牢屋の窄殉教90年祭

 カトリック教報昭和3251日発行

キリシタン史跡顕彰会結成  知事を会長に史跡を顕彰保存

416日県庁会議室で長崎県キリシタン史跡顕彰会の結成大会が開かれた。これは昭和29年頃から西岡知事、佐藤副知事を中心に県で計画されたもの、目的は県下のキリシタン史跡を調査し、県内外に顕彰すると共に、その保存整備を計り、世界文化の向上に資することにある。当日は佐藤副知事(西岡知事上京中)文書広報、社会教育、観光などの各課長以下関係職員、関係市町村の理事者、文化人代表など数十名が参集教会から山口司教様が列席された。佐藤副知事から「長崎県が日本キリシタン史上特殊の地位を占めていること」「県下に埋もれているキリシタン史跡を保存顕彰して、文化の向上に資したい」という挨拶と、顕彰会の設立趣旨の説明があって規約の審議が行われた。顕彰会は知事、副知事、出納長、県議会議員代表、県教育委員会代表者、県教育長、県関係部課長および関係市町村長および助役、関係市町村教育長、議員代表、県商工会議所代表、学識経験者、宗教団体代表など多方面の人士を会員とし、知事を会長としている。とりあえず、県下五十数カ所に上るキリシタン史跡に記念碑標、道しるべ、案内板などが建てられ、記念スタンプなどが作られる。また県下キリシタン史と史跡の説明書として「長崎の殉教者」(片岡吉著)が角川新書として5月中旬刊行されることになっている。キリシタン史跡顕彰のために、知事、副知事を中心に県が力コブを入れていることは、長崎県の特殊性を生かす画期的事業として各方面から注目されている。 
 
 

カトリック教報昭和3210

父祖の信仰に感激あらた  「牢屋の窄」殉教90年祭

823日、五島久賀島の「牢屋の窄」で、殉教90年を記念する殉教者顕彰式が行われた。式場には万国旗がはためき、五百名の信者達が外上、内上、内幸、外幸など村内8地区から集まっている。先ず、久賀教会主任竹谷音吉師の挨拶についで追悼祭が厳かに行われた。次に顕彰式。「牢屋の窄」の由来を書いた掲示文を、野原助役が朗読、少女友の会の江頭俊子さんが、花束をささげた。江頭鉄之助村長は式辞の中で「先輩が守ってきた信仰の自由を受け継ぎ世界の平和をこの『牢屋の窄』から呼びかけたい」と述べた。祝辞、祝電披露の後、迫害当時の生存者2名に記念品が贈呈された。一人は文久元年生まれの宮本タキ(97歳)さん、8歳の時この牢で苦しめられた。一人は明治元年生まれの浜村ツ和(90歳)さんである。入牢当時1歳の赤ちゃんだった。「牢屋の窄」は久賀島大開松ヶ浦にあり、明治元年1022日、老幼男女に百余名の人々が六坪のバラックに押し込められて拷問を受け42名の殉教者を出した殉教地。信者たちの努力によって記念碑が設けられていたが、今回江頭村長らの熱意により90年祭と顕彰式を行う運びとなったのである。
 
 

昭和32年 

「牢屋の窄」顕彰関係綴  久賀島村

昭和3261日    長崎県文書広報課長

関係市町村殿
長崎県キリシタン史跡の顕彰について

すでにご承知の通り、県では今なお残る県下五十有余にのぼるキリシタン史跡を調査し、広く県内外に顕彰するとともに、保存整備を図り、併せて文化の向上に資するため去る416日県庁において「長崎県キリシタン史跡顕彰会」を結成、これが顕彰事業の一つとして、去る5256の両日南高南有馬町において島原の乱320年祭(原城まつり)を催し、記念碑の除幕式や慰霊祭を行ったのであります。今後も引き続きこれら史跡の顕彰を実施いたしてゆきたいと思います。つきましては、貴市町村におかれてもこれら史跡の顕彰について計画がなされ、あるいは既に計画が進められておられる向きもあろうかと存じますが、実施に当たっては県と地元市町村とが協力していくことが最も効果的ではないかと考えますので、現在貴市町村で行事計画等がございましたら折り返しご一報下さいますようお願いいたします。
 
 

昭和32813日  長崎県文書広報課長

久賀島村長 殿

キリシタン史跡「牢屋の窄」の顕彰について

かねてご計画の「牢屋の窄」の史跡顕彰式典をこのたび挙行せられる由心よりお喜び申し上げます。このたびは予想だにし得なかった豪雨により各地に甚大な被害をこうむり、ただいま県では全力を被害地の救援と復興対策に注ぎ、日夜不眠不休の努力を続けている次第です。このような次第で、連絡も容易にならず十分なご期待ご要望に応じきれなかったこと誠に残念至極に存じている次第でございます。本日、かねてご依頼の掲示板用文案が片岡教授を煩わしできあがりましたのでお送りいたします。なお式典での花輪、知事祝辞等につきましては南松支庁を通じて、取りはからうよう手配いたしておりますので、念のため申し添えます。また記念スタンプも目下手配いたしておりますので出来上がり次第至急お届けいたします。

 
 

啓上

大暑の候、ますますご健勝の段、およろこび申し上げます。すでにご承知の通り「長崎県キリシタン史跡顕彰会」が結成、島原の乱320年祭をはじめ、県下の史跡が顕彰されておりますことはまことに同慶に堪えません。このたび、本村におきましてはキリシタン殉教の地「牢屋の窄」が県の顕彰計画に取り上げられたのを機会に且つまた殉教して90年になりますので、この聖なる殉教者の御霊を慰め申し上げるとともに、顕彰事業の一つとして乏しい乍ら90年祭を執行したいと思います。暑中まことに恐縮でございますが、820日を選び午前8時より開式、式後記念行事を開催いたしますので、万障お繰り合わせの上、御来臨の栄えを賜りますようご案内申し上げます。つきましてはこの祭壇へ貴顕より花輪の寄贈を賜りますれば一段の光彩を添えますので、特に御賛助下さいますようお願い申し上げます。    敬具

昭和3281日 久賀島村長 江頭鉄之助様

 
 

式辞

1957823日の佳き日を選び長崎県キリシタン史跡顕彰会御後援の下にここにキリシタン殉教の地「牢屋の窄」の顕彰式を挙行するに当たりまして、長崎県知事代理殿を始めた数の来賓各位の栄えあるご臨席を賜り、また村内信徒多数のご参列を頂きましたことは誠に感謝に堪えません。哀心より御礼申し上げます。「故きを温ねて新しきを知る」という言葉を皆様よくご存じの通り私どもは私どもの祖先が踏み行った道、なし遂げた仕事をたずねて努力を重ねるところに、新しい方向を見出すことが出来るものと信じております。即ちこれが歴史であり、こうした歴史の中から不変の平和は生まれるものと存じます。

本日ここに顕彰いたしますキリシタン史跡、殉教の聖地「牢屋の窄」は五島におけるキリシタン殉教の代表であり、長崎県のキリシタン史跡顕彰会に大きく取り上げられて、その巡礼コースに組み入れられておりますことは、私どもの郷土の誇り、観光久賀島の宝でございます。我が国にキリスト教が伝来したのは今より
408年前天文18年でございました。

フランシスコザビエル神父の熱心な布教によって薩摩の国の主島津公が入信して洗礼をうけたのをはじめに府内領主大友宗鱗、大村城主大村純忠平戸領主松村鎮信、島原有馬城主、天草領主など十名が次々に洗礼を受けた。したがって、領内の土民が先を競って信者となったことは、誠におびただしいものでありました。このとき私どもの五島におきましては、
18代牢久純定候が政略上も諸大名と宗教上の盟約を一つにして、領分の安定を策したのでありました。純定の子純堯が父の家督を継いで「キリシタン」の布教に大いにつとめ自ら洗礼を受けて妻も子にも教えを学ばしめ、洗礼を受けさせました。この頃から本島においても相当数のキリシタンが数えられ中でも市木、蕨、深浦はほとんど信者であったのでありますが、徳川幕府の幕藩体制を強化するためにキリスト教を禁制して、信仰の自由と良心の尊厳とを踏みにじるという惨憺たる迫害の嵐によって教えの種子は一旦中絶したのでありました。然し、寛政年間今より157年前大村藩の隠れキリシタンが開拓移民として上平、細石流、永里、外輪、大開等に落ち着いたのでありました。

彼等は表向きは仏教徒を装いながら密かに信仰を固く守っておりました。ところが、慶応
2年本島の信徒が隠れて長崎へ行ったその帰り途福田の監視の網にかかって福江に紹介されたときあたかも明治新政府は15代将軍徳川慶喜に体制を奉還させ、薩長土肥の中心の新政府を組織するとともに、国民の信仰の自由について、まだ確固たる方針が立っていないないままに長崎総督府に対し布告を与え、五島領主飛騨宗盛徳に対して沙汰をした。その沙汰を受けた福江藩ではその解決を一方的に誤解して尊皇に従事せずその恩典に浴することなく度外視される立場においやられ、今度のキリシタン取り調べにおいて、忠義立ての努力をなして、新政府の歓心を買わねどと、間違った考えを起こしキリシタン迫害の手段に訴えることになったのであり、まったく五島の「キリシタン」にさきがけて福江藩のあやまった忠義立ての犠牲に供せられ言語に絶する弾圧の苦渋をなめさせられたのでありました。

福江表へ連れて行かれた主だった信者
22名の入牢の憂き目に・・・・・陰暦十月の初旬大雪の中に裸体にされ荒縄で後ろ手に固く縛られ海中に投げ込まれた寒ざらしの責め・・・・・中でも帝八少年のあわれさ、衣服を脱がされて算木責め・・・・・・鉄の十手を振って背から腰にかけて砕けよとばかりに打ち叩く十手の叩き責め・・・・・・真っ赤に焼けた木炭を手のひらにのせて火を吹き起こす火責め・・・・・・四斗樽になみなみとくみ入れてある水を息もつかせず柄杓で注ぎ込む水責め・・・・・・素裸にされて十字架に手足を結びつけられたはり付け責め・・・・・あらゆる責めを受け苦難をなめた揚げ句23間の僅か6坪の假の牢屋に二百名の大勢が無理に押し込められてしまいました。一坪あたりの収容人員は三十有余名飢えと、苦痛に死者が続出13歳の少女は蛆に下腹を食い破られて死亡した。熱病におかされて頭髪がぬけ落ちた10歳の幼女マリヤたきは「私は天国に行きます。お父さんお母さんさようなら」とあわれにも一語残して息をひきとったということでございます。かくて在牢八ヶ月、42名が殉教したのでありました。

何たる悲惨きわまることでございませう。何のためにこの拷問を受けなければならなかったでしょう。孜々として生業に励み法に従う良民であった彼等はただ信仰に忠実、神の掟を重んじたと言うだけでその責め苦を受けたのでありました。幕府の、そして五島藩のあやまった政策の犠牲となったのでありました。二百余名の信徒はことごとく超人的精神を持って、この比類ない苦痛を堪えしのぎ、その信仰は微動だにもしなかったのでありました。

世の中にこれ以上美しいものはまたとないと存じます。このキリシタンの信仰の強固さ、その偉大さを計り知ることはできません。実に信仰に生きる久賀島カトリック教徒の魂の偉大さを発揮したもので、五島における殉教地の代表であり、我が国の代表的聖地の一つとなっているのでございます。惨苦の日から数えて
90年の今日、ここに記念式典を挙行するに当たり関係の諸賢よりいただきました数々の御高思に対しまして、心からお礼を申し上げます。誠に感謝に堪えなく存じております。未だ殉教の地、生臭いこの聖なる「牢屋の窄」が永久に村民子弟の教育の上に、はたまた、観光の上に供せられ日本文化の宝として保存されることを願ってやみません。カトリックの大精神の下に殉教された42名の在天の御霊どうぞ私どもの上に、加護を下し賜られんことをここに愚辞をのべて式辞といたします。

昭和32823日 久賀島村 村長 江頭 鉄之助

 
  
   




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