路を上から導いてくださいと結ばれました。弔辞は、長崎県福江市田ノ浦小学校PTA会長さまより頂き、その中で、生前神父さまが、母校田ノ浦小学校に寄贈された本が、8百冊余りに上っていることを知りました。 翌15日は、祭壇に安置された柩の前で正午より荘厳追悼ミサが行われ司祭信徒が一体となって故中山神父さまのご冥福をお祈りしました。 追悼説教は、斎藤春夫師でした。お二人は、教区司祭の草分けで、教区のために、共に苦労してこられたとのことです。告別式には、流川教会の谷本先生、松田学園理事長須藤様、イエズス会管区長代理中井神父さま、幟町教会、潮見さまによる弔辞。聖母幼稚園園児によるお別れの言葉、ご親族の献花、祈りがあって後、多くの人々の見送りを受け、ご遺体は静かに広島の街を走り廿日市墓地へと向かったのです。埋葬式にも多くの信徒が参加しました。式中神父さまのお愛しになっていた聖歌隊がずっと歌の奉仕を続けておりました。(M・G記) 幟町教会報 平和の鐘 第17号(1) 昭和51・2・1 |
中山神父さまを偲んで 内海ひろえ 最初に神父さまをお見受けしたのは友人とある寒い日に音戸大橋に出かけた帰途、呉教会に立ち寄ったときです。 主任司祭として幟町にいらしてはじめてお話したのは津和野の乙女峠祭に出かけるバスの中でした。神父さまの方から、隣の席にどうぞとおっしゃり、お隣に座らせていただきました。「内海さんですね。私はもうひとりの方と間違っていました。」とおっしゃり、私が名乗る前に、名前で呼んでくださったので、自己紹介の遅れを反省したのでした。神父さまは主任司祭として自分の子羊の一人一人をよく知っていらしたのだと思います。この時やや緊張気味に神父さまとお話したのを覚えております。神父さまは信頼できるお父様という印象を受けて帰りました。 あれからたびたびお話する機会がありました。ある時に喜ばれたり、叱られたり、私のすることにあきれたりといろいろでした。もっと話したいなと思うのに「ハイハイ」とおっしゃり中途できれて「言い残した」感じを抱いて帰りましたが、これもとてもよかったと思います。山登りや旅行をして帰ってからお話しますと「○○は、いいところですね」「○○は、もう一度行きたいですね」とかおっしゃり、ご自分がかつて入らしたところを懐かしんでいらしたようです。お仕事が多くてきっとお好きな山登りも思うようにおできにならなかったことでしょう。 昨年末、聖年の巡礼に出かけることになった時、ご自分のことのようにとても喜ばれ「巡礼はキリストの十字架の道行きですから一般の観光旅行のようなものではありません」とおっしゃり送り出してくださいました。1月3日に帰国して4日のミサ後、簡単にご報告しておみやげをさしあげましたら「まあ、まあ」といってお受けくださいました。その翌日はルルドの水とロザリオをお使いいただければとお持ちしましたところ「ちょうど良かった。ロザリオは高屋に置いてそちらで使いましょう。これは十字架のところが木だからいいですね」と。ルルドの水は「長崎に持っていきましょう」とおっしゃりルルドの水を受け取られる時、初めて温かい神父さまの手にふれました。今もそのぬくもりが手に残っているような感じがします。その日以来、神父さまのお姿を見かけることができなくなりました。 今、神さまのお近くで幟町の信者のため、すべての人々の救いのためにお祈りくださっていると信じます。 |
光本俊行 廿日市教会の献堂式(42・11・23)に参列した時、教会の中庭をご一緒に歩きながら(同じ場所を20数回往復)教会内での信者の役割等について、いろいろと有意義なお話を聞かせていただき、その後の私に大きな影響をお与えくださったことが強く印象に残っています。
中山神父さまの思い出 服部節子 9年前、幟町教会に主任司祭としておいでになった神父さまは早口で、ものをおっしゃるので聞き取りにくく、また口数の少ないお方でしたからすぐには親しめず、こわい感じさえ受けました。けれども地区会や婦人会などの集まり、み教えの勉強のグループでは心を開いて、楽しい話をよく聞かせてくださいました。山登りのことや旅行先での珍しい話などが始まると、み教えの勉強もよく横道にそれ漫談の方が心に残ったりすることもありました。 中でも深入山の奥深く、一人で入られた時、熊をみつけやっと逃げ出したとたん、今度は真っ赤な顔をした大猿が道の真ん中をふさぎ、九死に一生を得られた話は何度も楽しく聞かせていただき頂きました。神父さまはあまりお笑いになると涙が出るので、涙を拭き拭き話してくださいました。 神父さまはお忙しい合間にも、教会の芝生の中にきれいなバラを造られ一つ一つに名前を付けて、大切に育てていらっしゃいました。それらは6月頃に見事な花を咲かせ、秋の終わり頃までみんなの心を楽しませてくれました。子どもたちがボール投げをして、枝を傷めるたびに注意されては、ご自分も心を痛めておられたのでしょう。遊び場のない子どもたちのことを考えられてか、だんだん「これからはバラをなくして木をうえ、木陰で休めるようにしたい」と話していらっしゃいました。 神父さまは子供たちが大好きで、信徒大会などもいつも子どもを入れて計画され、子どもたちが発表するのを、にこにこしながら見たり聞いたりして満足そうでした。けれども侍者の子供たちにはきびしい躾をされました。ミサの前にギリギリに香部屋に飛び込んで着替えたり汚れた靴を履いたりして、侍者をするのをとても嫌われました。神父さまの子供の頃は、お行儀の悪い子供たちは侍者をさせてもらえず親と一緒に謝ってやっと許され、また、させて頂くことが出来たのだそうですから当然のことかもしれません。 神父さまは正しいと思われると、どこまでもその考えを通されるお方でしたから、頑固だと信徒から批判され攻撃を受けられたこともありましたが、私はそのような神父さまだからこそ信頼でき、ついて行けることが出来たのだと思います。20くらいの仕事をもたれ、責任をもって果たされ、休む間もないほどお忙しかった神父さまは日曜日の主ミサ後、玄関の橋の上に立ってミサから出てくる信徒に声をかけられるのがお楽しみのようでした。亡くなられる前日の日曜日、お姿を見ることが出来ず淋しく思いましたのに、これからずっとお見掛けすることが出来なくなって・・・。 昨年、神父さまの還暦祝いに婦人会員が心こめて縫い上げ、お贈りした白い祭服を着られないので、何気なくお尋ねしたら・・・「あれは私が亡くなった時、着せていただくため、封をしたままとってあるんですよ」と笑いながらおっしゃったので「まあ!」と私も笑ったのですが、その頃から神父さまには死の近いことを感じていらしたのかも知れません。 1年毎にやさしくなられ、特に亡くなられる1ヶ月前から本当にやさしくして頂いたと身近な誰もが感じていました。お忙しくて役員会などにも一寸しか顔を出していただけなかった神父さまも、これからは私たちのすぐ側で何時までもいて下さることが出来るのだと考えては、悲しみから立ち直るように努めています。 |
幟町教会報 平和の鐘 第18号 昭和51・3・1 中山神父さまの死 山根美保子 中山神父さまのお通夜、お葬式とあわただしく過ぎた日々も私には何かドラマを演出しているような気持ちでした。・・が・・今日、配達されたカトリック新聞紙上の“中山助人神父12日午前7時心不全のため急逝”の記事とお写真を見て、またまた涙が新たに流れました。本当にもう神父さまはこの世にはおられないのだといくら思っても、教会へ行けばどこからか神父さまのお声が聞こえるように思えるのは私ひとりではないと思います。私が神父さまとお会いしたのは、今から18年前のことです。小野田で夏期学校の生徒がいたずらをしたときでした。こわい神父さまだなと、そのまま話すのを諦めました。幟町教会へご転任と聞いた時、大変だと思いました。神父さまは確かに厳しいお方でしたが、その裏にはいつも人を大切になさってのお心遣いが感じられました。教区行事も数多く行われましたがその都度小さい所まで気を配られ、来客に気持ち良く帰っていただくようご指導くださいました。気のきかない私たちも何度か叱られ、そのたびに私は親にも主人にも叱られたことはないのにと少々不服でしたが、今思えばもっともっと叱って頂きたいと思います。結婚式、葬式の時、いつも申されていた言葉は「あの人たちにとっては、一生に一度のことですよ。やり直しはききません」と、お手伝いする者は毎度のことでマンネリ化するのをいつも戒められました。婦人会の藤原さまが前日ごミサに来て、翌日亡くなられたことを神父さまはうらやましいと申され、葬式の準備中にも「私の葬式には誰がきちんとしてくれるのだろう」と心配なさっていました。冗談に「きっと神父さまはお棺の中から指図なさるでしょうね」と申し上げたら笑っておられましたが、その時からご自分の死期を予感なさっておられたのでしょうか。このように早くに残念です。 神父さまの本当に心の優しさに接した思い出は、娘が修道院へ入会するお許しを受けに参りましたとき「お母さんはきっとお嫁にやりたかったでしょうよ」とおっしゃったとか。いよいよ入会の日にご挨拶に行きましたら「いつ帰ってきても快く迎えてやってください」と申され、神父さまの深いお心遣いに感謝いたしました。 このように余りにも小さいことにまで一生懸命にご配慮なさっていましたのできっと死期が早まったのでしょう。 神父さまどうぞ安らかに眠ってください。 |
信仰実践の場 積極的な協力を 野間神父 突然の出来事 中山神父さまがお亡くなりになってもう2ヶ月になります。思いがけない大変なことだったせいか、遠い昔のような気もしますし、つい昨日のことだったような気もします。人間の感じ方というものはおかしなものだと思っていますが、時間の方はどんどん経って行きます。司教さまから突然命じられてバタバタと幟町にやってきましたのは、神父さまのお葬式が滞りなく終わってから10日目でした。そして2月25日に最初のごミサを皆さんとささげご挨拶の中で次のようなことを申し上げたと思います。「司祭はみんな司教の協力者として、司教に合わされて、叙階され、司教から派遣されて任地に参ります。ところで各教区におけるキリストの最高の代理者は司教ですが、それには二つの面があります。一つは権威を持って神の国の福音を伝えることであり、一つはそのためにすべてをかけて仕えるということです。「あなたたちの中で、第一のものになりたい人は、あなたの奴隷にならなければならない。人の子が来たのも仕えられるためではなくて仕えるためであり、多くの人のあがないとして自分の命を与えるためである」(マルコ10‐44〜45)とおっしゃったキリストご自身のお言葉にはっきりと示されています。小教区における司祭は司教の手先として兄弟たちに仕えるためですから、これから島川神父と力をあわせて皆さんにお仕えしたいと思います。 お願い しかし自分の力を考えますと決して充分な仕え方は出来ないことがはっきり分かりますので、兄弟の皆さんに助けていただきたいと心から願っています。そして更に幟町教会という大家族の全員が今まで以上に力を合わせて、福音宣教のために仕える教会に成長したいと強く念じている次第です。 具体的には では協力の具体的な点ですが、みなさんがいろいろな立場でして下さっていることは、すべて今まで以上に力を入れていただければ幸いだと思います。本当に素晴らしい信仰の実践であり福音宣教であると確信しています。それらを一つ一つここにあげる必要はないと思いますので、それらのことをふまえた上で、次の3つの点をとくに留意していただければと考えております。 1. 司祭への召命を育てるために、個人、家庭、教会全体の自覚を高め祈り働くこと。 2. 一人一人が神からいただいている能力を惜しみなく出し合って協力すること。(コリントの前12章を読んでください。) 3. 意見のための意見、批判のための批判ではなく、積極的な意見を出し合いお互いの立場を理解し合い、尊重しあいながら協力すること。 むすび 司教様は当分二人で皆さんにお仕えするようにおっしゃいました。非常に大切な神父さまを神様のもとにお返しした現実は、確かに厳しいものがあります。だからこそ全員一人残らず積極的なご協力を重ねてお願いします。また私が不完全な人間として、いろいろと気付かない点、ぬけた点、改めるべきことがありましたら遠慮なくどしどし教えていただきたいと思います。 まだ、僅かの日数しか経っていませんが、もう既にいただいている多くの積極的なお助けに心から感謝し希望をもって進めることを嬉しく思っております。 皆さん、主において感謝し合い頑張りましょう。 |