大窄政吉主任司祭

 

大窄政吉師帰天 前長崎公教神学校長

(カトリック教報 第390号 昭和3251日付)

 

 前長崎公教神学校長パウロ大窄政吉師は四月八日午前十時、高血圧による心臓衰弱のために、姫路市聖マリア病院で逝去された。

 大窄師は明治三十七年五島岐宿町楠原に生れ、昭和七年六月二十九日長崎公教神学校卒業、同年ローマに留学してウルバン大学に入り、昭和十年七月同大学卒業、十月帰朝、公教神学校教授、昭和十六年久賀教会主任、同十七年平戸教会主任、二十七年長崎公教神学校長として司祭養成に全力を傾けられた。その間昭和二十五年以来、純心女子短大教授として哲学を教えていられた。昭和三十年から高血圧症のため姫路聖マリア病院に入院加療中、一時快方に向ってミサを献げ、告白もきかれる程になられたが、ついに四月八日御逝去、十日同地の共同墓地に埋葬された。山口司教様は急きょ枕頭にかけつけられ、葬式を司られた。教区から岩永六郎師、令兄探禎蔵氏、近親者が参列、長崎出身の前田、野口両師(大阪教区)や広島から純心聖母会修道女などが参列された。午後十一時追悼ミサ、引き続き山口司教様司式の追悼ミサがささげられ、午后はいろいろの記念催し物が行われる。翌二十六日には仏式による追悼祭と記念行事がある。

 
 

大窄神父様の葬儀 田川 初治 (カトリック教報 第390号 昭和3251日付)

 大窄神父様の御葬式に参列するために四月十日姫路市聖マリア病院に参りました。遺体安置室には令兄探禎蔵氏を始め身内の方々五、六名がいられました。

 神父様は、まことに安らかな眠りに入っておられるようで、そうおやせにもならずほんとうにきよらかな表情でございました。

 二ヶ年にわたる病院での療養生活は一進一退で、一時はごミサのあげられ、告白もおききになっていたほどでしたが、昨年の暮ごろから次第に悪くなっていたらしいと御令兄探禎蔵さんは申しておられました。

 結局、高血圧のため心臓衰弱によるものらしく思われました。四月八日午前十時すぎだったそうです。

 追悼ミサははるばる長崎から子の死をみまもるためにおいでになった教区の父、山口司教様によって献げられましたが、助祭は田中英吉神父様(四国)と岩永六郎神父様(下神崎教会)がつとめられたのであります。

 長崎出身の前田、野口、宮本神父様始め大阪教区の神父様、修道院の神父様や病院の童貞様方の美しい聖歌のうちにミサは進められました。

 ミサが終わって赦祷式に移る前に、司教冠をかぶられた山口司教様は棺の前に立って次のような挨拶をなさいました。「地球上の人類はすべて天国への旅の生活を続けているのでありますが、それでも旅の空で亡くなったときくと、何だかうら寂しい思いがするものであります。特に身内の方々にとっては悲しみを増すことになるかもしれません。しかし地上の旅を終えられた大窄政吉神父様は、自分の教区でつくされる以上の手厚い看護と親身も及ばぬ深い愛情を賜ったことを天上に於て感謝すておられることと思います。ご臨席の田口司教様を始め各神父様方、修道院の神父様やシスター、並びに諸先生に対しまして、今はものいわぬ大窄神父様にかわりまた長崎教区を代表して厚く御礼申上げます。司祭職についてから二十四年、二十五年の銀祝を明年にひかえて旅立たれた大窄神父様は、銀祝以上の祝いを天上で味わっておられることでしょう。そしてみな様の御高恩にむくゆる努力をなさっておられることと思います。然し未だ果すべきものが残されているかもしれなせんので、引き続いて神父様のためにお祈りくださいますようお願いいたします」。

 午后一時、聖マリア病院附属聖堂を出棺した遺体は、約六キロ離れた修道院の墓地へ葬られました。

 山口司教様は親代りとして最後まで墓地におとどまりになり、会葬者に対してお礼の言葉を述べられました。聖職者のほかは病院関係者と身内の方だけで、長崎の者では私一人でありましたので灌水のときも教区のみな様のことを考えて祈ったのでございます。大阪に来て満一年を経た日に神父様の追悼の記事を書こうとは。まことに人生は予測しがたいものでございます。

 敬愛する教区のみな様、パウロ故大窄政吉神父様(五十三歳)の永福を共々お祈りいたしましょう。
 
 

久賀島の秋 −大窄神父様の思出− 田中 英吉神父

(カトリック教報 第391号 昭和3261日付)

 もうずいぶん昔のことになる。長崎の五島の福江から船にのりかえて末吉という青年の案内で久賀島に渡った事がある。船が浜脇という所についた。丘を上ると堂々たる鉄筋の聖堂がそびえているのに先ず驚かされた。

 実は昭和十三年の秋長崎の黙想会に参加したとき、大窄神父さまが主任をしておらてたこの久賀島を訪れたのである。日曜日に神父様に代って説教もし、告解もきいたりして長崎の信者たちの信仰に接して深く感じたものである。滞在中外輪という所で烏丸さんの結婚式に列したこともあり、永里の近くの病人に御聖体をもって行ったこともあった。細石流の教会で平日であったがミサの時貝を吹いたので信者がどこからともなく集って来たのもなつかしい思出である。ミサの後教会の前で信者が集まり、「大窄神父さんはお留守のはずなのに、誰かがいたづらに貝をならしたのかと思いながらきましたらやっぱり神父様でしたか」と、四国からきた神父様と珍らしがってくれたことも覚えている。行く時は船であったが帰りは坂道を歩いた。ずいぶん長い道程で二里を越したと思うが、信者たちは日曜日には島の端々からミサを拝聴に行くことを怠らない。

 記憶は薄らいでいるものの、信仰あつい村人の印象は忘れられない。大窄神父さんが案内して下さった修院の方々は明朗な人達であったことも覚えている。コックの青年、末吉君がこしらえてくれた御馳走を神父さまといただいたとき、裏山には鳥のなく声がきこえた。静かな秋の日であった。

 その大窄神父さまが去る四月八日、姫路の聖マリア病院でなくなられ、私は急いでお葬式にはせ参じたが、山口司教さまの特別の思召で司教様のおたてになる追悼のミサに助祭を勤めさしていただいた事は私にとっては有難いことであった。

 学校で習ったり、説教で教えられたりする外に友からの親しい助言や、御手本は特にあり難いものである。深く黙想しながら、信ずるところを貫く、大窄神父様の態度は私にはよい鑑であった。

 大阪からの帰途私は時々姫路に立ちよったが神父様は心からうれしそうに、今日はおかげで食欲がある。血圧が下がったようだと喜んで下さったのだが、今や再びこの地上でお会いするよしもなくなった。それは淋しいことであるけれど、神父様は身をもって我等の真の故郷は天国にあるのだよと教えてくださるように感ずる。

 
 

拝啓 主任神父様 小島 栄

 

 長崎公教神学校が大浦から浦上に移転(19529)した同じ年の11月、第9代目の校長神父様を迎えました。新しい校長神父様は小柄ながら禿げた頭に貫禄があり、背筋をピンと張って歩く姿はキュッキュッと鳴る革靴の音も手伝って威圧感を漂わせていました。歓迎式では学生を代表してプレゼスの川原さん(現在の川原師)が「菊花薫るこのよき日…」と切り出したことだけ記憶しています。当時私は中学2年生でした。

 自らをハゲ爺と呼び(私たちもそう呼んでいました)、堅い内容の話の時は特に笑顔とジョークを交えていました。そして学生が真剣に考えるように方向づける話術を備えておられました。ちょうど長崎教区経営の東陵学園が神言会経営の南山学園に移管されたばかりで、教区神学生も南山に通学していたことを考えると、私たちには分からない困難なことが種々あったと思います。神学生たちもそれまでのゆったりした雰囲気からピーンと張りつめた状態に変わっていったようです。

 当時はまだ食糧難でした。敗戦直後に大村で極貧の生活を送った先輩諸師の生活には及ばないものの、やはり空腹の日々は続いていました。会計係の深堀栄市師の懸命(賢明?) なやりくりのご努力もさることながら、一家の責任者としてのご配慮、ご苦労は尋常ではなかったとお察しいたします。

 それでも神学校は活気に満ちていました。祈りと勉学に加えて厳しい規律が課せられていましたが学生の方には陰にこもった反感などはなく、むしろそれを当然のこととして取り組んでいこうとする気風があったように思います。「ハゲ爺に説教されたバイ」と学生がいう時は、語る側にも聞く側にもカラッとした雰囲気がありました。神父様は父親を演ずるのが上手だったように思います。校長室に行くとコタツに入って読書をする師の姿を見せられ、聖体訪問に行くとそこにも祈っている司祭の姿がありました。よき師、よき友、そしてよき兄貴役の深堀師。苦しいけれど幸せな青春の日々でした。

 青春の苦い思い出が1つあります。高校一年の冬、夜の自習時間に二号寝室でY君と二人でしていたヤミ(こっそり何かを食べる)には、ほんとうはお気付きになっていたのですね。Y君が下校途中にこっそり買ってきたコッペパンの誘いに耐えられず、真っ暗な寝室でベッドの下にうつ伏せになってそれをかじっていました。一個のパンを一口かじっては床を転がして相手に渡し、受け取ってはかじりして幸せとスリルをかみしめていました。あの頃は掃除した後には空中霧散した綿ゴミが静かに舞い降りていましたので、そのパンの状態は安易に察せられますが、そんなことを気にする状況ではありませんでした。あれほどの美味しいパンにはそれ以来、出会ったことがありません。

 例の革靴の音に気付いた時、神父様はすでに寝室にきておられました。一瞬立ち止まった神父様は再び歩きだし、あろう事か私たちが潜んでいるベッドの間にきて立ち止まりました。私たちは文字通り息を殺し、体は硬直していました。荷物をまとめている明日の自分の姿が頭をよぎりました。しかし、われにかえった時は神父様の「音」が2階自習室に遠ざかっていました。

 修羅場をくぐり抜けたつもりで高を括っていた自分が恥ずかしくなります。恥ずかしながら校長を務めた9年間に確証を得ました。その立場になると神学校における学生たちの生態は手にとるようにわかるものですね。こちらが意図せず期待もせず、身構えていない時の方が、自動的に霧や霞が晴れて学生たちの個々の行動が見えるものです。そう考えると当時の私などは神父様の寛大なご配慮の中で上手に泳がされていたのだと思います。

 神父様の訃報に接したのは大神学校に入学したばかりの195747日でした。ラテン語で詩編を歌う上級生に驚きながら、Liber Usualisを使うのに右往左往しつつ恩師のために祈りました。今は教会で父親を演じているつもりはいつも落第しているこのごろです。

(浅子教会主任司祭)



  
   
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