下五島で活躍した宣教師

 
 

パリ外国宣教師たち

    〜長崎邦人司教区の土台づくり〜

 

西暦

和暦

 

事     項

1622

 

 

布教聖省(現福音宣教省)が設立され、全世界の拠点となる。17世紀半ば、フランス、特にパリの一部の教区司祭や信徒の間に、修道者だけでなく自分たちも遠国での使徒職に直接参加したいとの機運が生まれた。こうした中で

1653

 

 

「パリ外国宣教会」が創設された。これは「パリミッション会」とも呼ばれ、パリに本部を置くカトリック教会最古の宣教会で、創立当初から東アジアの宣教を担当している。現在35名の会員が日本各地で働いている。

1790

 

 

浦上一番崩れ

1839

 

 

浦上二番崩れが起こる。この頃バチカンは日本に変化の兆しを読み取り、その再宣教をパリ外国宣教会に委託した。

1844

 

 

フォルカード神父は、琉球に渡り、日本入国の機会をうかがう。2年後に初代日本使徒座代理区長に任命され、長崎上陸を試みたが拒否された。

1858

安政5 

 

幕府はフランスほか5カ国と修好通商条約を締結し、長崎以外に神戸、横浜、新潟、函館の港を開いた。各港に外国人居留地の確保、礼拝堂建設などが認められた。同年、教皇ピオ九世は、琉球で待機していたジラール神父を日本使徒座代理区長代理に任命、同神父は翌1859年駐日フランス総領事一行と共に江戸に着く。宣教師が公然と日本の地を踏んだのは、禁教令以来のことであった。

1862

 

6.8

教皇ピオ九世は、日本26福者殉教者を列聖する。

1863

 

 

来崎したプティジャン神父は、翌年の暮れに大浦天主堂を完成させる。

1865

 

2.19

献堂式から1ヶ月たった3月17日、プティジャン神父は、浦上の信者たちと劇的な出会いをする。プティジャン神父たちの教会復興の活動が始まる。

1866

 

 

プティジャン神父は、日本使徒座代理区長に任命され、10月21日香港で司教に叙階される。彼は事実上、ルイス・デ・セルケラ司教(在位15981614)以来日本全国のためのただ1人の司教だった。しかし日本はまだ禁教の時代であった。

1867

慶応3

 

浦上で信徒の自葬事件をきっかけに最後の迫害が起こる。皮肉な事に7月7日、教皇ピオ九世は、日本205殉教者を列福した。715日早朝、キリシタンが捕らえられ投獄された。浦上4番崩れ、その後の長崎県全土での最後の迫害の始まりである。

1873

 

 

+禁教令高札撤去の後、信者共同体の再建と教会堂の建設などが本格的に始まる。

1927

昭和2

7.16

教皇ピオ11世は長崎教区を邦人教区とする禁教令を発布し、723日、函館教区早坂久之助を長崎司教に専任した。これは、最初の日本人司教の誕生と同時に、最初の日本司教区の設立を意味した。こうして、パリ外国宣教会の宣教師たちは、キリシタン復活から長崎邦人司教区設立までの65年間、長崎の再建と発展のために骨身を惜しまず奉仕したのである。信徒および徐々に増加した邦人司祭たちの働きは言うまでもないが、宣教師たちの献身的な働きが日本最初の邦人司教区の基礎を作ったといっても過言ではない。ここに、彼らに対する深い尊敬と感謝の念を表明し、講演会を開催する。

“力ある御業をたたえて、我等は賛美の歌をうたう”(詩編2114b)

 

 
 

パリ外国宣教師たち

〜長崎邦人司教区の土台づくり〜

 

1639年頃、トンキンから一人のイエズス会司祭がパリにやって来た。彼は自分の布教経験に基づき、「これからは今までと違い、宣教師はどうしてもその国、その地方、地元の邦人司教、司祭を養成しなければならない。そうしなければ、いつまでたっても新しい教会はヨーロッパの修道会に属するだけで自立することはできない」と強調された。そうした中で、パリの一部の教区司祭や信徒の間に、修道者だけでなく自分たちも遠国での使徒職に直接参加したいとの機運が生まれ、1653年「パリ外国宣教会」が創設された。これは「パリミッション会」とも呼ばれ、パリに本部を置くカトリック教会最古の宣教会で、創立当初から主に東アジアの宣教を担当している。

 1659年、宣教地方のために新しい代牧司教が任命され、指針がまとめられた。その指針とは、(1)宣教地方での邦人教区司祭の養成、そのために、その地で神学校をもつ必要がある。(2)宣教国に置ける風俗習慣などに対する尊敬とその国の生活に慣れる努力の必要性(3)ローマ布教省との連絡と連帯、特に邦人司教の任命に関してそれを保つ必要性である。

会の創立者の一人であり、最初の会員でもあったパル司教は、1663年、宣教司祭の養成所としての神学校を作り、1664810日、教皇アレクサンダー7世によって公認され、創立された。

 その地方の司教と司祭を育てるために創立された宣教会の第1の目的は邦人教区司祭の養成、そのためには、その地で神学校をもつ必要がある。第2の目的は布教地区における信徒の養成である。司祭中心主義的である日本の教会には、どうしても信徒のリーダーが必要である。第3の目的は未洗者に対しての布教、開拓活動である。今は、第3の目的が第1の目的になっている。

 日本において鎖国250年後、再びキリスト教宣教活動を開始したのは、パリ・ミッション会である。1831年からパリ外国宣教会は、バチカンの布教聖省に朝鮮と日本の宣教を依託されていたが、日本列島に接近するのは困難であった。184451日、フォルカード師は、琉球に渡り、日本入国の機会をうかがっていた。2年後に初代日本使徒座代理区長に任命され、長崎上陸を試みたが拒否され、マニラと香港に向かった。

1858(安政5)年、幕府はフランスほか5カ国と修好通商条約を締結し、長崎以外に神戸、横浜、新潟、函館の港を開いた。各港に外国人居留地の確保、礼拝堂建設などが認められた。同年、教皇ピオ九世は、琉球で待機していたジラール神父を日本使徒座代理区長代理に任命、同神父は翌1859年駐日フランス総領事一行と共に江戸に着く。宣教師が公然と日本の地を踏んだのは、禁教令以来のことであった。

 

1863年、来崎したプティジャン神父は、翌年の暮れに大浦天主堂を完成させる。

1865219日、献堂式から1ヶ月たった3月17日、プティジャン神父は、浦上の信者たちと劇的な出会いをする。プティジャン神父たちの教会復興の活動が始まる。

1866年、プティジャン神父は、日本使徒座代理区長に任命され、10月21日香港で司教に叙階される。彼は事実上、ルイス・デ・セルケラ司教(在位15981614)以来日本全国のためのただ1人の司教だった。しかし日本はまだ禁教の時代であった。

1867(慶応3)年、浦上で信徒の自葬事件をきっかけに最後の迫害が起こる。皮肉な事に7月7日、教皇ピオ九世は、日本205殉教者を列福した。715日早朝、キリシタンが捕らえられ投獄された。浦上4番崩れ、その後の長崎県全土での最後の迫害の始まりである。 

1873年、禁教令高札撤去の後、信者共同体の再建と教会堂の建設などが本格的に始まる。

 こうして、日本代牧長司教プチジャン師をはじめパリ宣教師たちの熱意と努力によって、長崎教区は勿論のこと、日本のカトリック教会の基礎は築かれた。

 

 

1927(昭和2716

教皇ピオ11世は長崎教区を邦人教区とする禁教令を発布し、723日、函館教区早坂久之助を長崎司教に専任した。これは、最初の日本人司教の誕生と同時に、最初の日本司教区の設立を意味した。こうして、パリ外国宣教会の宣教師たちは、キリシタン復活から長崎邦人司教区設立までの65年間、長崎の再建と発展のために骨身を惜しまず奉仕したのである。信徒および徐々に増加した邦人司祭たちの働きは言うまでもないが、宣教師たちの献身的な働きが日本最初の邦人司教区の基礎を作ったといっても過言ではない。ここに、彼らに対する深い尊敬と感謝の念を表明し、講演会を開催する。

“力ある御業をたたえて、我等は賛美の歌をうたう”(詩編2114b)

 

神学校

 1865(慶応元)年317日の信徒発見の年、128日、ローカニュ神父は、宣教師たちが住んでいる大浦天主堂司祭館の屋根裏の部屋に神学生住まわせた。これが復活教会最初の神学生養成だった。最初の神学生は、浦上の高木敬三郎、源太郎兄弟、五島桐の下村与作の3名であった。

 1867(慶応3)年715日、浦上信徒68名が捕えられ浦上4番崩れが始まり、1868(明治元)年514日、浦上信徒114名が流刑された。せめて神学生だけでも安全な場所へ避難させたいと考え上海のピナン神学校に送るため、夜陰密かに神学生10名をクゼン神父に引率させたが、マラリアや日射病など暑さに勝てず4名が病死した。

 1869(明治2)年12月ローカニュ神父は引き続き養成しつつあった神学生13名を連れて上海へ非難した。漸く安堵の胸をなでおろしたと思ったらたちまちマラリアに襲われ3名の神学生が犠牲となった。1871年病気で弱ったあるものは長崎へあるものは横浜へ帰ることになった。

1875(明治8)年プチジャン司教は大浦天主堂の側に4階建ての神学校を新築し長崎の神学生10名を東京から呼びよせた。
 
 
パリ宣教師によるキリスト教信徒数
東京代教区 長崎代教区 大阪代教区 函館代教区 福岡代教区 横浜教区
1886 7116 26320
1887 8114 27772
1888 10026 25534 2185
1889 11522 26060 2956
1890 12549 26975 2854
1891 9660 27909 3115 3821
1892 9002 28886 3880 4044
1893 8053 30502 4083 4199
1894 8709 31674 4307 4199
1895 9016 32655 4432 4199
1896 9217 33701 4616 4643
1897 8922 34749 4492 4643
1898 9114 35645 4470 4643
1899 9004 36117 4602 4643
1900 9053 37101 4294 4643
1901 9245 38169 4273 4643
1912 9803 48891 3943 4550
1913 9803 50040 4019 3782
1914 50974 4100 3847
1915 10285 51545 4126 2819
1916 10359 52914 4131 2829
1917 10327 53987 4320 2833
1918 10396 54541 4625 2884
1919 10836 55457 4485 2884
1920 56339 4555 2884
1921 10502 57499 4532 2718
1922 10800 58609 4694 2775
1923 11000 60736 4916 2780
1924 11000 62034 4298 2790
1925 10801 62584 4629 2790
1926 10802 63025 5031 2910
1927 10802 63698 5377 2972
1928 11240 5581 3003 7456
1929 11777 5980 3026 7333
1930 12323 6198 3188 7406
1931 12860 6601 7912
1932 13023 7000 8262
1933 13342 7403 8382
1934 14278 8731 8002
1935 15003 9046 8980
1936 15392 9667 9852
1937 15718 10131 10627
1938 10603 9275 5315
1939 10927 9368 4408
 

オリビエ・シュガレ師記念講演集

パリ外国宣教会日本管区長

堂崎天主堂100周年記念講演

 要旨

1、下五島の宣教の歴史

 アルメイダ、ロレンソ等の宣教  2000人以上の信徒、迫害、殉教、滅亡

2、ガスパル与作、プチジャン司教との出会い、五島崩れ、1873年禁教令解除

3、1877年 フレノー神父とマルマン神父、プチジャン司教より五島へ派遣される

 フレノー神父3年で転任、マルマン神父、1880年、堂崎天主堂や孤児のための施設(孤児院)今の養育院を立てる。

4、マルマン神父の人柄

 フランス人は個性が強い、マルマン神父もまた個性の強い人だった。パリミッション会の神学校に入りたい時に、お父さんの反対があると予想したので挨拶もしないで家出して一人で旅にでた。息子が勝手に挨拶もせずに出ていったので、お父さんは非常に怒った。後で和解はしたが、マルマン神父は反対があってもそう簡単に負ける人ではなかった。彼は、一つだけハンディキャップがあった。それは肥満、太っていた。フランス人の宣教師の中にはそういう傾向の人も多いが、彼の場合は本当に病気だった。肥満のため足が悪かったので彼は朝から晩まで、長椅子に座って足を道具箱の上に伸ばしてパイプを吸っていた。のんびりしていて、何もしないかのように信者たちには見えていたかもしれないが、実は頭の中は常に忙しく信者さんのことと教会の設計のことを考えていた。彼は記憶力に非常に優れていて、信者さんの名前を2000人くらいほとんど一人一人の名前を覚えていた。彼は才能のある人で、特に教会に関してあちこちに教会を建てた。下五島にいた10年の間に10軒の教会を建てた。

1888年神父は五島を離れ、キリシタンのほとんどいない奄美大島に行き,代わりにペルー神父がきた。

5、ペルー神父の人柄

 ペルー神父も個性の強い人だったが、ただ彼は個性というか性格はマルマン神父の性格と全く正反対でした。ペルー神父は文字通り動く宣教師で、いつもじっとしておられない、いつもあちこち走り回って動いていた。彼は本当に頑健な体のもち主で非常に優れた組織力の持ち主であり、勇敢な船乗りでもあった。彼は海の巡回宣教を日本の歴史の中で始めて行った。巡回の宣教、いつも船に乗って島から島へ、ずっと回っていたわけです。1892年、彼は五島列島全体の責任を任せられて教会の組織化と運営の合理化に力を入れた。マルマン神父は非常に穏やかな方でしたが、ペルー神父はそれとは反対でせっかちでした。彼は何か決めたら皆動かないといけない、強引に人を指導するため文句を言う人もいたようです。しかし教会の建て直しは緊急課題であったためあの頃にはこのような強引さが必要だったかもしれません。ペルー神父も教会をたくさん建て、1908年堂崎の教会を完成させた。彼はこの教会を非常に自慢しており、世界一番の教会だといっていたそうです。
 
 

6、パリ外国宣教会と宣教師たちの考え方

 パリ外国宣教師たちがアジアと日本にきた目的は何か。パリ外国宣教会は修道会ではない。修道会は共同生活と特別なカリスマ、従順だとか清貧だとかの誓願がある。パリ外国宣教会は邦人司祭と同様、特別な誓願も霊性的な偏りもない。

 パリ宣教師たちは、地域教会の基礎を作るために教皇様から派遣されたものである。英語では「ローカルチャーチ」といいます。「ローカルチャーチ」とは、司教様の指導のもとに自立的に動くことのできる教会。依存ではなく、ローマの指示には従うが従属でなく、そこに住む人々のメンタリティ、彼らの文化、状況にあわせて、独自の方法と言葉で福音を語っていく。

 堂崎教会は1918年、自立して、パリ宣教師は去り、邦人司祭が来た。基礎ができたら去って行く、これがパリミッション会の基本方針でである。

 日本は「ローカルチャーチ」としての開拓時代は終わったが、まだ使命、役目が終わったとは考えていない、まだ福音が伝わっていないところ、それは地域ではなく、社会階層、社会分野、例えば若者の世界、フリーターとか肉体労働者とか、時間がなくて大変な生活をしていて教会に行く余裕がない人たちを対象に働く姉妹が残っていると考えます。僕の同級生は、フリーターや派遣労働者とかの中に入っていって宣教を始めているし、福岡にいる同僚はホームレスの方々のために全力を尽くしています。とにかく福音がまだ伝わっていないところにいって、地域でなく、宣教のニーズがある階層とかに入って福音を伝える。これが私たちのパリミッション会の新しい使命じゃないかと思います。

 私たちが日本にくるとき3つの約束を守るために派遣されます。

1は、一生涯をそこで終わる。知らない世界に入るには時間がかかる。5年や10年でできることではない。一生かかってもできないかもしれない。その国の歴史や文化を学ぶことから始めなければならない。

第2は、高いところから福音を教えるのではなく、人々の中に入って彼らから学ぶ姿勢、対決でなく、対話を通じて福音を述べる。日本に来る宣教師たちは、納豆やお味噌汁など和食を食べる。畳の上に布団を敷いて寝る。そして正しい日本語を話すなど、一緒に福音を生きるようにする。

第3は、政治とは関わらない。ただし、政治に無関心というのではなく、人権とか、環境、正義と平和などについては、市民団体と関わることもあります。ただ、神父の立場を利用して特定の政党を支持したりしない。

宣教の方針については一概に言えない。そのときの状況において違うからである。例えば、明治時代の五島の信者さんは長い間迫害を受け潜伏しなければならなかった。彼らに対して、宣教の第一の課題はまずかれらに自身と勇気、希望を与えることだった。マルマン神父とペルー神父は、信者さんと出会い始めたとき、彼らを励まし、神の祝福を願い、早く迫害の苦痛を忘れ、皆が幸せになるよう祈ったはずです。そして、祈りだけではなく、生活の面で具体的な救援活動を始めた。島民の方は非常に貧しかった。教育は受けられない、十分に食べられない、医療を受けられない。本来パリミッション会は施設は作らないのですが、目の前に苦しんでいる人たちがいればどうしても助けた。そのために、両師は病院とか養育院、伝道学校を作ったわけです。
 
 

五島の再宣教は宣教より信者の世話をしすぎたという批判もあります。司牧は要理教育に偏りすぎた面もあります。時代背景をみると長い潜伏期間を耐えてきた、彼らが一番求めてきたのは信仰上の指導だったでしょう。カトリックとして何を守ればいいのか、どんな祈りをすればいいのか、はっきりしたカトリック的なアイデンティティを求めていた彼らに重点的にそれを示した。

ただ、今宣教を考えた時に、それだけでいいのか、守りだけでいいのか、信仰を守ること、カトリック的アイデンティティを持つことは勿論大事だけれども、今一番の課題は、教会を出て行くこと、信者でない方々に福音を伝えていくことであります。

私たちは、マルマン神父、ペルー神父から学ぶことは3つのことがあるように思います。

第1に、外に出て行く姿勢。本当にやさしく柔軟性をもって社会の中に入っていくこと。

第2は、巡回の姿勢、巡回の心です。日本のカトリック教会をみると、管理的、官僚的に、何かがんじがらめになっているような気がします。

第3は、殉教の心です。殉教の心はいざというとき、自分の命を捧げていく用意があるということです。

 昔の宣教師に学んだ「外へ出る」「巡回」「殉教の心」の3つの姿勢を持って、下五島の教会共同体が大きく発展できるよう願いたいと思います。

 

 

 フレノー神父が五島に来た時、大村からの移住した数千人の信者が分散していたが教会の建物も組織らしいものもなかった。宣教師は海を渡って宣教・司牧活動に励み、教会建物を設計や資金集めに努めていた。1892年にペルー神父は五島に35ほどあった信者の共同体の地区長にクーザン司教から任命される。協力者の大崎神父さまと一緒に、教会の建て直しに努め、司牧の基礎体制を作った。

ペルー神父様は五島全島の管理をまとめ、財政の面倒をみたし、あの頃は交通の便が

悪くて、ボートに頼っていた。宣教師たちは時には5つか6つの島を担当していたため、ペルー神父様は交通の組織化を進め、船頭や漕ぎ手と運搬人の合理化を決めたので、教会の信者の一部が一時、不満をもちクーザン司教にペルー師を移動させようとはたらきかけたこともあったそうだがペルー神父様は気にもせず推し進めたために強引という評判でした。

鯛の浦で宣教していた、ブレル神父様は37歳の時、終油の秘蹟を授けに行く途中、上

五島で海の遭難で亡くなり鯛の浦に墓地があります。

  

パリミッション会とは

大航海時代、アジア、中南米に渡って宣教したのはイエズス会やドミニコ会など、修道会だった。修道会は国王と結びつき、互いに利用して宣教を続けてきたが、宣教師たちは修道院本部の総長を向いていた。ベトナムで、福音宣教に携わっていたアレクソンドロ・ド・ロードと言う有名なイエズス会の神父さんがいろいろな困難や迫害などを経験して,地元の方を司祭に、またやがては司教にする大切さを感じてローマに行った。ローマ聖座でもそのように考えていたので、パリにいるイエズス会の神父様たちの協力を得て出発できる人を探した。長い年月を経てやっと3人の協力者が見つかり、司教に叙階されて、他教区の教会の協力を頼みました。教区司祭の何人かが集まって外国に行く会というグループができました。このように最初から修道会でなく、ミッションのために働きたい司祭有志の集まりであって、後にパリ宣教会と呼ばれました。ですから教区司祭と全く同じ身分です。

 
 

パリミッション会の目的

第一の目的は、教会がまだ存在しないところにいって、福音を告げて、できれば改宗させて洗礼を授け、教会共同体を作る。

第2の目的は、邦人司祭を養成して任せ自立できる教会体制をつくる。地域の司祭に任せたら別のところに行く。長崎では、63年かかり、邦人教区80周年を祝うことができました。

 

誓願は立てないが、フランスを離れるときに3つの約束をした。

第1の約束、一生涯、つまり死ぬまで派遣されたところに留まること。二度と国を見ない、二度と親の顔を見ない。

 平戸で40年間司牧して亡くなられたマタラ神父様はフランスのマルセイユで船に乗った時、彼は両親に「もう二度と顔は見ないでしょう」というとお父さんとお母さんは「息子よ、行きなさい。私たちは喜んで神様と日本のためにあなたを捧げます」と言って別れたそうです。

第2の約束、パリミッション会を卒業したらみんな外国に行く。外に出て行くことは宣教の第一歩と考えた。国教を代え、文化の違う歴史の違う国に行くことである。

第3の約束は、外国へいったらその国の習慣、文化を尊重してその国の人たちと同じ生活をする。例えば食事はフランス料理で中和食にする。そして寝るのも皆と同じように畳の上で布団に寝る。相手の国の習慣に従う。

 

では、明治時代の宣教師たちはどうしたか。いろいろな記録を見ると彼らは先ず、できれば多くのところに教会の建物を造ろうとした。見える教会をできれば丘の上に建てて皆に見えるようにする。見えたら皆教会に行くようになる。もう一つは荘厳で美しく綺麗で誰でもが感動するような典礼を行う。彼らはカトリックのアイデンティティを強調したいというわけです。歩く時でも大きな十字架を胸に差して、幅の広いスータンを着て、目立つべきと思ったでしょう。存在を強調したかったと思います。

 教会の建物と典礼だけでなく、最初から信者の養成に力を入れた。伝道学校でカテキスタの養成をあちこちでつくりました。最初は大浦教会の屋根裏部屋で10人の神学生を教育しました。自分たちだけの力では何もできない。信徒を養成して、彼らが地域や家庭に福音を伝えることが出来る「信徒の力」を信じていました。

 今は、教会から離れて消息が分からない人がたくさんいます。声をかけることが大事です。離れた人を裁きの目でなく、積極的な誘いが必要。東京にいる私の先輩は、毎日曜日のミサの後午後から夜にかけて自転車に乗って出かけ教会から離れた信者の家庭を訪問ししています。

 

 明治の宣教師の養成や講和の内容は主に公教要理に基ずいていました。あの頃教会の中で、精書を読む習慣がなかったし、聖書を読むのはプロテスタントでした。カトリックは聖書より公教要理。その表現は護教的な色が強くて、いかにカトリックが正しいかという主張に満ちていました。約120年前のことですから仕方ないですね。公教要理を使って一生懸命神様の教えを伝えたわけです。

 

 明治時代の宣教のやり方と現在宣教の考え方は大きく変わった。

 あの頃の宣教の「種まき」は、公教要理の教えを人々の心にまくこと、それが彼らの宣教のしかただったと思います。公教要理というのは神の教えをまとめた人間の言葉、人間が説く一種の論理です。第2バチカンの考え方はそれと他方違うでしょう。宣教するということは教えを蒔くのでなく、神様が人々の心の中に御自分の言葉を入れておく業です。神のみ言葉が教会の教えだけでなく、他の宗教の教えの中にも、仏教なら仏教の教えの中にもよい種として存在する。それは第2バチカン公会議の教えであります。すべての人、善意を持っている全ての人々の心の中によい種がある。それを私たちは認めて評価し、イエスの福音につなげて共に成長させる。その実りの収穫のために私たちは派遣されています。

 明治時代の宣教師は山の上に皆に見せる灯火の宣教観でした。皆に見える高いところに目立つように立派な教会を建てた。教会は灯火である。見えるものでなければならない。と同時に「地の塩となり、潮のように人々の中にとけ溶け込んでいくべきもの。溶け込みの宣教観も大切です。私たちはいつも信者同士で固まって、自分たちこそ絶対的な真理であると言う排他的な姿勢をとるのはいけない。
 
 

 第2バチカン公会議以前の考え方は「教会以外に救いはない」「正しい道徳は教会にしかない」「教会は完全な社会、他の思想や組織は必要としない。天国みたいなところ」「宣教師は絶対的な真理を持っていて、自分たちの教えがすべて」と考えていた。

種を蒔くのは人間でなく神です。

 宣教師たちの宣教魂について述べたい。ペルー、フレノー、ブレル神父たちの力の根源は信仰だと思います。この信仰は、宣教は人間の努力や業ではなくて、神様の業であると言う点に一致しています。だから何があっても、いくら苦しみの迫害があっても、彼らの宣教は揺るがない。

 私たちと違う点といえば、この信仰は天国、来世の強調にあるかもしれない。この世の中は涙で我慢しなければならない。洗礼を授けることは天国に人を送ること、そのために宣教の目的があると言う考え方。

 現在私たちにとっては天国は神の国であり、この世の中に隠れていて芽生えする。この世に実現するものです。だから私たちは社会に対して時代に対して否定的な姿勢をとらず、神のしるしを読み取るのです。100年前の考え方はその反対に社会は全てよこしまなものであり触らないほうがよい。我慢して死んだ後の国を待ち望むのだ。私たちはむしろ社会の中に入っていって、神様の蒔かれたよい種を育てていくと言う考え方に変わりました。勿論根本的には全て同じです。

 あと彼らのもう一つの宣教観の違いは、十字架の強調、神が与える十字架を喜んで受け入れる。十字架のない宣教があるはずがない。宣教は福音を伝えるものであり、そこには必ず反対があり、迫害がともないます。友のために命を失うこと、これほど大きな愛はない。命をかけて、友のために苦しみ十字架を受け入れること、まさに彼らにとって、最高の証でした。あの頃故郷を離れて布教地に行くことは殉教と重なる。彼らはこの殉教を望んでいました。最高の喜びは殉教と考えていたし、そのために犠牲に耐える姿勢を持っていた。そして苦行を好んでした。フレノー神父は枕の代りに石を使っていたし、もう一人の神父はシーツを使わなかった。シーツはフランスでは金持ちが持つものでした。

 殉教して憧れの天国に入る。単純な信仰だった。ともかく天国のことを深く信じていた。逆の地獄も信じていて、その話を余計にしました。洗礼を受けないと地獄、黙想会にあずからないと地獄、黙想会にあずからなくて死ぬと第2墓地に埋葬されると聞きましたが、これはとんでもない不寛容、許しがたい裁きの姿勢。時代背景を考えるとそれは仕方なかったかもしれない。 

現在日本の教会は仲良しグループとなるところが多い。宣教が停滞する理由の一つでしょう。外に行かない、人の心に入っていかないと言う状況です。

 宣教師たちは大きな手段を持たず無防備で貧しい生活でした。五島に来た彼らは自分たちの財産を全て日本の教会のために使いました。それを見て多くの信者さんは心を動かされ「私も協力します」と申し出ました。宣教師は生活の証は宣教だと確信していた。
 
 

五島の再宣教は宣教より信者の世話をしすぎたという批判もあります。司牧は要理教育に偏りすぎた面もあります。時代背景をみると長い潜伏期間を耐えてきた、彼らが一番求めてきたのは信仰上の指導だったでしょう。カトリックとして何を守ればいいのか、どんな祈りをすればいいのか、はっきりしたカトリック的なアイデンティティを求めていた彼らに重点的にそれを示した。

ただ、今宣教を考えた時に、それだけでいいのか、守りだけでいいのか、信仰を守ること、カトリック的アイデンティティを持つことは勿論大事だけれども、今一番の課題は、教会を出て行くこと、信者でない方々に福音を伝えていくことであります。

私たちは、マルマン神父、ペルー神父から学ぶことは3つのことがあるように思います。

第1に、外に出て行く姿勢。本当にやさしく柔軟性をもって社会の中に入っていくこと。

第2は、巡回の姿勢、巡回の心です。日本のカトリック教会をみると、管理的、官僚的に、何かがんじがらめになっているような気がします。

第3は、殉教の心です。殉教の心はいざというとき、自分の命を捧げていく用意があるということです。

 昔の宣教師に学んだ「外へ出る」「巡回」「殉教の心」の3つの姿勢を持って、下五島の教会共同体が大きく発展できるよう願いたいと思います。

 

 

 フレノー神父が五島に来た時、大村からの移住した数千人の信者が分散していたが教会の建物も組織らしいものもなかった。宣教師は海を渡って宣教・司牧活動に励み、教会建物を設計や資金集めに努めていた。1892年にペルー神父は五島に35ほどあった信者の共同体の地区長にクーザン司教から任命される。協力者の大崎神父さまと一緒に、教会の建て直しに努め、司牧の基礎体制を作った。

ペルー神父様は五島全島の管理をまとめ、財政の面倒をみたし、あの頃は交通の便が

悪くて、ボートに頼っていた。宣教師たちは時には5つか6つの島を担当していたため、ペルー神父様は交通の組織化を進め、船頭や漕ぎ手と運搬人の合理化を決めたので、教会の信者の一部が一時、不満をもちクーザン司教にペルー師を移動させようとはたらきかけたこともあったそうだがペルー神父様は気にもせず推し進めたために強引という評判でした。

鯛の浦で宣教していた、ブレル神父様は37歳の時、終油の秘蹟を授けに行く途中、上

五島で海の遭難で亡くなり鯛の浦に墓地があります。

 
 

では、明治時代の宣教師たちはどうしたか。いろいろな記録を見ると彼らは先ず、できれば多くのところに教会の建物を造ろうとした。見える教会をできれば丘の上に建てて皆に見えるようにする。見えたら皆教会に行くようになる。もう一つは荘厳で美しく綺麗で誰でもが感動するような典礼を行う。彼らはカトリックのアイデンティティを強調したいというわけです。歩く時でも大きな十字架を胸に差して、幅の広いスータンを着て、目立つべきと思ったでしょう。存在を強調したかったと思います。

 教会の建物と典礼だけでなく、最初から信者の養成に力を入れた。伝道学校でカテキスタの養成をあちこちでつくりました。最初は大浦教会の屋根裏部屋で10人の神学生を教育しました。自分たちだけの力では何もできない。信徒を養成して、彼らが地域や家庭に福音を伝えることが出来る「信徒の力」を信じていました。

 今は、教会から離れて消息が分からない人がたくさんいます。声をかけることが大事です。離れた人を裁きの目でなく、積極的な誘いが必要。東京にいる私の先輩は、毎日曜日のミサの後午後から夜にかけて自転車に乗って出かけ教会から離れた信者の家庭を訪問ししています。

 

 明治の宣教師の養成や講和の内容は主に公教要理に基ずいていました。あの頃教会の中で、精書を読む習慣がなかったし、聖書を読むのはプロテスタントでした。カトリックは聖書より公教要理。その表現は護教的な色が強くて、いかにカトリックが正しいかという主張に満ちていました。約120年前のことですから仕方ないですね。公教要理を使って一生懸命神様の教えを伝えたわけです。

 

 明治時代の宣教のやり方と現在宣教の考え方は大きく変わった。

 あの頃の宣教の「種まき」は、公教要理の教えを人々の心にまくこと、それが彼らの宣教のしかただったと思います。公教要理というのは神の教えをまとめた人間の言葉、人間が説く一種の論理です。第2バチカンの考え方はそれと他方違うでしょう。宣教するということは教えを蒔くのでなく、神様が人々の心の中に御自分の言葉を入れておく業です。神のみ言葉が教会の教えだけでなく、他の宗教の教えの中にも、仏教なら仏教の教えの中にもよい種として存在する。それは第2バチカン公会議の教えであります。すべての人、善意を持っている全ての人々の心の中によい種がある。それを私たちは認めて評価し、イエスの福音につなげて共に成長させる。その実りの収穫のために私たちは派遣されています。

 明治時代の宣教師は山の上に皆に見せる灯火の宣教観でした。皆に見える高いところに目立つように立派な教会を建てた。教会は灯火である。見えるものでなければならない。と同時に「地の塩となり、潮のように人々の中にとけ溶け込んでいくべきもの。溶け込みの宣教観も大切です。私たちはいつも信者同士で固まって、自分たちこそ絶対的な真理であると言う排他的な姿勢をとるのはいけない。
 
 

 第2バチカン公会議以前の考え方は「教会以外に救いはない」「正しい道徳は教会にしかない」「教会は完全な社会、他の思想や組織は必要としない。天国みたいなところ」「宣教師は絶対的な真理を持っていて、自分たちの教えがすべて」と考えていた。

種を蒔くのは人間でなく神です。

 宣教師たちの宣教魂について述べたい。ペルー、フレノー、ブレル神父たちの力の根源は信仰だと思います。この信仰は、宣教は人間の努力や業ではなくて、神様の業であると言う点に一致しています。だから何があっても、いくら苦しみの迫害があっても、彼らの宣教は揺るがない。

 私たちと違う点といえば、この信仰は天国、来世の強調にあるかもしれない。この世の中は涙で我慢しなければならない。洗礼を授けることは天国に人を送ること、そのために宣教の目的があると言う考え方。

 現在私たちにとっては天国は神の国であり、この世の中に隠れていて芽生えする。この世に実現するものです。だから私たちは社会に対して時代に対して否定的な姿勢をとらず、神のしるしを読み取るのです。100年前の考え方はその反対に社会は全てよこしまなものであり触らないほうがよい。我慢して死んだ後の国を待ち望むのだ。私たちはむしろ社会の中に入っていって、神様の蒔かれたよい種を育てていくと言う考え方に変わりました。勿論根本的には全て同じです。

 あと彼らのもう一つの宣教観の違いは、十字架の強調、神が与える十字架を喜んで受け入れる。十字架のない宣教があるはずがない。宣教は福音を伝えるものであり、そこには必ず反対があり、迫害がともないます。友のために命を失うこと、これほど大きな愛はない。命をかけて、友のために苦しみ十字架を受け入れること、まさに彼らにとって、最高の証でした。あの頃故郷を離れて布教地に行くことは殉教と重なる。彼らはこの殉教を望んでいました。最高の喜びは殉教と考えていたし、そのために犠牲に耐える姿勢を持っていた。そして苦行を好んでした。フレノー神父は枕の代りに石を使っていたし、もう一人の神父はシーツを使わなかった。シーツはフランスでは金持ちが持つものでした。

 殉教して憧れの天国に入る。単純な信仰だった。ともかく天国のことを深く信じていた。逆の地獄も信じていて、その話を余計にしました。洗礼を受けないと地獄、黙想会にあずからないと地獄、黙想会にあずからなくて死ぬと第2墓地に埋葬されると聞きましたが、これはとんでもない不寛容、許しがたい裁きの姿勢。時代背景を考えるとそれは仕方なかったかもしれない。 

現在日本の教会は仲良しグループとなるところが多い。宣教が停滞する理由の一つでしょう。外に行かない、人の心に入っていかないと言う状況です。

 宣教師たちは大きな手段を持たず無防備で貧しい生活でした。五島に来た彼らは自分たちの財産を全て日本の教会のために使いました。それを見て多くの信者さんは心を動かされ「私も協力します」と申し出ました。宣教師は生活の証は宣教だと確信していた。


  
   
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