牢屋の窄殉教130年祭

 
 

牢屋の窄殉教祭ミサ説教

「松ケ浦牢屋」殉教130周年を迎えて、大山教会丸尾武雄

 

私たちは今、130年前、先祖たちが血と涙と汗と、迫害の多くの苦難に耐え、生命をかけて信仰のあかしをした尊い土地に立っています。先祖たちの信仰のあかしが染み込んでいる土地に立っているのです。

 

先祖たちは1587年、秀吉が禁教令を発布し宣教師を追放してから270余年の間、パパ様から派遣される宣教師の到来を今日か明日かと待ちに待っていたのです。

日本から宣教師が追放されてから278年目に、長崎に大浦天主堂が建てられ、宣教師が到来したことが知らされると、先祖たちは先を争って長崎に至り、大浦天主堂の門をたたき、宣教師と会い、教えを受け、ミサ聖祭に参加し、秘跡を受け、喜びと希望に満たされて島に帰って来て、宣教師の到来の喜びを皆に伝えています。

 

私たちは今日、先祖の殉教地で、パパ様のご名代のアンブローズ・デ・パオリ大司教さまを迎え、島本大司教さま、司祭方、修道者、信徒の皆さんと一緒に先祖の勲をたたえ、主なる神さまに賛美と感謝をささげることが出来るのは、子孫である私たちにとって大きな喜びであり誉れでもあります。

 

先祖たちが宣教師の到来を知り、教えを受け、秘跡を受けて喜びと希望に満たされたのも束の間、明治元年の大迫害となったのです。私たちの先祖が、西彼杵の外海地方からこの地に移住してきてから70年目のことです。

 

私たちの先祖は外海から、とだれしも知っています。先祖はどうして本土の広い外海地方から、この辺ぴな五島の島々に、しかも、島々の中でももっとも辺ぴな島の端に移り住んだのでしょうか。それは迫害を逃れて、あるいは生活の安定を求めて、と言われる人々もいます。迫害なら外海も五島も変わることはない。かえって中央から遠く離れている五島の方が野卑で残虐であったかもしれない。

 

生活の安定を求めて、五島まで多くの苦難と危険を侵してまで移り住んだとは思われない。五島の牛の背の広さぐらいの断崖の上で、石ころだらけの土地よりも、広い外海の土地の方が生活の安定はあったでしょう。先祖がこの五島まで生命の危険を侵してまで移住して来たのは、神さまの教えに従って生活が出来る所を求めてきたのです。当時、外海地方の大村藩では生まれてくる子供は長男だけを生かして、その他の二男、三男は殺さねばならなかったのです。かくれて育てても、毎年、人別改めの時、捜し出され、殺すか殺されるかであったのです。

 

もし、それを逃れたとしても戸籍には入籍できないし、無籍者、日陰者ととして生涯を送らねばならなかったのです。「わが子を殺す」という神のおきてに背くことは、キリシタンにとって耐えられない問題であったのです。このような苦難の中にあった時、1797年、第28代五島侯盛運は大村領主純伊侯に山林開墾のため住民の移住を願っています。そこで大村藩所属西彼杵の外海地方のキリシタン108人が、第1回目の移住民として、いわゆる政治的な交渉によって、福江島の平蔵、黒蔵、楠原の平らな裕福な土地に移住しています。この第1回目のキリシタンに移住民が、外海にいるキリシタンたちに「五島では子供の数の制限はなく、何人でも育てることができるし、迫害もそれほど厳しくない」と伝えたのです。

 

これを知った外海のキリシタンたちは、わが子を殺さなくてもよい、子供の数の制限のない五島へ五島へと逃げるがごとく、危険を侵してまでも渡って行ったのです。それで、最初に移住した先祖たちは生活は苦しくても子供の数が制限されず、ひそかであっても信仰が守られたことは、大きな喜びであったと伝えられています。

 

次に明治元年の迫害は久賀島からといわれています。迫害といえば、隠れてひそかに信仰を守っていたキリシタンたちが、暴き出されて迫害を受けるというのが普通考えられています。先祖たちの迫害はそれとは違っていたのです。先祖たちの迫害はそれとは違っていたのです。先祖たちの代表たちが長崎に行き、宣教師と会い、教えを受けて帰ってくるや、彼らは他のキリシタンたちと話し合い、宣教師の教えに従って他の宗教のものすべてを焼き捨て、先祖たちは自分たちの方から「私たちは、今からキリストの教えに従ってだけ信仰を守っていきます。

 

他の宗教の定めは一切お断りいたします」と宣言し、これを書面にしたため、代官日高藤一に提出したのが迫害の発端となったのです。即ち、先祖の自発的な「信仰宣教」が迫害の火種となったのです。そのため、他所よりも迫害は厳しく残酷を極めています。多くの責苦があった中で、他に類のない残酷な責苦、それは「松ケ浦牢屋の責苦」です。6坪(約20平方メートル)程の狭い牢の中に240人、250人もの人々が大人も子供もその中に押し込められ、身動きもできず、競り上げられ、足は地につかず、座ることも、横になることも、眠ることもできず、食べ物は朝と夕べに小さなサツマイモ一切れずつ、それも子供をもつ親は、飢えに泣き叫ぶ子供に奪われ、親の口に入ることはなかった。寒い冬の毎日を着の身着のまま、非衛生的な牢の中で8カ月間も強いられていたのです。飢えと寒さと牢自体の拷問によって、8カ月の間に42人もの生命が信仰のあかしとして神にささげられていったのです。

 

 

私たちの先祖がこれほどの残酷な迫害に遭いながらも、1人の落後者も出ないで最後まで信仰のあかしをなしたのは、神の助け、支え、導きによるものです。神の支えなしには到底できることではない。

 

子供としての私たちが今なさなければならないことは、先祖を助け、支え、導いてこられ、信仰の恵みを私たち子孫に伝えてくださった父と子と聖霊のあふれる慈しみに対して、心から感謝と賛美の生活をささげることではないでしょうか。130年前の先祖のこの地における信仰のあかしは単なる過去の歴史ではないのです。今私たちがその信仰のあかしを生きることです。

 

「神の恩恵に支えられた先祖の旅路」カトリック大山教会丸尾武雄

あとがき

「ゼズス様の五つの傷に対して祈らねばならない」

これは、8歳だった「マリアさも」の辞世の句である。「松ケ浦の狭い牢屋」の中で、飢えと寒さと非衛生的な弾圧の中にあって、この祈りと共に自分の身も心も生命をも、静かに主に奉献して逝ったことは一つの神秘である。

中村市蔵とつよは、つぎつぎと、たき10歳、さも8才、もよ5歳の3名の我が子の死を牢中で体験している。母親つよは、後になって娘らの臨終を語る毎にあふれ落ちる涙と共に「今こそ思い出しては、涙もこぼし泣きもしますが、その当時は親も子も決して泣いたり悲しんだりしませんでした」と。

 

想像を絶する残酷な拷問の中で、聖母の取次ぎと神の助けを求めながら、主に仕え信仰を守り通し、子孫に伝えて来られたことは、神の助け、支え、導きなしには出来ることではない。

 

私たちの子孫は、多くの書籍、言い伝え等を通して、自分たちの先祖の信仰の旅路を知っている。そして先祖の信仰をたたえ、感謝し、「きびしい迫害に耐えた殉教者」の子孫としての誇りさえもっている。私たちの子孫が最先にしなければならないことは、神の溢れるいつくしみによって、私たちの先祖を助け、支え、導いて下さった主なる神に対して、すべての生活の中で、賛美と感謝を捧げて行かなければならないと思う。

 

主なる神の助け導きなしには、私たちの先祖の信仰の旅路は失敗していたであろう。先祖が神の恩恵を受け入れ、それに応えて信仰の旅路を続けてくれたことのすばらしさを忘れてはならない。私たちの子孫は、今私たちが体験しているように、神の恩恵を受け入れて、これに応えて旅路を続けなかった先祖の子孫が、どうなっているかを一つの証しとして見せられている。

 

子の書は、先祖の信仰の旅路を大筋だけ簡単に記している。主なる神が先祖になされた偉大なみ業に対して感謝し、賛美を捧げるための一助となれば幸いである。カトリック大山教会にて丸尾武雄

 




  
   
inserted by FC2 system