日本キリスト教史 キリシタン時代区分 第1期 「初期宣教時代」 フランシスコ・ザビエルが来日した1549年からザビエルとともに来日した、イエズス会のコスメ・デ・トーレス(1510〜1570)やファン・フェルナンデス(1526〜1567)らの日本宣教第1世代がほぼ時期を同じくして没する1569年まで。 信徒数 約3万 教会数 40 第2期 「宣教飛躍期」 フランシスコ・ガブラルおよびオルガチーノらイエズス会の日本宣教第2世代が来日する1570年から、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの来日した1587年まで。 信徒数 約13万 教会数 約150 第3期 「宣教最盛期」 ヴァリニャーノが具体的な宣教政策を提示した1580年から、豊臣秀吉によるバテレン追放令発布の1587年までの、日本キリスト教にとって繁栄を謳歌した最初の時代。 信徒数 約20万 教会数 約200 |
第4期
「禁令期」 追放令がだされた翌年の1588年からルイス・デ・セルケイラが司教として来日した直後の1600年まで。キリスト教の公的活動が禁じられた一方で、ヴァニニャーロの第2回巡察に伴う、活版印刷機の導入による印刷宣教が開始された。 1592年11月作成のイエズス会名簿によると、信徒数 21万7500 教会 207 第5期
「小康期」 1601年から徳川幕府によって、本格的な禁教が開始される前年の1613年まで。幕府のキリスト教に対する態度は確定していない時期。迫害はいつ再開されるか分からない状況に、着任した司教セルケイラは、邦人司祭の養成に尽力した。 信徒数 約37万 第6期
「禁教期」 禁教令が出された1614年から幕府によってキリシタン一揆とされ徹底殲滅された島原の乱が終了する1638年まで。幕府の宗教政策が、キリシタン禁令を主軸に組織化される時期である。それは宗教政策を利用した民衆支配の完成期でもある。 第7期
「潜伏期」 1639年以降の「潜伏キリシタン」時代、宣教師の直接指導は途絶えたが、共同体の中で組織的に継続された。1865年の長崎、大浦天主堂でのパリ宣教会のプチジャン神父による信徒発見まで。 参考文献:カトペディア2004、 |
日本キリスト教史 1.イエズス会の創立 イグナチオ(資料1)は、1491年スペイン北部バスク地方のロヨラ家の末っ子として生まれた。ロヨラ家は代々貴族の家系で、彼は軍人としての教育を受けて育った。1521年、当時スペイン軍が守っていたバンブローナの要塞で大尉だったイグナチオは、フランス軍の砲撃を足に受け瀕死の重傷を負った。手術によって負傷した足は治ったものの気がつくと片足は短くなっていた。彼自身が「若い頃は平気で罪を犯した。特に、バクチ、女、決闘が好きで、生活は乱れていた」と述懐しているが、当時彼は、まだ世俗的な優雅な生活を夢見ていたので、医師に訴えて、短くなった足を器具で無理やり伸ばすという悲痛なことにまで耐えていた。しかしイグナチオはその体験の中で、はかない名誉よりも神の栄光のために奉仕する決心をした。翌1522年バルセロナの近くにあるマンレサの洞窟でおよそ1年間こもって、祈りと断食の生活を送りながら人生の行く手を見出そうとしたのである。1548年、イグナチオが著した「霊操(神霊修業)」は、ことのき草案をまとめたといわれる。マレサを後にしたイグナチオはエルサレムを巡礼し、司祭への使命をいだいた。1524年、サラマンカ大学、2年後にはアルカラの大学で学び、1528年、パリ大学の「聖バルバラ学院」に入学した時は38歳だった。イグナチオ・デ・ロヨラは、そこで若いフランシスコ・ザビエル(資料2)、ピエール・ファーブルと同室となった。ザビエルとファーブルは彼の強い霊的指導を受け同志となった。新たにディエゴ・ライネス、アルフォンソ・サルメロン、ニコッラス・ポパディリャ、シモン・ロドリゲスの4名が同志として加わり、これら「7人の同志たち」は、1534年8月15日、聖母マリア被昇天の祝日に、パリのモンマルトルの丘のふもとにある小さな聖堂で誓願を立てた。 モンマルトルでの誓願は、キリストにならって清貧のうちに生き、隣人のために尽くすこと。貞潔を守り、エルサレムに巡礼し、自分たちの生涯を人々の霊的指導に捧げること。エルサレムに永住が許されない場合はローマに引き返してキリストの代理者であるローマ教皇に拝謁して、教皇に従順を誓い、より大きな神の栄光のために、どこにでも遣わされることを願うというものだった。 イグナチオとその同志たちは、1537年ニベネチアの教会で、ブンセンテ・ニグサンティ司教によって司祭に叙階され、共同生活をしながら、新しい会について討議し、会設立の趣旨を作成してローマ教皇パウロ3世から正式に「イエズス会」創設の認可を受けた。翌1541年4月14日、会員の投票によってイグナチオはイエズス会の初代総長に選出された。 ポルトガルの国王ジョアン3世はイエズス会の評判を知り、当時ポルトガル領であったゴアへ彼らを派遣するよう教皇に願い出た。教皇に任されたイグナチオはニコラス・ボバディリアの派遣を決めたが高熱のためい出発出来なくなったため、フランシスコ・ザビエルを任命した。インドで福音宣教することを望んでいた彼は喜んでこの任命を受けた。 |
2.キリスト教伝来 フランシスコ・ザビエルは、こうしてインドに赴き、ゴアを拠点として、インド各地で宣教し、種々の困難と闘いながら多くの人々をキリスト教に導いた。 1546年、フランシスコはマラッカからモルッカ諸島に向かったが、1547年12月鹿児島出身のヤジロウと出会って日本の事を聞き日本へ行く事を決心した。 1549年8月15日(聖母被昇天の日)フランシスコ・ザビエルは、コスメ・デ・トルレス司祭(資料3)、ファン・フェルナンデス修道士及びヤジローと2人の日本人を伴って鹿児島へ上陸し、領主島津貴久の許可をえて、キリスト教の福音宣教を始めた。彼等は、1年間鹿児島に滞在して、教科書も辞典もない中、大変苦労しながら日本語を勉強し、「日本語カトリック教理書」を作成した。それは日本語としてはつたないものであったが、これを元に布教を重ね150人に洗礼を授けた。これが日本のキリスト教の始まりである。その後、ザビエルは平戸、山口、京都、そして再び、山口を訪れ、ここで目が不自由で日本名不明な琵琶法師に洗礼を授け、ロレンソ(資料4)と名を授けた。彼が後にイエズス会に入り大活躍した有名なイルマン(修道士)ロレンソ了斎である。1551年9月、ポルトガル船が豊後に入港したことを知ったザビエルは、豊後に向かった。領主大友義鎮(後の宗麟)は彼を迎え、領地内で宣教する許可を与えたが、インドのイエズス会からの便りを待っていたザビエルは、ここにも手紙が来ていないことが気になって、一度インドに戻り、再度戻って来る事を決意して、11月15日、トルレスとフェルナンデスを残し、2年3ヶ月滞在した日本をやむなく出帆しインドへ向かった。 1552年9月、中国の上川島到着したフランシスコ・ザビエルは病となり、12月3日、46歳でこの世を去った。 |
3.キリシタン時代 1) 宣教時代 1547年フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えてから1644年マンショ小西神父が殉教して日本に牧者がいなくなるまでの約100年間をキリシタン時代(当時はキリスト信者をキリシタンと呼んでいた)という。 アルメイダは、商人で医師でもあったが、トーレスに出会い修道士(後に神父)となって多くの人を改宗させた。彼の医学的な知識、学識は布教に大いに役立った。 京都を追われ堺に退いたビレラ神父とロレンソは、奈良で結城山城守忠正、清原枝賢、高山飛騨守という3人の武将に招かれた。命の危険を感じる中、ロレンソは一人で行って彼らを説得した。後に飛騨守は家族ともども洗礼を受け、その長男が高山右近である。 1566年、アルメイダはロレンソと五島に来島し、宇久純定を治療し家臣25名を受洗させている。アルメイダが去った後、ロレンソは五島に残って説教を続け、庶子純尭(後の領主)と夫人は熱心なカトリック信者となった。純尭が領主となってからは五島のキリシタンはますます盛んになり、当時、2000人の信者と4つの教会があったといわれる。 |
イグナチオ・デ・ロヨラ イグナチオ・デ・ロヨラ(1491年12月24日〜1556年 7月31日)はスペイン・バスク地方出身、カトリック教会 の修道会イエズス会の創立者の一人にして初代総長。同会 の会員は教皇への厳しい服従をモットーに世界各地で活躍し、 現代に至っている。イグナチオは『霊操』の著者としても有 名で、対抗改革の中で大きな役割を果たした。カトリック教 会の聖人で記念日(聖名祝日)は7月31日である。 生涯 前半生 イグナチオ・デ・ロヨラことイニゴはバスク地方、サン・セバスティアンのアスペイティアに近いロヨラ城で生まれた。13人兄弟の末っ子だった。イニゴは7歳で母を失い、1506年に親戚の騎士でカスティーリヤ王国の財務官を勤めていたフアン・ベラスケス・デ・クエラルの従者となった。1517年以降、イニゴは軍務について各地を転戦したが、1521年5月20日に行われたパンプロ−プの戦いで、指揮中に飛んできた砲弾が足に当たって負傷し、父の城で療養生活を送ることになった。 修道生活へ 療養生活の間、暇をもてあましたロヨラは騎士道物語が読みたかったが、そこにはなかったので仕方がなくイエスの生涯の物語や聖人伝を読みはじめた。やがて、彼の中に聖人たちのように自己犠牲的な生き方をしたいという望みが生まれてきた。彼は特にアッシジノフランチェスコの生き方に影響され、聖地に赴いて非キリスト教徒を改宗させたいという夢を持つにいたった。聖人にあこがれるあまり、彼は自分の名前をイニゴから(アンティオキアのイグナティオスにならって)イグナチオに改めている。 健康を回復すると1522年3月25日にイグナチオはモンセラートのベネディクト会修道院を訪ねた。そこで彼は世俗的な生き方との決別に誓い、一切の武具を聖母像の前に捧げ、カタルーニャのマンザレにある洞窟の中にこもって黙想のときを過ごした。そこでイグナチオは啓示を受けたとされている。ここにいたってイグナチオは世俗の出世を捨て、ひたすら我が身を聖母に捧げることを誓った。それでも、以後の彼の言葉の中には(軍人だっただけに)軍事的な養護やイメージがよく用いられている。 この頃、イグナチオはすでに『霊操』の原案ともいうべきものをまとめていた。これは彼のもとに霊的指導を求めてやってきた人に対して行った一連の黙想のテーマ集であった。『霊操』の影響はイエズス会にとどまらず、以後のカトリック教会全体にまで及ぶことになる。 パリでの日々とイエズス会の結成 1528年、イグナチオはパリ大学に入学し、一般教養と神学を学んだ。パリでは7年学んだが、多くの人々がイグナチオの霊的指導を求めてやってきた。その中で、1534年までに彼は6人の重要な同志を得ていた。フランス出身のピエール・ファーブル、バスク出身のフランシスコ・ザビエル、スペイン人のアルフォンソ・サルメロン、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、そしてポルトガル人のシモン・ロドリゲスであった。 1534年8月15日、イグナチオと6人の仲間はモンマルトルの丘に登り、サン・ドニ記念聖堂で唯一の司祭だったピエール・ファーブルのたてるミサにあずかって、神に自分の生涯を捧げる誓いを立てた。世に言う「モンマルトルの誓い」である。彼らの立てた誓いは「今後、7人は同じグループとして活動し、エルサレムでの宣教と病院での奉仕を目標とする。あるいは教皇の望むところならどこでも赴く」というものであった。これがイエズス会の始まりである。 1537年、7人は教皇から直接修道会としての許可を受けようとローマに向かった。時の教皇パウロ3世は一同の知的レベルと志の高さを認め、司祭叙階と聖地巡礼の許可を与えた。6月24日、ヴェネツィアに赴いた一行はアルベの司教から司祭叙階を受けた。当時、イタリア半島では神聖ローマ皇帝や教皇、オスマン皇帝を巻き込んだ戦いが行われていたため、聖地への渡航を諦め、当面はイタリア国内で説教と奉仕活動に専念する方針をたてた。 1538年10月、ファーヴルおよびライネスを従えて再びローマに赴いたロヨラは、教皇から修道院の会憲の許可を得ることで正式な許可を得ようとした。会憲を審査した枢機卿団は好意的な評価を下し、パウロ3世は1540年の回勅「レジミニ・ミリタンティス」で会を正式に許可した。その際の唯一の条件は会員数が60名を超えないことということであった。この制限も三年後の1543年3月14日に出された回勅「イニュンクトゥム・ノビス」で撤廃された。 イエズス会総長として イグナチオは会の最初の総長に選ばれた。彼は会員たちを欧州全域に派遣して、一般学校と新学校を各地に創設させた。ローマにおけるカール5世の名代をつとめていたホアン・デ・ヴェガはイグナチオとイエズス会員を同地へ招き、メッシーナに大学を開かせた。メッシーナの大学は評判を呼び、その教育システムは以後のイエズス会学校の雛形となった。1548年、「霊操」の決定版が出版された。このとき、同書の内容に関してローマの異端審問所で審査を受けたが、すぐに解放された。 イグナチオの書いた1554年版会憲はイエズス会をピラミッド型の組織として規定、会員に上長と教皇への絶対的服従と自己犠牲を求めた。イグナチオは「軍隊のごとき」服従という表現を用いている。彼の座右の銘がそのままイエズス会のモットーとなった、「神のより大いなる栄光のために」である。イエズス会の精力的な活動は対抗改革の原動力となった。 1553年から1555年、イグナチオは自らの生涯を振り返って「自伝」を口述し、秘書のゴンサルベス・ダ・カマラ神父に書き取らせた。この自伝は霊操の精神を理解する上でも重要な資料となっている。同書は150年近く書庫に秘蔵されていたが、ボランディストらによって「聖人伝」が出版された際にはじめて公刊された。同書の批判版も1943年に「イエズス会歴史叢書」の第1巻として出版されている。 イグナチオは1556年7月31日にローマで死去。1609年7月27日に教皇パウルス5世によって列福され、1622年5月22日にグレゴリウス15世によって列聖された。 |
フランシスコ・ザビエル フランシスコ・ザビエル(1506年4月7日 〜1552年12月3日)は、カトリック教会の司祭、 宣教師でイエズス会の創設メンバーの一人。 1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたこと で特に有名である。また、日本だけでなくインド などでも宣教を行い、聖パウロを超えるほど多く の人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。 カトリック教の聖人で、記念日は12月3日。 生涯 青年期まで 1506年4月7日生まれのザビエルは現在のスペ インのナバラ地方、パンプローナに近いザビエル城で地方貴族の家に育った。彼は5人兄弟(兄2人、姉2人)の末っ子で、父はドン・フアンデ・ヤス、母はドーニャ・マリア・デ・アスピルクエタという名前であった。父はナバラ王フアン3世(フランス貴族アルブレ家の出である)の信頼厚い家臣として宰相を務め、フランシスコが誕生した頃、すでに60歳を過ぎていた。ナバラ王国は小国ながらも独立を保ってきたが、フランスとスペイン(カスティーリャ=アラゴン)の紛争地になり、1515年ついにスペインに併合される。父フアンはこの激動の中で世を去った。その後、ザビエルの一族はバスク人とスペイン、フランスの間での複雑な争いに翻弄されることになる。 |
東洋への出発 当初より世界宣教をテーマにしていたイエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することになった。ザビエルはシモン・ロドリゲスと共にポルトガル経由でインドに発つ予定であったが、ロドリゲスがリスボンで引き止められたため、彼は他の3名のイエズス会員(ミセロ・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フルナンデス)と共に1541年4月にリスボンを出発した。8月にアフリカのモザンピークに到着、秋と冬を過ごして1542年2月に出発、5月6日ゴアに到着。そこを拠点にインド各地で宣教し、1545年9月にはモルッカに赴き宣教活動を続け、多くの人々をキリスト教に導いた。マラッカに戻り、1547年12月に出会ったのが鹿児島出身のヤジロウ(アンジローとも)という日本人であった。 日本へ ザビエルは1548年11月ゴアで宣教監督となり、1549年4月15日、イエズス会員コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フエルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、及びゴアで洗礼を受けたヤジロウら3人の日本人と共にゴアを出発、日本を目指した。 中国のジャンク船に乗った一行は中国上川島を経て、1549年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日にあたる)に鹿児島(現在の鹿児島市紙園之州)に上陸した。1549年9月には伊集院の一宇治城で薩摩の領主島津貴久に謁見し、宣教の許可を得た。ザビエルは鹿児島で布教する日々の中で、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と宗教論争を行うことを好んだ。ここで後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどに出会った。 |
東洋への出発 当初より世界宣教をテーマにしていたイエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することになった。ザビエルはシモン・ロドリゲスと共にポルトガル経由でインドに発つ予定であったが、ロドリゲスがリスボンで引き止められたため、彼は他の3名のイエズス会員(ミセロ・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フルナンデス)と共に1541年4月にリスボンを出発した。8月にアフリカのモザンピークに到着、秋と冬を過ごして1542年2月に出発、5月6日ゴアに到着。そこを拠点にインド各地で宣教し、1545年9月にはモルッカに赴き宣教活動を続け、多くの人々をキリスト教に導いた。マラッカに戻り、1547年12月に出会ったのが鹿児島出身のヤジロウ(アンジローとも)という日本人であった。 日本へ ザビエルは1548年11月ゴアで宣教監督となり、1549年4月15日、イエズス会員コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フエルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、及びゴアで洗礼を受けたヤジロウら3人の日本人と共にゴアを出発、日本を目指した。 中国のジャンク船に乗った一行は中国上川島を経て、1549年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日にあたる)に鹿児島(現在の鹿児島市紙園之州)に上陸した。1549年9月には伊集院の一宇治城で薩摩の領主島津貴久に謁見し、宣教の許可を得た。ザビエルは鹿児島で布教する日々の中で、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と宗教論争を行うことを好んだ。ここで後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどに出会った。 |
再びインドへ、ザビエルの最後 1551年9月、ポルトガル船が豊後に入港したという話を聞いて、ザビエルは豊後に向かった。同地で22歳の青年領主大友義鎮(後の大友宗麟)に謁見している。日本滞在も2年になり、ザビエルはインドからの情報がないので気になっていたため、ここで一度インドに戻ることを決意し、11月15日トーレスらを残して出発、種子島、中国の上川島を経てインドに向かった。このとき、ザビエルは日本人青年4人を選んで同行させた。それが鹿児島のベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオの4人である。1552年2月15日、インドのゴアに到着。司祭の養成学校である聖パウロ学院にベルナルドとマテオを入学させた。マテオはゴアで病死するが、ベルナルドは学問を修めてヨーロッパに渡った最初の日本人となった。 1552年4月、日本布教のために日本文化に大きな影響を与えている中国にキリスト教を広めることが重要であると考えていたザビエルは、バルタザル・カーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣し、自分自身は中国入国を目指して9月に上川島に到着した(ここはポルトガル船の停泊地であった)。しかし中国への入国はできないまま、体力も衰えていたザビエルは精神的にも消耗し、病を得て12月3日に上川島でこの世を去った。 遺骸は石灰をつめて納棺し海岸に埋葬した。1553年2月、マラッカに移送。さらにゴアに移され、1554年3月16日から3日間、聖パウロ聖堂にて棺から出され一般に拝観が許された。そのとき参観者の一人の婦人が右足の指2個を噛み切って逃走した。2個の足の指は、彼女の死後聖堂に返され、さらに1902年そのうちの1個がザビエル城に移された。 遺骸は現在ボン・ジェズ教会に安置されているが、右腕下膊は1614年ローマのイエズス会総長の命令で、セバスティアン・ゴンザーレスにより切断され、ローマ・ジェズ教会に安置されている。なお、この右腕は1949年ザビエル来朝400年記念のおり、腕型の箱に入れられたまま、日本に運ばれ展示された。なお右腕下膊はマカオに、耳・毛はリスボンに、歯はボッルトに、胸骨の一部は東京になどと分散して保存されている。 ザビエルは1619年10月25日教皇パウルス5世によって列福され、1622年3月12日盟友イグナチオ・ロヨラと共に教皇グレゴリウス15世によって列聖された。ザビエルはカトリック教会によってオーストラリア、ボルネオ、中国、東インド諸島、ゴア、日本、ニュージーランドの守護聖人とされている。 ザビエルと日本人 ザビエルは日本人の資質を高く評価し、「今まで出会った異教徒の中でもっとも勝れた国民」であるとみた。特に名誉心、貧困を恥じとしないことをほめ優れたキリスト教徒になりうる資質が十分ある人々であるとみていた。これは当時のヨーロッパ人の日本観から考えると驚くべき高評価である。同時にザビエルが驚いたことの一つは、キリスト教において思い罪とされていた男色(同性愛)が日本において公然と行われていたことであった。 布教は困難を極めた。書記には通訳を務めたヤジロウのキリスト教知識のなさから、キリスト教の神を「大日」と訳して「大日を信じなさい」と説いたため、仏教の一派と勘違いされ、僧侶に歓待された事もあった。ザビエルは誤りに気づくと「大日」の語をやめ、「デウス」というラテン語をそのまま用いるようになった。以後、キリシタンの間ではキリスト教の神は「デウス」と呼ばれることとなる。 |
ザビエルの後継者 コスメ・デ・トーレス イエズス会日本管区管区長 コスメ・デ・トーレス(1510年〜1570年10月2日)は、カトリック教会の司祭、フランシスコ・ザビエルとともに戦国時代の日本を訪れたイエズス会宣教師。ザビエルの意志を受けて18年にわたって日本で宣教。彼の目指した「適応主義」(宣教師が現地の文化に根ざして生きること)は当時のヨーロッパ人の限界を越えた思想であり、日本におけるキリスト教布教の成功をもたらした。「コスメ・デ・トルレス」、または「コスモ・デ・トルレス」とも書く。 生涯 スペイン・バルンシア出身のトーレスは若くして司祭となり、故郷を離れてメキシコに渡った。更に商船隊に同行して東南アジアのモルッカ諸島までやってきた。1546年、そこでトーレスは運命的な出会いをする。たまたま同地に来ていたザビエルとの出会いである。ザビエルに心酔したトーレスはともにインドのゴアへ渡り、同地でイエズス会に入会した。 ザビエルや日本人ヤジロウと共に日本への宣教を志したトーレスは1549年8月15日、ついに鹿児島に到着。ザビエルと同じように日本人に好印象を抱き、宣教への夢をふくらませた。一行は平戸の松浦氏の庇護を受けることが出来たため、トーレスは京都を目指したザビエルらと別れて平戸に滞在した。更に1551年にザビエルがインドを目指して出発すると、トーレスはザビエルに日本布教を託された。 トーレスはアルメイダ修道士や日本人ロレンソ了斎などの協力者をえて地道な宣教を続けた.トーレスが宣教責任者として成功した理由には彼の「適応主義」があげられる。これはザビエルの意志でもあった。つまり、日本ではヨーロッパ人の宣教師たちに対して日本文化を尊重し、日本式の暮らしを行うことを求めたのであった。トーレス自信、肉食をやめ、質素な日本食を食べ、日本の着物を着て後半生を過ごした。 トーレスの地道な活動は実を結んだ。山口や九州の各地で徐々にキリスト教が広まり始めたのである。彼は混乱に翻弄されて山口、豊後、肥前などを転々としながら、後続の宣教師たちを教育し、日本人協力者を養成し、信徒の世話をし、仏僧たちの議論に答えた。1556年には承認だったルイス・デ・アルメイダがトーレスの感化によってイエズス会に入会、以後宣教師として盛んに活躍することになる。トーレス自身も九州各地で宣教を続け、1563年には大村純忠に洗礼を授けて初のキリシタン大名とし、またキリシタン布教と不可分の関係にあった南蛮貿易の拠点として横瀬浦(長崎県西海市)(1562年)、次いで長崎(1570年)の開港に尽力した(ただし、長崎に最初のポルトガル船が来航したのはトーレスの没後の1571年であり、彼自身はこれに立ち会えなかった)。 1559年にはザビエルの宿願だった京都での布教を果たすべく、満を持してガスパル・ヴィレラ神父らを派遣した。トーレスの時代、戦国時代の相次ぐ戦乱は布教活動において大きなマイナスであった。畿内での宣教はやがて織田信長によって政治的安定がもたらされことで軌道にのることになるが、九州では依然続く戦乱と政治的不安定の影響でなかなか安定した活動が行えなかった。 日本地区の布教責任者として、各地を転々としての宣教に疲れ果てたトーレスは、1560年代のおわりにインドの上長に新しい布教長の派遣を依頼。これに答えて派遣され、1570年6月に天草に到着したのがフランシスコ・カブラル神父である。 コスメ・デ・トーレス、1570年10月2日天草志岐(熊本県天草郡苓北町)で死去。 トーレスが日本にきたとき、一人の信者もおらず、一つの教会もなかったが、彼の死去時には京都、堺、山口、豊後、博多、肥前などに多くの教会と多数のキリスト教が生まれていた。ザビエルの夢を実現させたのは盟友トーレスであった。 イエズス会日本布教の管区長 初代 フランシスコ・ザビエル 2代 コメス・デ・トーレス 3代 フランシスコ・カブラル |