迫害と殉教

 
 

殉 教 と は

 

188人殉教者列福実行委員会委員長

 溝部脩司教

 

1 殉教より転びを語る人々

 

 最近、殉教より転びを語ると言う傾向にある。長与善郎「青銅のキリスト」、遠藤周作の「沈黙」などに代表されます。決してこれらの作品を、私は批判する気持ちはありません。むしろ文学作品として感銘深い作品と評価しています。ただ、気をつけないと何となく覗き主義的な、趣味に陥る危険があります。転んだ人の心理とか、弱い人間を庇うあまり、殉教した人の価値を低く見たりする傾向があります。

 「だが、それらの殉教者、勝利の人々の背後には多くの弱虫たちがうなだれている。弱虫たちは、もし弾圧の時代に生まれなかったならば、今の基督教信者と同じようにおのが信仰をまもり、それに幸せを見いだしながら平凡に生きていたであろう。けれども偶然が彼らをしてあの切支丹迫害の時に生まれさせ、その結果彼らは転び者、背教者としての哀しい運命をたどらざるをえなかったのだ」

(切支丹の里 102頁)

 

 この傾向の当事者、即ち殉教者を評論家的に見たり、懐疑的に見たりする傾向にもなります。マイナス「思考」、又は「志向」の人は物事を往々にして批判するのみで建設的に考え、創造していくことができません。私は転びを理解しない訳ではありませんが、むしろ信じて、例えそのことのためにためらいや、弱さがあったとしても、自分の信仰を告白して死んでいった人々のことを、むしろ話したいと思います。

 

「殉教の動機のなかに英雄主義や、虚栄心を見つけることはやさしい、しかし、そういうものを除いた後にも、まだ残余の動機が存在する、この残余の動機こそ人間にとって大切なものではないか」

(切支丹の里 29頁)

 私は「残余」と呼ばない。このことこそ殉教の本当の原因なのである。
 
 

2 殉教の状況を伝えた昔の文書は美化したものであり、そのまま信じることが出来ない

 

 これはよく聞く異論です。歴史の命題に「より短い文章はより真実である」(Bre)ということがあります。岐部神父の殉教については実に簡潔、そして要領よく書かれています。「キ−ベ ヘイトロは転び申さず候て、つるしころされ候、是は其時分までは、不功者にて、同宿二人キベと一つ穴につるし申し候故、同宿どもを勧め候故、キベを殺し申し候故、キベ相果て候てより後、両人の同宿ども転び申し候につきつるし場よりあげ、牢屋へ遣わし、久しく存命にて罷在候」。これ程短く、簡潔で要領の良い記録はない。しかも、公式の幕府の記録であってみれば、その価値はもっと高くなる。身内の者が自分の立場を弁明するために書いたものではないということです。

 確かに多くの殉教者の記録は、教会の人の手によって書かれています。しかし、だからといって事実を捏造したとか、嘘を書いたとかは言えません。1622年の長崎西坂の丘の殉教などは、実に詳しく書かれています。ということはそれを目撃した人が、その事件と関わって書いたということです。ロ−マのジェズ教会に、この場面を描いた絵が残っていますが、これも目撃した人でなければ描けないほど写実的です。

 小倉の加賀山隼人の殉教の場合でも、家を出て何歩歩いて船に乗り、そこから誰と何をしたかといった記録があります。日本全国、数千という殉教の記録が、その事情と場所により異なっているということもそれらを物語としてつくりあげたものとは言いがたい証拠です。目撃者がいて、目撃したことを手紙または口頭で教会の責任者に伝えました。責任者はこれらの記録を確かめた上で手紙にまとめて長上に送りました。これは殉教者に不安と迷いがなかったということではありません。まとめるときに徒らに殉教の心理とか、一人ひとりの不安とかに触れず、むしろ殉教の場面の写実に力を入れました。

 

 日本の殉教者の実数は、数えるのが困難です。ラウレスは5千人の名前を挙げることが出来ると言います。島原の乱を考慮すれば2万人程度になります。尾原は4万人前後と言っています。当時、40万人の信者と概算して、20人に一人が殉教者という出来事になります。これは大変なことです。

尾原 悟 「殉教と復活」1985、キリシタン文庫

 
 

 殉教というのは、キリストを信じていることを死をも辞さずに公に表すことを指しているからです。すなわち彼らは信仰を表明して死んだことを伝えているのです。美化するというより、キリストの信仰を皆の前で宣言して亡くなったことを伝える手紙となっています。内的葛藤とか、不安を主題としているのではなく、信じることのために死んだという事実を大切にしているのです。

 

3 政治の問題が絡むので、一概に殉教とは言いかねる

 政治の問題が絡まない信仰の問題はありません。キリスト教は確かに当時、社会問題だったでしょう。織田時代は神国思想が芽生えるときですし、徳川政権は思想、経済、宗教統制を通して政権を確立してきました。確かに時の権威者は政治的にできないキリスト教を嫌った面があり、そこが迫害の大きな原因でした。しかし、信じている個人が良心に従って曲げることが出来ないと表明することは、殉教といわれない理由になるのでしょうか。

戸部 新十郎 「秀忠」 毎日新聞社

 

 弁証法的歴史観というものがあります。全ては原因結果で説明されると解きます。殉教も政治的、物質的必然から生まれてきたものだとの見方です。私は是には納得できません。殉教者は自分で自分の生き方、死に方を選らんのです。決して必然に流されたのではありません。そうでなければ資料が伝えていることを決して理解できません。

  文化受肉(Incu1turation)は三段階で行われます。受容、拒絶、触発。日本の場合、特殊なケ−スがあります。受容は精神が活き活きとして、新しい価値観に開かれていない所にしか行われません。その意味で初期の宣教師が驚くほど、日本人の精神は活き活きとしていました。ところが拒絶の段階で個人の文化の衝突というより、国又は政治対決という色彩が濃いことに宣教師たちも気づきます。そんなものは「糠に釘」だということです。宣教の対立により新しい文化が触発されるのではなく、政治的に利用できない宗教と、できる宗教という対立となり、触発されるのは功利的な、今役立つ学問の分野に限られてきます。

 
 

 それでは殉教はないのか。神国思想という思想統制の中で、尚かつ表面は国の敵として処刑されてしまい、処刑される当人は純粋な宗教者として死んでいくということになります。殉教者を英雄のように扱う見方もあります。これも教会の正しい見方ではありません。岐部神父は確かに冒険を重ねる人生を送りました。しかし、それだから郷土の英雄、名士で終るものではありません。そこまで彼を支えていた、内からの力が何であったのかを分かる必要があります。それこそ自分の信仰を貫いていく確固たる信念です。安っぽい英雄で終らせたくありません。

 

4 過去のことであり、今更騒ぎ立てることもない

 

 殉教のあった場所は、今キリスト教の面で考えると、ほとんど無に等しい場所です。昔そんなことがあったという古老の話しに終わったり、好事家が物知りよろしく話す位になってしまいます。そんなことで殉教祭、それ列福だと騒いでも仕方がないと思います。もう少し信仰をもって物事を見てはいかがでしょうか。

 

 400年前キリスト教はいつも少数派でした。現在もそれは変わっていません。当時の人口を2000万人として、40万人の信者数で、そのおおくは西国に固まっていました、キリストの教えそのものが弱い者、虐げられた者の側にたつことを宣言しています。殉教者を祝うとは丁度、キリストが宣言した生き方、即ち貧しい者、虐げられた者の側に立って権力にもめげない信念のある生き方を祝っているのです。

 

1793(寛政5)年、浦上里家郷庄五郎の転証文があり、このとき浦上で没収された文書が「耶蘇宗門転書物之事」として残されている。是には「マルチリオの鑑」「マルチリオの勧め」「マルチリオの心得」と三部含まれている。「マルチリオの勧め」は、まだ司祭が残っていて本を司祭が書き残している時代、元和から寛永についてのものと思われる(1615〜23)。

「マルチリオの心得」はもっと切実に、司祭なしの状況が想像される(1620〜30)

羅葡日辞典では「マルチルとは証拠人、デウスのご奉公に対して呵責を受け、命を捧げられた善人」と定義している。善人とは誰のことを指すのだろう。

 

「マルチリオの心得」は次のように言っている。

「一には丸血留になる為には死の事肝要なり」

「二には害せらるる者、知恵分別ある者ならば其成敗は辞退せず、心能く堪忍致して受くるに於いては丸血留なり」

「三には死罪に行わるる題目、

キリシタンなりとて成敗せらるるか、亦は善を勧るとてか、悪とせざるとて寄せられれば、是亦丸血留なり」キリストと同じように御大切「愛」のため自分の全てを捧げつくすことが殉教であった。十字架こそ殉教の絶対の意味であり、その全てを表す。「呵責を受くる間は、Jの御ハションを目前に観ずべし。口を初め奉り、サンタマリア。諸の安如ペアト天上より我が戦いを御見物なされ、安如は冠を捧げ、我がアニマの出ずることを待ちかね給うと観ずべし。この期に及んでは、口より格別の御合力あるべければ深く頼母しき心を持つべし亦叶ふに於いてはその場に有逢ふ人々のアニマの徳となるべき題目を少しなりとも言ふべし。喩へばC(カトリック?」の教の外に後生を扶くる道は別になし。我今、此の御教えの慥なるという証拠の為に、命を (タツ?) つものなり。此道を以って限りなき楽を受ければ、是に過ぎたる歓喜は別になしなどという儀を、言葉に花をさかせて言ふべし。然れども是等の儀は言はずして叶はざる儀とは思うべからず。其の時に臨んでは、口面々の心中は教え給うべければ、其の教えに導かれて然るべきなり。 

玉ふ 給う と訂正変換入江

(マルチリオの心得)
 

5 殉教とは、死をもってしてもイエス・キリストを宣言することである

 

 結論として言えることです。

 1) 黙って自分だけが信仰していれば良いのと、異なります。

2) また、死をもってしてもとは、自分が生きる信念を表しています。今生きている現状を確固たる信念を持って生き抜くことは、殉教です。自分の家庭で、職場で、学校で、司祭館でどのように生きるかを問いかけることこそ殉教者列福の意味です。

3) イエス・キリストを宣言すること。「御主ゼズ。キリストの御教えを心中にひいて   に受くるのみならず、ことばを以っても、現す人也」 (どちりな)

 単なる政治的な死ではないことです。キリスト教は、腑抜けの宗教ではありません。イエスを信じるとは、大したことだということを殉教者は語っています。

 
 

19812月、ヨハネ・パウロ二世の西坂の丘での説教

 

私たちの世紀において殉教者が再来しました

 最初の千年期の教会は、殉教者の血によって生まれました。「殉教者の血はキリスト者の種子です」。殉教者がまいた種と、キリスト教の第一世代の特徴である聖性の遺産がなかったら(キリスト教を公認した)コンスタンチヌス大帝と関係深い歴史的出来事も、最初の千年期に起きたような教会の発展を確実なものとはしなかったでしょう。第二の千年期の終わりにあたり、教会は再び殉教者の教会となりました。信者、すなわち司祭、修道者、信徒への迫害は、世界中のさまざまな場所で大いなる殉教の種をもたらしています。

教皇パウロ六世がウガンダの殉教者列聖式の説教の中で指摘したように、血を流すことも辞さないキリストに対するあかしは、カトリック、正教会、聖公会、プロテスタント共通の遺産になっています。このあかしを忘れてはなりません。教会は最初の数世紀、組織上の大きな困難に直面しながらも、殉教者のあかしについて心を配り、特別の殉教録を書き残しています。これらの殉教録は、何世紀にもわたってつねに更新され、また聖人、福者の名簿には、キリストのために血を流した人々ばかりでなく、信仰の教師、宣教者、証聖者、司教、司祭、おとめ、夫婦、寡婦、子どもたちなどの名前が記載されています。わたしたちの世紀において、殉教者が再来しました。

 その多くは名前さえ分からず、あたかも神の栄光のためにいのちをささげた「無名戦士」であるかのようです。教会は可能な限り、かれらの証しを保持すべきです。枢機卿会議で勧告されたように、殉教者の記録を守り、必要な記録を収集するため、各地域の教会はできることをすべて行わなければなりません。この姿勢は、キリスト教一致の性格と表現を帯びるようにしなければなりません。キリスト教一致のもっとも説得ある形は、おそらく聖人と殉教者によるエキュメニズムです。聖徒の交わりは、わたしたちを隔てているさまざまなことよりも雄弁に語ります。最初の数世紀の殉教列伝は聖人崇敬の基礎となりました。教会の息子や娘たちの聖性を宣言し、崇敬することによって、教会は神ご自身に対して最大の敬意をささげてきました。殉教者において、教会は、殉教とその聖性の起源であるキリストをあがめてきました。
 

後代には、カトリック教会と正教会で今日なお続けられている聖人列聖の習わしに発展しました。近年、列聖、列福の数は増加しています。最初の数世紀あるいは最初の千年期よりも、おびただしく増えており、これは地方教会の活気を物語っています。第三の千年期の初めにあたり、教会をあげてキリストにささげることができる最大の敬意は、いろいろな形の召命によってキリストに従った言語や民族が異なる人々の信仰、希望、愛の実りをとおして、全能の救い主の現存を宣言することです。わたしたちの時代において、キリストの真理を完全に生き抜いた人々の聖性に十分に注意を払い、全世界の教会のために殉教録を更新することは、紀元二○○○年の準備にあたるローマの使徒座の務めです。とりわけ、結婚生活においてキリスト者の召し命を生き抜いた男女の英雄的な徳についての認識を深める必要があります。結婚生活における聖性の豊かな実りを確信するがゆえに、その実りを識別する最も適当な方法を探し、他のキリスト者の夫婦のはげましと模範となるよう、全教会に対して提示する必要があります。

(ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『紀元二○○○年の到来』37
 
 

教皇ヨハネ・パウロ二世の説教

死より強い愛を証して

. きょう、わたしはこの長崎の殉教者の丘、多くのキリスト信者が生命をいけにえとしてささげ、キリストに対する忠実の証を立てたこの丘を訪れる、数多くの巡礼者の一人になりたいと望んでいます。実際彼らは死に打ち勝ち、神への最高の賛美をささげたのでした。この殉教者の記念碑の前で祈りと反省の時を過ごしながら、わたしは彼らの生涯における神のお恵みの秘義を深く味わい、彼らがわたしと全教会に語りかける言葉、数百年をへて、今なお生きている彼らのメッセージを聞きたいと思っています。

 

. 「友のために自分の命を捨てる、これにまさる大きな愛はない」。「もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のまま残る。しかし死ねば、豊かに実を結ぶ」。キリスト信者は長崎で死んでいきました。しかし長崎の教会は死ぬことはありませんでした。姿は隠れざるをえませんでしたが、キリストの教えは親から子に伝えられて、教会が公になる日を待っていました。この殉教者の丘に基礎をおく長崎の教会はいずれ成長し、花を咲かせ、世界のキリスト信者に対し信仰と忠実の模範となり、復活したキリストにもとづく希望のしるしとなるはずだったのです。

 

. きょう、わたしは巡礼者としてここにまいりました。二十六聖殉教者とそのあとにつづいた多くの殉教者、特にこのたび列福されたキリストのお恵みの英雄たちの生涯と死をたたえ、神に感謝をささげるためにここにまいりました。わたしは世界の各地で、神に対する信仰のため、救い主キリストへの忠実と教会への忠誠にために苦しみを甘受している多くの人々のために、神に感謝をささげます。過去・現在・未来いずれの世代もキリストの偉大な力による輝かしい模範を生み出し、すべての人に導きと励みを与えているのです。きょう、わたしはこの殉教者の丘で、愛がこの世で最高の価値を持つことを、高らかに宣言したいと思います。

この聖なる地で各階層の人々が、愛は死より強いことを証明しました。彼らはキリストの教えの本質であるあの真福八端の精神を具現したのであって、彼らを仰ぎ見るすべての人に、神への無私の愛と隣人への愛にもとづいて、自分の生涯をつくりかえるよう刺激を与えているのです。きょう、ローマの司教であり、ペトロの後継者であるわたしヨハネ・パウロ二世は、数世紀前、この丘の十字架が当時の目撃者たちに語りかけたように、この記念碑が現代人の心に訴え語りかけるようにと願いながら、この西坂を訪れ祈っています。全世界に向かってこの記念碑が愛について、キリストについて絶えず語りつづけるようにと願っています。

(一九八一年二月二六日西坂の至福の丘にて)
 
 

二重の掟の実践者に学ぶ

 親愛なる皆さん、特に、いま洗礼と堅信の秘跡を受けられた皆さん、

マタイ福音書の言葉を聞いた今、昔のキリスト信者たちが「聖なる丘」または「殉教者の丘」と呼びならした、この近くの「西坂の丘」にイエスとともに登ることは、わたしたちにとって楽しいこととなりました。わたしたちはこの丘を、長崎の「至福の丘」とも呼ぶことができるでしょう。わたしたちは、日本カトリックの母教会の座ともいえるこの長崎の町から、多くの弟子たちを自分のもとに呼び寄せる、師なるイエスの姿を思い浮かべています。イエスは特に自分の十字架のもとに集まってきた数多くの弟子たちに、愛を込めてお話になります。

そこには日本二十六聖殉教者、ピオ九世によって列福された二百五殉教者、そして殉教したことが歴史的にも証明される聖者たち四千人以上の仲間(ラウレス)が集まっているのです。この栄光に輝く聖なる集団は、キリスト教初代の大集団にもくらべられるものですが、数日前、マニラで挙行された十六殉教者の列福式によって、さらに新しい光を受け、新しく評価されました。これらの殉教者は徳川家光による鎖国時代、寛永十年、十一年、十四年(A・D一六三三・一六三四・一六三七)に西坂で殉教したのでした。新しい福者たちは他のすべての殉教者と同様、人間的レベルの義を完成する福音の義のために苦しみを受けたので、イエスによって幸いな者と宣言された人たちです。この義こそ、天におられる父の完全さに倣おうと望む人々に規範を与えるあの「山上の説教」で、キリストがお説きになった福音の義です。彼らは神の前に正しい人として死ぬ前に、心貧しく、柔和で悲しみに耐え、義に飢え渇いていました。彼らは憐れみ深く心清い人、平和をもたらす人だったのです。

 

. 一言で言えば、彼らは愛の二重の掟の実践者であり、伝達者だったのです。新福者の一人ジョルダン神父が裁判官に対して、「わたしは特にこの目的のために来ています。そしてそれはわたしの王であるキリストのお望みと同じものです。わたしたち二人を動かしている理由は、全面的に愛を土台とするキリスト者の掟に従って、キリストとわたしがあなたを愛しているということにあります」と宣言しているとおりです。十六人の新福者が日本人に対して日本人、キリスト信者に対してキリスト信者、身内の兄弟に対して兄弟であると感じていたのは、実にこのような考え方、このような愛の心情によるものでした。殉教者を動かしたこの愛と福音宣教の熱意が、異なった五つの国籍を持つ彼らを一つの仲間にしました。

実際新福者の場合、九州と古い都、京都出身の日本人九名だけではなく、スペイン人四名、フランス人一名、イタリア人一名、フィリピン人一名が一つ仲間となっていたのです。ギヨーム・クルテとロレンソ・ルイスは、フランスとフィリピンからの日本に渡航し殉教者として死んだという点では、それぞれの国で最初で唯一の者たちでした。強い一つの愛が身分の低い者と高い者を、聖ドミニコの家族の十三名と敬虔な三名の信徒を一つに結び合わせたのです。彼らの証言に耳を傾けましょう。わたしが最もありがたいと思う神のお恵みは、神がわたしをこの国に送り、こんなに多くの、またこんなにすばらしい神の僕たちの仲間としてくださったことです。

 この言葉は、十年間もドミンゴ・イバネス神父とともに本州の大半をめぐって福音宣教に従事したルカス神父の証言です。同じように、台湾と九州の宣教者として働いたヤコブ朝長神父、トマス西神父、そして一六一四年の禁教令によって追放されながらも、自分の国で受けた洗礼のお恵みを同じ祖国で最後まで生き抜こうと志し、一六三六年帰国を決意したビンセンシオ塩塚神父と俗人、京都のラザロもすばらしい人たちでした。またわたしたちはアウグスチノ会、ドミニコ会の協力者であった勇敢な長崎のマダレナ、および「強い女性」という聖書的肩書を受け、日本の女性たちから勇気の擁護者とあがめられる大村のマリナもほめたたえたいと思います。
 
 

. 殉教者たちの寛大な愛と熱心な活動は、彼らの中で働き、ただいまミサの第一朗読で聞いた、シラの書の戒めを遵守させてくれた聖霊の力によって、説明できます。だからこそわたしたちは、長崎の裁判所の通訳が二人の奉行に伝えた答えも、理解できるのです。「お奉行さま、彼らに信仰を捨てるようにと話すことは、死にかけている人に生き返る薬を与えるようなものです。事実、彼らは生気をとり戻し、力強く返答してきます」

 

. 宗教の違う国で活動する教会の子供として彼らがとった態度は、このミサの第二朗読に読まれた聖ペトロの言葉に教えられたものでした。彼らは(未信者の)兄弟たちが信者のよい行ないを認めて、「訪れの日に神に栄光を帰す」ように、と希望していました。この使徒の指示は、ローマ帝国時代の初代教会殉教者のとった態度の規範でもあったのです。当時の社会的・政治的状況の中で、彼らが送った生活の仕方にも深い意味があります。彼らは「ただ言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信をもって」福音を受け入れたのです。

こうした彼らは、すべての人に対して、希望と愛のうちにその再来を待ちつづけていたキリストに対する忠実さの、模範となったのでした。一方、わたしたちは慶長十七年、徳川家康によって発令された禁教令「日本は神国なり」と宣言されていたことを覚えておく必要がありましょう。当時の、そして今日のキリスト信者は、この宣言を人となった神のみ言葉の教えによって、よりよく解釈することができます。彼を通してすべてはつくられたのであり、彼は御父から生まれたまことの光として、満ち満ちた恵みと真理をもって、すべての人を照らすためにこの世においでになったお方なのです。

. わたしは先日の列福式にちなみ、この日本訪問に、大きな期待をもって望みました。わたしは日本がキリスト教のメッセージに再度門戸をあけてから一世紀後に、ローマの司教としてここに来ました。わたしは巡礼者として長崎に来たのです。ここで、さらにそれ以前二世紀にわたって、ひそかに殉教者の信仰を守りつづけた先祖を持つ百年前の信者たちは、福音の力に支えられてまことを守り通したのでした。

神の恵みにより、当時のキリスト信者はロザリオの玄義を用いて福音の黙想を行なっており、また遠くにパーパと呼ばれる人がいることを知っていました。きょうそのパーパは、長崎の信者の言い伝えに敬意を表し、その子孫たちに直接「イエス・キリストの心において彼らを愛している」と語りかけるために、やってきたのです。教会の最もすぐれたモデルである<無原罪のマリア>にささげられた浦上のカテドラルで、わたしは、お祝いのために美しく装った新しいエルサレムのしるしとしてこの世の前に立つ、新しい日本の教会の姿を見つめました

それは、四十万の信者、その創立当初の世紀の信者数とだいたい同数の信者を持つ一つの教会です。そしてわたしは、大きな喜びをもって、キリストご自身がきょう「その驚くべき光の中に」招き入れてくださった新しい信者の皆さんを、カトリック教会の交わりにお迎えします。この過去と現在のつながりは、神の祝福、母なる聖マリアの助力、そして数知れない福音の証人たちの取り次ぎの実りです。それはより輝かしい未来の保証であり、その未来を、朝、日の出とともに輝く光を送り、雪の白さ、あるいは桜の花・蓮の花の薄紅色などで、この美しい国土を新しく、生き生きとさせる太陽にもたたえることができましょう。わたしたちキリスト信者にとって道とは「神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神」であるキリストによって開かれた道のことです。このイエス・キリストとそのお恵みを、長崎の輝かしい新福者殉教者において、わたしたちは、心を込めてほめたたえるのです。

(一九八一年二月二六日長崎市営松山競技場での殉教記念ミサにて)
 

教皇の勅書、使徒的勧告

いつまでも続くしるし

いつまでも続くしるし、しかし、今日、とくに深い意義を持つキリスト教の愛の真実のしるしは、殉教する人々がいたということです。彼らのあかしが忘却のふちに沈みませんように。彼らは、まさに、愛のためにいのちを捨てて福音を告げた人々です。殉教者は、何よりも現代にとって、すべての他の価値を含むあのより大きな愛のしるしです。殉教者の生涯は、キリストが十字架上で口にしたあの至高の言葉を思わせます。「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」。

信者は、自分のキリスト者としての召命、すでに黙示録に殉教がその一つの可能性として告げられているこの召命を、真剣に考えに入れているなら、殉教が自分の一生のうち起こり得ることを認めないわけにはいきません。キリストの誕生からの二千年の特徴は、殉教者たちのあかしが絶えなかったことでした。

さらに、今終わろうとするこの世紀にも、数知れない殉教者たち、何よりも、ナチズム、コミュニズム、また、人種、あるいは種族間の争いによる殉教者たちがいたことが分かっています。あらゆる階層の人々が、自分の信仰のために苦しみ、キリストと教会に従い抜くために血の代価を払い、あるいは、いつ終わるとも知れぬ収容所の歳月、あらゆる種類の不安を耐え忍びました。非人間的な独裁政治に変わったイデオロギーに迎合してはならなかったのです。

その心を考えれば、殉教は信仰の真理の最も意義深いドキュメントです。信仰の真理は、最も暴力的な死の種類にも人間の顔を与えることができ、最も残酷な迫害のなかにあっても、その美しさを示します。来年の翌年には、恵みに包まれ、もっと力を込めて御父に感謝の賛歌を唱え、歌うことができるでしょう。テ・マルチルム・カンディダァトゥス・ラウダット・エグゼルティツス(あなたを、殉教者たちの純白の一隊がたたえます)。そのとり、これは「その衣を小羊の血で洗って白くした」人々の一隊です。

ですから、教会は、地上のどこでも、この人々のあかしに従い、忠実にその記念を守らなければなりません。どうか神の民が、本物のしるしを持つ人々、あらゆる時代、言語、国籍の人々のこの模範によって、信仰を強め、勇敢に第三の千年期への第一歩を踏み出すことができますように。信者たちが彼らの殉教に感じ入り、もしその状況になれば、神の恵みによって彼らの模範に従うと決意することができますように。

(教皇ヨハネ・パウロ二世大勅書『受肉の秘儀』13

 

殉教者

養成計画と福音化の方策がどれほど重要であっても、キリスト教のメッセージの中心要素を世界に明らかにするのは、結局は殉教です。「殉教」という言葉そのものがあかしを意味しています。キリストのために血を流した人々は、福音の真の価値を究極的にあかししているのです。わたしは、二○○○年の大聖年に関する大勅書『受肉の秘儀』において、殉教者を思い起こす重大性を強調しました。「その心を考えれば、殉教は信仰の真理の最も意義深いドキュメントです。

信仰の真理は、最も暴力的な死の種類にも人間の顔を与えることができ、最も残酷な迫害のなかにあっても、その美しさを示します」。時代を通して、アジアは教会と世界に多数の信仰の英雄たちを与えてきており、アジアの中心から賛美の歌声がわき上がっています。「清い殉教者の群れがあなたをほめたたえています」。これは教会の初期の時代に、アジアでキリストのためにいのちをささげた人々の歌であるとともに、聖パウロ三木とその同志、聖ロレンソ・ルイスとその同志、聖アンデレ・ジュン・ラクとその同志、聖アンデレ・キム・テゴンとその同志のように、より近年になってからいのちをささげた人々の喜びの叫びでもあります。

古今の多くのアジアの殉教者がこれからも、彼らの光り輝く衣を洗うために血を流している小羊をあかしすることが何を意味しているかを、アジアの教会に教えることを決してやめませんように。そしてキリスト者が、いつどこでも主の十字架の力だけを告げ知らせる使命を持っているという真理の不屈の証人でありますように。アジアの殉教者の血が、アジアのあらゆる場所で、今もいつも、教会のための新しいいのちの種子であり続けますように。

(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的勧告『アジアにおける教会』49

                     
                     
                     
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