ミカエル 中村 吾作 1864年7月7日(元冶元年) 佐世保市黒島に生まれる(北松浦郡黒島村) 1889年2月5日(明治32年)クザン司教、叙階。 紐差教会助任。 久留米教会。 1909年5月〜1917年5月 (明治42年〜大正6年) 出津教会助任 1918年〜1919年 (大正7年〜大正8年) 浜脇教会主任 1919年9月〜1928年12月(大正8年〜昭和3年) 仲知教会主任 1928年12月〜1936年11月(昭和3年〜昭和11年) 奈留教会主任 1936年11月 (昭和11年 ) 蔭尾教会主任 1937年4月27日 (昭和12年4月27日) 黒島で帰天。75歳 |
カトリック教報教皇号 第17号 奈留島天主堂献堂式 奈留本村に天主堂が欲しいといふことは数年前から当事者間に叫ばれてゐた。殊に前主任山川神父様には之をどうしても実現しやうと資金の工面を四方八方に運動しわけても郷里浦上の信者間に説き廻りて大体成功し、新築準備に着手したのは2年前の事であった其の後山川師には平戸に転任になったが其後を受けた中村師が之を継続して4間半に10間の小奇麗な天主堂が奈留島の相の浦に 臨んで出来上がった其姿は瀟洒たるものである ◎6月8日聖母の潔き御心の大祝日に当たり早坂司教様は中村主任司祭の外、此の奈留天主堂のため功労のある大崎神父山川神父を長崎より随伴せられ桐よりは梅木神父も走せ参ぜられて盛大に祝別式を行われた。新天主堂は山川師の希望により聖フランシスコザベリヨに献げられた、奈留島所管の信徒は何れも之に参列し桐の伝道学校の職員生徒一同も遥々海を渡って来たり500名を収容し得る新天主堂も信徒で溢れ出づる盛況だった。正午には村長学校長村会議員其他の有志のため心ばかりの小宴を張られ、一同満足裡に午後の降福式に興り、終日楽しく聖く送られた。 ◎ 奈留島は元来「元帳」の多い所である。之等の改心のため、此天主堂も新設 |
奈留島の聖母被昇天祭 奈留島の聖フランシスコ堂は異教者の真直中にあり、信者は皆遠方に住んで居るのだが、暑中休暇中小学児童は毎日教会に来て公教要理を学び、聖歌を練習して居る。8月15日聖母の被昇天には、この加愛らしい児童聖歌隊によって、盛大な唱歌祭が歌はれ、参集せる信者等は太陽に直射される聖堂内の息苦しさも、川をなす流汗をも忘れて、今までに見ない盛大なこの祝祭を喜び合った。 |
カトリック教報 昭和10年3月15日 第154号 奈留島教会年度の黙想会 昨年末より、中村師病床に伏してゐられるので、奈留島の信者たちは毎年度の黙想も出来ず困っていたが、平田、今村雨師の御加勢によって、去る2月11日より黙想を始め、24日の日曜日には、主任司祭中村師が感謝のミサを献げた。自分の病故に司教様たちをはじめ、信者諸氏に大きな心配をかけたが平田、今村雨(いまむられう)師のおかげで信者たちが立派な黙想をすることの出来たのを見て、これより嬉しいことはない云々と挨拶をのべ久し振りにミサ聖祭を執行された聖体拝領は、歩行のかなはないままでされたのであったが、其の間、少年たちが愛らしい声で聖歌を歌ったため、全く大祝日の如き盛大さであった。終って各部落の信者総代は師の慈父的愛に満腔の御礼を申し上げ、信者たちはうれしそうに帰路につくのであった。 |
カトリック教報 昭和11年10月一日 第191号? |
カトリック教報 昭和12年5月1日 第205号 ミカエル 中村 吾作霊父 郷里黒島に急逝 |
カトリック教報 昭和12年5月1日 第205号 ミカエル 中村 吾作霊父 郷里黒島に急逝 蔭ノ尾教会主任中村呉作霊父は数年来喘息を病み最近は目に見えて老衰が加はり昨年秋の異動に際し、終に布教の第一線を退いて蔭ノ尾教会に移り、専心静養につとめつつあったが、御令弟を訪問のため郷里黒島に帰省中、去る4月26日突如呼吸の発作的異状を覚え、続いて多量の喀血を見、応急の手当ても甲斐なく、約30分後には不帰の客となられた。数日前の市内司祭団の集合の席上、師が、存命中今一度郷里を訪ねたいと洩らした事を思ひ出して、司祭一同は暗然とされている。然しその念願通り夢なつかしい郷里の山河に護られつつ、聖戦38年の生活閉じて帰天するを得た事は、師に取ってせめてもの慰めであったらう。師は元治元年7月7日、北松浦郡黒島村にうまれ長崎神学校に於いて所定の学を終え、明治32年2月5日、日本26聖殉者の祝日に聖職に叙され先ず紐差宝亀教会に故マタラ師の補佐に任ぜられ、其後、馬渡島、久留米、出津、仲知、久賀島、奈留島の諸教会司牧に当たり昨10月の大移動に現在の蔭ノ尾教会に転任し、依って今日に及んだ。師は生来資性温厚且謙譲就中、師の括淡さは凡俗の追慕の的であった。出津教会の在任中、師が多数の所謂「はなれ切支丹」を帰依せしめたのも決して偶然ではなかった。その秘訣を尋ねた一同僚に、師は謙遜して「ただ親切の一語に尽きる」と答えたと言はれる。師はよく同道の人の荷物を自分の男に手伝はせたり、時には自分で持ってやったと云はれるが、斬うした筍の心遣いに師の面目は覗われる葬儀は黒島教会に於いて全島民参会の下に行はれ、悲報に接して急遽来島した浦川教区長が荘厳ミサを司祭し、続いて赦祷式が執行された。なほ、長崎からは浦上の守山師、飽ノ浦の出口師、南田平教会の中田師、浦上師も参列、其他佐世保教会の脇田師、平戸教会の松下師も来島、共に老師の御英霊を送られた。 |
涙ぐましい信仰の遺物 マリア観音発見 五島奈留島で |