下五島の教会 ○ 五島最初の奥浦教会 キリスト教が五島に伝わったのは、第18代宇久純定の要請によって、永禄9年(1566)宣教師アルメイダとロレンソが来島したことによる。 純定の理解もあって、福江で重臣など25名が洗礼を受けた。それを伝え聞いた奥浦の住民たちは、アルメイダの来村を乞い願い教義を開いた。こうした熱心な人々は領主の許しを得て、寺の仏像を田に移し教会堂とした。そして、毎月2回の教義と、子供たちには公教要理が説かれた。これによって123人が洗礼を受けたが、それぞれ相当な身分の人であった。やがて新たに教会が建てられる事になり、城下の福江からも人々が集まって地ならしをし、4尋(ひろ)あまりの十字架を立てた。 その位置は西教史に、「海中に突き出た丘で、高さ槍2本を立てたくらいで、その上の長さ40尋、幅15尋ばかりの平地である。2条の流れが中央を貫いて海に注ぎ、周囲に無数の松が茂り、薪でも木材で自由に切り出す事ができる」とある。やがて保養のためこの地を通った領主は、その十字架を見て自分の家を教会として提供することを約し、海上から運搬して建てた。五島最初の教会である。 この教会の位置については2説があり、一つは栄林寺前の寺屋敷跡とし、一つは浜泊の烏帽子瀬とする説である。後者については、現堂崎教会がかっての教会を望む位置に建てられたという論拠による。 ○ 六方教会 奥浦教会に遅れること4年の、元亀元年(1570)に六方に教会が建てられた。その位置は南河原口とされている。先にものべたように六方一帯は湾入した入江であり、福江から奥浦に通ずる唯一の集落であった。 天正3年(1575)神父フィゲレドが来島し、先ず海辺の集落を訪ね公教要理の学習所としたとあり、福江と奥浦の中間に位置することから、両方の信者の参集の便がよかったということであろう。 下五島の教会 総じて五島の教会は浦曲に優美な姿を映し、あるいは山の急斜面に佇立し、風景としては美しい。しかし、その所在地をつぶさに見れば山腹や半島の傾斜地か海辺の狭隘な土地、平地であっても畑作が精一杯で、生活環境は厳しいところばかりである。そのことは、かって五島でいくつかの村が集団移転をしたがその多くがカトリックの村であったことを思えばうなずけよう。その昔、大村領からの移民たちが夢見た新天地とはどんなところだったのか。 それは教会そのものが、その風景とともに物語っているように思えるのである。 |
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○ 浦頭教会 所在地 五島市平蔵町2716 献 堂 使徒聖ペトロ・聖パウロ 区 域 奥浦町、平蔵町、戸岐町、岐宿町唐船の浦 明治21年(1888)堂崎、大泊に続いて浦頭に聖堂が建ったが、この建物は民家を買い受けて移築したものであった。だが信者の多い地区で会ったため狭くて主日のミサの日は堂内に入りきれず、外庭にまではみ出していたので、増築計画が進められていた。昭和25年(1950)5月、この聖堂を取り囲んだ形で増改築を行い、同年6月27日長崎の山口大司教によって祝別された。 「五島浦頭教会祝別の証」には「1950年浦頭教会は正式に祝別した。この教会の祝日を聖十字架の発見の日とする」 と記され以下5名の司祭のサインがある。全五島の司牧信仰の拠点であった堂崎教会も次第に古くなり改築の要にせまられていた。その時、信徒たちから統合的な教会の建設を、という機運が高まり、今までの木造教会に代る近代的な教会として浦頭の地に昭和43年(1968)3月に新堂が竣工し、同年5月10日山口大司教によって祝別・献堂され、翌年9月4日堂崎教会を廃してこれに代る「浦頭小教区」が新設された。その後、建物の老朽化により昭和54年(1979)7月8日、新聖堂完成10周年を記念して長い歴史を刻む姿を閉じた。県指定有形文化財の「聖教木版画」(筆彩三幅)は浦頭教会の所有であるが実物の絵は現在堂崎教会内(キリシタン資料館)に展示され広く市民、観光客の観賞に供されている。(第四章文化財参照) |
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○ 五輪教会 所在地 五島市蕨町993―11 献 堂 聖ヨゼフ 区 域 五輪、蕨小島 五輪地区は久賀島の東端にあり、島でも最も不便な地区で、現在でも車が入る道はなく、漁業によって生計を維持する住民は島内の移動も徒歩で山を越えるか漁船を利用するより方法がない。福江市内とはいえ、福江からここに行くにはバス、船、タクシーと乗り継いでいかなければならないという不便さである。それだけに「久賀島崩れ」の迫害を生き抜いた先祖を持つ信徒の生活は素朴で信仰に篤い。 旧聖堂は老朽が甚だしくなったので昭和60年(1985)旧堂に隣接して現在の聖堂を建設した。この教会に所属する信徒は、五輪地区と蕨小島に居住する住民すべてで構成する信仰共同体であるが、過疎の波に押し流され50世帯あった信徒世帯が今は両地区あわせて10指にも満たない。 |
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○ 堂崎教会(日本二十六聖人殉教者聖堂) 所在地 五島市奥浦町2019 献 堂 日本二十六聖人 この教会は五島のカトリックにとって特筆に値する由緒ある沿革を持つ。福江島奥浦は16世紀から五島キリシタンの中心であり、元亀3年(1572)すでに「東方の三博士教会」ができている。寛政9年(1797)大村領外海から信徒が移住したときの最初の上陸地が奥浦の六方であった。慶応元年(1865)3月17日の大浦天主堂での信徒発見後まもなく堂崎のドミンゴ、浦頭のミゲル、大泊のジュアンらが大浦天主堂にいって教理を学んで帰り、潜伏キリシタンたちを教会に復帰させた。神父たちは日本人に変装して五島に潜入し、信徒の家を臨時の礼拝堂としてミサを捧げ、秘蹟を授けていたが、明治元年の「五島崩れ」と呼ぶ大弾圧によって奥浦方面は久賀島と共に激しい弾圧を受けた。 明治12年(1879)パリ外国宣教会マルマンによって堂崎に仮聖堂が建立され、ここを弾圧解放後の五島における宣教活動の拠点とした。後に後任のペルーによって立て替え工事が行われ、明治41年(1908)5月10日現在の赤レンガゴシック様式の天主堂が完成し、クーザン司教によって祝別され日本二十六聖人に献げられた。 この教会堂は本格的な教会建築としては五島で最初のものであり、島内におけるキリスト教復活後の信仰の拠点となった。壮麗な姿を形造る赤レンガは遠くイタリーから輸送されたもので、当時の建築技術を物語る証として昭和49年(1974)4月9日長崎県の有形文化財に指定されている。この堂がレンガ造りになっているため材料によって装飾を施すことが可能であった。そのため他の同型教会堂のモデルにもなっている。 ここの前庭には長崎西坂で処刑された26人の殉教者の一人ヨハネ五島という五島出身の青年の像が建っている。この人は北松小値賀の六島の出身ともいわれる。 設計施工は五島における教会堂建築では名のある鉄川与助であるが、建造にあたらせたのは長崎浦上天主堂建立を企画したフレノー神父ではないかと言われている。 また宣教再開(キリスト教解禁)と同時に始まった児童福祉施設(現奥浦慈恵院)とその事業母体となった「女部屋‐現お告げのマリア |
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五島キリシタン史年表
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