出身司祭

 坂谷豊光神父さまのページ
 
 

2006(平成18)81日発行

 坂谷豊光神父帰天

コンベンツア聖フランシスコ会、インノセント坂谷豊光神父、711日肺がんのため聖フランシスコ病院に
て帰天。享年
71歳。

五島市久賀町生まれ。
1954年聖母の騎士修道会入会、643月ローマで司祭叙階。65年聖母の騎士編集長、71年赤羽修道院、カトリックグラフ編集長、73年奄美大島・大熊教会、76年聖母の騎士誌編集長、85年聖母の騎士社代表、大分・由布教会、東長崎教会、管区評議員、管区本部修道院長、特別養護老人ホーム「奄美の園」園長、同小長井「聖フランシスコ園」園長、20052月肺がん手術。作家曾野綾子が目の不自由な人を案内する聖地巡礼の指導司祭として、20余年奉仕、54人を洗礼の恵みに導いた。

葬儀・告別式は
14日、長崎市本河内教会で橋口佐五衛門・日本管区長司式により執り行われ、那覇教区長押川壽夫司教、司祭団、修道者、信徒など約450人が参列した。巡礼の友代表、作家曾野綾子、三浦朱門氏が出席、弔辞を曾野綾子氏が述べた。
 

教報、昭和4061日発行

夫婦のむつまじい美しさ 坂谷豊光師

一  諫早駅の近く、本明川のほとりに熱心なカトリック信者のお宅がありました。御主人と奥さんと二人きりの生活で、子供がありませんでした。しかしカトリックの信仰によってお二人は人もうらやむほどむつまじく、かなりの地位の合った御主人は病弱な奥さんをいたわりつつ生活しておられました。でも、やはりさびしいので毎晩、近所の信者の娘さんが泊まりにきていましたが、そんなある夜、とつぜん本明川がはんらんして、家じゅう水びたしになってしまったのです。外はまっ暗で、逃げることもできません。濁流はだんだんと胸元までもふえてきました。そこで御主人は両の腕を力まかせにのばして奥さんをかかえ上げ、せめて奥さんだけでも助けたいとがんばっておられましたが、急に水がふえて二人ともアッというまに、暗の外に家もろともに押し流されてしまいました。家は分解し、娘さんも流されましたが、娘さんだけは流木にひっかかって助かりました。お二人の死骸は今だに、わからないそうです。この実話を娘さんから直接に聞いたときに、夫婦の愛情・・・・なかでも御主人の美しい愛情にひどく心うたれました。このことは五、六年たった今でも私は忘れることができないで、たびたび思い出してはほほえましい気持になるのです。

 

 二  先日、私は仕事の関係である会社重役のお宅をたずねました。生活は豊かで、屋敷や調度品さすがに豪華版で、奥さんから感じのいい部屋に通されたとき身のひきしまる思いがしました。しかし子供がないのがタマにキズです。部屋があんまりまとまりすぎていて、どこかにさびしさが感じられました。やがて庭のスピッ()がかわいくほえて、御主人が会社からお帰りになられました。

御主人は会社が忙しいのですが、用件がすむと足早やに自宅にお帰りになるのだそうです。御主人が帰られると家のなかが明るくなりました。御主人は長崎市城山の方だとかで、おじいちゃんが、ちょうど浦上四番くずれのとき、信仰のために生命も財産もなげ出して、雄々しく迫害と苦難にたえてゆく多くの切支丹たちを、まのあたりに見て非常に感動し、自分もそのような信仰を持ちたいとカトリックに改宗されたのだそうです。だからこの家にとってカトリックの信仰は三代目です。残念なことに子供に恵まれませんでしたので、尊い信仰を子孫に伝えることはできませんでしたが、お二人にとって信仰はどれほど豊かな愛情をあたえあい、生活を支える土台となったことでしょう。訪問客の私にはそれが強く感じられました。以前、養子の話もあって兄さんの子供をもらうようにしていたそうですが、その子が修道女になってしまわれて、今はその童貞さまのお写真だけが茶ダンスの上で笑いかけておられました。 

 
 三 世の中には「子供さえいなければ、きれいさっぱりと別れてしまいたいのだが・・・・」と思っておられる夫婦たちがかなりいるようです。しかしその反面、子供が全然いなくても、このように老いるまで美しく愛し合い、かたく結ばれあって、神様からあたえられた生涯を立派にきりぬいてゆかれる夫婦もおられます。これはなんと美しいことでしょうか。もちろん信仰がなくても自然徳でこのように夫婦が、むつまじく老いるまで生活してゆくことはできるでしょう。しかし信仰があるともっと夫婦の姿が根本から理解しあい、人生の方向を知り、生きてゆく活力をえて、やさしく、完全に愛し合うことができるようになります。子供がなくても愛しあっている夫婦の家庭には、熱心なカトリックの信仰がどこにもあるようです。信仰こそが彼らの支えであることがよく感じられるのです。尊いものは、なんといっても信仰です。!
 
 

昭和4341日発行   せんたく

ひとこと

 いつも、きさくな話をおもしろおかしくしてはわたしを大いに笑わせてくれる若い信者の青年がいる。まだ一人暮らしなので、ひまがあればよくやってくる。おそらく、理想の女性がみつかって、結婚でもすると、わたしのところへはよりつかぬようになるのだろうがどうも、それまでは、おつきあいしてくれるらしい。このきさくな男は月、二・三回の土曜日にはきまって、和服姿でやってくる。土曜日は仕事が半日なので、ゆったりとした気でも味合うのだろうと思っていたのであるが、いつものかれとはちがったものを感じたのである。はればれしいような、どことなく、いつもとちがった気楽なものをもっていた。ある日、それとなくたずねたことがある。かれは、あっさりと「洗濯してきたのですよ」と意味あるげに答えた。そしてまた「みんな洗ってきたのですよ」という。よく聞くと、まず、一週間分の汚れた衣服を洗い、部屋を整理し、教会へいって告白場で心を洗い、最後に風呂につかって身体をあらい、かれのいうようにみんな洗ってしまったのである。そして、「こんな気持の良い日はないですよ。カトリック信者って、ほかの人ができない心の洗濯ができるんですから、本当にありがたいですよ。やっと、神父さんが一週間に一回、告白をしているウラがわかったですよ。神父さんも和服をつけてみんですか、なおさっぱりしますよ・・・・」といって明るく笑った。わたくしは、年に一、二回だけしか、告白の恵みにあずからない信者さんは損だと思う。この青年の言葉をかりれば、すくなくとも、月一、二回は心の洗濯をするため、告白場の湯につかるべきだと思う。(坂谷 豊光)

 
 

昭和4431日発行   私と聖書

ひとこと

 私と聖書とのなりそめは、はずかしいながら高校生の時である。「おそいぞ」としかられても事実だから、うそをつくわけにはいかぬ。「どうして高校生になって急に真面目に聖書を読む気になったのか」とからかわれても、こちらは別に真面目な気持で、聖書を手にしたのでないのだから、そういわれるのがかえって妙な気がする。ただ、高校生になって、世界文学を手にするようになった。読んでいると、その中に聖書の語句が多く引用されているので、自然に聖書に興味を持ち、自ら進んで最初から聖書の注解書を読みはじめた。すると、この注解書がアチラさんの小説よりもおもしろく興味をひいたのである。それから「聖書注解書は小説よりもおもしろいぞ、ぜひ読みなさい」という私のセリフを持つようになった。私と聖書の意識的デイトは通俗的で、聖書にふさわしくない、と小言の二、三はいわれよう。でも私は神のみ言葉が豊かに書きしるされているのが聖書であるから、たとえ聖書とのなりそめが、通俗的であったにしても、聖書を読む人を低俗にするうれいはない。かえって神のみ言葉によって、神聖な人にしてくれることだけは事実だと思う。ある日、浦上教会を訪ねた時、そこに信者でない来客が居合わせた。主任中島師がその来客に聖書を示しながら、「これは三十二才の男が書いた本です」といって、聖書をすすめていたのを実際に見たことがある。その時、ああ、ここにも、聖書を広く一般の人に読ませ普及させる立派なセリフがあると私は喜び、この方法も当を得ていると合意したのである。聖書を読むと肥るといわれる。これは、おもしろくなくてすぐねむたくなるということから、ねる子は肥るともいっているが、心の糧を得ることを望むものである。(坂谷 豊光)

 
 

昭和5241日発行   青年のひとこと

 「ひとこと」欄を書こうとして教報誌を取りだし、赤のマジックでかこみを入れ、字数を数えていると、そばにいた青年が、この欄に目をとめ「ああ、社長随筆ですね」と「ひとこと」口走った。この青年のとっぴな「ひとこと」に私は心をさわがせた。私の表情をよみとった青年は、「ひとこと」の裏話をあれこれ語ってくれた。『私たちはこの「ひとこと」欄を良く読みますね。読んでいるうちに仲間同志で、いつとはなしに、この欄を「社長随時」と呼ぶようになったのです。文章の流れが、わが社の社長の話とにているからです。目標となる言葉をかかげながら、時事問題を取り上げたり、実例を示して、自分の主張をイメージアップする。聞いてなるほど、現実ではついていけない≠アの二つが残りますね。「ひとこと」欄の執筆者は清潔ですね。まだ、この欄には二日酔いで苦しんだこと、パチンコで負けてがっかりしたこと、腹をたてて、あたりちらしたこと、金がなくてこまったこと、・・・といった「ちまたのよごれ」が登場しないんですね。その点「ひとこと欄」の清潔度は、聖書以上だと思いますね。まあ、よくある社長随筆のタイプだと思っています。でも、聖書のように現実の生活模様様(放蕩息子、高利貸し、借金、酒、女)のなかでの話もほしいですね。私たちが悩むのは、こんなハシタナイと言われることがらですよ。・・・』と。私のひとことは、この青年の「ひとこと」に横取りされてしまったようである。(坂谷 豊光) 

 
 

昭和53111日発行   死者の月

目に見えない隣人・煉獄の人たち  坂谷 豊光

 ●死ぬ運命

ルルドへの坂道を登っていると、落ち葉がさみしげに舞いおりてくる。いかにも、春の花道とは、対象的なルルド参道である。何かしら、青春と老境の人生舞台を、この参道は春秋の調べのなかに、たくみに演出しているようでもある。秋のもの静かな調べがかなでるころ、教会は「死者の月」をむかえる。「死について考える」ことも死者の月のテーマの一つであると教えられたが、私は、あまり死の運命について、むつかしい思索をするのが、好きでない。何が嘘であっても、死ぬことだけは真実で、たしかなことにちがいないから、くよくよすることが、おかしいからでもある。私が願うことは、杉正俊氏の「郷秋記」の一文である。彼は若い哲学者として、死をみつめた一人である。病苦のなかで、死に直面しながら、死の運命に対して、どんな態度をとるのが、一番良い方法であるかを、考えた一人でもある。九月十日の彼の日記に、夏目漱石の「野分」の主人公・道也先生の言動に対して、批評しながら、運命について、きわめて共感的なことを認めている。「運命の克服なんて、人間にとって潜越なことである。運命についての悟りとは、道也先生のごとく、自分の満足するように働くことではない。いくら一心不乱に努力しても、苦闘しても、どうにもならない人間の死の運命を認めて、神に救いをもとめる点にある。運命についての悟りとは、結局、祈りにほかならない。自分と社会とに戦って、そして戦ったきわみに、ひれ伏す祈りほど、尊いものはない」と。祈りとは、神との対話の証明である。死ぬことは、対話しつづけた神との出合いへの出発である。死ぬ運命とは、かけがえのない幸福を手中にするための流れであり、天国への移行である。と私は信じている。

 
 

●目に見えない隣人

「死者の月」のもう一つの重要なねらいは、死者のために、祈ることにあるといわれる。それは「小罪を持ち、償いを完全に終わっていない人は、天国へ入るために、ふさわしくないから、『煉獄』で、完全に清められるまで、とどまる」というのが、教会のおしえであるからである。死者のために祈ることは、煉獄で清められる人々に、手をのばし、一日も早く、あこがれている天国の幸福に与かれるように、援助してやることである。煉獄の人たちのために、祈ること、犠牲をささげることは、目に見えない隣人愛の実行だと、若いころ、教えられたことがある。こまっている人々、苦しんでいる人々を助けてあげよう、とすることが、愛の実行なのだと。しかも、相手は目に見えない人たちだから、忘れがちになるのが当然だけれど、煉獄の人々も、実に『身近な隣人だ』と。そして、煉獄の人たちに、愛のほどこしをささげるならば、彼等が天国へ行った時、必ず天国からお礼の贈り物が来る。

私たちが、困ったとき、天国から援助してくださる。と、ある司祭は、私に話してくれた。その司祭の話し方は、体験的なもののようだった。そして左のようなことを、語ってくれた。「私には、すばらしい協力者がいるんだ、しかも、目には見えない人たちなのだ。私は、司祭になって、小教区の主任になったが、まず始めたことは、煉獄の人たちのために祈ることだった。力強い協力者や援助者が、多くいれば、それだけ、小教区の司牧の成果は、あがりますからね。私は、煉獄の人たちのために祈る時、彼等に、いつも、私のお願いごとをしていたのです。ある日、いつものように、部屋で仕事をしていると、扉をノックするんですね。私は気軽に『どうぞ、お入り下さい』と答えたのですが、扉は開いたけれど、姿がみえないのですね。私は直感的に、これは煉獄の人だと思ったのです。『ご用は、なんですか』とたずねたのです。すると、『神父さん、私のためにも、忘れずお祈りください。

神父さんはこの小教区で死んだ人たちのためには、よく犠牲や祈りを捧げてくれますが、私のためには、忘れて祈ってくれませんので、今日はお願いにまいりました』と、その声はつつましく清らか哀願にみちていました。私は、『そう、すまなかったね。今日から、君のためにお祈りするから、君が天国へ行ったら、あの病人の全快のために、マリア様にお祈りしてください。』とお願いしたわけです。私はいつものようにその人たちのために、数週間、祈りと犠牲をささげたのです。

ある日、司祭館の呼鈴がなったので、出てみると私が病気の全快を頼んだその人が、元気で立っているので、うれしくなりましたよ。そして、あの人も天国へ入ったんだなぁ、と安心しました。」私は、この話を聞いて、すがすがしい心になっていた。そして、今からでも、おそくない、煉獄の人たちのために、お祈りしょう。天国に援助者、協力者を、たくさん、つくろう、と思っていた。

 
 

 ●天と地が手を結ぶ

 私の知人の一人に、大手のある会社の社長がいる。東北に十ヶ月、滞在した時の知人であるが、彼はよくごミサの依頼にきていたが、その意向は、いつも決まって、「煉獄の人たちのため」と認めていた。会社の経営がうまくいかなくなるあと、ごミサ依頼の回数は、増したが、「煉獄の人たちのため」という意向は、全くかわらなかった。

私には察しはついていたが、ある日、思いきってたずねてみることにした。「そうですね。こまっている者同志の心でしょうかね。煉獄の人たちは、天国へ行きたいとねがっている。でも、自分の力では、それが思うようにはいかない。会社の経営も煉獄の人たちの心とにているのです。結果は見えているけれど、なかなか、そこへ手が届かないのです。

しかし、目に見えない人たちから、私は助けられてきましたよ。言葉では表現できませんが、煉獄の人たちのために、ごミサが捧げられると、きまったように、仕事がうまくいくんです。だから、問題が出てくると、習慣なりましてね。こうして『煉獄の人たち』のために、ごミサを依頼するようになりました。これは功利的な考えだと、思うんですが、神父さん、しからんで下さい。」と言って、忙しいそうに会社へもどって行った。なるほど、功利主義か。まあ、それでもいいじゃないか、と私は思った。

社長のごミサの依頼によって、煉獄の人たちが清められて、天国へ入ることができ、その人たちは、天国から社長を助ける。天と地が手を結び、助け合う美しい話でもある。そして煉獄の人たちのために、ごミサを依頼し、祈りと犠牲を行った人にしか、理解できないおくゆかしい実話でもある。(聖母の騎士・編集長)
 
 

昭和5751日発行  聖母月のつとめ

コンベンツアル聖フランシスコ会  坂谷 豊光

 今年もルルド参道のつつじ花が、聖母月のプレリュードのように咲きはじめた。赤や白のつつじ花がこの参道に咲き始めると、私はふるさとの小学生の頃の「聖母月のつとめ」を思い出す。私の田舎では、聖母月になると村人が海辺の教会に集まって、聖母マリアの祭壇にローソクを灯し、ロザリオの祈りや聖歌、そして教え方さんが、「聖母信心書」を読んできかせるといった内容の聖母月が五月中、毎夜かかさず行われていた。村人は老いも若きもこぞってこの聖母月の年中行事に参加していた。もう三十七年もたった昔の古いことになってしまったが、私にとっては、昔の古い聖母賛歌のひとこまとして、ほうっておけないことのように思えるのである。それはバチカン公会議以後新しく生まれ変わった生きた教会≠フ姿が、ある一面ではふるさとの聖母月の姿ではないかと思うからでもある。

公会議以後生きた教会として、何を刷新しなければならないか、と自問したことがあった。それは新しいものは最も古い所に、原点に、福音にもどること。マリア様を中心に使徒たちが聖霊降臨を待って祈った、あの教会誕生の原点にもどることをバチカン公会議は要求しているのだと受け取ることが、刷新の大切な一面ではないかと思ったのである。

 
 

聖母信心を伝える

聖母信心を伝える

 ふるさとの聖母月は、聖母マリアを囲むようにして村人たちが祈る姿の中に、弟子たちが聖霊のお恵みを聖母を中心に祈ったあの姿を良く映し出しているのではないかと思う。長い迫害の嵐の中で、長崎の古い昔の信徒が信仰を守り通した大きな秘訣は、コンタツの祈りを聖母マリアにささげ通したことにもあると、ある先輩から聞かされたことがある。こうした古い良きならわしが、聖母月のつとめになり、聖母信心の遺産として片田舎の村人たちの中に残っていたのかもしれない。

その遺産は親から子孫に伝えられたものである。親が熱心にコンタツを唱えるのを見て、子供はそれをまねることをおぼえ、コンタツの祈りを身につけ、聖母に祈ることの大切さを知るようになったのではなかろうか。ある教会で父兄に対して主任神父が子供の宗教的しつけについて話しているのを聞いたことがある。それは「みなさんにキリスト教の教理を自分の子供に教えることを求めようとは思いませんが、みなさんが家庭で祈る両親であることをお願いします。朝の祈りや夕の祈りを、熱心に捧げる両親の姿を示すことが、大切です。子供は口先だけで『祈りなさい』と言ってもなかなかきかないものですが、ご両親が祈る姿を示すことで、それを呼吸し、身につけて大きくなってゆくのです。

それが、みなさんの家庭で唱えるように手本を示してください。子供はその手本を見て、ロザリオの祈りを覚え、聖母マリアに祈ることを知るようになるのです。子供の祈りのしつけは、祈る親の姿を示すという、いたって素朴なしぐさの中に実現されてゆくのです。」というものでした。時折、五島の浦頭教会にお世話になっているが、その教会では三つの巡回地の教会も含めて、ごミサ前に、必ずロザリオの祈りが捧げられている。それは無言のうちに新しいものは最も古い所に、原点に、福音にもどることを求めたバチカン公会議の刷新の実行だともとれるし、使徒たちがマリア様を中心に聖霊を待って祈った、あのエルサレムの教会の姿にも似ている。

そして、この教会で生まれ育った使徒たちは、自然にロザリオの祈りを身につけ、聖母マリアに祈ることを知るようになってくる。それはまた聖母マリアへの信心を子孫に遺産として残す大きな働きをしていることにもなる。
 
 
 

大切な祈り・ロザリオ

 ルルドで聖母マリアはロザリオをもってご出現なさった。そしてベルナデッタと共に祈られた。またロザリオの祈りをお勧めになったのである。ロザリオの祈りについてパウロ六世教皇は「全福音の要約である」と言われ、ロザリオの祈りの大切さを強調し、またお勧めになったのである。それはキリストのご生涯やその奥義が秘められた祈りであり、聖母マリアを通してキリストのことを正しく思い出させる役割を果たす祈りでもある。ある友人は次のように私に語ってくれたことがある。「ロザリオの祈りについて最初から玄儀の黙想などと、むつかしいことを言わなくていいのではないか。お前だって最初は『めでたし』だけで唱えていたではないか。ベルナデッタも最初は我々と同じロザリオの祈り方をしていたはずだ。それが後日、本を読んだ話を聞いたりしているうちに、ロザリオのこころがわかってくるようになるのさ。要は聖母マリアの勧めにしたがって、

毎日、ロザリオをかかさないように教え導くことが大切だ」と。また「ロザリオの祈りは持続しているうちに、味がわかるようになる。その味を知ったら、毎日が聖母月になってくる。毎日、ロザリオの祈りを唱えなければ、心が落ち着かなくなってくる。テレビを二、三時間見るのが毎日の日課なら、ロザリオを唱える二十分間の時間も日課に入れなくては、生活の味はわからないよ」と語ってくれた。私はロザリオの味、生活の味と頭の中でくりかえしながら、友人の言葉を考えていた。塩イワシとサツマイモの組合せは、この味を知った終戦当時の人々には、なつかしさもあってピーンとくる。ロザリオの祈りの味も、かかさずに聖母マリアにささげられる時、友人の言葉通りに、味がわかるようになることだろう。と私は思っている。
 
 

1991年(平成3年)81

家庭は今・・・・司祭と信徒・・・愛といのちの絆

 信仰において、司祭、信徒はキリストに結ばれ、お互いに兄弟、家庭である。

福音が示す愛。愛は言葉にあるのではなく、その実行によって確かめられるという。今回は静養中の司祭に対する信徒の愛の実践行動を贈る。長年、「聖母の騎士」誌などの編集に携わってきた長崎の坂谷豊光神父(コンベンツアル聖フランシスコ会)が今春、大分県由布修道院に転任した。

坂谷神父は赴任を前に姫路市の聖マリア病院で甲状腺腫瘍の手術を受けた。腫瘍摘出・細胞検査など八時間の大手術だった。術後の赴任を一番気遣ったのは「曾野綾子さんが案内する目の不自由な方の巡礼の旅」参加者だった。神父はこの七年間巡礼の旅の団長でもあり、十数人の受洗者の父、団員にとっても父親的存在だった。

団長・坂谷神父の緊急入院の報は団員の間にたちまち知れわたった。(坂谷神父に代わって急きょ、新潟教区のH・アンリ神父が参加)今年の目の不自由な方の巡礼団(車いす利用者も参加)は五十四人。三月十八日から四月五日までイタリア、ポルトガル、スペイン、フランス、ギリシャの五ヵ国を回った。
 
 

快復願いロザリオ「ルルドの水」空輪

 旅先。毎日、巡礼団のミサが、父親″竰J神父のために教会、移動時間によってはホテルの広間でささげられた。巡礼地に向かう二台のバス内では病気快復を願うロザリオ、カトリック者でない団員も目をつむり祈った。目の不自由な方がロザリオを先唱したのも印象的。手術の前日には激励としてスペインから団員の「寄せ書き」がファックスで病院へ。

また、フランスではカンパを募り、「ルルドの水」を空輪。いっぽう、手術の経過は国際電話を入れ団員に報告された。十九日間の長旅から帰ったその日、団員を代表して兵庫県の河合久友さんが姫路の病院へ急行した。

坂谷神父赴任後は、東京・神戸・長崎などから
(視力障害者を含む)団員ら八人が見舞った。修道院では神父の悩みの一つであった境内裏の「茶摘み」を素人ながら手伝い感謝された。七月十二日には「二番茶」を手伝う団員の第二陣七人が関東から駆け付けた。
 
 

司祭の静養にパートの提案

 大分市への通院、自炊生活など実情を知った団員から次の提案が持ち上がった。その内容は「お父さん≠フ静養のため週二回でもパートのお手伝いさんを送り込もう。その費用は団員のカンパで賄う」というもの。ところが、この提案に坂谷神父は、「現在、長崎から神父が手伝いに見えており九月まで滞在の予定です。皆さんの好意は有り難く頂きます」と固く辞退され、提案は現在保留。いっぽう、修道院の押川寿夫管区長も現地を訪ね、目下神父の健康状態(説教の声が十分発声できない)を静観中。

「愛の証」輝く曾野綾子巡礼団

 「イエズスが迫り来る死の予感の中で苦しまれたのと、まさに同じ時期に坂谷神父様は病に耐えておられました。私たちは神父様のお苦しみを刻々と忍びながら、心ではいつもご一緒でした。()」一九九一年三月三十一日ルルドにて

曾野綾子さんから頂いた手紙の一文だが後半には、「私たちは家庭」と、記されていた。このように巡礼団の「愛の証」は随所に美しく映え「福音宣教・家庭」の一端を見る思いがした。(深堀 柱)
 
 

1997(平成9)121日  それからの家庭

 限りない 愛の絆℃i祭と「巡礼の友」

 教会新築の支払いで、全国に散らばる「巡礼の友」にS0S≠ェ飛んだ。この四月、大分・湯布院から長崎市田中町、東長崎教会に赴任した坂谷豊光神父S0Sの中身はこうだ。「教会は総工費二億七千万円で建築(平成七年)されましたが、いまだに未払い建築費が一億六千万円も残されております。私は赴任と同時に借金を背負い込んだわけです。この教会は約三百世帯、そのうち二百世帯は、自分の家の新築ローンを長年かけて支払っていく若い家族です。」十月二十六日に開くバザーに家庭で眠っている贈答品などがあれば献品してほしい・・・との内容。「巡礼の友」坂谷神父は団長として、この十四年(八年目甲状腺腫瘍手術のため不参加)、作家の曾野綾子さんを案内人に、毎年、目の不自由な人や車イス利用の障害者を連れ聖地巡礼(ローマ、イスラエル、ルルドなど)に出かけている。それだけに、S0Sは「巡礼の友」がいる全国に広がった。献品は、長野オリンピック記念の高級時計、ブランドもののハンドバック、香水、人間文化財で有名な陶芸製作の花瓶、掛け軸、スズリなどと多彩。信徒は一点一点に感謝し、整理していた。バザーの告知は、チラシ二千枚を教会周辺にばらまいた。当日は珍しくバザー開始時間前から人が並んだ。曾野綾子さん提供のオークションお目当て組。オークションは牟田満廣信徒会長が、「黒のハンドバックで〜す」と声を張り上げると、すかさず「一万円」「一万五千円」「一万八千円」と声が飛び、値段はあっという間に競()り上がって落札。坂谷神父から、「巡礼の友」への第二信。「大きな荷物をお送り頂き両手をたたいて喜び、心から感謝致しております。

あなた様の温かい真心が荷物のすみずみから声なき声で伝わってきます。」東長崎教会内のステンドグラスの絵はがきが同封された。十一月一日から三日間、全国から百人を越す「巡礼の友」が、坂谷神父の故郷五島・久賀島など巡礼、五輪教会でミサをささげた。また東長崎教会でも信徒の皆さんとミサを。このあと三浦朱門
(作家・元文化庁長官)・曾野綾子夫妻の挨拶があった。北海道札幌市から長崎を訪ねた石田昌子さんは、東長崎教会での三浦先生の挨拶、また長崎の印象を次のように語った。「先生は二六聖人の信仰についてのお話しの中で、言葉に詰まり涙ぐまれましたが、先生の信仰のあつさ、人間性にますます尊敬の念を深くしています。長崎が大好きだった故遠藤周作先生(作家)のことも思い出し、偲(しの)ばれたのだろう、と私も胸いっぱいになりました。信仰はもとより何でも自由な世の中、心して生きなければ、と考えさせられました。鎖国時代に外来文化を受け入れ、独自の文化を作り出した長崎、つらいことも悲しいこともいっぱいあったのに歴史が根付いており、札幌とは違うと思いました。

神父様の故郷・久賀島は物質的なものに心奪われやすい今の世の中を思う時、私たちが忘れていた日本が五島にはありました。東長崎教会での長崎名物『皿うどん』など、たくさんのお料理でのもてなし、神父さまをお慕いしているから出来ることですね。」車イスで兵庫県西宮市から長崎巡礼をした田中公子さんは「行く先々の教会の長い階段、五島の石ころの多い坂道も『巡礼の友』の方たちに助けて頂いて、車イスに羽根がはえてしまったような幸せな旅をさせていただきました。五島を囲む美しく明るい海の色と、ひっそりと人目をさけるような五輪教会
(久賀島)のたたずまいは、私が今回の旅でうけた印象を象徴的に物語っておりました。殉教者の足跡、コルベ神父様の足跡、原爆の犠牲となられた多くの方たちの足跡をたどることは、同時に時代の流れに飲み込まれて迫害者となり、殺りく者となった人々の足跡をたどることでもありました。長崎の皆さま、五島の皆さま、今回の旅でお世話になりました。ほんとうに、ほんとうに有難うございました。わずか四日間で、私は、神様が愛されたこの地に、すっかり魅せられてしまいました。ぜひもう一度日本の聖地・長崎をお訪ねしたい。」東長崎教会のバザー、例年にない売り上げで、二百十万円を超え、建築費の未払い金にあてる大きな手助けとなった。坂谷神父の甲状腺腫瘍手術前の熱い祈り、建築未払い金の一助にと約九百点の献品・・・「巡礼の友」の気持ちは、五島の海にも似て、限りなく透明で美しい。(深堀 柱)

 
 
 


                     
                     
                     
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