大阪教区司祭 畑田長吉

 
 

畑田長吉

第2次世界大戦前の話だが、隠れキリシタンの子孫は五島全島で約1万人いると聞いたことがある。昭和10年頃だったろうか。もちょっと後だったかもしれない。奈留島に山口福太郎という威勢のよい中年の神父がいて、隠れキリシタンの改宗に特別な意欲をそそぎ、それなりの成果を上げていた。

 

それは奈留教会にいたときである。その勢いを馳って同島の福見教会の主任になるや、猛烈な活動を展開した。その結果、私の記憶に誤りがなければ、約2百名の洗礼にこぎつけた。洗礼当日は五島各地から駆けつけた大勢の司祭によって洗礼が行われた。この慶事の報は早速ローマにも伝えられた。時の教皇ピオ十二世は大変お喜びになり、お祝いとして祭壇で使われる典礼用具一式を賜った。

 

しかし、ほんの数年後には山口師の転任と共に、受洗者の半数が元の「隠れ」に戻ってしまった。ということは彼らにとっては、まだ山口師個人の情熱と魅力が必要だったといえるのではないだろうか。考えさせられることだと思う。なるほど信仰そのものは確かに霊的な次元に属してはいるが、やはり人間との関わり(影響、指導など)で成長もし消滅したりすることもありえるといいたいのである。1960年代に巡回教会が統廃合されるまでは地図をご覧になるとお分かりの通り、5箇所に教会があった。

 

小さな島なのに5箇所とは驚かれる向きもあろう。それには主に二つわけがあったと私は思う。外海からの移住信徒は自然と親戚や友人だけが固まって同じ地域に住みついた。それが5箇所だったから期せずして、5つのカトリック集落ができたわけである。信者はみな子沢山であったから各集落の信徒数は670人から百数十人までいた。もう一つの理由は赤仁田以外はすべて山と崖ばかりで、現代でさえまともに自転車も乗れない所ばかりである。

 

だからそれだけの教会が必要だったのであるが、1940年代から60年代初めにかけて、島民の大半が国内外に移住して行った。細石流、永里などは一人か二人の信徒しか残っていない。他の集落とて同様で、島全体でも70人に満たないのではないだろうかと甥が話していた。現在、浜脇と牢屋の窄、五輪の三箇所が福江教会の巡回教会として命脈を保っている有様である。これが終戦後の一時期、千5百名もいた小教区の姿かと思うと、有為転変は世のならいとはいえ、ただただ唖然として言葉を失う。
 

けれども、かつての巡回教会地区から、大勢のシスターと司祭が輩出したことを私は誇りを持って報告できることを喜びとするものである。シスターは実に150名になんなんとする。司祭は私の知るかぎり細石流地区から3名、永里地区から2名、五輪地区から3名、赤仁田地区から2名、浜脇地区から3名、計13名。内浜脇の脇田師は横浜教区の司教であった。

 

また司祭の内訳はマリア会1、神言会1、広島教区1、大阪教区2、聖母の騎士(コンベンツアル聖フランシスコ修道会)1あとは長崎教区である。なお、浜脇出身の中村修道士は聖母の騎士であるが、聖コルベと起居を共にした唯一の日本人修道士である。聖人のことを知りたい人は長崎にいく機会があったら、彼を訪ねられるがよい。

 

ちなみに写真の著者、丸尾武雄師は私と同年であるが、数年前に引退して浦上の大司教館に居住しているとか。赤仁田教会出身である。同教会出身の畑田長吉師は大阪教区であった。彼は頭脳明晰だったから、田口司教に抜擢されて聖書研究のためローマに留学したが、後、同じ目的でドイツに移り、1970年代にボンで倒れ、ケルンに居を移していたが、そこで心筋梗塞でなくなったと聞く。真に惜しい人材であった。

 

彼はわれ等が敬愛する和田神父にとって聖書学の先輩である。私は畑田師がなくなる数年前の1969年にボンの彼を訪ね12年ぶりの再会を喜び合ったことを思い出す。彼の生家は牢屋の窄から百メートルほどのところにある。昭和3・4年頃だったろうか。

 

長吉少年の姉、愛子さんが小学校から岐路に着いたときのことである。―小学区は地図の中央、久賀という文字の上、星印のところにあった―入江を右に回りかけた地点に「ホトッカ」というところがあるが、そこまできたとき急に猛烈な夕立が降りだした。思わず愛子さんは駆け出したが、何者かに遮られて止まった。大きな番傘が頭の上に音を立てていた。美しい雨よけの被いをした高下駄を履いた女性が、彼女に寄り添っていた。

当時3年生ぐらいだった愛子さんは恥ずかしくてただ足元を見ながら歩いた。双方とも一言も喋らなかった。こうして婦人は家の入口まで愛子さんを送り届けると忽然として姿を消した。愛子さんは全く濡れていなかった。土間でワラ仕事をしていた両親は驚いて雨の中を飛びでして、婦人を探したがどこにもいなかった。 
 
 この話は一応当時の主任司祭、清水佐太郎神父に報告されたが、迷信じみた話だといわれるから黙っているようにと口留めされたという。シスター畑田愛子は私の一クラス上級生だったが、どこかで今でも健在だと思う。1970年の第1回牢屋の窄殉教百周年には彼女も来ていたそうだが、私は会えなかった。長吉神父が居なくて淋しかったと思う。牢屋の窄に巡礼される方は、こういう秘話を思い起こされると、いっそう興味が湧くだろうと思い、あえて記録に留めておいた次第である。
 
  
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