野浜 清 |
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資料1 |
パリ外国宣教会年次報告 (1) 1846-1893 松村 菅和 1887年
南緯代牧区 カトリック人口・・・・・・・・・27,772 異教徒の洗礼・・・・・・・・・・902 異教徒の子供の洗礼・・・・・・・229 |
わしは死のうが、治ろうが、キリスト信者でありたいのだ。だからこんな悪魔の道具は要らない」と瀕死の老人が言ったというのである。終に、すべてを放棄してから8日目に、病人は最期の近いのを感じて、私に会い、私の手から洗礼を受けたいと言った。この良き知らせを受けるやすぐに私は老人のもとに急いだ。ああ、ところがそこは少し遠い久賀島にあったので、病人の家迄の海岸通りを半分程行った所で使いの者と会い、「今亡くなりました。村の水方が洗礼を授けました」という知らせを受けた。それでも私は家へ行った。この老人のため出来ることはなにもないとしても、彼のこの回心で私には集まっている子供たちと近所の「離れ」の人たちと会う絶好の機会が与えられたからである。遺体の前で私が述べた言葉が集まっていた人々に強い印象を与えた様であった。子供たちも孫達も皆そこにいた。彼らは私に、キリスト信者になることを約束した。また死ぬ時まで待たずに父の模範に倣いたいとも言った。老人の回心は村やその付近一帯の「離れ」の人々の間で、そして島の異教徒の間でさえ評判になった。 |
資料2
教報 昭和8年 ◎下五島漫遊記 細石流教会 ○田川神父様が福江の黙想会を開かれると云う七月二十四日、私は浦川神父様に従い、川口神学生と入口伝道師の操れる小船に打乗り、真向かいの久賀島、その久賀島の北端に位する細石流教会を訪れた。久賀島と福江島との間には音に名高い糸串の瀬戸がある。潮が悪い時は千石船も巻き込むと云う恐ろしい難所であるが、この日は川口船頭さんがよく潮合を見計らって漕ぎ出したので、幸い何事もなくその難所を切り抜けて、細石流の濱に着いたのは午後四時頃であった。 ○天主堂は、濱から二三百メートルの高い山の頂きにある。汗を絞って辿りついてみると、久賀の主任司祭今村神父様は早や告白場に座り込んでおられた。 ○細石流の教会は山の上に立つ・・・・・・(原稿コピーなし)・・・殆ど蚊を見ないのに反して、ここには大きな山蚊が昼でも遠慮なく襲来する。水は冷たし、鮮魚は多し、境内は幽邃で、信者は熱心だ。些かの申分もないが、然しこの世はつまり涙の谷で、何処にか不足がある。細石流の蚊も天国を忘れささない為に神様が特にお遣わしになったものかと思えば、余り憎まれもしない。 ○細石流と云えば、故野濱神父様や故畑田勇八神学生の出身地であると云う所から、浦川神父様は一寸ご訪問になった迄のことで、よく二十五日に暇を告げて堂崎へ帰る積りであったのである。然るに二十六日は細石流天主堂の擁護者たる聖アンナの祝日で細石流の為には五大祝日にも劣らぬ祝祭日である。折角来合わせて居ながら、見棄てて帰るとは禮に非ずと今村神父様に突き込まれては、流石に頑張られもしない。細石流信者等の心からなる歓迎振り、毎食ピチピチしたお刺身を一人前に大きな鉢一杯づつも並べられると云う歓迎振りを見ては、悪い心地もしないので終に今村師の意に従うことにした。八時に浦川師が説教をなしミサを歌い、一同に祝日気分を満喫せしめ、その代わりに午後發動船を出して貰い、小舟は船尾に曳かせて堂崎へ帰った。 |
資料3
殉教者 野濱力蔵の息子たち 五島・久賀島キリスト教墓碑調査報告書 加藤久雄 長崎文献社 2007年発行 父の意志を受けつぐ 今回の調査で確認された牢屋の窄事件で亡くなった野濱力蔵には多くの息子たちがいた。そのなかで、近代カトリック復帰期において重要な動きを果たした2人の息子、安五郎と清神父についてとりあげてみる。今回の調査では、両者の墓碑は確認することができなかったが、1970年代の細石流墓地の改葬で、1902(明治35)年8月5日に46歳で帰天した清の墓は、長崎市赤城の聖職者の墓地に移された。さらには、同赤城地区の墓地にある安五郎の子孫である野濱家の墓地にも弔われている。安五郎につては、野濱家の墓に同様に弔われている。 |
司祭となった清 清は1897年2月7日にクーザン司教によって叙階され司祭となる。安五郎の子孫である野濱愛氏が過去の戸籍からまとめた『継続は力』によれば、清は1854(安政元)年11月2日に出生している。『久賀異宗徒名前書』には、この家の男が2人出奔しており、作五郎(作十郎か?)の弟?の嶋吉も同様に明治元辰10月に出奔していると記されている。ちなみに『非常日記』にはこの嶋吉や清と思しき人物は出てこない。この嶋吉と清とは簡単には結び付けられないが、清のこの時期の動きを探るのは重要な課題であると思われる。その後、清と思われる人物は、『パリ外国宣教会年次報告 1巻』の1887(明治19)年の南緯代牧区の記事のもあらわれる。神学生だった野濱は健康上の理由で久賀島に帰っている時に旧信者(カクレキリシタン)へのカトリック復帰のための活動に尽くしているのである。 殉教した父の意志 野濱力蔵の息子作次郎(作十郎)は1868(慶応4)年9月に細石流集落のロレンソ栄八の息子である勝五郎、一族の又助や上平集落の若者らとともに、長崎に渡り、カトリックの洗礼をうけた。その直後に、牢屋の窄事件に遭うことになる。力蔵は息子の作次郎(作十郎)文介(紋之助)、そしてその他の一族とともに入牢する。力蔵は『非常日記』や『パークス書簡』に記されるように、厳しく責められ、殉教という最期をとげる。息子の安五郎は、教会で小使として仕えながら、この迫害の記録を後世に残した。また、息子の清は、神学生になり、病苦をおして宣教に専念し、司祭への道を進む。殉教者力蔵の強い信仰への意志とその意志をうけついだ息子たちの足跡には、心が動かされるであろう。現在、司祭として帰天した力蔵の息子である清の墓は、聖職者墓地に他の聖職者とともに弔われている。久賀島に残っていない野濱一族の墓は、聖職者墓地のすぐ近くで、移築した安五郎らの子孫によって大切に守られている。 |
タキは死に臨みながら少しの悲しさも見せず「私はパライソ(天国)に行きます。お父さん、お母さん、さようなら」と挨拶して安らかに息を引きとった。タキの母は後に、当時のことを回想してはあふれ落ちる涙にのどをつまらせながら「いまでこそ、思い出しては涙もこぼれ、泣きもしますが、その時は、親も子も泣いたり悲しんだりはしませんでした」と語っていたという。かくまでも残酷な仕打ちでも足りなかったのであろうか。役人たちはなお拷問を加えて改宗をせまり、お坊さんたちは「引導を渡してやる」といって鈴をジャラジャラ鳴らし、お経をとなえながら牢の周囲を回るのだった。野首のソメという婦人は、ひどい吹雪の夜、牢から出され、裸のまま夜通し丘の上に立たされて寒ざらしになった。 フランシスコ力蔵(野濱)は53歳。最初の殉教者助市の子である。11月21日には算木責め、翌日もまた算木責め、鉄の十手打ち、口には赤く焼けた炭火を入れられた。拷問に痛めつけられた体を牢内の人間密集地獄にもどされて苦しみぬくこと3ヶ月、1869年2月17日ついに息を引きとった。明治30年2月7日叙階、35年8月5日、46歳で帰天の野濱清神父はこの力蔵とテクラとせとの子である。 |
資料4
長崎のキリシタン 著者「片岡弥吉 (かたおか やきち)」の紹介 1908年、長崎生まれ。1929年、日本大学高師部地理歴史科卒。1938年、純心高等女学校教論。1950年―1980年、純心女子短期大学教授。1980年2月21日死去。主要著書に、「長崎の殉教者」、「浦上四番崩れ」、「ある明治の福祉像」(ド・ロ神父の生涯)、「日本キリシタン殉教史」などがある。 五島崩れ 久賀島 「ただいま、数人の信者が、腸をちぎるような知らせを五島からもって来ました。久賀島では男女合わせて190人ばかり、一軒の家にとじ込められ、改宗しないため一ヵ月前から、悲惨見るにしのびないほどの責め苦を加えられています。9人はあわれな最期をとげました。残った人々も長い苦難の中で死の運命を待っているのです」と、1868年(明治元年)12月15日付けの手紙でプチジャン司教はパリの神学校長ルッセイ神父に五島、浦上、大村領木場などの迫害について知らせた。 |
その翌日、200人ほどの信者を皆代官所に引き出した。惣五郎が先ず算木責めを受けた。上を三角にとがらせた木を3本ならべ、裸にした惣五郎をその上に座らせ、2人でやっと抱えるくらい大きい石を二つもひざに乗せて、「さあどうじゃ。まだひどい目にあわせるぞ、キリシタンを棄てぬか」と、言いながら、鉄の十手で、背中から腰のあたりをめった打ちにした。それでも惣五郎は棄てると言わない。真っ赤に焼けた木炭を手のひらにのせ、火吹竹で吹き起こすのである。手のひらは燃えたつ炭火で焼けただれたが惣五郎は屈しなかった。ついに膝の石をのけて、用意しておいた十字架に髪をしばりつけ、口をあけさせて四斗樽二杯に満たしてあった水を2人の下役が柄杓で息もつかせず注ぎ込むのであった。見る見る腹はふくれ上がってはり裂けんばかり。役人は惣五郎をいきなり戸板の上に、突き伏せて押さえつけ、腹の水を口からも鼻からも吹き出させた。常八の母エノも算木責めと水責めにあった。大雪の日、キノは裸のまま海中に立たされた。 |
タキは死に臨みながら少しの悲しさも見せず「私はパライソ(天国)に行きます。お父さん、お母さん、さようなら」と挨拶して安らかに息を引きとった。タキの母は後に、当時のことを回想してはあふれ落ちる涙にのどをつまらせながら「いまでこそ、思い出しては涙もこぼれ、泣きもしますが、その時は、親も子も泣いたり悲しんだりはしませんでした」と語っていたという。かくまでも残酷な仕打ちでも足りなかったのであろうか。役人たちはなお拷問を加えて改宗をせまり、お坊さんたちは「引導を渡してやる」といって鈴をジャラジャラ鳴らし、お経をとなえながら牢の周囲を回るのだった。野首のソメという婦人は、ひどい吹雪の夜、牢から出され、裸のまま夜通し丘の上に立たされて寒ざらしになった。 フランシスコ力蔵(野濱)は53歳。最初の殉教者助市の子である。11月21日には算木責め、翌日もまた算木責め、鉄の十手打ち、口には赤く焼けた炭火を入れられた。拷問に痛めつけられた体を牢内の人間密集地獄にもどされて苦しみぬくこと3ヶ月、1869年2月17日ついに息を引きとった。明治30年2月7日叙階、35年8月5日、46歳で帰天の野濱清神父はこの力蔵とテクラとせとの子である。 |