岩永四郎主任司祭

 

ミッション会と私 −プチジャン司教逝去百周年によせて− 岩永 四郎

 思い起こしてみるとミッション会と私は生まれた時から深いつながりがある。私は朝鮮の仁川で受洗し、霊名をテオドールというが、父の話によると丁度私が生まれた時に、浦上天主堂を建立されたミッション会のフレノ神父が帰天されたのを惜しんでその名を頂いたということである。

 小学校を卒業してすぐ、大正十二年九月一日、関東大震災の日に、創立当初一番の学者といわれたプチジャン司教が初代校長となり、「無原罪の間」から始められたというラテン神学校に入学した。その頃上級生であった古屋司教は大のお話し好きで、小さい私たちにプチジャン司教についてよく話して下さったことを今も懐かしく憶えている。

 プチジャン司教は、あの有名な信徒発見以前、殉教者の子孫を発見できないかと大変苦労された。浦上教会付近をパーテル様の着物、スータンを着て何遍も何遍も歩き廻り、ある時は馬に乗ってわざと落ち、助けに来てくれた人がパーテル様だと気づいてはくれまいか…と思ったら“オランダさん”といわれ、歩きつかれて畑の縁の藁の上に座ったら、それが“肥やしたんぼ”を覆った藁で、ドボンと落ちたなどという苦労話を聞き、子供ながらに「偉いなァ」とひどく感心したものである。

 昭和七年七月十日から五日間、私はフランスのサン・スルピス神学校で学んだ。世話になったパリのミッション会の本部には「殉教の間」というのがあって、朝鮮や特に安南で殉教された会員の殉教模様遺物、書簡等が展示されている。新司祭が布教地へ発つ時の派遣ミサはここでたてられ、家族が彼らと涙の別れをつけるものこの部屋である。普通フランス人は暖かい抱擁と接吻で人を送るが、この時は死を覚悟し、二度と会えないであろう目の前に立つ新司祭の前に父も母も兄弟もぬかずいてその足に接吻するのである。それは本当に心打つ感動の場面であった。

 ミッション会の素晴らしい精神は色々なところに見い出すことができる。一度も生国へ帰らず最高齢で先日帰天されたドルエ神父は、浦上神学校は邦人の手に渡され、校長更迭の知らせの受けた時、聖堂上の音楽室へ駆けのぼられ、オルガンを弾きながら大声で“マグニフィカト”を歌われた。“私の務めは終った…神が賛美されますように”。貧しい信徒達のために財を投げ打ち、信仰を伝え、育てることに全力を傾け、徹底した貧しさと厳しさに生き、会創立の主眼である布教地での邦人司祭が育ち、司教が生れ、その目的が達せられた時には、愛称まで知り尽した信徒、学生達を後に譲り、大きな淋しさを振り切って離れ去っていくその天晴れなミッション会員の一貫した生きざまは、疑いもなく長崎の地に筋金入りの信仰を育て上げてくれた。

 プチジャン司教の逝去百周年を迎え、九十九匹の羊をおき、一匹の羊、殉教者の子孫を捜し求めて苦労参憺された姿を偲ぶ時、私たちも彼らの司教としての自覚、厳しさ、気骨ある生き方に倣い、大いに発奮し、燃えなければなるまい。

 最後に、プチジャン司教を始め、ミッション会司祭方からいただいた恵みを感謝し、これからのミッション会の新しい使命の上に心からの祈りをお捧げする次第である。

(時津教会・主任司祭)

 

引退の岩永四郎神父に感謝 (カトリック教報 第820号 平成851日付)

 新教会法の規定に基づき、教区司祭テオドロ岩永四郎神父は主任司祭職を辞任し、長与教会付属の司祭館に引退した。これで引退の神父は十人となる。

 岩永神父は1911214日、韓国・仁川生まれ、85歳、浦上教会出身。32年までパリのサンスルピス大神学校で勉学、38320日大浦天主堂で山口司教(当時)によって司祭叙階。司牧歴は、385月久賀島主任、415月伊王島主任、4812月浜串主任、595月諫早主任、714月三浦町主任、833月時津主任、924月長与主任、964月引退。

 神父は司祭叙階以来58年間、司牧に携わりながら県教育委員長、園長、教誨師などを通して地域の人々に福音的な生き方を示した。特に教区の土地、建物の購入、建設にあたっては、県、市、町や建設会社とのパイプ役の形で貢献された。清貧の司祭生活を送り、長い間活躍されたことに心からの敬意を表し、ますます健康で、司祭的諸徳の完成に努められるよう祈りをささげましょう。

 
 

教会見て歩き57 時津教会(長崎地区)

(カトリック教報 第738号 昭和63111日付)

 時津小教区は滑石小教区より分離し、1979107日、聖堂(西彼杵郡時津町浜田郷6061)が献堂された。

 外壁はクリームとチョコレート色の落ち着いた色彩で統一され、聖堂内はシンプルで現代的な聖堂であり、まわりの工場地帯の中にあって祈りの家としての存在感を示している。

 時津・長与地区は近年、長崎のベットタウンとして人口の増加は著しく進み、長崎大司教区現勢統計表によると、当時五十世帯二百余人であった信徒数は年ごとに確実に100人ずつの増加を示し、現在時津教会八百人、長与教会五百余人合わせて千三百余人の大家族となっている。

 ことし3月に司祭叙階50周年を祝われた主任司祭岩永四郎師、助任司祭山脇守師のもとに小教区は8地区に分かれている。

 現在、教会では新しく組織づくりを検討しているところだが、主和会(24歳〜40歳青壮年男子)、婦人会、学生会(中学3年〜高校3年、OB)で構成されている。

 教会の働き手の中心である主和会は、教会の全行事に一人一人が呼びかけ合い自発的に参加協力し奉仕の精神を発揮して、教会をあらゆる面で支えている。

 福音宣教はまず足元からということで、信徒は互いに知り合って欲しいとの願いのもとに、子供たちのスポーツや遠足を通しての交流が始まった。ことしの夏休みは弁当を持参で教会集会所に集合。夏休みの宿題をしたり、工作や竹トンボ作りをいっしょに行った。保護者たちの参加もあって、交流の輪が大きく広がった。主和会のメンバーも会社の夏休みを返上して子供たちのスポーツ指導を引き受けた。

 年間2大行事の1つに殉教地巡礼がある。1年に2回、6月と10月に時津港沖合の殉教地鷹島に船で渡り、祈りをささげ、草刈りをしている。鷹島にはエルナンド神父、ナワレト神父、レオ田中、ペドロ神父、マシャド神父の5人の殉教者のレリーフも建立されている。

 もう1つは、毎年11月第3日曜日に開催されるバザーである。3年前まではバザーの売り上げの全額を福祉関係施設に寄付していた。現在は教会の備品をそろえる目的で数年計画で取り組んでいる。

 教会の聖堂は2階にあるため、足が不自由な人やお年寄りの人は、大変な労力を使わなければならない。それで、車椅子のままでミサにあすかることができるように2階までリフトかエレベーターの設置が検討されている。

 トイレはすでに身障者も使用できるように改装されており、時津小教区に限らず、身障者の人に気軽に来てもらえる教会に整えていきたいという教会の姿勢がうかがえた。

 毎週水曜日の午前中に行われている聖書研究会にはカトリック信者でない人の参加も含めて十数人の出席がある。聖書を読み、要理の勉強を進めているが、質問も活発で鋭い質問も出されるとのことである。今までに出津教会、善長谷教会、大村の放虎原殉教地や首塚などへ巡礼も行い、一歩一歩と福音の歩みを進めている。

 長崎市の人口のドーナツ化現象で、時津、長与地区は今後ますます人口も増加し、あらゆる面で発展していく可能性を持っている。

 「時津教会は若々しい活力のある教会です。奉仕の喜びを分かち合い、他人の喜びを自分の喜びとし、足りないところは互いに反省し補い合って、信徒の皆さんがどんどん成長しておられる。また地元意識も強くなり、すばらしい教会へと向かうことを確信しています」との岩永神父の言葉にうなずきつつ訪問を終えた。

秋麗 羊とともに 五十年 (兵頭 京子)

 
 

教会中心の集落 竹内 榮 (浜串小教区史『200年のあゆみ』34頁 旅からの便り)

 

 浜串小教区設立50周年記念おめでとうございます。初めての記念誌出版での関係者のご苦労とご努力に敬意を表します。この記念誌にお祝いの言葉を述べさせて戴きます事を光栄に思います

 私の教会の思い出は小学校入学前から、ミサつかい(侍者)をするため、まだ夜が明けきれぬうちに、当時教え方をしていた伯母スナに連れられ暗いデコボコ道を教会へ行ったことです。特に、冬の朝香部屋でミサの準備をする時の寒さは今でも思い出されます。

 私が生まれた昭和初期の浜串は、自然のままの港でした。両岸は荒磯がむき出し、そこを利用して海に柱を立て竹で棚を組み、八田網(現在のまき網)の網干場として利用しており、入り江の奥の砂浜には八田網で獲った鰯の加工場と製品を干す煮干場がありました。昭和11(1936)年現在の船引場がある所に、隣村の岩瀬浦出身の桝田富三氏の尽力で県の補助事業として荷揚場が作られました。

 昭和24(1949)年漁業法の改正により、浜串にも漁業協同組合が設立され、漁業振興のための事業を進めていましたが、港の整備が急がれておりましたので、それを促進するため、当時の組合役員と浜串教会在任中の岩永四郎神父様が上京し、神父様の留学時代の知り合いの信者、麻生和子さん(当時吉田茂総理大臣の娘)を通じ政官界に陳述し、その結果は今日の立派な漁港の基礎となりました。岩永神父様にはその後も漁協の顧問として、終生お世話になりました。

 旧教会は明治27(1890)年に鯨の発見者に配布されるお金を基金として建造されたそうです。現在の教会も岩永神父様の在任中に、その頃近海で操業していた地元の漁業会社四社(昭徳、更生、昭生、末広各水産会社)が日曜祝日を返上して漁を行い、その水揚金を基金として、後任の松本長太郎神父様の在任中の昭和41(1966)年に落成しました。

 又、浜串保育園の昭和30(1955)年、地元まき網業者の浄財によって開園されたものです。

 記録によれば私の高祖父竹内榮蔵は、大村藩三重村樫山よりキリシタンの迫害を逃れて文政13(1830)年浜串に移住したそうです。その後、「明治4年調べ、岩瀬浦掛内 浜串居付録」によると、1871年当時の浜串の人口は、家頭與七(榮蔵長男)一家8人、儀三郎一家7人、助蔵一家9人、惣五郎一家3人、合計4世帯27人でした。その後、他所から移住してきた者も居るかもしれませんが、多くはこの先祖達によって集落が形成されたものと思われます。その間約200年、先人達が流した血と汗と涙の結晶が今日の浜串の繁栄を導いたのです。

 現在の浜串は港も道路も町並みも立派になり、交通網も整備されました。港の岬には「希望の聖母」も建立されております。全てが教会中心のこの集落では、人々は兄弟姉妹のようで、優しさと思いやりがあります。

 私達の祖先が漁によって生活の活路を見出したように、私も物心ついた頃は漁師の倅として育っていました。大学を卒業すると、後継者として漁労のための乗船も経験し、先人の後を継ぐ覚悟を致しました。

 当社のまき網4船団は浜串を母港とし、大変お世話になっています。又、漁業組合も設立当時から、地域の皆さんや信徒の皆さんのご協力を戴き順調に運営されています。じれからも先人に恥じないように努力する所存ですので、御指導御鞭撻のほど御願いしますと共に、浜串教会の益々のご発展をお祈り申し上げます。

(昭徳水産社長/浜串漁協共同組合長)

 

清貧と病人訪問を第一に誰もが認める人望の深さ テオドロ岩永四郎神父帰天

(カトリック教報 第834号 平成9101日付)

 

 昨年3月に主任司祭職を辞任し、長与教会付属の司祭館に引退後、体の不調を訴えて長崎市の平田外科を経て時津の百合野病院で病気療養中であったテオドロ岩永四郎神父が919日、午後859分、同病院で脳梗塞後の肺炎による呼吸不全のため帰天された。89歳。

 1911214日、長崎市城山町に生まれる。パリ留学後、38320日、大浦天主堂で司祭叙階。同年5月浜脇、415月馬込、4812月浜串、595月諫早、715月三浦町、833月時津、924月長与の各主任を経て、963月引退・

 清貧を通しての司牧に専念した神父は、特に司牧の原点である病人訪問に力を注いだ。また、教区、小教区の土地・建物に関しては県・市・町などどのパイプ役として大いに貢献された。

 葬儀ミサは922日午後2時、浦上教会で島本大司教司式、糸永、平山、深堀の三司教、105人の司祭をはじめ、神父とのかかわりのあった信者、一般関係者は集まって行われ、心からの感謝の祈りがささげられた。遺体は火葬され、赤城の聖職者墓地に納骨された。
 
 

大恩人 岩永四郎神父様 ラウレンシオ 竹内 榮

(浜串小教区史『200年のあゆみ』35頁 旅からの便り)

 

 記念誌発刊によせてなにか一言を…との鍋内神父様からのご下命です。浜串に本拠を置く昭生丸の社長と言う事でお鉢が回ってきたのでしょうが、これだけ口の達者な私でも文章になると苦手です。気持ちが上手く表せません。この点はご理解願った上で、以下、少々お祝いを述べさせていただくことにします。

 手元に『杉山定蔵系譜図』という長崎在住の杉山千代松さんが大変ご苦労されて3年程前にまとめ上げた立派な家系図があります。

 これによると、ポーロ杉山定蔵は天保6(1935)奈良尾村に生まれていますが、昭生や昭徳の仲間の大半はこの定蔵の子孫であり、私もその端くれに名を連ねております(定蔵の玄孫に当たります)。同じ血が流れ、信仰を同じくする者達の結び付きの強さの源流を改めて知らされた思いですが、定蔵も通ったであろう浜串教会もまた私ども信者にとって心の拠り所といえる大きな存在です。その浜串教会の歩みが記録され、後世に残されることは大変意義深いことであり、発刊を決められた鍋内神父様や記念誌編集委員長の竹内利弘様を初めとする関係皆様方には深甚なる謝意を表するものです。

 さて、こうして書き出すと岩永四郎神父様のことが思い出されます。

 浜串教会は1948(昭和23)に小教区となっていますが、その当初から1960(昭和35)まで主任でおられた岩永四郎神父様は信仰面だけでなく、私が公私にわたりお世話になった終生忘れ得ない大恩人です。

 長崎の会社事務局にも折あるごとに立ち寄ってくださり何くれとなく心配していただきました。お付き合いの中でのエピソードも数限りなくあります。これも浜串でのお付き合いがあったればこそ…とつくづく感謝しております。本当に有り難いことです。

 浜串小教区は平成10年に小教区設立50周年迎えていますが、昭生水産は今年が法人設立50年という節目の年です。浜串小教区の3年後輩と言う事になりますが、今後とも『偉大な先輩』の背を追いながら次の50年、100年に向けて皆で力を併せて頑張って行きたいと思います。

 そして、浜串小教区がこれからの激動の時代に生きる私供信者にとって、大海原に灯る灯台のごとき存在であり続けてほしいと心から祈念するものであります。

(八幡町教会所属/昭生水産会長)

 



  
   
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