迫害と殉教

 
 

教報 昭和六年五月十五日

 

◎久賀島の切支丹物語(1)

 

 今回、我等が久賀島に五島最初の鉄筋コンクリート天主堂が建築されたにつけ、是が如何なる汗と血と涙の結晶になったものであるかと云うことを思うのは我等久賀島民の血を湧かして、小成に安んぜしめず、いよいよ勇往邁進せしめるに興って力あるものであろうかと思い、教報の余白を借りて、旧稿を発表することにした。

祖父が朝な夕な話してくれる宗教談、殊に久賀の迫害談は私が子供時代の唯一の楽しみであった。祖父がその身に体験せし迫害の事実を、記憶の中より呼び起こして話されるのを食事も忘れて聞き惚れるのが私の常であった。そして一週間に一度は「おじいさん、迫害の話を聞かせて下さい」と繰返しせがんだものである。八十五才の高齢で今より八年前に亡くなった祖父を追慕する時、我等が先祖の浴びせられた迫害、その鉄の様に堅かった信仰心と、今の浮薄な世相とを見比べて、感慨の情に堪え難い者があるのである。

 古老の語る所に由ると、今より百余年前、西暦千八百年頃、山林開拓の為一千の農民を貰い受けたいと五島藩から大村藩に交渉があった。その交渉に応じて、大村から五島に移住した農民は外海方面の隠れ切支丹で、一千人の代わりに三千人も渡って来たと云うことだ。その中の幾家族かは我久賀島にも住みこんで、山林を開墾しながら窃かに祖先伝来の切支丹宗門を信奉して、黒船の渡来を待つのであった。現在のカトリック信者、及び各所に散在して居る「サガリ」、旧信者が其等の子孫である。今の濱脇天主堂の敷地は最初濱村善五郎と云う者が来て、汗と力の限りを尽して求め得た所で、ここに鉄筋コンクリートの大天主堂が建立せられたのは決して無意味ではない。

さて久賀島に移住した切支丹は家業に勤しむ傍、信仰の道にも怠りなかった。固より家には仏壇神棚を設け、法事もするし、寺宮にも参詣するし、外から見ると神仏教徒と少しも異なる所はなかったが、それでも代官に薄々感づかれ、年に一回の宗門調べには絵踏みを命じられたものだ。絵踏みの場所は島の中程で、港に面した大きな松の樹の下であった。今でもこの松の樹を絵踏松と称して居る。信者等は心ならずも絵踏みをし、帰宅の上、痛悔の祈りを誦えて謝罪をするのであった。痛悔の祈りはアナタ様(イエズス)に四十五遍、おとりつぎ様(マリア)に三十三遍で、一週間は毎日これを続けたものである。
 
 そうして居る中に、世は何時しか慶応元年となり、プチジャン師は長崎大浦居留地に天主堂を建て、奮信者の子孫を探して居られるとの事を久賀の隠れ切支丹が伝え聞き、一同協議の上、畑田藤七同九助外三人を長崎に遣わした。然るに彼等は港外の福田で捕らわれて監獄に繋がれ、許されて島に帰って来た時は髭は五六寸も延び、見知らぬ様になって居たと云う。それからも移り換り三度も出掛けて行ったが、どうしても天主堂に近づく事が出来ず、手を空うして帰った。

四度目には水方の野原善太郎外二人が行き、無事天主堂の門を叩く事が出来た。で三人はプチジャン司教に面会し、自分等が切支丹なる事、島には数多の切支丹が隠れて居ることを打明けた。司教は大いに喜ばれ、一個のメダイを興え、色々と有難い教の話を聞かして帰された。島の信者たちは非常に喜び、メダイを神様の如く推戴いて拝んだそうである。

二度目に天主堂へ行った時は、祈祷文を、三度目の時は聖教初学要理を戴いて帰り、信者一同に伝教した。その要理を学んで居る中「○神仏を敬う事は如何、△大なる罪科なり、○異端と云うは何か、△信ずべからず、敬うべからざれども、是を信じ敬うことを異端という。喩えば夢を信じ、日を選び、占い、考え、山伏を呼び、祓い祈禱をさせ、札守を掛るなどの誤り皆この罪科の類なり」とあるのに気がつき、小頭組(部落の頭)が信者一同を集めて、右の文句を読み聞かせ、今の様にして居ては、魂の助かりは出来ぬ。一層のこと仏壇も神棚も焼き棄て、切支丹たることを公に申出ようではないか、と動議を持出した。大多数は賛成したが、迫害を気遣って、不賛成を唱え、そのまま引下がったものも多少あった。

それが今の所謂「サガリ」の先祖である。賛成派は協議の上、畑中栄八、野原善太郎、五輪仙蔵、峰之助、山内要助、松本久米造、上村長八、同銀蔵等が委員となり、隣島の奈留島や奥浦村の堂崎、同浦頭、大泊、嵯峨瀬等の信者を語らい、連署して切支丹なる事を発表しようと運動して見たけれども、拒絶された。然し久賀島の切支丹は尚一カ月余に亘り協議をこらして決心の臍を堅め、プチジャン司教にも伺いを立てた上で愈々代官の前に出て、「私どもは是からデウスと云う神を信仰しますから、神仏の事には何も関係しません」と申し上げた。
 

その日の暮方、和尚と足軽二人が信者の集会所に来た。和尚「お前たちは心得違いをして居る。よく考え直してみよ。今迄の通り佛の教を守って行く様にせい、天下御法度の切支丹宗門を信ずれば命を全うして行く事は出来ぬ。可愛い妻子も路頭に迷うであろう。早く心を入れ換えて元々通りの宗旨になるが可い。」信者「お前さんの処に来ても是迄経文の一つも教わらず、賽銭箱は其処にも此処にも置いてある。

入れろ、入れろ、と金取る道ばかりお前さんは考えて居る。誰がお前さんの宗旨になるものか」と剣もほろろの挨拶をしてやったので、足軽と和尚は其のまま帰ってしまった。翌日も又その翌日も同じ様に勧められたけれども誰一人として代官や和尚の云う事を聞く者はなかった。それより二三日して、二十名内外の信者が福江城より御家老の名を以って呼出された。残りの信者は風になるだろうか、雨になるだろうかと心配でならなかった。呼出された信者は仮拘留を命ぜられ、頭株の十二人は幾日も幾日も打ちたたかれ、算木攻めやら、押から攻やら、火攻やらを受け、三週間計りの後には見る影もなきまでに窶れ果てて島に帰された。

 
 

2, 久賀島の切支丹物語

今回、我等が久賀島に五島最初の鉄筋コンクリート天主堂が建築されたにつけ、是が如何なる汗と血と涙の結晶になったものであるかと云うことを思うのは我等久賀島民の血を湧かして、小成に安んぜしめず、いよいよ勇往邁進せしめるに興って力あるものであろうかと思い、教報の余白を借りて、旧稿を発表することにした。祖父が朝な夕な話してくれる宗教談、殊に久賀の迫害談は私が子供時代の唯一の楽しみであった。

祖父がその身に体験せし迫害の事実を、記憶の中より呼び起こして話されるのを食事も忘れて聞き惚れるのが私の常であった。そして一週間に一度は「おじいさん、迫害の話を聞かせて下さい」と繰返しせがんだものである。八十五才の高齢で今より八年前に亡くなった祖父を追慕する時、我等が先祖の浴びせられた迫害、その鉄の様に堅かった信仰心と、今の浮薄な世相とを見比べて、感慨の情に堪え難い者があるのである。

 古老の語る所に由ると、今より百余年前、西暦千八百年頃、山林開拓の為一千の農民を貰い受けたいと五島藩から大村藩に交渉があった。その交渉に応じて、大村から五島に移住した農民は外海方面の隠れ切支丹で、一千人の代わりに三千人も渡って来たと云うことだ。その中の幾家族かは我久賀島にも住みこんで、山林を開墾しながら窃かに祖先伝来の切支丹宗門を信奉して、黒船の渡来を待つのであった。現在のカトリック信者、及び各所に散在して居る「サガリ」、旧信者が其等の子孫である。

今の濱脇天主堂の敷地は最初濱村善五郎と云う者が来て、汗と力の限りを尽して求め得た所で、ここに鉄筋コンクリートの大天主堂が建立せられたのは決して無意味ではない。さて久賀島に移住した切支丹は家業に勤しむ傍、信仰の道にも怠りなかった。固より家には仏壇神棚を設け、法事もするし、寺宮にも参詣するし、外から見ると神仏教徒と少しも異なる所はなかったが、それでも代官に薄々感づかれ、年に一回の宗門調べには絵踏みを命じられたものだ。絵踏みの場所は島の中程で、港に面した大きな松の樹の下であった。

今でもこの松の樹を絵踏松と称して居る。信者等は心ならずも絵踏みをし、帰宅の上、痛悔の祈りを誦えて謝罪をするのであった。痛悔の祈りはアナタ様(イエズス)に四十五遍、おとりつぎ様(マリア)に三十三遍で、一週間は毎日これを続けたものである。そうして居る中に、世は何時しか慶応元年となり、プチジャン師は長崎大浦居留地に天主堂を建て、奮信者の子孫を探して居られるとの事を久賀の隠れ切支丹が伝え聞き、一同協議の上、畑田藤七同九助外三人を長崎に遣わした。然るに彼等は港外の福田で捕らわれて監獄に繋がれ、許されて島に帰って来た時は髭は五六寸も延び、見知らぬ様になって居たと云う。

 
 

 それからも移り換り三度も出掛けて行ったが、どうしても天主堂に近づく事が出来ず、手を空うして帰った。四度目には水方の野原善太郎外二人が行き、無事天主堂の門を叩く事が出来た。で三人はプチジャン司教に面会し、自分等が切支丹なる事、島には数多の切支丹が隠れて居ることを打明けた。司教は大いに喜ばれ、一個のメダイを興え、色々と有難い教の話を聞かして帰された。島の信者たちは非常に喜び、メダイを神様の如く推戴いて拝んだそうである。二度目に天主堂へ行った時は、祈祷文を、三度目の時は聖教初学要理を戴いて帰り、信者一同に伝教した。

その要理を学んで居る中「○神仏を敬う事は如何、△大なる罪科なり、○異端と云うは何か、△信ずべからず、敬うべからざれども、是を信じ敬うことを異端という。喩えば夢を信じ、日を選び、占い、考え、山伏を呼び、祓い祈禱をさせ、札守を掛るなどの誤り皆この罪科の類なり」とあるのに気がつき、小頭組(部落の頭)が信者一同を集めて、右の文句を読み聞かせ、今の様にして居ては、魂の助かりは出来ぬ。一層のこと仏壇も神棚も焼き棄て、切支丹たることを公に申出ようではないか、と動議を持出した。大多数は賛成したが、迫害を気遣って、不賛成を唱え、そのまま引下がったものも多少あった。それが今の所謂「サガリ」の先祖である。

賛成派は協議の上、畑中栄八、野原善太郎、五輪仙蔵、峰之助、山内要助、松本久米造、上村長八、同銀蔵等が委員となり、隣島の奈留島や奥浦村の堂崎、同浦頭、大泊、嵯峨瀬等の信者を語らい、連署して切支丹なる事を発表しようと運動して見たけれども、拒絶された。然し久賀島の切支丹は尚一カ月余に亘り協議をこらして決心の臍を堅め、プチジャン司教にも伺いを立てた上で愈々代官の前に出て、「私どもは是からデウスと云う神を信仰しますから、神仏の事には何も関係しません」と申し上げた。

その日の暮方、和尚と足軽二人が信者の集会所に来た。和尚「お前たちは心得違いをして居る。よく考え直してみよ。今迄の通り
佛の教を守って行く様にせい、天下御法度の切支丹宗門を信ずれば命を全うして行く事は出来ぬ。可愛い妻子も路頭に迷うであろう。早く心を入れ換えて元々通りの宗旨になるが可い。」信者「お前さんの処に来ても是迄経文の一つも教わらず、賽銭箱は其処にも此処にも置いてある。

入れろ、入れろ、と金取る道ばかりお前さんは考えて居る。誰がお前さんの宗旨になるものか」と剣もほろろの挨拶をしてやったので、足軽と和尚は其のまま帰ってしまった。翌日も又その翌日も同じ様に勧められたけれども誰一人として代官や和尚の云う事を聞く者はなかった。それより二三日して、二十名内外の信者が福江城より御家老の名を以って呼出された。残りの信者は風になるだろうか、雨になるだろうかと心配でならなかった。呼出された信者は仮拘留を命ぜられ、頭株の十二人は幾日も幾日も打ちたたかれ、算木攻めやら、押から攻やら、火攻やらを受け、三週間計りの後には見る影もなきまでに窶れ果てて島に帰された。

 
 
                     
                     
                     
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