牢屋の窄殉教100周年祭

 

久賀島(牢屋の窄)殉教記念祭

第一回、公式盛人殉教記念祭、牢屋の窄、殉教100周年を記念して、1969年(昭和44年)7月31日、里脇大司教主式で盛大に行なわれた。司祭、修道者、浜脇小教区の信徒と共に、長崎からは九州商船の波路丸をチャーターして,久賀湾、牢屋の窄の下まで直行、多くの子孫たちが参加。先祖の遺徳を偲び、神への感謝を捧げた。当時の主任司祭、峰徳美師。説教、丸尾武雄師。当時はまだ牢屋の窄殉教記念聖堂も各殉教者名碑もなく、ただ中央の信仰の碑のみが建てられていた。浜脇小教区としては牢屋の窄殉教100周年を記念して信仰の碑記念誌を出版。先祖の歩みを、くわしく田中千代吉の努力と誠意によって諭された。

 

牢屋の窄百周年殉教記念祭

第一回、公式盛人殉教記念祭、牢屋の窄、殉教100周年を記念して、1969年(昭和44年)7月31日、里脇大司教主式で盛大に行なわれた。司祭、修道者、浜脇小教区の信徒と共に、長崎からは九州商船の波路丸をチャーターして,久賀湾、牢屋の窄の下まで直行、多くの子孫たちが参加。先祖の遺徳を偲び、神への感謝を捧げた。当時の主任司祭、峰徳美師。説教、丸尾武雄師。当時はまだ。牢屋の窄殉教記念聖堂も各殉教者名碑もなく、ただ中央の信仰の碑のみが建てられていた。浜脇小教区としては牢屋の窄殉教100周年を記念して「信仰の碑」記念誌を出版。先祖の歩みを、くわしく田中千代吉の努力と誠意によって諭された。

 
 

昭和44年6月1日

五島久賀島の浜脇小教区(主任峰徳美)では牢屋の窄殉教100年祭を7月30日行なう事になり準備を進めている。牢屋の窄は久賀島大間の松ヶ浦にある明治元年、三間に二間、六坪の民家を二つに仕切って男牢、女牢とし、200人余りの信者が押し込められ、人間の密集地獄を現出したところである。食物は小さなイモを朝,夕一切れずつ。大小便はたれ流し.餓えと不潔と座ることもならぬ密集地獄の中で39人が殉教した。

在牢八ヶ月の間、この人々が示した神への信仰と愛とは、誠に感嘆すべきものであった。

ここに殉教記念碑
.信仰の碑が建てられていたが、100年記念に納骨堂をつくり殉教者のうち、墓がわかっている十人の分骨が安置される100年祭には里脇大司教司式の記念ミサ、十余隻の船団による海上行進ほか新に立てた。「久賀島カトリック信徒囚獄の跡」と刻んだ記念碑除幕式などが行なわれ、また殉教100年史も出版される予定である。

記念聖堂
.久賀島には浜脇教会のほか、五輪,永里、赤以田、細石流という四つの巡回教会があり合計200戸以上の信者がいた。昭和31年の信者総数は、1252名。その後、人口流出のため信者数が激減したので永里、赤以田、細石流の三教会を合併し、不要になった九電の発電所を165万円で買収して内部を改装し牢屋の窄記念聖堂とすることになった。これは辺地の過疎化が教会総合という形で表現化したもので長崎教区が抱えている問題の一つが浮かび出たもの。


牢屋の窄教会の信者戸数は
20戸、五輪10戸、浜脇30戸、合計60戸で、その60戸も出稼者が多いので信者数は非常に少なくなっている。殉教100年祭には県内ばかりでなく、名古屋、北九州、別府などからも久賀島出身者が参列する予定なので九州商船チャーターして巡礼団を編成することになる。団長は丸尾武雄師(紐差教会主任)をいただくことになっている。久賀出身者はもちろん、一般信者も巡礼団に加わるように希望されている。
 
 

昭和44年6月1日

五島久賀島の浜脇小教区(主任峰徳美)では牢屋の窄殉教100年祭を7月30日行なう事になり準備を進めている。牢屋の窄は久賀島大間の松ヶ浦にある明治元年、三間に二間、六坪の民家を二つに仕切って男牢、女牢とし、200人余りの信者が押し込められ、人間の密集地獄を現出したところである。食物は小さなイモを朝,夕一切れずつ。

大小便はたれ流し.餓えと不潔と座ることもならぬ密集地獄の中で39人が殉教した。在牢八ヶ月の間、この人々が示した神への信仰と愛とは、誠に感嘆すべきものであった。ここに殉教記念碑
.信仰の碑が建てられていたが、100年記念に納骨堂をつくり殉教者のうち、墓がわかっている十人の分骨が安置される100年祭には里脇大司教司式の記念ミサ、十余隻の船団による海上行進ほか新に立てた。

「久賀島カトリック信徒囚獄の跡」と刻んだ記念碑除幕式などが行なわれ、また殉教100年史も出版される予定である。記念聖堂
.久賀島には浜脇教会のほか、五輪,永里、赤以田、細石流という四つの巡回教会があり合計200戸以上の信者がいた。昭和31年の信者総数は、1252名。その後、人口流出のため信者数が激減したので永里、赤以田、細石流の三教会を合併し、不要になった九電の発電所を165万円で買収して内部を改装し牢屋の窄記念聖堂とすることになった。

これは辺地の過疎化が教会総合という形で表現化したもので長崎教区が抱えている問題の一つが浮かび出たもの。牢屋の窄教会の信者戸数は
20戸、五輪10戸、浜脇30戸、合計60戸で、その60戸も出稼者が多いので信者数は非常に少なくなっている。

殉教
100年祭には県内ばかりでなく、名古屋、北九州、別府などからも久賀島出身者が参列する予定なので九州商船チャーターして巡礼団を編成することになる。丸尾武雄師(紐差教会主任)を団長にいただくことになっている。久賀出身者はもちろん、一般信者も巡礼団に加わるように希望されている。

 
 

教報、昭和44810

殉教百年祭と記念教会祝別―久賀に盛り上る信仰。五島久賀島の浜脇小教区〔主任峰徳美師〕では牢屋の窄、殉教100年祭と記念教会の祝別式を730日、里脇大司教様を迎えて荘厳盛大に行はれた。久賀出身者を中心とする巡礼団も、九州商船鳴潮丸をチヤ‐ターして参加、久賀では十余隻の満船飾の漁船が海の行列をかねて出迎え巡礼団を感激させた。入口流出で過疎の町になった久賀もこの日は黒山の人々が集まって,殉教者の信仰と愛をたたえ、さすがに信仰の地であることを思わせた。島出身の司祭、男女修導者も多数里帰りして信仰のム‐ドに包まれていた。{面坂谷師の}参列記をごらん下さい。

 

昭和44年8月10日

丸尾武雄師の説教

髪の一筋に至るまで今は故人となられた島田喜蔵師は、明治2年の末ごろ長崎から久賀島に身をかくしている明治2年と言えば、久賀島の信徒が、迫害のため閉じ込められていた松ヶ原の牢から出された年である.生前師は初聖体の準備していた私たちに次の話をしてくれた。あなたたちの先祖は、迫害の時どんなに強く苦難に耐えて来たか、お父さん、お母さんから教えられているんだろう。明治3年と言えば、もうずっと昔のことのようであるが、一月の終わりごろの寒い夜だった。

私が屋曽根から外輸に行く途中、赤仁田の信者の家に立寄ったらちょうど夕食の時だった。あれこれと話していると,丸坊主のばあさんが、書生さんにもと言ったダンゴ汁の皿を出された
.お腹もすいていたし喜んでいただいてみた、しかし二口目からは遠慮してしまった。今思えばすまないことをしたと悔やんでいる。それは山芋のような、とろろをすりつぶしてダンゴにし水たきしたものだった。

その当時はとろろ、汗さえ充分ではなかったのだ。家は木の枝を組み合わせ,芽をはさみこみわずかに雨風を凌ぐだけであった
.タタミどころか床板もなく竹の上にワラを敷いていた男も、女も、老人も、若い人も髪はなく丸坊主だったその理由をたずねてみたら迫害の結果だとわかった。ばあさんは次のように話してくれたと言う.私たちに髪がないのは拷問にかけられ、きつい病気にかかった結果です。

牢屋の中でかみは皆脱,ヒョウタン頭になりました。ご覧の通り
,全くの無一物です。生命だけはつないでいますが牢屋を出てからの苦労は一通りではありません、とこう話されて島田師は涙ぐんでしまった。そして最後に髪一筋に至るまで、イエズス様に捧げつくしていたのだよ、と言って結ばれた。愛の証として父なる神は、人類のため十字架上に犠牲となられた。キリストと世の終わりまで旅する神の民の中に現存される聖体のキリストとを似て人間に対する最上の愛の証しとされた。

しかし
,斯くまで世を愛し給う、との、父なる神の言葉は、キリストの33年間の生涯のすべてを通して世を愛し給うと言う狭い意味だけではない。世の終わりまで否永遠に神の民と共に、愛の活動の中に現存するキリストイエズスをあたえるほどに、世を愛し給うのである。

神の民はキリストを除外しては現存し得ない。主は、キリスト信者を迫害していたサウロ対して、サウロよ、サウロよ、なぜ私を迫害するのかと、言ってなぜ私の信者を迫害するのか、とは言っていない。サウロが主よ、あなたはだれですか、とたずねると、私は、あなたの迫害しているイエズスである、と答えている。キリスト信者を迫害するのと、キリストを迫害するとは同一のことである。

キリストの現存する神の民だからである、それで迫害を耐え忍んだ先祖はキリストと共に、父なる神に対して偉大なる愛の証をしたのである彼らと共に現存するキリストに全き信頼を似て仕え、キリストの犠牲に彼等のもてるすべてを生命までも一致させて奉献し尽くしたのである、御自分の愛を与える事を、キリストを
通して人々に呼びかけられた、先祖は、その神の愛をキリストと共にハイ、と答えて受け入れたのである、このハイ、が、偉大の愛の犠牲として、父なる神にかえっていったのである。我が主の希望とは、ペトロと他の弟子たちが一晩中働いて何も魚はなかった。心身共につかれきって空腹になっているペトロに、主は船を沖に漕ぎ出し網を入れよと言われた。


ペトロの心境が察せられる。だがペトロは考え直し。お言葉に従ってやってみます、と答えて網を降している。その結果は大漁であった。今我々にも同じキリストが話しかけられているもう一度やってごらん、と、人間の弱さも、失敗も御存じの主が、もう一度、と言われているのである。宇宙は日一日と完成される終末に向かって進んでいる。世界と人間のため神は人間の協力を要請されている。人間と言う共同体の完成の中にあって個人の完成はあり得るのである。先祖は神の要請に全き協力をおしまなかった彼等こそペトロの如くみ言葉に従って実行したのであり、我々子孫にも、そうせよとさとされているのである。
  
   
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