野原 清師

 
 

トマス・アクイナス 野原清師

 

野原 清神父

所属 長崎教区、聖婢姉妹会指導司祭

出身 1923年 福江市久賀町

叙階 1950

活動 川棚教会、福江教会、生月教会の助任を経て、1954年、山口大司教の命により、聖婢姉妹会の指導司祭となる。長崎教区に散在していた無誓願修道院を統合して、在俗修道会聖婢姉妹会として歩みまでの準備から始め、一つの修道会への歩みを助ける。

 1954年ローマで霊性神学を学び3年後帰国して、田平教会主任司祭として司牧に携わる。1972年福岡のサン・スピルス大神学院教授となり神学生の養成に尽力する。4年後木鉢教会主任司祭として赴任し、198411日に帰天する日まで司牧に専念した。赤城聖職者墓地に埋葬される。祈りと勉学の人で多くの著書がある。

 
 

司祭の聖位に――野原清師

629日聖ペトロ、聖ポーロの祝日に大浦天主堂で、山口司教様によって叙品式が行われた。トマス・アキナス野原清師は目出度く司祭の聖位にあげられ、高谷義光師は副助祭にあげられた。

 野原師は、五島久賀島村出身、昭和114月長崎公教神学校に入学、同174月東京大神学入学、終戦後長崎公教大神学校で勉強中であったが、この度学業を終了して叙品されたのである。なお野原師は川棚教会助任に補され82日に就任された。
 
 

カトリック教報 昭和2821

 

四旬節に寄せて  野原 清

 

「人よ、汝は塵土なれば、又塵土に還るべきを記憶せよ」(創世記319)灰の水曜日、司祭の厳粛な死の宣告の前にこの世の果敢なきを身に沁みて味わいながら、差し出した私達の額に、昨年の枝の主日に勝利のシンボルとして、空高くかざした祝別の枝を焼いてこしらえた灰が降ってくる。この日から聖土曜日まで、日曜日を除いて丁度四十日になるが、この四十日間即ち四旬節はキリスト様の御復活を迎える為の準備期間である。

 

さて、教会がかように近い準備期間として四十日間を選んだのは決して偶然ではない。だれでも旧約の歴史をひもとけば、この世界は既に一回終わって居る事を見出すだろう。つまりノエの大洪水で世界の第一回終末は水で終わったのである。その大洪水は、雨が四十日四十夜降り続いた。次にイスラエル人は四十年間荒野をさまよい、その間預言者モイゼはシナイ山で「天主の十戒」を頂く為、四十日間断食して祈った。又キリスト様御自身も、公生活に入り給うに当たって、四十日四十夜サバクで断食した給うた。

 

以上の様に四十という数は昔から通悔、罪の償い、心の浄め、更にこれらの行いによって頂く天主様のお恵み等を表して居るものである。つまり四旬節は御復活祭の準備をなす為、キリスト様の御苦難、御死去を黙想しながら、悲しみの生活をする事によって各自、己が罪を潔め、償いを果たし、心を整えて救霊の道に一層の精進をなすべき時であり、私達の心に芽生えた不純の雑草を取り除く様努むべき秋である。

 

耕作した事のある人は、雑草が如何に作物の成長に邪魔になるかをよく知っている。堪えず努力してこの雑草を引き抜かないと、米も麦もいかなる作物もこの雑草に養分を奪われて成長せず、やがて一,二年も放置すれば、大切な畑も遂に広漠たる荒れ地と化してしまうだろう。私達の霊的稔りも又同じである。

 

私達は自分で己が心の畑を努力して毎日耕して、生え出でて来る雑草を手まめに引き抜かぬ限り、如何に天主様の恩寵の太陽が照り、慈悲の雨が降っても、やがて稔りの秋に残るものは、原罪に死んだアダムとエワそのままの素枯れた人間の姿のみとなるであろう。カトリックは愛の教えといわれる。「汝心をし、礼をし、意をして主たる汝の神を愛すべし」「汝の近き者を己の如く愛すべし」(マテオ223739)これは私達が守るべき愛のおきてであるが、私達は更にこの愛のおきての源泉にまでさかのぼる事を忘れてはならない。
 
 

創造主と被造物の本質的区別は何処にあるか?創造主は自らによって存在する事が出来、他の如何なるものにも従属されない存在、即ち自立的存在でありこれに反して被造物は造物主によって創られ、且つこれによって支配されるもの、即ち自らによっては存在する事の出来ないものである。他の如何なるものにも支配されず、拘泥されない天主様にとっては、私達人類が存在しなくともその光栄にいささかの変わりもなかったはずである。

 

それにも拘わらず無限の愛によって無より私達を創造し給うたのであった。さて、永遠の幸福に、無限なる天国の福楽にあずからしめる為に、己が姿に似せて創り給うた人類は如何で出会ったか?アダムとエワのごう慢の罪、否私達自身のごう慢、邪淫、貪欲の罪は、愛し奉るべき天主様に向かって反抗を敢えてしたのである。

 

その罪は無限なる天主様に叛いたものであるから、その罰たるや、地獄の底深く落ち込むのが当然だったのである。それなのに、天主様は滅び行く私達人類の姿を見るにしのび給わず、己が御獨り子、イエズス・キリストを賜うほど私達を愛されたのである。無限なる罪科の償いは無限なる天主様のみよくなし得給う所であり、人間が罪を犯したものである限りは、人間としてもこれを償わなければならない。

 

人類救済の神人キリストこそ、天主様の私達に対する愛の権化であり、救世の玄義こそ、最大の愛の秘儀であろう。私達は天主様の私達に対するこの愛を本当に理解する時、どうして何時までも安閑として、罪の中に生活出来ようか。又、涙なくしてはこの愛の秘儀を聞く事は出来ないはずである。この愛なる御者の信仰を有する私達は、クリスマスにおいて主と共に御誕生の喜びを味わい、御苦難において主と共に苦しみ、御復活において主と共に復活の光栄への希望に生きる時、信仰の真の喜びを、有り難さをひしひしと感ずるのである。実に、喜びの玄義、苦しみの玄義、光栄の玄義は人生の縮図であり、人生の課題である。

 

幸福への叫びとも言うべき孤々の声と共に、生まれ来る人間は誕生の喜びも束の間、荒波逆巻く人生の波路をたどらなければならない。人生のあらゆる苦しみと不幸とは、信仰無き者にとっては失望と堕落の基であり、信仰ある者にとっては希望と光栄の輝きである。罪無き我が主キリスト様さえ彼の苦しみを受け給うた事を思えば、私達の毎日の生活の苦しみ、悲しみは物の数ではない。寧ろ、苦しみこそ喜びであり、幸福であるといえよう。かくて御主と共に苦しみ、御主と共に天国の光栄に入り、やがて公審判の暁には復活の光栄によって報いられる。

 

これこそ信仰の遺産であり、御復活の喜びの秘義である。地上で祝う御復活祭を通じて、永遠の天国の御復活祭の歓喜へ連なる為には、私達は今こそ善業を行い、聖き勤行を守って、四旬節の恩寵に忠実でなければならない。今こそ、霊生の畑に芽生えた雑草を丹精に抜き取り、荒れ果てた地面を耕し、弱った霊生の芽がすくすくと育つ様に務めねばならない。こうした努力に依ってこそ、私達の信仰生活は自ずから発展し、地上生活は苦しくとも永遠の復活の幸福に連なる希望と歓喜に満ちた美しき日々となるのである。

 
 

カトリック教報 昭和3021日発行

 

信仰の精神に生きよ  野原 清

 

25日は日本二十六聖殉教者の記念日である。この日こそ今を去る358年前、私達の信仰の祖父である二十六聖人達が、あの西坂の丘を殉教の血で紅に染め、勝利の栄冠をかざしつつ昇天して行った日なのである。159612月、豊臣秀吉の禁教令によって、京都と大阪でフランシスコ会の修道士6名、イエズス会の修道士3名、日本人信者15名、合計24名の人々が捕らえられ、京都の一条の牢獄に打ち込まれた。その中には、12才のルドビコ・茨城、13才のアントニオ、15才のトマス・小崎のような紅顔の少年達さえはいっていたのである。さて、これら二十四人の信仰の英雄達は、京都の牢獄で種々の責め苦を受けた後、翌年一月三日、左の耳を斬り落とされた。

 

彼等は血まみれになったまま「見せしめ」のためにといって、京都、堺などの町々を引き廻された後、はるか長崎まで送られることとなったのである。途中二人の信者が是非とも殉教者になりたいと役人に願って一行に加わったので、都合二十六名となった。堺をたったのは15日であったが、この厳寒に着の身、着のまま、みぞれが降っても、雪が積んでも、かもうところなく二百里余りもの旅行をされたのであるから、聖殉教者達が受けた苦難のほどは、到底筆舌の尽くし得る所ではない。

 

それでも聖殉教者達は、顔に平安の色をたたえ、目に喜びの涙をあふらせ、熱と渇きに乾き割れた唇には絶え間なくコンタスの祈りを誦えつづけていたと言われる。やがて25日、時津から浦上を経て、西坂の刑場にたどりついた彼等は夕陽が如月の空を薄紅に染めて稲佐山に沈むころ、十字架上に二本のヤリで貫かれ、その聖い魂を天主の御手に返したのである。かくして、聖殉教者達の胸よりほとばしり出た鮮血はやがて三百年の後に萌え出ずべき信仰の種子として、地中深く染み込んでいった。

 

私達は聖殉教者達の子孫として、彼等祖父の信仰の威徳を讃えると共に、その信仰の精神、殉教の精神を学び、体得するように努めなければならない。信仰の精神、それは亦十字架の精神、苦しみを愛する精神、神愛の精神でもある。死の瞬間に殉教者達のもっていた神への愛はその絶頂にあったにちがいない。しんこくのためにせいめいをすてるということは、けっしてそのばの出来心でなされ得るものではない。ランマンと咲きにおう春の花、真紅に照り輝く秋の紅葉さえ、冬の厳寒、あるいは夏の酷暑の中に、それぞれの営みが続けられた結果なのである。

 

このように、熱烈な殉教者達の信仰と愛も、平素から積み重ねてきた祈りと克己の生活による沈黙の準備から始まるのである。積極的には、毎日のたゆまぬキリスト教的生活の中にこそ、殉教の恵みが戴けるまでに強い信仰と愛の精神がはぐくまれて行くものであることを私達は自覚しなければならない。人として、亦キリスト信者として私達が完成されるためには、あるいは滅多にない事ではあろうけれども、殉教という特別の恵みを頂くためには私達は先ず己が身分環境において最善を尽くさなければならないのである。即ち日々の小事を忠実に行うことこそ肝要である。
 
 

さて、私達の毎日の生活はどうであろうか?子供は天主の代理者である親に心から従い、孝養を尽くしているであろうか?青年は放縦と真の自由とをはきちがえ、目上の権威に抗し、あるいは快楽に身をやつし、その清く、聖かるべき魂を悪魔に奪われているのではないか?親は天主より託せられたその貴重な子宝を善良に成長さすべく、最善の教育をほどこしているであろうか?妻は夫に、夫は妻に、嫁は舅姑に、舅姑は嫁に、それぞれ己が責任と愛とを尽くしているであろうか?私達は聖殉教者達の信仰のあとをしのぶと共に己が毎日の信仰生活を静かに反省してみなければならないのである。

 

現在、私達は天主の恩寵によって、我が国の歴史にかつて無かった程の信仰の自由を享有している。私達の祖先が鮮血を以てその信仰を守り抜いたあの禁教時代に今日を思いくらべる時、私達はなんと幸福であろうか?然し、同時に私達はキリストの次の言葉も決して忘れてはならない。「汝等も亦用意してあれ、人の子は汝等の思わざる時に来たるべければなり」(ルカ1240)今日においても、いまだに共産諸国の彼方では私達の信仰の兄弟達がその信仰故に苦しんでいるのである。

 

例えば、最近共産治下になった北ベトナムの信者達が、ただ信仰の自由を得るために、祖先伝来の土地や家財道具の総てをなげ棄て、着の身、着のままで南ベトナムへと逃れていることは、新聞やラジオやニュース映画などで伝えられているところである。胸に十字架をつけ、祈りを誦え、賛美歌を歌いながら、小さいジャンクに乗って、南へ南へと逃れて行く彼等の姿を、私は先日ニュース映画で見る機会を得た。それこそ正にかつての私達の信仰の祖先の姿そのままであり、信仰の精神に生きる彼等のその聖い姿を、私は涙無くしては見るを得なかったのである。殉教者達の子孫である私達の胸にも、同じく祖先のあの強い信仰の血が流れている筈である。

 

私達はこれら苦しむ信仰の兄弟達のために心から祈ると共に、私達も今こそ、この殉教の精神を強めなければならない。そして毎日の生活を信仰に生きる生活となさねばならぬ。あのカルワリオ山上のキリストの苦しみと、私達の信仰の祖父である二十六聖殉教者達が西坂においてしのいだ信仰の苦しみとに合わせて、朝から夕までの私達の行いと涙、心配と労苦とを喜んで捧げなければならない。かくて真に信仰の精神に生きる時、争いも憎しみもなくなり、私たちの家庭と社会とは明るく平和なものとなるであろう。そして、たとえ私たちの生活が苦しく、辛くとも、それは永遠の幸福につながる希望と歓喜に満ちた楽しい生活となる筈である。

 
 

カトリック教報 昭和3991日発行号

 

野原 清師 ローマ留学

昭和31年長崎聖姉妹会創立以来、その指導に当たっておられたトマス・アキナス野原清師は、824日横浜出帆、ローマに向かわれた。ローマのグレゴリアン大学で4年間、修道会についての研究をなさる予定。

カトリック教報 昭和4281日号

 

野原 清師帰国

ローマ留学中の野原清師は3年間の勉学を終えて無事帰国、721日長崎に帰られた。同師は昭和39年(当時聖婢姉妹会指導司祭)ウルバノ大学に留学、教会法を専攻され、かたわら神秘神学などを修められた。

 
 

カトリック教報 昭和4311日号

 

新しい年をむかえて 野原 清

 

月日の流れは早くすでに昭和43年の新春を迎えました。1年の月日の短いことは、年をとるに従って、いよいよ加速度を増すように感じられます。それでも異国で迎えた正月に比べれば、日本で迎える今年の正月はやはり気分的に落ち着いた感じを覚えます。3年ぶりに日本へ帰って感じたことは、ヨーロッパに比べてすべての点でテンポの早いことでした。しかしそれだけ活気があって、進歩が早いのかもしれません。あと十年もすれば、物質の面で、日本はヨーロッパに追いつき、追い抜くだろうとあちらでよく聞いたものでした。日本人はこのように生活様式においては、驚くべき早さと正確さとをもって、欧米のものを吸収していきます。

 

しかしその内面についてはあくまでも異質のものとしてこばみつづけているようです。欧米の文化の底流をなすものが、キリスト教であることを、日本人はどうして解らないのでしょうか。今日、欧米の各地へ観光旅行にでかける日本人は多いようです。ローマでも、聖ペトロ大聖堂やキリスト教遺跡を見て廻っている多くの日本人を見かけました。彼等は一体何を見て来ているのでしょうか。日本のカトリック信徒総数は昨年(42年)の統計によると34万でした。ほとんど一億に近い総人口に比べて、僅かに0.3パーセントに過ぎません。

 

この日本カトリック教会の絶対的少数派の姿は、日本に宣教再開以来、百年という歳月が造り上げ得た結果としては、あまりにもみじめです。ところで、このようにキリスト教が日本に土着化しない原因はどこにあるのでしょうか。よく反省しなければならない問題です。この日本で、福音を待っている一億に近い人々はこの福音が何であるかを知りたいと云うよりは、むしろ福音をどう生きるかを見たいと思っているのではないでしょうか。この福音を十分に生き、表面だけをよそおわずに生き、この福音の伝えるところを、自分の生活と思想と行為との全体において証明する人、真にキリスト者である人、そうした人と親しく出会うことを期待しているのではないでしょうか。

 

長崎にも来られたことのあるドイツ・ケルンのフリングス枢機卿は、第二バチカン公会議で発言して“キリストは人間の霊魂ばかりでなく、肉体をも、個人ばかりでなく社会をも、国々をも、全世界をも救うために来られた”といっています。これはこの世のすべての事柄を、キリストにおいて秩序づけることを意味する公会議の精神です。新年は希望であります。新年だからといって自然の風物は何の変わったこともなく、そして毎年めぐり来る元日ではあっても、生活に折り目をつけ新たな出発の決意をするところに新年の意義があるのです。

 

聖パウロは教えています“キリスト・イエズスにおいて洗礼を受けたわれわれがみな、かれの死において洗礼を受けたのであることを、あなたたちは知らないのか。われわれは、その死における洗礼によって、イエズスとともに葬られたのである。それは、御父の光栄によって、キリストが死者の中からよみがえったように、われわれもまた新しい生命に歩むためである”と(ローマ書63)。

 

実際、キリスト信者の生活は、キリストのご復活の意義を生きることです。古き人を棄てて新しき人に生まれかわることです。7代、266年間の世界にも無比なきびしい迫害にもめげず、信仰を守り伝えてくれた祖先たちの子孫として、私たちは強く、雄々しく信仰に生きなければなりません。私たちが信仰に本当に生きるとき私たちの心は輝き、そしてその心の輝きは、まわりの人々をも照らすのです。この新しい年こそ、生々とした信仰生活によるキリストの証人となるよう励みたいと思います。

 
 

カトリック教報 昭和4321日発行号

 

 

祖先の信仰にならう  野原 清

 

25日は日本二十六聖人殉教者たちの記念日です。この日こそ、今を去る370年前、私たちの信仰の祖父である二十六聖人たちが、あの西坂の丘を殉教の血に紅に染めて昇天していった日であります。二十六聖人たちのほかに、長崎と江戸で殉教し、福者にあげられている205人の殉教者たちもいます。また歴史家たちは4045人の殉教者たちの名をも数えています。これほど多くの殉教者たちを出した日本の迫害の苛酷さは、世界でも無比であると云われています。

 

日本の迫害は豊臣秀吉が禁教令を出した1587年(天正15年)から、信仰の自由が与えられた1873年(明治6年)まで7286年間続きました。このうち約20年間だけが比較的平静な期間でありました。従って、この20年間を差し引くと、日本の迫害は実に266年間続いたことになります。しかも、1643年(寛永20年)マンショ小西、マルチノ式見という二人の日本人神父の殉教を最後に、国内には秘跡を授け、教えを説く一人の神父もいませんでした。更に、日本の迫害はキリスト教の根絶を期したもので、この目的を達成するため懸賞訴人の高札、五人組、絵踏み、往来手形、宗門人別改めなどが行われました。

 

これほど長期間の酷しい迫害にもめげず、私たちの祖先は私たちに信仰を伝えてくれました。1865年(慶応元年)317日、日本二十六聖人に献げられた大浦天主堂で、ご摂理の使徒、プチジャン師が旧キリシタンの子孫を発見した百年祭をお祝いしたのは、つい三年前であります。信徒発見後、間もなく明治の迫害が起こりました。この迫害でも私たちの祖先がしめした信仰は雄々しいものでした。浦上の信徒たちの“旅”で殉教したものだけでも実に664名にも達しました。信仰の自由が許されたあとでも、迫害の傷手は長く続き、偏見と圧迫のもとに、私たちの祖先は苦しんできました。しかし今は全く信仰自由の時代が与えられたいます。

 

この有難い恵みに浴する私たちは、生命をかけて守り抜いた祖先の信仰の偉徳を讃え、その強い信仰の精神を学び、体得するよう努めなければなりません。信仰の精神とはキリストを神と信ずるが故に、キリストと同じように物事を考え、判断し、実践して行くことです。即ち、キリストに生きることです。使徒聖ヨハネはすばらしく書きあげたその福音書の終わりに“イエズスが行われたことは、このほかにも多いが、一つ一つしるしていたら、その書かれた本を入れるために、全世界さえも足るまいと私は思う”(ヨハネ2125)と云っています。神なるキリストのみ教えでありますから、その精神は広く、深くて、人間の筆や言葉ではとうてい表現出来ません。

 

しかし、私たちのちっぽけな頭に記憶するためにここに要約するならば、信仰の精神はご摂理に対する絶対的な信頼、苦しみを愛する精神愛の精神ではないでしょうか。この三つの精神が私たちの心の中に、信仰の根を張り、やがてそれは信仰のために生命を献げてもおしくない程までに、強く、大きく成長していくのであります。信仰の精神は信仰生活の根であります。木々の根が冬の極寒にたえて地中深くひろがり、エネルギーをたくわえて、ランマンと咲きかおる春の花に備えるように、信仰のの精神も平素から積み重ねていく祈り、克己、秘跡に近づく生活による沈黙の準備から始まるのであります。

 

そして、それはただ個人的霊生にとどまるだけでなく、更に家庭生活、社会生活へと自分の生活環境にまで延びて行かなければなりません。即ち、すべての事柄をキリストにおいて秩序づけてゆかなければなりません。全世界をキリストに秩序づけること、これこそ第二バチカン公会議の使徒職の精神であります。信仰の年である今、私たちは手につばきして立ち上がらねばなりません。信仰の自由を謳歌する時代であっても、いのちをかけた信仰生活でありたいものです。そして、このいのちがけの信仰生活が小教区を救い、教区を救い、日本を救い、全世界の悩める人々を救う日が来ることを念じたいものです。その信仰の火は小さくとも燃える火でありたいものです。信仰の精神の核分裂の第一爆発でありたいと思います。

 
 

カトリック教報 昭和4331日号

 

今年は228日に灰の水曜日を迎えました。“人よ、あなたは塵土であれば、また塵土に帰るべきことを記憶せよ”(創世記319)。昨年の枝の祝日に勝利のシンボルとしてかざした枝が、今は灰となって頭上に降って来るとき、私達の胸には過ぎ去った青春の夢を残して、死んでいく人生のたそがれのはかなさがなんとなく感じられ、通悔の涙がおのずから湧き起こって来るのを覚えます。今年の三月はご復活祭の近い準備期間である四旬節に明け、暮れていきます。

 

カトリックの信仰のうちでその基礎をなすものはキリストのご復活であります。キリストのご復活が証明されれば、キリストの神性はゆるぎないものとなります。そして、キリストが神であれば私たちはキリストのみ教えを無条件に信じなければなりません、また安心して信じることが出来ます。聖パウロは云っています。“もしキリストが復活しなかったなら、われわれの宣教は空しくあなたたちの信仰も空しい。しかし、キリストは死者の中から復活して死者の初穂となられた”(コリント前書151420)と。

 

同様にキリスト教的修徳の基礎も、キリストのご復活の秘義を生きることにあります。即ち、キリストがみ墓に葬られて、三日目にご復活になられたように、私たちも古き人を棄てて新しい人に生まれ変わる努力の中に、キリスト者的修徳の姿があります。夏の日、畑の隅や、田圃の畦道で、蛇の青白いぬけがらに出会ってびっくりすることが時々あります。蛇、カニ、エビ等のような動物は、ぬけがえって成長していきます。従って、蛇のぬけがらに出会ったなら、その付近にそのぬけがらより一まわり大きい蛇がいる証拠です。

 

脱皮して成長していくこのような動物のように、私たちも自我を棄てて神のみ旨に従うたびに、また意志の力によってわがままを征服するたびに、精神的に成長していくのです。旧約の歴史の中に、イザアクの子供で、エザウとヤコボの双生児の話があります。旧約の太祖時代、長男は長子権を得て、親の財産をゆずり受け家計をつぐ特権を持っていました。しかし、このエザウとヤコボの双生児の間には相続権争いがあって、最後に父イザアクの祝福を受けて相続権を得たのは弟のヤコボでした。私たちの心の戦いにも、この双生児の争いが絶えず繰り返されています。最初に心に生まれてくるものはエザウであり、即ち自我です。あとから生まれてくるものがヤコボであり、即ち神のみ旨です。エザウでなく、ヤコボが常に勝利を得るとき、即ち自我に死んで神のみ旨が勝利を得るとき、その人は真に修養された人、人格者といえます。

 

さて私たちが到達しなければならない完徳とは何でしょうか。完徳とは愛徳の完成であり、愛徳とは自我を棄てて神のみ旨を行うことです。従って、古き人を棄てて、新しい人として生まれかわる霊的復活こそ、キリスト者的生活態度の基礎であります。洗礼の秘跡も、また日曜日もこの私たちの霊的復活を自覚させ、決意させる日であります。特に、四旬節はご復活祭へ向かっての準備期間であります。

 

長崎教区には古くから、この四旬節の頃に年の黙想をする立派な習慣があります。この年の黙想に出来る限り熱心に与り、古き人を棄てて、新しい人へ全く生まれかわり、キリストの復活祭を迎えることに年の黙想会の意義があります。こうしてこそ真のキリスト者となり、キリストの生きた証人となることが出来るのです。キリストの十字架上の死は、そのご復活の前提でありました。“キリストは、これらの苦難を受けて、光栄に入るはずではなかったか”(ルカ2426)。生活の苦しみ、古き自我を棄てて、新しい恩寵の人へと生まれかわる脱皮の苦しみ、それこそ復活へ向かう必須条件であります。

 

一粒の麦が花を咲かせ実を結ぶため、地に落ちて死なねばならぬ定めを与えられたその同じ神が、苦しみののち光栄に入られたように、私たちにも光栄の復活に至る道として日々の十字架をとって主の後に従うことを要求なさるのです。しかしその十字架も復活の信仰をもつものにとっては、希望と喜びのくびきであり、すばらしい人生を生きさせるものとなります。

 
 

カトリック教報 昭和5031日発行   途中コピー切れのため抜けがあります

 

司祭の召命と養成 野原 清

 

現今、司祭の召命の減少は世界的に悲しむべき状態にあります。これは教会にとって重大な問題です。この原因はどこにあるのでしょうか。それは、まず世界の世俗化にあります。そこでは技術、科学、経済などの進歩が法外にたたえられ、すべての種類の神聖な、あるいは宗教的な心性が弱められています。そして、合理主義は信仰を世俗の心性と近代的な世間の趣味とに適応させてしまっています。こういった雰囲気の中で司祭の召命を助長し、維持することは当然むずかしくなってきます。

 

また、司祭の独身制の問題、現代の批判精神、制度や権威に対する反抗精神などが、司祭職さえ危機に落とし入れています。しかし、こうした現代の冷たい現実において、司祭の召命は教会の希望であります。なぜなら司祭がいなければ、教会は生きることもキリストの福音を伝えることも、秘跡をもって人々を聖化し、救うこともできないからです。司祭の召命と養成は、教会全体に課せられた義務です。

 

司祭の召命

 

まず、司祭の召命ですが、その最初の苗床は家庭であります。司祭の召命は、しばしばお母さんのひざの上でつくられると言われます。また、そうした念願をこめた朝な夕なの家庭の祈りと努力が、子供の心をそのようにつくりあげていくことも考えなければなりません。それゆえ、家庭を召命が芽ばえる雰囲気にすることがたいせつです。【コピー切れ不明】わたしの司祭の召命の星も母の話に輝き始めました。

 

それは幼少のころ、ある晴れた日曜日の夕方、母はわたしに美しい天国の話を聞かせたあと「スータンを着た教会の神父さまになると、その美しい天国へすぐいけるのよ」と単純に結びました。これを聞いたわたしの小さい頭は「自分が美しい天国へいくためには、神父さまになるのがいちばんよいんだ」と結論したのです。これこそ、司祭職に対するわたしのあこがれの最初の芽ばえでした。家庭ばかりでなく小教区ぐるみの、司祭の召命のための積極的な協力もたいせつです。特に優秀な子どもたちを数多く神学校に送るように努めるとともに、司祭職に対する尊敬と物質的、精神的協力の精神を養うことです。なぜなら、尊敬されないもの、協力されないものに対して子どもたちは魅力を感じないからです。

                   
                   
                   
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