中山利喜太郎師

 
 

ルルドの祝日に

中山利喜太郎

昭和4521

 

一、公会議がなければよかったのに東京でのことである。小学6年の生徒が、ある日、宗教上の質問を抱えてやってきた。部屋に招じ入れる。何か不安そうな様子をしている。しかし小学生は単純だ。疑問に思っていることをボスボス出してくれる。しばらく話し合っている中、子供の結論が出た。「バチカン公会議がなければよかったのに!」ということである。子供に言わせると「公会議があったため、好きな聖歌『あめの后、天の門』が歌えなくなった。残念で、しょうがないから本当かどうかを問いただしに来た」というのである。

 

こちらもびっくりして、誰がそんなことを言い出したのかと問い返してみると、友達のA君だと言う。A君の家でなされた話では、これからバチカン公会議の決定でルルドの信心が亡びるから「あめの后」の聖歌も歌えなくなるとのことである。A君が、その話の内容を学校へもってきて、そのままバラまいてしまったからたまらない。このデマを耳にして、はねかえしが出来なくなるのは6年生では是非ないことである。この生徒の質疑を解き終り、「あめの后」の聖歌はジャンジャン歌い続けられるよと安心させて帰してやった。

 

今年もまたルルドの聖母の祝日が近づいてくると、あの残念そうな表情と疑問が解けて朗らかにになった姿が今更ながら思い出されてくる。そして自問してみる。一体、バチカン公会議はマリアの信心、例えばルルドの聖母への信心などを亡ぼすような議決でもしたのであろうか。 確かに教皇ヨハネ二十三世は第2バチカン公会議を開催するにあたって、「現代世界は大きく変動しているから、教会の状態をよく知り、現代人が理解できる方法で、教会の教えを伝えなければならないとのべ、「信仰の真理」とその「表現形式」とを区別するようにと力説し、信仰の真理を変えることなく、新しい表現形式によって表わし、教会の現代化をはからなければならないと説いた。

 

二 公会議があってよかった。公会議を笠にきて、カトリック教会の信仰の真理までも変えねば気が済まない人がいたとしたら、彼らは公会議の精神を踏みにじるものである。第2バチカン公会議は「マリアの憲章」で、なんら新しい教義を与えようとはしなかった。ただ、教会が置かれている現代という特殊な時点に立って、現代のキリスト者という観点から、教会が常に教えてきたマリアに関する教理を体系的に示したに過ぎない。従って、マリア神学(マリアロジア)の量における発展には何ら寄与していないといえる。しかし、マリア神学を聖書、教父論、典礼論において解明しているところに、この「憲章」がマリア神学の質における発展に寄与していることが認められる。従って教会がマリアに関する教理、即ち聖母の無原罪の御やどりを崇め、マリアの仲介をへて祈り、悲しみの聖母を偲んで贖罪的苦業に精出すことを勧めるルルドの聖母信心それ自体には何ら変わりもないはずである。

 

三、超自然を感知する聖地。しかし、公会議の精神に従えば、マリア信心の中にも必要ならば、新しい表現形式が取り入れられなければならないであろう。ルルドに巡礼すると、高潮のような巡礼の大群集が、かっては何の見栄えもしなかった洞窟の前に押し寄せるのを見ることが出来る。また荘厳、人の目を奪う大行列が冬季を除いて連日相続き、大河の流れにも似た抗し難い祈りと償いの熱狂的催しがあの聖地を舞台として花やかに繰り広げられる場面にもでっくわする。ルルドを訪れれば誰でも超自然を感知する。

 

ルルドは不信の黒雲に被われた現代において信仰の勝利をたたえる喜びのラッパが高らかに吹奏される聖地である。ルルドの聖母に対する信心の表現形式は私たち日本人のセンスからすると時には奇異に感じられることがあるが、しかし、それは各民族がそれぞれの宗教的心情を吐露する際の伝統的慣習にもよるもので、何ら非難されるべきものでもない。万一、教会一致運動の不都合をもたらす恐れがあるならば、当然、表現形式を変えなければならないであろう。そこにこそ第二バチカンの精神がある。

 

四、少女ベルナデッタの追想

百四年前のその日の朝は明けた。ベルナデッタは同じ日の正午頃になると聖母マリアの御出現の恵みに浴するなどとは思っても見なかったであろう。211日の昼、ス-プの準備に取り掛かった少女は薪のないのに気が付いた。やがてピレネ-頭巾をかぶって戸外へ出た。教会の前の商人から買った白頭巾だった。あちこちとつぎはぎがしてあった。妹の証言によると何度も洗濯したものだった。マッサピエールの洞窟に薪拾いに急ぐ途中の橋下でピグノという老女が洗濯をしていた。「ベルナデッタちゃん、この寒さにどこへ行くの」「まきさがしに。」「まきだったらラフィットさんの牧場に行ったらいいよ。あの人は木を切り倒していたから、あそこに行けばいくらでも見つかるよ」しかしベルナデッタは盗人にならないようにと心を正して、老女の勧めには応じないで、自分のために引かれた摂理の一筋道を歩いて行った。

 

この少女の心根はなんと見事であろう。薪がないのを最初に感づいたのは彼女だった。いわしを買ってきて家族の者を喜ばせようと考え出したのもベルナデッタだった。岸辺に流れ着いた枯れ木を拾って貧しい母の苦しみを和らげたのも彼女。木靴をはき薪籠を背負った貧しい少女。みじめに見える日々の務め、目にも見えない日々の十字架、それを担って示現へ、奇蹟へ、そして栄光の線を越えたのである。ルルドの聖母の出現の祝日は今年もまたそこに盛られた教訓を黙想する者に多くの実を実らせながら過ぎていく。

(マリア会司祭・海星学園)

 
 

永遠の微笑を求めて

中山利喜太郎  

昭和45年(197041日 カトリック教報

 

1、喜びの母  過越の神秘を称える喜びの日が巡ってきた。バチカン公会議は典礼を通して、この季節中、マリアと共に喜ぶことを勧めている。「神と和解した人類はマリアにおいて主の喜びに入って」いく。「教会の本質はキリストとの神秘的一致の中において見出でされるが、この一致の最高のモデルはマリアである。」(教会憲章63)教会がキリストの復活を喜び歌う時、それは最高のモデル、マリアの喜びのこだまを反響させているようにも聞こえる。喜悦の季節に喜びについて念じてみる。 

 

2、喜びの効果  ドイツの学者ウェーベルが1905年ものにした書の中に次のような一節がある。「喜びと希望がある時、呼吸は自由になってくる。血液の循環も順調になってくる。神経細胞の栄養もよくなる。喜びは生理学的に見ても心理学的に見ても、体操をやった後のようなさわやかな結果を生じる。喜びは肺を膨張させ、心臓の鼓動を容易にしてくれる。喜びは山上の清い空気が衰弱した体に及ぼすのとほとんど同じ結果をもたらしてくれる。喜びは体全体を元気づけてくれるし、病気を遠ざけ、近づいている危険を追い払ってもくれる。喜びは私たちの生理的、精神的生活においてオゾンの役目を果たしてくれる」と言うのである。ウェーベルはその実例として新大陸発見に向かったコロンブスの水夫たちを挙げている。

 

149283日、パロス港を出帆して、予定航路の半分以上も進んだ探検隊は、更に前進して、もし島がなかったとしたら、帰路の食糧が欠乏して絶望の状態に追い込まれるのは必定であった。水夫たちの連日の生活は力つきなえ果てつつあった。思い余った彼らはコロンブスに迫り探検を中止して帰途につかせようとし、それがかなえられない場合は反乱さえも辞さない状態に立ちいたっていた。そのような一日が暮れようとしていた時、緑滴るサッサフラン(月桂樹の一種)の小枝が船べりに流れ着いた。この枝を拾い取った水夫たちは新しい島への希望に燃えながら勇気百倍、ついに1012日にルカイエス群島に上陸したのである。

 

18世紀のアンブロワーズ・ロンベ-は「霊の喜び」と言う著作の中で、ウェーベルと同じことを説いている。「喜びは俗事におけると同様に修徳の為にも必要である。もし君が喜びを心に持つならば、君の精神は更に透き通り、君の思いは更に明白で、想像は一層活発で、信心はなおやさしく、徳は犠牲を前にしてもひるむことはないであろう」ゲーテは「喜びはすべての徳の母」と書いた。ファーベルは「喜びは英雄的得を養う為の自然的雰囲気である」と断言した。

 

3、自然的喜び 少年イエズスに取って、ナザレットの自然を嘆賞することはどんなにか大きな喜びであったろう。ナザレットの山と川と雲、ブドウとイチジク、明日の心配を知らないで、枝から枝へと飛び交う小鳥、めんどりと雛、白百合の美しさ、からしだね、ヨルダンの川風に吹かれるあし、海底に隠れた真珠、鳩の単純さ、蛇の賢しこさ、地に落ちて腐さる麦粒。いづれも将来神の国の比喩として使われるものばかりである。キリストは私たちの喜びの敵ではない。カナの婚宴の酒はキリストによってこそなみなみと注がれた。 

 

 4、超自然の喜び 神の恩恵に満たされたマリアは「私の魂は主を崇め、私の精神は救い主である神によって喜びおどっています」(ルカ146)と溢れる喜びを歌う日があった。 神の人聖フランシスコ・アシジオは悲しみを「バビロンの病」と呼んで遠ざけた。聖スタニスラオは悲しみを「第八の罪源」と言って嫌ったという。 

 

キリストの精神を持つ者は原生的悩みの中にあっても、又どんなに烈しい苦業に身をゆだねても顔に床しい微笑が漂っている。聖化されると言うことは、神のうちに汲まれた超自然的生命を持つと言うことである。聖化された生活とは神との一致によって、地上の生命から一段と高められた生活活動をなすことである。この一致の生命は地上では不完全であり、地上の種々の条件で限りがつけられてはいるが、しかし、天国の幸福、永遠の栄光に現実的に参加することである。

 

 従って、聖者すなわち[内的生命]によって生き、「内的精神」の旺盛なカトリック信者は、内心から湧き出る喜びを味わうのである。そこにあのお優しさがあり、尽きない床しさがあり、静寂で機嫌に揺り動かされない顔付、絶えない微笑が宿る。これこそが「全き朗らかさ」であって、この超自然的朗らかさが永続し習慣になって、私たちの生命を包んでしまうとここに青い空、ほほ笑む心の空が現われ、それが視線に相貌に変容してしまい、その心的喜びの香りをそのまま隣人に振りまいていく。このような不思議な能力、永遠に微笑み続け得る能力が、私たちの胸に宿っているのである。連日があまりにも悩み多い世だからこそ、秘められた宝に目を向けてみた。

 
 

永遠の微笑を求めて

中山利喜太郎  

昭和45年(197041日 カトリック教報

 

1、喜びの母  過越の神秘を称える喜びの日が巡ってきた。バチカン公会議は典礼を通して、この季節中、マリアと共に喜ぶことを勧めている。「神と和解した人類はマリアにおいて主の喜びに入って」いく。「教会の本質はキリストとの神秘的一致の中において見出でされるが、この一致の最高のモデルはマリアである。」(教会憲章63)教会がキリストの復活を喜び歌う時、それは最高のモデル、マリアの喜びのこだまを反響させているようにも聞こえる。喜悦の季節に喜びについて念じてみる。 

 

2、喜びの効果  ドイツの学者ウェーベルが1905年ものにした書の中に次のような一節がある。「喜びと希望がある時、呼吸は自由になってくる。血液の循環も順調になってくる。神経細胞の栄養もよくなる。喜びは生理学的に見ても心理学的に見ても、体操をやった後のようなさわやかな結果を生じる。喜びは肺を膨張させ、心臓の鼓動を容易にしてくれる。喜びは山上の清い空気が衰弱した体に及ぼすのとほとんど同じ結果をもたらしてくれる。喜びは体全体を元気づけてくれるし、病気を遠ざけ、近づいている危険を追い払ってもくれる。喜びは私たちの生理的、精神的生活においてオゾンの役目を果たしてくれる」と言うのである。ウェーベルはその実例として新大陸発見に向かったコロンブスの水夫たちを挙げている。

 

149283日、パロス港を出帆して、予定航路の半分以上も進んだ探検隊は、更に前進して、もし島がなかったとしたら、帰路の食糧が欠乏して絶望の状態に追い込まれるのは必定であった。水夫たちの連日の生活は力つきなえ果てつつあった。思い余った彼らはコロンブスに迫り探検を中止して帰途につかせようとし、それがかなえられない場合は反乱さえも辞さない状態に立ちいたっていた。そのような一日が暮れようとしていた時、緑滴るサッサフラン(月桂樹の一種)の小枝が船べりに流れ着いた。この枝を拾い取った水夫たちは新しい島への希望に燃えながら勇気百倍、ついに1012日にルカイエス群島に上陸したのである。

 

18世紀のアンブロワーズ・ロンベ-は「霊の喜び」と言う著作の中で、ウェーベルと同じことを説いている。「喜びは俗事におけると同様に修徳の為にも必要である。もし君が喜びを心に持つならば、君の精神は更に透き通り、君の思いは更に明白で、想像は一層活発で、信心はなおやさしく、徳は犠牲を前にしてもひるむことはないであろう」ゲーテは「喜びはすべての徳の母」と書いた。ファーベルは「喜びは英雄的得を養う為の自然的雰囲気である」と断言した。

 

3、自然的喜び 少年イエズスに取って、ナザレットの自然を嘆賞することはどんなにか大きな喜びであったろう。ナザレットの山と川と雲、ブドウとイチジク、明日の心配を知らないで、枝から枝へと飛び交う小鳥、めんどりと雛、白百合の美しさ、からしだね、ヨルダンの川風に吹かれるあし、海底に隠れた真珠、鳩の単純さ、蛇の賢しこさ、地に落ちて腐さる麦粒。いづれも将来神の国の比喩として使われるものばかりである。キリストは私たちの喜びの敵ではない。カナの婚宴の酒はキリストによってこそなみなみと注がれた。 

 

 4、超自然の喜び 神の恩恵に満たされたマリアは「私の魂は主を崇め、私の精神は救い主である神によって喜びおどっています」(ルカ146)と溢れる喜びを歌う日があった。 神の人聖フランシスコ・アシジオは悲しみを「バビロンの病」と呼んで遠ざけた。聖スタニスラオは悲しみを「第八の罪源」と言って嫌ったという。 

 

キリストの精神を持つ者は原生的悩みの中にあっても、又どんなに烈しい苦業に身をゆだねても顔に床しい微笑が漂っている。聖化されると言うことは、神のうちに汲まれた超自然的生命を持つと言うことである。聖化された生活とは神との一致によって、地上の生命から一段と高められた生活活動をなすことである。この一致の生命は地上では不完全であり、地上の種々の条件で限りがつけられてはいるが、しかし、天国の幸福、永遠の栄光に現実的に参加することである。

 

 従って、聖者すなわち[内的生命]によって生き、「内的精神」の旺盛なカトリック信者は、内心から湧き出る喜びを味わうのである。そこにあのお優しさがあり、尽きない床しさがあり、静寂で機嫌に揺り動かされない顔付、絶えない微笑が宿る。これこそが「全き朗らかさ」であって、この超自然的朗らかさが永続し習慣になって、私たちの生命を包んでしまうとここに青い空、ほほ笑む心の空が現われ、それが視線に相貌に変容してしまい、その心的喜びの香りをそのまま隣人に振りまいていく。このような不思議な能力、永遠に微笑み続け得る能力が、私たちの胸に宿っているのである。連日があまりにも悩み多い世だからこそ、秘められた宝に目を向けてみた。
 
 

母と子  中山利喜太郎

昭和45年(197051

 

1、母だから  或る日のことであった。ナポレオン大帝がお付武官を引き具して、散策を楽しみながら橋のたもとに差し掛かった。折しも橋の向側では物乞いの女が子供連れで同じ橋を渡ろうとしていた。お付の者はいやに緊張した。だがナポレオンは極めて穏やかな表情で物乞いの女に目配せして、まず橋を渡るようにと差し招いた。女は応じた。武官たちの心は穏やかではない。ややあって皇帝に尋ねた。「皇帝陛下でいらっしゃるお方が、ただの物乞いに道をお譲りになるとは?」ナポレオンは

即座に答えた。「彼女は母だからね!」ナポレオンは母を慕った皇帝として有名である。

 

皇帝の母レチシアは名もない家庭に成長して、ボナパルト言う18歳の青年に嫁いだ。夫が他界した時、レチシアは32歳、すでに13人の子女を抱えていた。夫の遺産は数匹の羊と牛と僅かなブドウ畑だけだった。このような頼りない身でありながら艱難辛苦して女の手一つで13人の子供を養育し、数年後には一足飛びに天下の第1位にのぼった。その子供の中ナポレオンはフランスの皇帝となり、他の3人の兄弟も列国の皇帝となり、4人の娘は皆侯爵夫人となった。ナポレオンは常に母に対する

畏敬と慕情の念に燃え、母である女は誰でも崇め尊びたい心に満たされていたという。

 

2、子の道  母がいたからこそ私たちには生命が伝えられた。私の母がいなかったらこの私は存在しなかったであろうと思うと、存在の神秘は母を巡って、果てしない床しさを醸し出してくる。 さて、母ほどの母であっても子供の安産を祈ると言われる。之は弱い人間が強力なものに頼って子供を守ろうとする心情に由来している。裏を返せば人間は生まれ出る前から神聖なものに託される運命を持っていたともいえる。子供は誕生以前に[神]に奉献される幸せを恵まれたことになる。母は生まれた子供の養育と教育を始める。

 

養育の面で母は子供を餓えと渇きと病気と痛みから守る。昼も夜も子供の体の敵に対して戦うのである。幾度かの徹夜もあったであろう。その結果、私達は母親に対して永遠の負債を負うことになる。アメリカの社会学者が言うとおり、子供の生後2ヶ年間にわたって、母が果たし終えた仕事に対しては、その子は一生かかってもご恩返しは出来ない。時間的には可能であろうが、心理的には不可能と言うのである。教育は子供がアダムの子孫として原罪をもって生まれてきているために必要である。子供の瞳は見た目には失った楽園を思い出させるほど澄み切って魅力あるものであるが、それでも奥を探れば罪悪の濁りを秘めている。

 

子供の精神は生まれながら錆びついているから、叩き直さなければならない。その最初の教育を母がやり出すのである。私たちの精神は無知の暗黒に取り残されることが出来たのに、その精神の暗闇に灯をともしてくれた人がいた。母である。「母!私が胸の上に憩ったあの母!あの母の乳房に縋りながら私はイエズスのあの優しくもうましいみ名を吸い取った!」とはアフリカの聖なる哲学者の言葉である。私たちの良心も母によって守られた。母から「それはいけない」と一こと言われれば、私たちの良心は打ち震えていたではなかったか。私たちの唇は、人と物語る道を母から教えられたと同様、神と物語る道もまた母から教えられた。

 

母の愛は子供へ伸びてゆく、自己の延長である子供への愛は、報酬を願わず、死よりも強く、寛大で、半ば全能力的なものとなり、慈悲に溢れ万事を見抜く性質を伴っている。子供の心理生活が目覚めだすと、子供は自分の母は自分の為だけであるという経験を持つようになる。「母と世界を天秤にかけると母が重い」と言う心理体験は子供だけの体験である。

 

子供は成長するにつれて、なぜ母がそのようなものであるかが分り、この本能と理性から孝愛と言う名称のもとに締めくくられるある種の感情が生まれてくる。従属、尊敬、従順、率直、愛情、信頼、感謝、模倣などの芽生えがそれである。人間は生涯において孝愛よりも強烈な感情を戴くことがあるのであろうが、しかし孝愛ほど純で利害関係を離れ、永続的で平和に満ちた高尚な感情は持ち得ないであろう。真の愛はすべて神から生まれると言われるが、母性愛と孝愛ぐらいその起原において神から生まれたという性質を持つ愛はない。

 

3、五月の聖母  バチカン公会議はマリアを「神の母」、「キリストの母」として又「人々特に信者の母」として崇めることを人々に勧めている。(教会憲章54)「教会が許可した神の母に対する信心の種々の形式は、母がたたえられることによって、子キリストが正しく知られ、愛されるようにするためである。」(同上66)従って、マリアへの信心はただマリアに留まる信心ではない。常にキリスト中心の信心でなければならない。五月の聖母月中、「聖霊の教えの下に最も愛すべき母として孝愛の心をもってマリアを慕う」(同上53)のは疑いなく公会議の時からマリアに対する神の民の崇敬は素晴らしい発展を遂げ、尊敬と愛と祈りと模倣となって表れるようになった(同上66)ことはまことに喜ばしい限りである。万事が花やかに進歩する時代に聖母信心のみを後世へ取り残すことになれば残念である。

 
 

教会の教え再点検   

朝山宗路 神父   2010年(平成22815日)カトリック教報   

【マリア様への崇敬は公会議後、後退した?  第2バチカン公会議以降、マリア様に対する崇敬が後退したように思うのですが、どうしてでしょうか? 教会で天使祝詞を唱えたり、ロザリオの祈りをする習慣もなくなってきているように思えるのですが。】

 

2バチカン公会議以降、マリアに対する崇敬心が以前に比べて後退したと言われています。果たしてそうなのでしょうか。ある学者が言うように、確かに統計上から見ると、公会議以降、一度はマリアに関する出版物の数が低下したと言われています。しかしこの下降傾向はやがて回復し歴代教皇の回勅にも刺激されて、今は以前と同じように回復しているそうです。或る人は、このように公会議以降、マリアに対する関心が低下したのは、教会が教える神学の中で、聖母マリアの占める位置と役割が変化したからだと言います。

 

キリスト中心主義の見方こそ、真のキリスト教神学の在り方であると主張し、人間に過ぎない聖母マリアを崇敬することは間違っていると言われた時代もありました。  キリストを信じる者の母  神と人との間を仲介し、 人祖による堕罪の状態を回復したのは、十字架の血によって人類の罪をあがなったキリストであったことは確かです。だからその信仰の中心にキリストを置くことは正しいことです。

 

しかし今、もしもキリスト中心主義を強調するあまり、聖母マリアを忘れたら、救霊の秘儀をどのように理解すれば良いのでしょうか。真の神であり、真の人間であるイエス・キリストによって成し遂げられた救霊の秘儀、これは永遠絶対なる神のご計画ではなかったのでしょうか。そしてこの神のご計画の中に、キリストの母としてのマリアの位置と役割が、永遠に定められていると言えるでしょう。  

 

確かに聖母マリアは人間であり、神ではありません。だから聖母に祈ることは神を冒瀆することだと考える人がいるのかもしれません。しかし聖母マリアが真の人間であったからこそ、マリアを母親としてこの世にお生まれになった神の子イエス・キリストを信じるすべての者にとって、救霊の秘儀の中で占める聖母マリアの役割を軽々しく取り扱う事は許されないはずです。事実、聖母マリアを抜きにして人類の救霊はあり得なかったからです。

 

教会は、聖母マリアを「神の母」と宣言します。聖書を見れば、マリアを「主のお母様」と最初に公言したのは、洗礼者ヨハネの母親、エリザベットであったと記されています(ルカ143)。ここで言う「主」と「神」は同義語であると考えていいでしょう。しかも第2バチカンの公文書『教会憲章』は「『婦人よ、これがあなたの子です』…‧という言葉をもって、マリアは母として弟子に与えられた」(58)と記しています。つまり、聖母マリアは神の母であると同時に、私たちキリストを信じる者たちの母でもあるのです。

 
 

マリア会 中山利喜太郎 信仰の碑 牢屋の窄殉教百年祭 記念誌  発行 昭和447月  

百年祭に思う  中山利喜太郎

花と実との間には不可思議な関係がある。花が咲き乱れている間は、どれほど時間を与えても、実は結ばない。しかし、一たび花びらが地上に落ちて腐敗し、その香りが四散してしまうと、たちまち新しい存在としての実が現われてくる。久賀島にカトリックの信仰の花が咲き始めてからすでに幾星霜けみしたか知れない。

 

その間、島の信者達は、各自、信仰の花に善徳の実を結ばせて、永遠の世界へ移り、神のみ心を喜ばせ奉った。 今日、百年祭でその栄光がたたえられる「牢屋の窄」の殉教者たちは、あの困難な日に、信仰の花を見事に咲かせ、愛徳と犠牲の徳の実を最も豊かに収穫した英雄たちである。しかし、その信仰の花は栄光の実りを見る前に花びらの運命を辿らねばならなかった。「牢屋の窄」こそは祖先の信仰の花びらが、殉教という刄のもとに、あかあかと散った場所であり、神への愛が豊かに結実した聖地である。

 

200名もの人たちが、わずか6坪の小屋に押し込められた「牢屋の窄」の跡に佇むと、むごたらしい責め苦に最後まで耐え抜いたあの殉教者たちの雄々しい心根が偲ばれ共にその痛ましさに胸が引き裂かれそうになってくる、しかも、が頑是ない幼子までが、生命にかけて、デウス以外は何物をも礼拝せぬと堅い決意に程を示したその凛々しさに思わず涙ぐまされる。彼らの中の39名は「牢屋」で昇天した。その壮烈な死は、一切を浄め、一切を照らしながら歴史の存する限り語り伝えられるであろう。百年祭を祝う今日こそは、島に生まれ、島に育ち、島に住み、さらに島を故郷の持つすべての信者達に、喜びと反省の機会を与えてくれる恵みの日である。 

五島キリシタン賛歌

 

1 にわかにとよむ 久賀の海 捕えられたる 二百余名

牢につながれ  足げにされし われらが祖先 五島キリシタン

2 火責め水責め 何おそれん まことのみ神 われにあれば

力たまえと 主に祈りし われらが祖先 五島キリシタン

3 みあとしたいて われはゆくと 誓う心は 火ともゆれど

飢えに 寒さに 命細る われらが祖先 五島キリシタン

4 昨日は助一 今日はタセ 明日はわが身か 殉教の

心定めて 祈り祈りし われらが祖先 五島キリシタン

5 東の空 光さして 嵐去りにし 島の夕べ

お告げの鐘に 祈りささげし われらが祖先 五島キリシタン 


  
   


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