l出身司祭

野浜 清 
 資料1
 

パリ外国宣教会年次報告

1)   1846-1893    松村 菅和

1887年         南緯代牧区

カトリック人口・・・・・・・・・27,772

異教徒の洗礼・・・・・・・・・・902

異教徒の子供の洗礼・・・・・・・229

クーザン司教の報告によれば「我々にとって、今年の大きな出来事は布教聖省から間もなく日本に第3の代牧区設置の栄誉とそれに伴うすべての利点が与えられるという知らせを受けたことである。信者3,700人、洗礼149人、内、異教徒の成人23人。これが南五島地区を担当しているマルマン師の数字である。彼は今年ごく僅かな収穫しか差し出すことが出来ないとなげいており、又異教徒の布教のために、資格を持った伝道師は、死と結婚という二人しかいないとも付け加えている。すなわち老人のためには死、その時に洗礼を願うから、そして若い人のために結婚、何故なら、地区の信者たちは宗教の違う人と結婚することを断るからである。これについてマルマン師はある臨終の洗礼で神の手が見えた事実を語っている。それは旧信者の末裔で、占い師を生業としていた70才近い老人のことである。20年以上前から彼は宗教の話を聞くことを拒み、キリスト信者を罵り続けて来た。しかし、彼にこの様に話し、行動させていたものは憎しみでも、無知でもなく、唯金であった。もう10年以上も前のことになるが、今神学生となっている野濱がこの老人に改宗を勧めたことがあった、この老占い師は素直にキリスト信者になるのは良いことには違いないがそれは自ら生活の道を断つことになるのだと答えたのである。ちなみに言っておくが、彼は盲人で占い棒を使うのが非常にうまかったそうである。そのために大変有名で、度々人が占って貰いに来ていた。そして彼は野濱にこう付け加えたのだ。「わしが命取りの病気になったら、きて洗礼授けてくれ。こう言う訳はわしはあの世で良い所へ行くにはキリスト信者として死なねばならんことを知っとるからだ」と。み摂理はこの頑固な老人が望んでいたように事が運ばれた。まず、長く苦しい病気が彼に熟考の時を与えた、折から野濱神学生が健康上の理由で家に帰っていた。これを知った老人は彼を自分の所に呼んで貰った、それで数日にわたって、野濱は病人に一番根本的な点を非常に良く教えた。それで、ある日、私の所へこの老人の占いやまじないの道具が全部もって来られたのである。「これを全部、神父様の所へ持って行け、わしはそれを家に残したくない。子供たちの物になることを望まんのだ。
 
 

わしは死のうが、治ろうが、キリスト信者でありたいのだ。だからこんな悪魔の道具は要らない」と瀕死の老人が言ったというのである。終に、すべてを放棄してから8日目に、病人は最期の近いのを感じて、私に会い、私の手から洗礼を受けたいと言った。この良き知らせを受けるやすぐに私は老人のもとに急いだ。ああ、ところがそこは少し遠い久賀島にあったので、病人の家迄の海岸通りを半分程行った所で使いの者と会い、「今亡くなりました。村の水方が洗礼を授けました」という知らせを受けた。それでも私は家へ行った。この老人のため出来ることはなにもないとしても、彼のこの回心で私には集まっている子供たちと近所の「離れ」の人たちと会う絶好の機会が与えられたからである。遺体の前で私が述べた言葉が集まっていた人々に強い印象を与えた様であった。子供たちも孫達も皆そこにいた。彼らは私に、キリスト信者になることを約束した。また死ぬ時まで待たずに父の模範に倣いたいとも言った。老人の回心は村やその付近一帯の「離れ」の人々の間で、そして島の異教徒の間でさえ評判になった。

 
 資料2

教報 昭和8年

◎下五島漫遊記

   細石流教会

○田川神父様が福江の黙想会を開かれると云う七月二十四日、私は浦川神父様に従い、川口神学生と入口伝道師の操れる小船に打乗り、真向かいの久賀島、その久賀島の北端に位する細石流教会を訪れた。久賀島と福江島との間には音に名高い糸串の瀬戸がある。潮が悪い時は千石船も巻き込むと云う恐ろしい難所であるが、この日は川口船頭さんがよく潮合を見計らって漕ぎ出したので、幸い何事もなくその難所を切り抜けて、細石流の濱に着いたのは午後四時頃であった。

○天主堂は、濱から二三百メートルの高い山の頂きにある。汗を絞って辿りついてみると、久賀の主任司祭今村神父様は早や告白場に座り込んでおられた。

○細石流の教会は山の上に立つ・・・・・・(原稿コピーなし)・・・殆ど蚊を見ないのに反して、ここには大きな山蚊が昼でも遠慮なく襲来する。水は冷たし、鮮魚は多し、境内は幽邃で、信者は熱心だ。些かの申分もないが、然しこの世はつまり涙の谷で、何処にか不足がある。細石流の蚊も天国を忘れささない為に神様が特にお遣わしになったものかと思えば、余り憎まれもしない。

細石流と云えば、故野濱神父様や故畑田勇八神学生の出身地であると云う所から、浦川神父様は一寸ご訪問になった迄のことで、よく二十五日に暇を告げて堂崎へ帰る積りであったのである。然るに二十六日は細石流天主堂の擁護者たる聖アンナの祝日で細石流の為には五大祝日にも劣らぬ祝祭日である。折角来合わせて居ながら、見棄てて帰るとは禮に非ずと今村神父様に突き込まれては、流石に頑張られもしない。細石流信者等の心からなる歓迎振り、毎食ピチピチしたお刺身を一人前に大きな鉢一杯づつも並べられると云う歓迎振りを見ては、悪い心地もしないので終に今村師の意に従うことにした。八時に浦川師が説教をなしミサを歌い、一同に祝日気分を満喫せしめ、その代わりに午後發動船を出して貰い、小舟は船尾に曳かせて堂崎へ帰った。

       

 
 資料3

殉教者 野濱力蔵の息子たち

「復活の島」
五島・久賀島キリスト教墓碑調査報告書
加藤久雄
長崎文献社 2007年発行

父の意志を受けつぐ  今回の調査で確認された牢屋の窄事件で亡くなった野濱力蔵には多くの息子たちがいた。そのなかで、近代カトリック復帰期において重要な動きを果たした2人の息子、安五郎と清神父についてとりあげてみる。今回の調査では、両者の墓碑は確認することができなかったが、1970年代の細石流墓地の改葬で、1902(明治35)年85日に46歳で帰天した清の墓は、長崎市赤城の聖職者の墓地に移された。さらには、同赤城地区の墓地にある安五郎の子孫である野濱家の墓地にも弔われている。安五郎につては、野濱家の墓に同様に弔われている。 

事件と記録した安五郎  安五郎は、牢屋の窄事件の迫害された人々に聞き取り調査をし、名前、年齢や迫害の状況を克明に記録した『非常日記』というものをまとめた人物である。この『非常日記』は、浦川和三郎司教の『五島キリシタン史』にも掲載されている。記載される年齢から考えるとおそらく明治2年頃の状況を示したものであろうと考えられる。この『非常日記』に記された迫害を受けた者の一覧の中には野濱安五郎と思しき人物は、出てこない。赤城地区の墓に記載された死亡年齢は53歳であり、1902(明治35)年1212日に死亡している。これらのことから出生年代を考えると、1849(嘉永2)年ごろになると考えられる。次に、『久賀島異宗徒名前書』をみると、(野濱)力蔵の子、家主の作五郎(作十郎か?)の弟の安太郎(23歳)が明治元辰10月出奔と記されている。『久賀異宗徒名前書』は乳幼児の出生年代から考えると、1872(明治5)年ごろに書かれたものと思われ、この安太郎と安五郎の年齢がほぼ一致する。その他『久賀島異宗徒名前書』と『非常日記』では、名前の表記部分で少々のずれがあるが、概ね年齢も名前の音ともが一致する例が多い。この安太郎が野濱安五郎かもしれない野濱安五郎は、浦川和三郎司教の『浦上切支丹史』にも登場する。1871(明治4)年に加賀金澤に流刑にされた浦上信徒が大阪のクゼン(クーザン?)宣教師を訪ねたさい、小使として安五郎は、彼らに対応していたことが記されている。1873(明治6)年まで切支丹禁教が続くので、簡単には久賀島を出ることができないであろうから、『久賀島異宗徒名前書』にあるように明治元年の10月の段階にすでに安五郎は島から脱出していたのかもしれない。そして1872(明治5)年ごろにはまだ島にいなかったのか?潜伏していた?のかもしれない。
 
 

司祭となった清  清は189727日にクーザン司教によって叙階され司祭となる。安五郎の子孫である野濱愛氏が過去の戸籍からまとめた『継続は力』によれば、清は1854(安政元)年112日に出生している。『久賀異宗徒名前書』には、この家の男が2人出奔しており、作五郎(作十郎か?)の弟?の嶋吉も同様に明治元辰10月に出奔していると記されている。ちなみに『非常日記』にはこの嶋吉や清と思しき人物は出てこない。この嶋吉と清とは簡単には結び付けられないが、清のこの時期の動きを探るのは重要な課題であると思われる。その後、清と思われる人物は、『パリ外国宣教会年次報告 1巻』の1887(明治19)年の南緯代牧区の記事のもあらわれる。神学生だった野濱は健康上の理由で久賀島に帰っている時に旧信者(カクレキリシタン)へのカトリック復帰のための活動に尽くしているのである。

殉教した父の意志  

野濱力蔵の息子作次郎(作十郎)は1868(慶応4)年9月に細石流集落のロレンソ栄八の息子である勝五郎、一族の又助や上平集落の若者らとともに、長崎に渡り、カトリックの洗礼をうけた。その直後に、牢屋の窄事件に遭うことになる。力蔵は息子の作次郎(作十郎)文介(紋之助)、そしてその他の一族とともに入牢する。力蔵は『非常日記』や『パークス書簡』に記されるように、厳しく責められ、殉教という最期をとげる。息子の安五郎は、教会で小使として仕えながら、この迫害の記録を後世に残した。また、息子の清は、神学生になり、病苦をおして宣教に専念し、司祭への道を進む。殉教者力蔵の強い信仰への意志とその意志をうけついだ息子たちの足跡には、心が動かされるであろう。現在、司祭として帰天した力蔵の息子である清の墓は、聖職者墓地に他の聖職者とともに弔われている。久賀島に残っていない野濱一族の墓は、聖職者墓地のすぐ近くで、移築した安五郎らの子孫によって大切に守られている。

 
 

タキは死に臨みながら少しの悲しさも見せず「私はパライソ(天国)に行きます。お父さん、お母さん、さようなら」と挨拶して安らかに息を引きとった。タキの母は後に、当時のことを回想してはあふれ落ちる涙にのどをつまらせながら「いまでこそ、思い出しては涙もこぼれ、泣きもしますが、その時は、親も子も泣いたり悲しんだりはしませんでした」と語っていたという。かくまでも残酷な仕打ちでも足りなかったのであろうか。役人たちはなお拷問を加えて改宗をせまり、お坊さんたちは「引導を渡してやる」といって鈴をジャラジャラ鳴らし、お経をとなえながら牢の周囲を回るのだった。野首のソメという婦人は、ひどい吹雪の夜、牢から出され、裸のまま夜通し丘の上に立たされて寒ざらしになった。

 

フランシスコ力蔵(野濱)は53歳。最初の殉教者助市の子である。1121日には算木責め、翌日もまた算木責め、鉄の十手打ち、口には赤く焼けた炭火を入れられた。拷問に痛めつけられた体を牢内の人間密集地獄にもどされて苦しみぬくこと3ヶ月、1869217日ついに息を引きとった。明治3027日叙階、3585日、46歳で帰天の野濱清神父はこの力蔵とテクラとせとの子である。

 資料4

長崎のキリシタン

著者「片岡弥吉 (かたおか やきち)」の紹介

1908年、長崎生まれ。1929年、日本大学高師部地理歴史科卒。1938年、純心高等女学校教論。1950年―1980年、純心女子短期大学教授。1980年2月21日死去。主要著書に、「長崎の殉教者」、「浦上四番崩れ」、「ある明治の福祉像」(ド・ロ神父の生涯)、「日本キリシタン殉教史」などがある。

五島崩れ

久賀島 「ただいま、数人の信者が、腸をちぎるような知らせを五島からもって来ました。久賀島では男女合わせて190人ばかり、一軒の家にとじ込められ、改宗しないため一ヵ月前から、悲惨見るにしのびないほどの責め苦を加えられています。9人はあわれな最期をとげました。残った人々も長い苦難の中で死の運命を待っているのです」と、1868年(明治元年)1215日付けの手紙でプチジャン司教はパリの神学校長ルッセイ神父に五島、浦上、大村領木場などの迫害について知らせた。

入牢と拷問  五島の迫害は、先ず1112日(旧暦929日)久賀島の松ヵ浦で始まった。23人のキリシタンが捕らえられて福江の牢に入れられ、拷問を受けたのである。それから10日余りたって上平の水方の善太と、小頭の要助が代官役所に出て、仏寺や神社との縁を切り、キリシタンとして暮らしたいと申し出たことから、上平、細石流、永理、幸泊、外輪、大開など久賀全島に迫害が始まった。福江藩主の代官として久賀を支配していたのは日高藤一であった。その翌日、五島には珍しく大雪が降った。役人たちは惣五郎ら何人かのキリシタンたちを裸にして海中に立たせて寒ざらしにした。わずか9歳の少年常八荒ナワで後ろ手に縛られて海の中に突き込まれた。そして役人がもっと沖に、「行け」「行け」と言いつける。胸までつかるところに来てとまったら、「もっと行け」と言い、とうとう首の隠れるところまで来た。それでも「もっと行け」と言うので正直な常八は、たちまち溺れて水をしたたか飲んだ。両手を縛られているので泳ぐこともできず溺死しょうとすると役人が来て引き上げ、浅い水の中にほっておかれた。その後、惣五郎は代官から呼び出しを受けて調べられた。「キリシタンを棄てないなら、明日肥壷に突っ込んでやるぞ」「どうしても棄てませぬ」「それじゃ、海に沈めて逆さ引きにするぞ」「棄てませぬ」「横着もの奴、斬って捨てるぞ」といって刀を抜いた。「かまいません」「逆さつりにして松葉でいぶり殺してやる」「かまいません」「横着な奴、切れ!」と役人が刀に手をかけ、刀を抜く音をさせたがたちまち声を和らげて、「キリシタンを棄てると、お金でも、土地でも何でもやる。こんな責め苦を受けるより棄てたらどうじゃ」「何と言われても棄てません」 役人たちもついに惣五郎を帰らせた。
 
 

その翌日、200人ほどの信者を皆代官所に引き出した。惣五郎が先ず算木責めを受けた。上を三角にとがらせた木を3本ならべ、裸にした惣五郎をその上に座らせ、2人でやっと抱えるくらい大きい石を二つもひざに乗せて、「さあどうじゃ。まだひどい目にあわせるぞ、キリシタンを棄てぬか」と、言いながら、鉄の十手で、背中から腰のあたりをめった打ちにした。それでも惣五郎は棄てると言わない。真っ赤に焼けた木炭を手のひらにのせ、火吹竹で吹き起こすのである。手のひらは燃えたつ炭火で焼けただれたが惣五郎は屈しなかった。ついに膝の石をのけて、用意しておいた十字架に髪をしばりつけ、口をあけさせて四斗樽二杯に満たしてあった水を2人の下役が柄杓で息もつかせず注ぎ込むのであった。見る見る腹はふくれ上がってはり裂けんばかり。役人は惣五郎をいきなり戸板の上に、突き伏せて押さえつけ、腹の水を口からも鼻からも吹き出させた。常八の母エノも算木責めと水責めにあった。大雪の日、キノは裸のまま海中に立たされた。

牢屋の窄  その翌日、水方の善太が青竹の割れるほど打たれた。このような責め苦が10日以上もつづいた。そこにいわゆる富江騒動が起こったので、124日(旧暦1021日)福江牢の23人も久賀に帰され大開の松ヵ浦の牢に入れられた。いまここは牢屋の窄と言われ殉教記念碑が建っている。それは実に惨鼻を極めた牢であった。2間に3間、わずか6坪の小さな土間のままのバラック1棟を厚い板で中央を区切り、男牢と女牢とに区分けした。そこに200人もの人間を立ったまま押し込め、ぴったり雨戸を閉めきったのである。そのせま苦しさ、多くは人の体にせり上げられて足が地につかない。人と人との間に浮いたまま眠るものさえあった。身動き一つできない。子供がこの人間の密集地獄の下にすべり落ちると引き上げるのも容易ではない。3日目には皆の足がはれ上がってしまった。これではならぬというので室の真ん中に1本の丸田を入れて片方の人をできるだけ壁に寄せて立たせ、片方の土間に交替で座らせて、少しずつ休ませるようにした。食物は小さなサツマ芋を朝夕一切れずつ。子をつれた母親はその一切れを子供にやって自分はほとんど食べない。ひもじさに泣き狂う子供に顔をかきむしられて血まみれになった母親もいた。老人、子供から先ず次々に死んで行った。真っ先に死んだのは助市である。79歳。1112日捕えられ、鉄の十手で打たれて入牢、12月の中ごろ死んだ。死体は五日五晩そのまま捨ておかれたので、いつの間にか身動きならぬ人間集団の下に踏みつぶされてしまった。牢には便所もなく、大小便は流れ放題、その不潔さ、その苦しさ。やがて蛆がわき、体をはい上がってくる。13歳の少女ドミニカ・タセは蛆に下腹をかみ破られて死んだ。5歳の政五郎は一滴の水も与えられない苦しさにアップ(水)、アップと言いながら渇き死にした。10歳のマリア・タキは、熱病に冒されて、髪の毛は抜け体の力は全くなくなった。こんな悲惨の中で、大人も子供も、なにより大切な信仰を棄てるとは言わない。
 
 

タキは死に臨みながら少しの悲しさも見せず「私はパライソ(天国)に行きます。お父さん、お母さん、さようなら」と挨拶して安らかに息を引きとった。タキの母は後に、当時のことを回想してはあふれ落ちる涙にのどをつまらせながら「いまでこそ、思い出しては涙もこぼれ、泣きもしますが、その時は、親も子も泣いたり悲しんだりはしませんでした」と語っていたという。かくまでも残酷な仕打ちでも足りなかったのであろうか。役人たちはなお拷問を加えて改宗をせまり、お坊さんたちは「引導を渡してやる」といって鈴をジャラジャラ鳴らし、お経をとなえながら牢の周囲を回るのだった。野首のソメという婦人は、ひどい吹雪の夜、牢から出され、裸のまま夜通し丘の上に立たされて寒ざらしになった。

 

フランシスコ力蔵(野濱)は53歳。最初の殉教者助市の子である。1121日には算木責め、翌日もまた算木責め、鉄の十手打ち、口には赤く焼けた炭火を入れられた。拷問に痛めつけられた体を牢内の人間密集地獄にもどされて苦しみぬくこと3ヶ月、1869217日ついに息を引きとった。明治3027日叙階、3585日、46歳で帰天の野濱清神父はこの力蔵とテクラとせとの子である。

                     
                     
                     


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