久賀島のキリシタン 第14代久賀島小教区主任司祭 田中 千代吉著 1.久賀島とは 久賀島は福江の東北方に位置し、周囲約30キロの小島で、約6キロの奥深い久賀湾が北方に向かって開け、馬蹄形をなしている。福江島と併称されて大値嘉島と呼ばれていたが、寛永15年(1638年)1月元旦から独立して、久賀島と呼ばれるようになった。宇久、中通、若松、奈留、福江の各島を併せて五島と呼ばれていたが、明治11年(1878年)区町村編成法により、宇久島が北松浦郡に編入し、久賀島がこれに代わって五島の一島に数えられるようになった。昭和32年11月1日に福江市に合併された。小さな部落が点在し、戸数約500戸、人口約2,500が数えられ、(昭和42年度)五島で唯一の自給自足出来る島とされている。この島の田ノ浦や浜脇には石鍬や縄文晩期頃とされる土器の破片、石斧、たたき等が耕作されている畠から出土しているのをみると、すでに古くから人々が住んでいたことが考えられる。市小木、蕨、深浦は昔キリシタンの部落だったと伝えられているが、市小木、蕨部落は迫害のため全滅、市小木にはその後宇久島と播磨から、蕨には四国松山からと、伝説の高麗島から移り住み、深浦は昔のキリシタンの子孫だと伝えられている。久賀島湾の袋の底部は、農林省直轄の干拓が1億3千万円の工事で昭和41年度完工、1町2段歩ある。この干拓の西側にそって福江市役所久賀島支所、久賀小学校、郵便局並に久賀の本部落がある。内上平、大開の一部、内外幸泊、折紙、栄里、竹山、浜泊、細石流の各部落の先祖は寛政年間から幕末にかけて大村藩の牧野、大野、神ノ浦から住みつき、細石流には四国から漁にきてそのまま移り住んだ人たちの子孫もいる。 五島民族図誌によると、文化7年(1810年)12月15日久賀島田ノ浦へ唐船14人乗り1艘漂着。 文政6年(1823年)12月12日久賀島蕨へ朝鮮人26人乗り1艘漂着。 寛永4年(1851年)1月24日久賀島にて大蛇を焼狩す。 万延2年(1861年)1月27日久賀島に寄鯨。 |
2.大村藩外海より久賀島に移住 1797年(寛政9年)11月、第28代五島侯盛運は、大村領主純尹侯に、五島の山林の開墾のため住民の移住を乞うた。そこで、大村藩所属の西彼杵半島の外海地方のキリシタンが移住した。外海地方は大村領と佐賀領とに分かれていたが、大村藩はキリシタン弾圧が厳しく、それに加えて貧乏藩の政策として人口制限のため、長男だけを残して二男以下は殺さねばならなかった。 1606年の目録には外海にはパアデレ1人日本人イルマン1人がいた。
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「神の福音は久賀島にも芽生えていた」 キリシタン伝説の久賀島 浜脇教会出身司祭 丸尾武雄神父著 「主よ、渇くことがないように・・・その水を下さい・・・・・ それは、あなたと話している、この私である」(ヨハネ4・15) 1566年から1624年までの間に、宣教師、修士、伝道師などが久賀島を訪れたか、どうか、さだかではない。何もその証としての書類は残っていない。久賀島は福江島の東北にある小さな島であるが、福江島に近い位地にある関係から、400年前に己に「神の福音」は芽生えていたのである。中にも市小木、蕨、深浦の地区には多くのキリシタンがいたと言われている。然し、1587年秀吉が禁教令を発布し、宣教師追放令を出した。また、五島においても、領主となった純玄がキリシタン追放令を出している(上五島町誌)。「神の福音」は一瞬にして「邪宗門」と宣告され迫害の嵐は日増しに、はげしく残酷となり、島々の隅々にまで「鉄の十手」が荒れ狂ったのである。修士アルメイダとロレンソを始め、多くの宣教師によって種まかれた「神のみ言葉」は踏みにじられ幼い命までが「神への賛美、犠牲」として捧げられたのである。 伝説ではなく現実に神の福音は伝えられていた 多くのキリシタンがいたと言われている市小木、蕨、深浦の中で、現に深浦地区には今に至るまで、その証が残っている。部落後方にある墓地に行ってみると、それは疑いもなく、キリシタンの墓が並んでいる。この村落の古老は「キリシタン時代の墓は今見ている通り皆✤✤ねせ棺✤✤であるが、宗変えしてからは✤✤たて棺✤✤になっている」と、指差して教えてくれた(昭和15年夏)。処が、今日では平家の落人の墓だと地区の人は言っているとのことである。然し、それも現在では改葬されて、その姿は消えつつある。 |
深浦キリシタンの生活の跡 深浦地区の北側に「塩浜神社」がある。この神社の神殿の下には、キリシタン時代に彼らが塩を精製していた塩窯の跡がある。昭和の初めごろまでは、塩窯の跡がそのまま残っていたが、現在はコンクリートで塗り塞いでいる。又この神社に祭られている神体も、塩を精製していた時代の塩釜の蓋を祭っていたが、現在では名古屋から御神体をいただいて祭っていると、言われている。 “塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。”(マタイ5・13) 信仰のシンボル石の十字架 深浦地区の前方に小さな岬に小高い丘がある。昔ここに石の大きな十字架が建てられていたと伝えられている。然し、これも長い迫害のためひきずり降ろされ、海底に沈められてしまった。曾祖母丸尾ふりの言葉によれば、この十字架は石の大きな十字架であった。細石流に行く時、深浦の後方の上の道から、明治二十年前後までは凪の時、海の中に、その姿が見えていた、と言う。そして昔、深浦の人々は朝な夕な、この十字架に向ってオラシオを唱えていたと伝えられている。今では永い年月の風雨によって土砂に埋り、その位置さえ定かではない。脇田浅五郎司教が韓国光州から、戦後長崎に帰られた時、この十字架のことについて尋ねてみた。脇田司教の話ではご自分が昭和3年か4年頃水夫を入れて、あの深浦の岬の海岸を探させたが何の手がかりもなかった、と残念そうに話された。「十字架の言葉は滅んでいく者にとっては、愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」(コリント前1・18) |
経書と共に信仰も土の中 深浦の石の十字架が建てられていたと言う丘に経塚がある。これは、この部落のキリシタンが棄教する時、オラシオの本とか、キリシタンに関係のある、すべての書類を、ここに埋めたと言う。脇田浅五郎司教は、この経塚を発掘して調べている。脇田司教の話では、キリシタンのものだと分かるものは何も出てこなかったが、周囲は赤土だが、キリシタン関係の書類を埋めたとされる土地は真っ黒であり、赤土と黒土の間に、焦げた色の土が出て来た。多分、書類を焼いて埋めたのではないかと言っていた。 深浦の「一ときそば」伝説が伝説を生む おとくさんの「一ときそば」の物語がある。キリシタン迫害時代、当時、役人に追われたキリシタンが、深浦の上の畠で「そば」を蒔いているおとくさんに出会い、追手の者が若したずねることがあったら、この「そば」を蒔くとき、ここを通ったと伝えて欲しいと依頼して、細石流に逃げ、駒で飛瀬に飛んで下り、遠く小値賀の方に逃れ、その後、まもなく追手が、おとくさんにキリシタンらしき者がここを通らなかったかと尋ねるので、この「そば」を蒔く時通ったと告げると、「そば」は既に実っていたので、追手の者は引き戻したと、田中千代吉師は「この物語は黒崎地方の隠れ切支丹の「天地始之事」に麦作りの不思議として伝えられている。「麦」と「そば」を置き換えたものである」と述べてある(100年誌) 他の伝説も伝わっている 迫害時代に食糧難で貧困の上に貧困な生活をしている時、細石流の人が久賀の本村落に行く途中深浦の「おとくさん」の家の近くを通った時、彼女は「そば」を蒔いていた。用事をすませて帰る時、行きと同じく「おとくさん」の家の近くを通ってみると、朝蒔いていた「そば」は実り、刈り取っていた、と。「おとくさん」が熱心なキリシタンだったから、神様が恵んで下さった話として伝わっている。 |
「あけずが箱」の中にはサンタ・マリアか この深浦地区には「あけずが箱」と呼ばれているものがある。以前は「塩浜神社」に置いてあったらしいが、現在は近くの「太子堂」に納めてある。昔の人々から、この箱を開けると眼がつぶれると代々言伝えられていた。浦人達は、箱の中には「サンタ・マリアの像」が入っているのではないかと噂されていた。ある時好奇心からか、どうか真意は分からないが、この「あけずが箱」をある人が開けてみた。古い、黒くすすけた布で幾重にも幾重にも、くるまれて「あけずが箱」はあった。布を一枚一枚丁寧に開いてみると、中には真新しい箱に、新しい「慈悲菩薩一体」が?納められていた。幾重にも幾重にも巻いていた黒い、すすけた布と中の真新しい箱、新しい木の仏像と、どこかで、かみ合わないような感じであった。箱は木製で長さは20センチ前後、横は5センチ位のものであった。そのほかにも脇田司教によると、今のキリシタン達の先祖が外海地方から、この地に移住して来た頃には、コンチリサンの祈り(痛悔の祈り)を暗唱していた古老達もいたと言う。これらの古老たちの人生の最後には、 このコンチリサンの祈りを唱え神の赦しと救いを求めて行ったのではないだろうか。そうであったことを祈ってやまない。 島主(久賀殿)はキリシタンであったか |
久賀殿の墓 久賀殿の屋敷 殿川 元田の浦小学校の近くの藪の中に、ひとつの変わった墓碑がある。浦人は、これを殿墓と言っている。墓碑面は摩滅して、刻まれていた文字など何も分からない。墓碑の上の方に、聖人たちの頭上にのせる金冠に類似した円形のものが碑の上部に彫り付けられている。この殿墓は元田の浦小学校のすぐ近くにあるが、現在では藪が道をふさぎ見つけるのに苦労する程である。昭和15年、夏この地を訪れた時は、きれいに掃除もされており、墓碑の手前には鳥居まで建ててあった。そして丁寧に、お供えものもしてあった。過疎化の今日では、訪れる人もないのだろう。 「体を殺しても、その後、それ以上何も出来ない者どもを恐れてはならない。だれを恐るべきかを教えよう」。(ルカ12・4)元田の浦小学校の南側に、今は荒れているが、段々畑がある。浦人は皆これが久賀殿の屋敷だったと伝えられていると言う。昔は陶器類が出てきたと話す。今日では何も証となるものはない。又、この畑のすぐ下に「殿川」と呼ばれている小さな湧水口がある。浦人の話では、どんなに長い日照りのときでも、この「殿川」の水が枯れたことはない。浦の地区の井戸水が皆なくなっても。この「殿川」の水だけは何時も豊かである、と。自分も日照りの時、ここまで水を汲みに来たことがあると老人は言っていた。湧水を手にして飲んでみた。冷たくて、おいしい水であった。久賀殿が、朝な夕なこの水を使用していたのであろうか。今ではこの水は「たんぼ」の灌漑にも用いられている、と言っているが水量はすくない。現在、「殿屋敷」には大きな観音像が建てられている。 田尻の二基の墓 田尻にある二基の墓は、昔のキリシタンの墓と言われている。この二基の墓が1566年アルメイダとロレンソが、最初に五島に宣教した時代のキリシタンの墓か、或いは、その子孫の墓か。それとも1797年(寛政9年)、第28代五島候盛運の時、大村領主純尹候に五島の山林の開墾のため住民の移住を乞うた。その時以来、五島には次々と多くのキリシタンが外海地方から移住している。その時の移住民の墓か、その子孫の墓か定かでない。 |
迫害は長く残酷をきわめた 今から400年前、己に久賀島にも主の福音は芽生え、多くのキリシタンがいたが、長い惨憺たる迫害によりほとんど根絶してしまった。市小木の如きは迫害のため人種子がつきて三度まで松林に変じたとか、そのため市小木住民で昔から住みついていたのは、与市と平二郎の二家族だけで、他は悉く移住民である、と。「切支丹の復活」にも記している。この伝説に興味を持って、市小木地区の古い墓地、新しい墓地を回り、昔のキリシタンの何かの証となるものがないかと、山中の小さな墓地まで足を運んでみた。しかし市小木の墓地からは何も見出し得なかった。 孝の御膳 殿元御前 今、松ケ浦の牢屋の窄 殉教記念堂の少し先の方に、「阿治の浦」という所がある。浦の前方に「孝の御膳」「殿元御前」として詞っている所がある。これには次のような伝説がある、市小木に一人の「善か人」(キリシタンをこのように呼んでいた)と、蕨にも金吾と言う善か人がいた、追われて「阿治の浦」に至り、そこで斬られたのを、今では「孝の御膳」とか「殿元御前」として、小さな碑を立てて詞っている。このことについて「切支丹の復活」に原稿を書いた脇田司教は、次のように話していた。一人のキリシタンではなく、役人から目を付けられていた、キリシタンの役職をもっていた人か、有力なキリシタンであったのだろうと話していた。久賀の教会の100年誌には、市小木の「善か人」だけが斬られたように記されているが、脇田司教の話では、蕨の「善か人」金吾も追われて「阿治の浦」に至り、そこで二人とも斬られたのだと言われていた。果たして、どれが真実か、伝説は伝説として続いて行くのだろう。 蕨集落について 蕨集落にも最初の宣教時代には多くのキリシタンがいたと言われているが、この地区については伝説としても、ほとんど残っていない。少し変わった高麗地蔵の伝説があるが、キリシタンと関係があるかどうか。久賀の教会100年誌には、外海地方にある「天地始之事」のノアの洪水からとったのではないだろうかと書かれている。蕨地方にキリシタンの全く絶えたのは、今から7代ばかり以前であったと言われている。 |
ここに、 前二六聖人記念館館長 了悟師の論文掲載予定 |
外海のキリシタン久賀島移住 第14代主司祭 田中千代吉師 カサナテンセ図書館所蔵日本文書、松田毅一図書館採訪記によると第6文書、元和8年3月大村中連判書簡の一部に、右之まるちりよの御人数、今迄は凡そ25にて御座候事。此等之趣、少も相違無御座候通、こんしえんしやに(良心)かけ申上候。在々所々の貴理志端共、めいめい連判、可遂言上候へ共、大勢の義に御座候へば、村々の頭分の者計如此に御座候。乍恐日本キリシタン繁盛之為、御祈念奉○上候。以上。元和8年3月 たいら村 城戸作介まてやす(黒印) ミえ村 岸川権右衛門尉るいす(花押) 同村 久原新右衛門尉とミんこす(花押) かしやま村 諸吉久次良ふ乱しすこ(黒印) くろさき村 岸川次郎右衛門寿庵(黒印) しめ村 小山惣右衛門尉ば七あん(黒印) こうの浦村 大串将監ありしよ(黒印) 同村 大串五右衛門尉しまん(黒印) 同村 大山喜右衛門尉じよあん(花押) 大野 山口吉右衛門尉とめい(黒印) ゆきの浦村 荒木弥七良はうろ(花押) 外海地方に関する部分だけを記した。 先祖達のこうした信仰心が血潮の中に流れていた故であろうか、外海にいるときのような子供殺を強要する大村藩の経済政策からのがれることは出来たが、安心して信仰を守り、安定した生活の期待は未だ未だ遠いものであったが困難に出会っても強固な開拓精神と信仰心は失しなかった。福江藩から役人が出むいて市小木の猿田彦神社で絵踏が行われるとキリシタン達は踏絵の端にツマ先だけをつけ足の裏が絵にかからぬ様用心しながら踏んだまねをすると、厳しく監視している役人がこれを見て、キリシタンの足を踏絵にすりつけていた。と先祖の苦労話を今も尚語り伝えている。久賀島の丘陵地に住みついたキリシタンは茅の先端を結わえてその中に起居しながら、住家と、開墾にとりかかり芋を植えたが、猪が食い荒らすので柵をつくり、おとし穴を掘り、石垣を築いて侵入を防ぎ退治しようとこころみたが、全滅出来そうになかった。(やっと明治の末頃、猟銃、火薬を仕かけて全滅出来た) 注1 浜脇教会所蔵信徒家系による。 3.久賀島のキリシタン大浦天主堂へ 7代250年にわたって潜伏し続けた切支丹はローマから使わされる神父がいつかきっとマリア様の導きによって日本にお出でになると心ひそかに期待していた。沖に見えるはパーパの舟よ、丸にやの字の帆が見える。このような歌を口づさんでいた。丸にやの字はマリア様のことである。 注2 又久賀島からは1886年頃8名が乗りこんだ舟で大浦天主堂に参詣に行き、帰舟したところを役人に捕まり、宣教師達は心配され7・8月五島に行く予定だったのを取り消している。同年9月7日福江藩はこの人達を受け取りに行き、そのまま家に帰させ、何のこともなかった。 注2 野原勇助氏談 |