キリシタン時代

 
 

ルイス・デ・アルメイダ

ルイス・デ・アルメイダ(1525158310月)

は戦国時代末期の日本を訪れたポルトガル人。

商人であったが、医師の免許を持ち、西洋医学

を日本に導入して日本初の病院をつくったこと

で知られる。後にイエズス会員となった。

 

生涯

アルメイダは、1525年ごろリスボンで、「新キリスト教徒」(レコンキスタ後ユダヤ人あるいはムスリムからキリスト教に改宗した人々)の家庭に生まれた。1546年ポルトガル王から与えられる医師免許を取得した後で、世界雄飛を夢見てゴアからマカオに渡った。1552年貿易目的で初来日。日本とマカオを行き来して多くの富を手にした。

 山口でアルメイダはイエズス会宣教師コスメ・デ・トーレス神父に会う。彼はフランシスコ・ザビエルの事業を継承して日本で布教を続けていた。アルメイダは宣教師たちとの出会いを通して、思うところがあり、豊後府内(大分県大分市)にとどまり、資財を投じて乳児院を建てた。これは当時の日本で広く行われていた赤子殺しや間引きの現実にショックを受けたからであるとされている。さらに豊後府内の領主であった大友宗麟に願って土地をもらいうけ、1557年に外科、内科、ハンセン氏病科を備えた総合病院を建てた。これが日本初の病院であり、西洋医学が初めて導入された場所である。また、大分において「ミゼリコルディア」(ラテン語で「憐れみ」の意)といわれたキリスト教徒の互助組織を発足させた。

 布教においても活躍し、コスメ・デ・トーレス神父は、改宗がむずかしそうな土地へたびたびアルメイダを向かわせた。学識あるアルメイダは僧侶など知識人の欲求によく応え、改宗へと導いた。医師としても貧しい人々を助けたので多くの信者を獲得した。

 神父としての活動を始めてからも、貿易への投資を続け、病院の資金を調達した。

また、慢性的な財産難に苦しんでいた日本の教会へも惜しみなく資財を寄進した。

 日本人医師の協力を受けて病院を運営していたアルメイダは1558年には医学教育も開始。医師の養成を行った。やがてアルメイダは九州全域をまわって医療活動を行うようになり、1566年には五島の教会領主宇久純定の治療を依頼されるほどその名声は高まっていた。

1580年、アルメイダはマカオにわたって司祭に叙階された。再び日本に戻って、宣教活動、医療活動に専念するが、158310月に天草の河内浦(熊本県天草市)没した。冒険商人から無償奉仕の医師へと転進し、病人と乳児に尽くした波乱の生涯であった。

 

 

出典:フリー百科事典「ウィキペディア」

 
 

資料5

ロレンソ了斎

 ロレンソ了斎(1526年〜15922月3日)は戦国時代後期に活躍した日本人イエズス会員。琵琶法師であったがフランシスコ・ザビエルに出会って洗礼を受けた。名説教家として知られた彼は精力的な布教活動を行い、当時の日本におけるキリスト教の拡大に大きな役割を果たした。ロレンソとも言われ、ロレンソ了西と表記されることも。

 

生涯

 肥前白石(現在の平戸市)出身の了斎は、目が不自由であったため、琵琶法師として生計を立てていた。彼の人生に転機が訪れるのは、1551年(天文20年)のことである。彼は山口の街角でたどたどしい日本語を話す男の声を聞いた。その声の主こそフランシスコ・ザビエルであった。ザビエルの話を聞いて行くうちに了斎は話の内容に不思議な魅力を感じるようになっていった。キリスト教についてのさらに深い説明を聞いた了斎はザビエルの手によって洗礼を授けられ、ここにロレンソという洗礼名を受けた。以後、ロレンソと呼ばれることになる彼はキリスト教布教に生涯を捧げることになる。

 ザビエルが日本を離れた後もロレンソはイエズス会の宣教師たちを助けて働き、1559年(永禄2年)コスメ・トーレスの命を受け、ガスパル・ヴィレラと共に京に入ったロレンソは、苦労の末に将軍足利義輝に謁見し、キリスト教布教許可の制札を受けた。また、二人は当時の京都の実質的な支配者だった三好長慶にも会って布教許可を得ることができた。

 さらにキリスト教に対し好意的でないという評判のあった松永久秀が、宗論のためにヴィレラを自らの領地である奈良に招いた時には、ヴィレラ自身が赴くのは危険すぎるということでロレンソが派遣された。ここでロレンソは理路整然と仏僧を論破し、その疑問にことごとく答えた。論議の審査のためその場に居合わせた高山友照はこれに感心し、自らの城にロレンソを招きさらに教えをこうた。このような経緯をへて高山友照は息子高山右近や家臣などと共にヴィレラから洗礼を受けた。

 1563年(永禄6年)に正式にイエズス会に入会、修道士(イルマン)となった。

 1565年(永禄8年)には九州に赴いて宣教活動を行い、1569年(永禄12年)に再び畿内へ戻った。ここで織田信長から布教の許可を得ることができ、ルイス・フロイスと共に信長の面前で反キリシタンの論客であった朝山日乗(日乗上人)という僧と議論を行い、これを論破している。このとき、日乗は逆上して刀を持ち出したところを信長の家来に取り押さえられている。

 1587年(天正15年)に伴天連追放令を受けて九州へと移り、1592年(文禄元年)に長崎で逝去した。

 琵琶法師として日本の伝統文化や仏教・神道の知識が深かったロレンソは、その知識を生かしてキリスト教を布教し、戦乱の世にあって救いを求め、キリスト教の教えを知ろうとした多くの人々の疑問に答えた。当時の畿内や九州で多くの洗礼者が出たことはロレンソの布教活動に追うところが大きい。

 

出典:フリー百科事典「ウイキペディア」

                     
                     
                     
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