アルベルト・ペルー師

 

パリ宣教師報告 2 18941901

 

1894年  21ペ−ジ

 

 子供たちに宗教教育を施すこともまた、合計9,439の信者を擁する五島の3地区の布教を担当しているペリュー師の大きな心配の一つである。彼は次のように書いている。「一緒に働いている三人の日本人司祭の注意を喚起するよう、私が特に心がけている一つの点がある。それが子供の要理教育である。

 南部には、告白をする年齢に達している子供が650人、中部に470人、北部に530人(少なくとも8歳以上の子供だけを取り上げると)、というのは、このあたりの田舎ではこの年齢に達する前に告白の出来る子供に出会うことは稀だからである。それで、この子供たちの内、悔悛の秘跡を受けられるだけの充分な教育を身に付けているのはせいぜい半数なのである。確かに、神父が伝道師たちの熱意を励ますようにするなら大いに助けて貰えるのである。それでも、宣教師が自分でこの仕事を引き受けずにいれば、それが長引くだけ、良家の子供だけが教育を受けることになり、他の者は14,15才、時には18才になるまで信者としての義務も知らず、非常に大ざっぱにしか義務を果たさないまま大きくなってしまう。私は特に心を込めてこの義務を果たしこの目的の為に助けて貰うつもりである。

 以上のことから、我々の古くからの諸共同体の今の状態はこれ迄の年のそれに劣ると結論すべきであろうか? 私はそうは思わない。事実はその逆である。福音の働き人たちは年の告白を聴き、病人を訪問するだけがやっとであったので、宗教教育の方はこれまた彼らも少ししか教育を受けていない伝道師たちに委せ、秘跡を望む人々をざっと大急ぎで試験をして受け入れる事を余儀なくされて来たのだ。彼らの人数が増えるにつれ、それだけあちらこちら旅行することもずっと経たので、おのおのの共同体にもっと長く滞在し、実情をもっと正確に把握し、以前他の人の手に譲らなければならなかった仕事を自分でする為にだんだん時間を見つけることが出来るようになっている。

 さらにマトラ師とペリュー師は状況を実によく見ていると私は確信している。彼らをふるい立たせている熱意に心から拍手を送り、神の御光栄をいや増さんがため切望しているあらゆる成功を彼らに与えてくださるようにと神に祈っている。

 

1894年  66ペ−ジ

 

 信者が最も多い五島の島々の地区はペリュー師が責任者として司牧している。

 統計によれば9,789の信者がいる。協会奉仕を援ける為に四人の司祭、内3人は邦人である。年の告解の秘跡や信心業のほかに、病人訪問、400人の子供たちの初聖体の準備等がある。ペリュー師はまた、二つの建築中の教会を見、結構、気苦労が少なくなかった。

 このような仕事は信者や宣教師に犠牲を課すものとは知らないから。信者たちの他にこの地区の田舎には「離れ」も相当に多く、ペリュー師の言葉によれば、司牧の残りの時間を彼らにために使い、再起のために出来るだけの策を示している。

 しかし、成人の洗礼の数は五島全体として芳しくない。臨終洗礼を含めて39人だけである。上五島の「離れ」たちは何も聞こうとしない。裕福の彼らは生活の貧しさのために宗教のことなどに捧げる一時も見られない。奈留島で私が派遣した修道師の勧めを喜んで受け入れ、二人の娘たちが勉強して間もなく洗礼を受けることになった。

 下五島で私が2年前から始めた仕事を続けたいと思っている。ここに一人の神学生が与えられたからであるが、一人の伝道師も持たずには計画をたてることも出来ない。「聖霊がどこにでも働く」つまり我々の努力が成功しなくとも、他の所で当てにしていなかった幾らかの聖霊を得ることも出来たのである。

 この7月に地区の中で余り重要なことではないが、時の問題であり、記すべき事が起きた。

 それは支那と日本の戦いで戦死した兵士の遺骨が日本に帰国したのである。この尊い遺骨は家族の手に戻った。これを機会に政府は戦死した全兵士の為に荘重な葬儀を行うように命じた。学校の協力、官公庁、市長村議員らの参加の内に立派な葬儀を行うように。

 このことは、人々の勇敢なる子弟として多くの下級の普通の兵士にとっても夢にも見なかったことであろう。この問題の中で、我々のとって興味があることは、カトリックに関係することである。異
 
 

教徒の当局は宣教師たちにも葬儀をするように持ちかけ、依頼してきた。もちろん、司祭たちはこの素晴らしい申し出を喜んで引き受け、出来る限り荘重な儀式を行うように準備した。水の浦では三人の宣教師と三人の邦人司祭が追悼のミサを捧げる為に集まり、町の殆どの有力者も列席し、教会の典礼の儀式に従い、又、遺骨の納骨式にも立ち会った。私は我々の信者がどれほど誇りに思ったか、又、彼らがキリスト信者として理解されず、侮辱された長かった年月を忘れて、参列者たちを親切にもてなしたかを考えて頂きたい。

 

1896年  五島の司牧に任されているペリュウ―師の報告  105ペ−ジ

 

 「五島諸島が含まれている地区では、大体60,000の人口に対してカトリック信者は9,973である。昨年度には、洗礼数541のうち、異教徒の成人63、他のキリスト教派の改宗者5、その他異教徒の子供たち60、信者を親に持つ子供たち413だった。年の赦しの秘跡:5,600、復活の聖体拝領:4,900、信心の聖体拝領:10,000以上に達し、その他に、415の成人と子供が堅信を受けた。3ヵ所の聖堂と2ヵ所の墓地の祝別も行われた。

 7ヵ所の聖堂、又は小聖堂には十字架の道行きが設置され、6ヶ所の別々の信者団では、信者たちが自分たちの村の聖堂建築のための基金を練りだす工夫をしている。また、他の人々は、十字架の陰の憩いの場(お墓?)を準備している。いたるところで、キリスト教的生活は霊魂たちを活気付けるだけでなく、白日の下にますます発展し、将来私たちの労働の実りを刈り取るであろう人々に、より豊かな刈り入れを準備していることを希望出来るであろう。

 長い間、殉教者たちの子孫たちをのけ者扱いにする権利があると思っていた人たちに対して、私たちの聖なる宗教が外面的な形によって日本に市民権を確立する必要がある。ところで、私たちは毎年、何歩か前進しており、神の摂理は、信者たちの上に目に見える形で注がれる地上的な祝福によっても、私たちへの援助を続けておられる。

 実際に、異教徒たちや、特に離れてしまった信者があらゆる努力にもかかわらず貧困になって行くのに反して、我らの信者たちは至る所で、悲惨な状態から抜け出ている。村々の相対的なゆとりが、まるで彼らが宗教的義務を果たす信仰と忠実さの尺度計のようだとも言えるほどである。私は確信しているのだが、そういう事実が、異教徒たちに昔からの偏見を捨てさせるために大いに役立つことであろう。多分もう彼らに近づくのに成功する見通しは遠くないようである。まだ私たちが足を踏み入れていない県庁所在地に居を占める時が来ているのではないかと思われる。そこに確かに、すでに、私たちの宗教に好意を持って、受け入れ準備が出来ている人々がいるに違いないだろうか? 私たちが正式に中心地に住むということは、迫害の時代が帰って来るのではないかという事を、多少とも気遣っている離れた信者たちの最後の恐れを無くさせるために役立つのではないかと思う。

 

 

1897年   141ペ−ジ

 

 五島諸島では、今日では10,406の信徒を数える一つの地区を形成している。この地区はペル−師の指導のもとに六人の司祭によって管理されている。一年を通して65の大人の洗礼と73の子供の洗礼があった。ペル−師は、次のように書いている。「離れ」は、至るところでとは言えないが、少なくとも数ヶ所で好意的心構えを示して続けている。特に北部の「離れ」は甚だ有望である。

 クラインピーター師は、彼らの間で授けることが出来た12の洗礼の上に、一つの新しい家族の改宗の知らせをもたらしてくれた。もしも、この事業に、それが要求するだけの入念さを持って当たるなら、おもに、この部分において、非常に大きな結果を期待することができると私は思っている。

 

1898年  168ペ−ジ

 

 ペリュ―師が、二人のヨ―ロッパ人同僚と二人の日本人司祭の協力を得て管理している五島の大地区は、現在10,500の信徒をかかえ、彼らのための宗教奉仕は25の教会または小聖堂と20の祈祷所で行われている。

 ある地方では、まだかなり多くの「離れ」が見出されるが、大部分はすでに、カトリックの真理を信じている家族と縁組をしている。彼らを連れ戻す希望はすっかり失われているわけではない。彼ら自身もいつかは、宣教師たちによって説かれている宗教に戻るべきだと認めている。ペリュ―師は、こう書いている、「数年前から巡回している地区のうちの一人は、最近、私が彼の村に行くと聞いて、私と同時にそこに行くために、休暇を取った。彼は皆を集め、「離れ」はたしかに自分たちの先祖の宗教であるこの宗教に、もう時を移さず、入るはずだと宣言するのをはばからなかった」と。

 異教徒たちも、もう以前ほど逆らはなくなった。宣教師が出会う、あるいは宣教師に会いに来る者たちは、キリスト信者と彼らの奉じる宗教を必ず褒める。それに、この人々はカトリックの教義を少なくとも、あらまし知らないわけではないのだから。

 今のところ、私が恐れるのは、プロテスタントが来ることだとペリュ―師は言う。「これまで、彼らは、我らの島を軽蔑するという良い趣味をもっていた。しかし、外国に国を開く時期に、彼らの一人が来島すると知らせてきた。誤った教えの毒麦をまきにくるのは、一人だけではなさそうだ。それは、異教徒たちのうちに、また、すでにあまりにも新しいことを好んでいる我らの若い信徒たちが、宗教的無関心を生じさせることだろう。

 この興味深い地区を去る前に、教勢表から次の数字を抽き出してみよう。洗礼529そのうち大人47、異教徒の子供58、年のゆるしの秘跡5,489、信心の聖体拝領11,829、婚姻112、病者の塗油73、聖児童福祉会は、生徒のうち12人を信徒の家族に養子にしてもらった。52人は、洗礼を受けてすぐ、神の子羊に感謝するために、すでに天国に行った。

 

1899年  205ペ−ジ

 

 約11000の信者と45の教会または布教所で、この人々の司牧に当たる7人の司祭。これにカトリックの五島列島のすべてが含まれている。司牧の表には今年の数として、洗礼総数503、内成人50、異教徒の子供55と記入されている。

 1899年4月のある日、この列島の人々は真珠の湾、玉の浦へ喜びにあふれて、どっと漕ぎ出した。4年前から「どうみてもマッサビエルの洞窟を思わせる」地形の所に、ルルドの聖母の教会が出来ている。ペル師と彼の教区民たちはこれをもっと似せたいと思っていたが孝愛の溢れてある夢を見事に実現させたのである。彼らは洞窟を作り、御像を置き、泉をつくった。この列島の共同体の奉納者の祝別の為に一番遠い村々からさえも信者たちが集まって来たのである。地区の司祭たちも司教を囲んでそこに来ていた。司教は素晴らしい教皇ミサが済んでから、静かに跪まづいている群集の真ん中で洞窟の荘厳な祝別を行った。そのあと、この忘れ難い祝いの日は一日中、まことに無原罪の聖母を讃えての賛美の大合唱となった。聖母は確かにこの敬虔な人々の上に特別の恵を注いで下さったに違いなく、又これからもそうして下さるであろう。

 

 

1900年    234ペ−ジ

 

 五島の大きな地区においてペル−師は、こういう困難に直面しており、そこに救済の手を打つ方法をさがしている。彼はこう書いている。

 「離れ」の改宗のため、真に評価できるようなことをまだ何もすることが出来ないので、私は道を準備することに従事した。そして、閣下がお許しくださったように、一つの祈祷所を開設した。霊的建物もこれに続くと私は希望している。費用が予想を上回ったとしても、望んだ結果が得られるなら、
 

1900年    234ペ−ジ

 

 五島の大きな地区においてペル−師は、こういう困難に直面しており、そこに救済の手を打つ方法をさがしている。彼はこう書いている。

 「離れ」の改宗のため、真に評価できるようなことをまだ何もすることが出来ないので、私は道を準備することに従事した。そして、閣下がお許しくださったように、一つの祈祷所を開設した。霊的建物もこれに続くと私は希望している。費用が予想を上回ったとしても、望んだ結果が得られるなら、私はこれを後悔しないだろう。私は「離れ」のセンタ―の各々を同様にしたいと思う。それは将来のための希望の保証となるだろう。

 これらの主なセンタ−の一つはご承知のように奈留島で、ここでは今年、6人の洗礼があった。これは、この島でのもっと多くの改宗の前印だと私は信頼している。なぜなら、結果はごくわずかでも、それはルルドの聖母のおかげなのだから。

 30才ほどの婦人が病気で、医者から見離され、悲しみに沈んだ家族の者たちはもう終わりが近いと予想していた。その時、一人の伝道婦が病人にルルドの水を飲ませることを勧めた。家族は承諾し、彼女がいやされたら改宗すると約束した。翌日、聖母は健康を返して下さったと同時に、喜び人々に心に戻り、恵が人々の霊魂のうちに入り、奇蹟的にいやされた者と全家族の者との霊的再生を準備した。私はちょうど今日、他の一家族が、キリスト者だと宣言しに来たということを聞いた。聖母の哀れみは限りを知らない。私は人々の霊魂を再生させるために、聖母が玉之浦の洞窟を造る考えを起こさせて下さったのだと、ますます希望をかけている。そこへの道は、巡礼者たちがもう知り始めている。

 

1901年   258ペ−ジ

 

 五島地区では102の成人の再生があった。そこでは例外なく、離れた旧キリスト信者の子孫に対する司祭、伝道師の熱意が効を奏した。授洗者たちは羊の小屋に戻った迷える羊であった。家庭に戻った迷える子供たちであるが、伝統に従うのに何の障害もない。この102の数の中で死亡は13のみである。

 

 

パリ―宣教師報告 3

 

 

1902年  128ページ 

 

ここで私は五島地区の教勢報告の中での数字について書こう。

 洗礼の総数603、内45人は成人、97人は臨終の幼児たち、461人は信者の子供たちである、年の告白数7,555、復活祭の聖体拝領6,798、年の聖体拝領13,9617人の司祭がこの12,760の信者を数える地区の司牧を担っている。 他に邦人修道女会「十字会」、28の教会、18の祈祷所がある。

 

 

1908年  183ページ

 
 

1900年    234ペ−ジ

 

 五島の大きな地区においてペル−師は、こういう困難に直面しており、そこに救済の手を打つ方法をさがしている。彼はこう書いている。

 「離れ」の改宗のため、真に評価できるようなことをまだ何もすることが出来ないので、私は道を準備することに従事した。そして、閣下がお許しくださったように、一つの祈祷所を開設した。霊的建物もこれに続くと私は希望している。費用が予想を上回ったとしても、望んだ結果が得られるなら、私はこれを後悔しないだろう。私は「離れ」のセンタ―の各々を同様にしたいと思う。それは将来のための希望の保証となるだろう。

 これらの主なセンタ−の一つはご承知のように奈留島で、ここでは今年、6人の洗礼があった。これは、この島でのもっと多くの改宗の前印だと私は信頼している。なぜなら、結果はごくわずかでも、それはルルドの聖母のおかげなのだから。

 30才ほどの婦人が病気で、医者から見離され、悲しみに沈んだ家族の者たちはもう終わりが近いと予想していた。その時、一人の伝道婦が病人にルルドの水を飲ませることを勧めた。家族は承諾し、彼女がいやされたら改宗すると約束した。翌日、聖母は健康を返して下さったと同時に、喜び人々に心に戻り、恵が人々の霊魂のうちに入り、奇蹟的にいやされた者と全家族の者との霊的再生を準備した。私はちょうど今日、他の一家族が、キリスト者だと宣言しに来たということを聞いた。聖母の哀れみは限りを知らない。私は人々の霊魂を再生させるために、聖母が玉之浦の洞窟を造る考えを起こさせて下さったのだと、ますます希望をかけている。そこへの道は、巡礼者たちがもう知り始めている。

 

1901年   258ペ−ジ

 

 五島地区では102の成人の再生があった。そこでは例外なく、離れた旧キリスト信者の子孫に対する司祭、伝道師の熱意が効を奏した。授洗者たちは羊の小屋に戻った迷える羊であった。家庭に戻った迷える子供たちであるが、伝統に従うのに何の障害もない。この102の数の中で死亡は13のみである。

 

 

パリ―宣教師報告 3

 

 

1902年  128ページ 

 

ここで私は五島地区の教勢報告の中での数字について書こう。

 洗礼の総数603、内45人は成人、97人は臨終の幼児たち、461人は信者の子供たちである、年の告白数7,555、復活祭の聖体拝領6,798、年の聖体拝領13,9617人の司祭がこの12,760の信者を数える地区の司牧を担っている。 他に邦人修道女会「十字会」、28の教会、18の祈祷所がある。

 

 

1908年  183ページ

 

120年前に、五島諸島に送られた私は、協力者の人々とともに、次のような働きをする使命を受けた。1、信徒たちの信仰を保ち、強めること。 2、数多い『離れ』を、よい牧者の檻に連れ戻すこと。この『離れ』の盲目さは説明のしようもない。3、異教徒たちの改心。

私はこの務めの第一の部分は、まずまずよく果たされたと断言することができると思う。毎年、提出される教勢調査表の数字は、司祭たちの働きとその励ましに答える信徒たちの忠実さを証拠立てるに充分である。最近の年度中、我らは9,452の告解と8,392の信心の告解、7,534の復活祭の聖体拝領を記録した。

 プログラムの第二の部分、すなわち『離れ』の復帰は、待望の、または時として前もって当て込んだすべての慰めを与えなかった。毎年、少しずつ戻る人があって、真の信仰を持つ人以外にもはや誰も残っていない所もある。しかし、他所では信徒発見の当初のように、孤立しそれに固辞したグル―プに出会う。好都合な情況、あるいは個人的利害問題が何回かある個人を、このグル―プから引き離した。しかし、実際にこの集団はそのまま残っている。この執拗な頑固さを砕くためには、非常に強い恵みの一撃が必要だろう。そして、それはただ、神の無限のあわれみにのみ希望することが許される。我らの第3の部分は、それを決して見失っているわけではないにしろ、果たされているというにはほど遠い。我らの信徒たちの司教が、我らの時間を全部、いやそれ以上使い果たさせる。しかしながら、去る5月10日、堂崎の教会の祝別式の折に司教が我らに向けられ希望を、やがて実現するこ
 
 

堅信式に与かるために信者たちが雨風にもめげず、道なき道を何里も徒歩で来るのを知った。私はここで神父方や信者たちが私を文字通り満たしてくれた行為をこと細かく話すことは止めにしよう。それは、あまりにも長くなるだろうから。このようにして五島の諸島では1ヶ月近く南から北へと徒歩かまたは船で訪問した。それぞれの村長方は私の所に挨拶に訪れ、贈り物として卵、鶏、新鮮な魚などを下さった。23の村では私の個人的は都合から、より中心的な場所に集まる必要があった。彼らのうちには満艦飾りをした船で歓迎を表してくれた人もいた。至る所、常に境界は単純ではあるが美しく飾られていた。日本人はどんな辺鄙な所でも天性の趣向を持っている。わずかなものでも、彼らは素晴らしいものを作って目を楽しませ、心をうっとりさせてくれる。

 五島諸島の信者共同体はペリュー師の司牧下にある。2人の宣教師と6人の日本人司祭が働いている。この諸島の全人口は、およそ7万人で、カトリックは15千人で、多くの村落に散在している。

 年の告白、復活祭の聖体拝領の他に、通常の告白数83,000回、信心の聖体拝領219,000回が、1912年から1913年の間の長崎教区の統計である。これは宣教師や司祭がロ―マ聖座の方針に添ったことの証明であろう。また信者たちは、ロ―マ教皇の薦めに従い、聖体の祝祭を相応しく準備している。昔は両親たちは11,12歳では子供の聖体拝領を準備させなかった。今では低い年齢から聖体を拝領する必要さを理解し、子供たちが告白したり、聖体を拝領することに努めている。

 

1913年   66ペ−ジ   

 

全五島諸島の尊敬すべき主席司祭ペル−師は、その指導のもとに10人の宣教師と日本人示唆を持っている。小委員会では彼のことを「聖省長官」と呼んでいる。

五島諸島は三つのグル―プに分かれている。すなわち、北五島、中央五島と南五島。信者人口は14,962人、巡回伝道師は145人の小天使に天の門を開いた。彼らは皆、昔の大名の住居で、今日では郡長の所在地である福江に、ペル―師が最近創設した新しい宣教所のため、天国での取り次ぎ者となることだろう。気前のよい恩人方のおかげで、宣教師はこの町に建物つきのかなり広い土地を入手した。家は祈祷所と宣教師の住居と講話室のため充分ある。去る6月、いくつかの講話が行われ、多数の聴衆が好意をもって耳を傾けた。郡長も村長も、そこに列席することをのぞんだ。ほとんど同時にバプテスト派の人たちが町に居をかまえ、誤謬を蒔こうとした。しかし、近隣のカトリック信者たちのよい評判のため、ほとんど成功しないように見えた。

 

1914年   83ペ−ジ

 

 68歳にもかかわらず、常に元気で力強いペル−師のたくみな指導のもとに、五島諸島の地区は、その15,000の信者みついて、正当な誇りをいだいている。しかし、ここにもまた、ユゼ―師とヴェイヨン師の出発以来、手不足に悩まされている。とはいえ、大人の洗礼161、告解12,000信心の聖体拝領35,000を提供した。伝道師の二つの学校も隆盛である。

五島での今年の目だった出来事は、福江の宣教所の公的落成式であった。式は624日に行われた。五島子爵が、副知事の補佐のもと、町の主だった名士たちに囲まれて司式した。

 

1917年  130ペ−ジ

 

五島諸島ではペリュ―師が広い地区のために駆けめぐっているが、協働者たちの献身的な働きを監督することも難しくなった。彼らは成人洗礼33人を得、異教徒の子供134人のために天国の門を開いた。また、告白数25,735、聖体拝領75,464を記録している。もっと多くの異教徒の子供たちに天国の幸福を得させようと、ペリュ―師は巡回授洗奉仕者を養成した。同じ目的の為に数人に助産婦の資格を取得させた。これらの女性は市長の要請により方々の村に常駐している。市当局は聖児童福祉会の事業に好意的に援助を続けている。前長崎県知事が去る12月に来訪されたのに続いて、現知事も6月に事務所を訪問している。一地方新聞記者は、この度重なる訪問を見て郡長に説明を求めた。郡長は答えた。「この訪問は公的義務からではないが、捨てられた子供たちを収容し、世話をする自愛の業を見れば、我々の立場からして感謝を表すのは当然なことであろう」と

 
 

1918年  144ページ

 

 堅信式のために巡回している時に、私は五島で二つの教会を祝別した。それはこの3月に父なる信仰に戻った「離れ」の村の教会だからである。

 

1919年 160ペ−ジ

 

 五島の北部と中心の堅信のための私の巡回旅行中、私は至るところで信者の信心と子供たちの堅実な教育に感心させられた。故ペリュ―師の学び舎で18年間養成された日本人司祭大崎師は、彼に代り、そのすべての若い同僚たちを指導している。彼は難しい聖役を非常によく果たし、皆に満足を与えている。彼は鯛の浦に聖児童福祉会と子供たちの要理を特によく担当する日本人の乙女たちの共同体を堅固な上にうち建てることを心にかけている。彼女らの資金を増すために、蚕を飼う仕事を提供した。これらの乙女たちは毎朝4時に起きて1時間を祈りと黙想にあて、司祭がいればミサにあずかる。ごく粗末な朝食の後、彼女らは仕事を始め、何人かはじゃがいもをつぶして丸めた団子を弁当に持って、臨終の子供たち、あるいは捨てられようとしている子供たちを探しに、最も険しい道を歩いて遠くまで行く。彼女たちは、17人の大人の洗礼を準備した。また、41人の子供に洗礼を授け、または授けさせた。貧しく辛い生活であるにもかかわらず、彼女たちはいつも微笑を浮かべている。なぜなら、彼女たちは何よりもまず神の御心を喜ばせるために働いているのだから。五島全体で33の大人の洗礼と133の異教徒の子供の洗礼があった。

中央のいくつかの島を除いて、至る所で煉瓦造りの美しい教会と、また時にはまことにふさわしい司祭館を見る喜びがあった。これらの教会は、皆信者たちの負担金で建てられた。毎土曜日の漁の一部は建築のため、あるいは教会の修繕のためにとっておかれた。必要な金額を積むために何年もかかることがお分かりだろう。

この旅行中、私は30の信者の家庭が生活している頭が島という小さな島で全部切り石造りの優雅な教会を祝別した。五島での旧信徒の発見の後、約50年たって日本人の医師に変装した――フランス人宣教師ク−ザン師が一人の病人に秘跡を授けるために、初めて上陸したのは、この島である。師は後に長崎の司教となった。彼が使途的聖務を始めた、まさにその場所に一つの教会を建てるために、資金を送ると約束したが、死亡したためにそれを果たせなかった。

 これらの感心な島民たちは5年間、休み無く働き続け、幾千の犠牲を払って彼らの貧しさの中から毎年4,5百円貯蓄することに成功した。このようにして彼らは優雅な小さい教会を建てることができた建物は、白蟻を追い散らし、信者たちの信心の結晶として留まるだろうと私は希望している。祝別式の日には、なんという聖なる喜びがすべての顔を輝かしていたことだろう。

 

1920年 177ペ−ジ

 

 五島諸島のカトリック人口は、総計16,768である。彼らは、ヴェイヨン師と8人の日本人司祭に助けられて、日本人司祭大崎師の優れた指導のもとにある。距離と交通のため引き起こされる幾多の困難にもかかわらず、彼らは26,900の繰り返された告解と70,308の信心の聖体拝領を記録した。日本人の乙女たちの共同体の協力で異教徒の子供113人と38人の大人が洗礼を受けた。

 

1921年  195ペ−ジ

 

五島はいつも大崎師の優れた指導のもとにある。16,768カトリック信者からなるこの素晴らしい地区において、司祭はあまりにも数少ない。彼らは60の大人に洗礼を授け、30,000以上の信心の告解を聴いた。巡回伝道婦は献身的な助産婦に助けられて、異教徒の子供65人に救いをもたらした。玉の浦ルルドの洞窟は、数多い巡礼者がひっきりなしに押し寄せて、敬虔にひざまずいて高声でロザリオを唱えている。信頼に価する何人かの人が、聖母によって著しい恩典が与えられたと断言している。

 信者の旧い地区を離れると異教徒の町の福音化に献身している10人の宣教師と5人の日本人司祭に出会う。そのうちのある者たちは、請求される報酬を与えることが出来ないため、伝道師だけでなく賄いまでも持っていない。無数の困難にもかかわらず、彼らは皆いくつかの穂を拾うことが出来た。


  
   


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