脇田淺五郎主任司祭

 

 
 

脇田神父

 

1、

明治14年出生

2、

明治24年神学校入学、同42年卒業、司祭叙階

3、

五島三井楽教会1カ年

4、

五島玉之浦教会5カ年

5、

五島福江教会3カ年

6、

熊本人吉教会満10カ年

7、

昭和33月佐世保教会に赴任

 

 

カトリック人吉会の100年   1899年〜1999

 

脇田神父と青年会の活動

■トマス脇田浅五郎神父 

★脇田浅五郎神父 1881.10.261965.3.16 零名トマス。筆名 登摩。 長崎県久賀島生まれ。19097月長崎公教神学校を卒業、多年長崎熊本両県で司牧した後、1943年、朝鮮光州の知牧となりましたが、1945年辞任帰国、1947年には横浜教区司教に任命され、527日に司教叙階、戦後の同教区の復興に努めました。19517月に辞任。晩年は那須で静養、同地で亡くなりました。著書に「仏教概論」「主日・祝日説教集二巻」などがあります。第三代の主任司祭、人吉教会初めての邦人司祭、1918年から1928年まで在任しました。 1918年原敬による正統内閣が成立し、我が国に今までなかった自由な空気が送り込まれました。第一次世界大戦の終結、国際連盟の成立、ロシア革命などを通してデモクラシーと民族自決の風潮が沸き起こった時代でした。吉野作造による民本主義の啓蒙運動が行われたのもこの時代です。このような「大正デモクラシー」と呼ばれる雰囲気のなかで、教会の布教は国際色を帯び、また、上智大学、聖心女子高等専門学校が設立されるなど高等教育への進出が始まりました。こうした時期に、脇田神父は人吉に着任しました。 人吉の教会が発足してすでに20年、信者も増え人材も揃い、神父着任の前後からキリスト教についての啓発活動が、布教とともに積極的に進められていきます。神父は、修道女たちのとの連携を深めながら、青年や婦人を積極的に組織して、宣教に働く信徒の育成に力を入れました。周りに積極的に働きかけ、教えを求める人たちのためには、気軽に足を運び、個人的に或いは家族単位に教理を教え、宗教講演を開き、教会機関紙「オトヅレ」を発行しては、誌上に論陣を張り、信徒教育、地域の人たちの啓発・宣教に努めました。彼の講和は「常に味わい深い」と評価され仏教・神道に対しては攻撃的であったにもかかわらず多くの人々に受け入れられたようです。 こんな逸話が残っています。 人吉に着任して間もなく、神父はロシア正教の司祭を訪問しました。師は歓迎されざる客だったのでしょうか、大変無愛想に迎えられたそうですが、兄弟として忍耐強く接し、話合いを繰り返して、「正教」から「カトリック」へと回宗に導きました。 1919128日、この司教は、妻や二人の子供とともに、8代教会において多くの信者を前にして声高らかに回宗を宣言し、ロシア正教の人たちや一部の親族の嫌がらせを乗り越えて、その後も信仰を守り続けました。 この時代の受洗者は、乳幼児を含め実に600人におよびました。宣教への熱意と努力、シスターの活動、信徒の働きは見事としか言いようがありません。神父によれば、この頃の受洗者の数は次の通りで、神父はこの成果はシスターや信者の働きに負うところが大きいと述懐しています。

 
 

1918

24名(内訳不明)

1919

35名(内訳不明)

1921

52名(うち子ども30名)

1922

90名(内訳不明)

1924

88名(内訳不明)

1925

89名(うち子ども65名)

1926

88名(うち子ども57名)

1927

52名(うち子ども38名)

1929

123名(内訳不明)

脇田神父は後年横浜司教に任命されました。聖務の合間に「仏教概論」「祖先崇拝と仏教と加特力(カトリック)教」「主日・祝日説教集」などの著書を残し、カトリック出版界に高く評価される記事を提供し続けました。 コンパス司教は、このような師を、「熱烈な発奮心と燃えるような言葉の人」「働き者で頭の切れる敬虔な司祭」「最善の努力と熱意を傾ける人」と称賛しています。

 
 

■青年会・婦人会の発足と活動

★ペトロ岩上進 1896.5.201956.2.23

 菊地出身、球磨農業学校を卒業、養蚕業指導者として活躍、後、片倉製糸工業株式会社に入社、九州各地の工場長を歴任しました。1921417日、脇田神父より受洗。以来、信徒の中核として働きました。

★ブラザーパウロ今村喜登(セバスチャン)1899.10.28

 人吉市上林町出身。球磨農業学校を卒業、1921421日、脇田神父より受洗。代親、富田稔。1926年厳律シトー会に入会、1929820日誓願。1932820日、終身誓願。修道院内で、乳牛飼育係、管理係、製酪工場係、北海道酪農の先駆者として活躍しました。現在、修道院受付係。

 神父をやりこめようと訪問して、逆に神父の人柄と導きに感銘して洗礼を受けた、北海道トラピスト修道院のブラザー今村喜登は、その著書「あの日、トラピストは吹雪だった」に、神父との出会いを、次のように回想しています。 正月夕方になって親友の岩上がやってきた。彼は私にこんな話をした。「今村さん、わたしはね、先日2回ほど、高田とふたりで寺町のヤソ教会に行ったよ。あそこには日本人のバテレンがいるんだ。ふたりで議論を吹っ掛けて、やっつけようと思って行ったんだよ。そしたらそのバテレンはなかなかの学者でな、私達がかえって危うくなった。今度の日曜日いっしょに行こうや」「おもしろい話だなあ、いっしょにゆくよ」と即座にわたしは約束した。 

日曜日の午後、わたしは自転車を走らせ、寺町のヤソ教会の前で岩上と落ち合った。教会は高いレンガ塀をめぐらし、鉄の扉でいかめしい。建物は
2階建て、木造の洋風づくり。何から何まで異様な雰囲気である。これからバテレンに会うのだ。私のいま会わんとするバテレンは日本人だという。好奇心と緊張感で思わず下腹に力がこもる。そこへ豊永(マスさん?)という賄いのおばあさんが出てきて、「シンプさんは、お部屋ですから、どうぞ。」といった。バテレンを日本語ではシンプというのだなと、はじめて知った。岩上と二人でノックしてシンプさんの部屋に入った。

 はじめて見るシンプさんは、坊主刈りの頭に、長いあごひげ、両耳から鼻の下の顔半分は濃いひげに埋っていた。長い黒い服を着て、がっちりとした体格の
40歳くらいに見えるシンプさんは、畳敷きの部屋、低い机の前に正座しておられた。まさに和洋折衷の風景だ。緊張していた私の心は、畳に座しておられるシンプさんの姿を見たとき、和らいだ。大きな目玉、すごいひげづら。それでいてひげのなかから聞こえてくる、明るく屈託ない笑い声とひとなつっこい笑顔には、初対面とはとても思えないほどの親近感を覚え、一種の喜びと気安さで心がほぐれた。 

その後、およそ
2時間、このシンプさんの口から、否、心から出てくることばに、わたしは時間の経つのを忘れて聞き入った。彼は少年時代から考え続けてきたさまざまな問題に答えてくださったのだ。 どうして人生には、すべての人が忌み嫌う「死」というものがあるのだろうか。なぜ、人はみな幸福を望みながら、かくも多くの不幸に出会うのだろうか。この矛盾だらけの世の中と人生を、どう解釈すればよいのか。人類の歴史は喜びが少なく、悲劇の連続ではなかったか。 シンプさんはこれら一つひとつの疑問に対して、明快に解説してくださった。次の日曜日にまた、と再会を約束して教会を辞した。岩上と私は、「ここに何しに来たのだっけ」と自問自答した。

バテレン征伐と勇ましく出かけてきたものの、バテレンの話を聞きたくて、次の再会が楽しみになってしまったとは。これでは「ミイラ取りがミイラになって成仏し」ではないか。 その後、週
3回、夜7時から教えを受けるため、提灯をつけ4キロの田舎道を、自転車で教会に通った。そしてその年の417日、ご復活祭に、大柄で肥満の岩上はペトロ、わたしはパウロの零名(クリスチャンネーム)で洗礼を受けた。この神父さんは、後の横浜司教、脇田浅五郎神父である。 

(中略)そのころ、教会の近くにある女学校の生徒が、学校帰りに両親に内緒で教えを聞きに来た。この娘さん、なかなかしっかりした賢い人で、教理の勉強の出来も抜群で洗礼を受けた。女学校を卒業して自宅にいるうちに、ある日父親が、信者になったことを知って激怒した。「教えを捨てろ。祖先の宗教を捨てて、ヤソ教に帰依するなど、もってのほか。そんなやつは家に置くことはならん。さっさと出て行け!」縁側で裁縫していたこの娘さんをいきなり庭先にけり落とした。 

しっかり者の娘さんは、言った。「出ていけとおっしゃるなら出ていきます。」そして単衣(ひとえ)の着物を
1枚着たまま教会に駆け込んできた。神父さんは「そら相棒ができた。隠遁者がひとり増えたぞ!」と、彼女を迎えられた。妹とこの娘さんは2人で数年間、屋根裏生活を続けた。その後、この娘さんは神父さんのお世話で上京、専門学校に入り、何年か後に、四国の聖ドミニコ宣教修道女会に入会して、修道院長、女子短大理事長、兼副校長、院長、会長となった。

(この女性はシスター上妻久恵)(中略)・・・私の姉婿の牛島が教理の勉強を始め、やがて1家
6人が受洗した。続いて材木屋の息子の浅尾君、鰻めし屋の息子の上村君、果樹園の主人の坂井氏、俗称『鹿七目(かなめ)の殿様』の竹田君が洗礼を受けて、男子の非常に少なかった人吉教会にも、洗礼を受ける人が次々に出て、青年が12人になった。青年の心理をつかむことの上手な脇田神父さんは、『12使徒の数になった。さあ、青年会を作ろう』と皆に呼びかけられた。

 
 

★あの日 トラピストは吹雪だった

 人吉教会出身のブラザー、今村喜登著。女子パウロ会、パウロ文庫の1冊として出版。大正末期の人吉でバテレン征伐に出かけた著者が逆にキリストのとりこになり、以後、信仰の道をまっしぐらに進んでトラピストに入るまでの信仰の歩みと、長崎への巡礼、活気あふれる東京の教会に触れ、修道院に到着するまでの様子をいきいきと描いた愛と友情の回想の物語。

★シスターマリア・ローザ上妻久恵 1905.11.5

 旧人吉出身。192341日、脇田神父より受洗。代親は畑原スヨ。1928年、和洋専門学校高等師範科卒業後、公私立高等女学校に勤務。1934年、聖ドミニコ宣教修道女会に入会。194043日、終身誓願。1942年、聖カタリナ学園理事長。1966年聖カタリナ女子短期大学設立。1988年、聖カタリナ女子大学設立、同年退任、現在に至る。

神父の呼びかけに応えて、高畠愿・井上治市・岩上進・長濱庄吉・今村喜登・牛島彦次郎・成尾晃一・桑原勝基・中村義雄・碇清一・上村久雄・原義恒・田畑敏卿がメンバーとなり、大正10年(1921年)510日、神父の積極的な指導を受け、8代教会ルマリエ神父の臨席のもとに、会則を掲げて人吉公教青年会を発会させました。会長には相良藩書道師範高畠藍渓の3男、相良家事務所森林技手である高畠愿が就き、次いで大村役場の蚕業技手岩上進、長濱庄吉がその後任を務め、富田稔は会の外にあって、会員とともに活動しました。 

この人吉公教青年会は、間もなく、ペトロ・レイ東京大司教が総裁を務め、山本信次郎海軍少将が会長であった 公教青年会の傘下に入り、福岡教区カトリック青年会人吉支部として活動を続けてゆくことになりました。神父はこれら青年たちに「宗教についての知識、人々を改宗させようとする熱心」を育てました。青年会のメンバーは、神父の手足となって教会機関誌「オトズレ」を配布し、町の公会堂で名士の講演会をたびたび催すなど、様々な活動を拡げていきますが、募金活動もその一つです。 警察の許可を得て、大阪・東京の洪水被災者や、飢餓で苦しむロシア(アルメニア)の子どもたちを救うために、寺町や近くの町々で信者・未信者を問わず寄進を呼びかけ、救済のため送金しました。ロシアの子どもの救援には、当時の金で、
460円の寄進を得ています。 

また、信者が非愛国者でないことを示すため、信者とシスター達で
50円を醸金献納しています。これらの募金の成果は勿論、各戸訪問が青年たちに与えた勇気と希望は、その後の活動の大きな活力となっていきました。 青年会は、神父の励ましを受けながら、まず弁論の練習をして、クリスマスや聖母被昇天の祝賀行事の1つに弁論会を取り上げました。時を同じくして発足した人吉公教婦人会と協力して、宗教劇(殉教劇・古典ファビオラから取ったセシリアを主人公とする歌劇など)をも演じ、教会の広間は立錐の余地もないほどの観客だったと言われています。 更に、会員は神父と共に町や周辺の村々を巡って神父の講演を助け、また、機関誌「オトヅレ」の発行を支える力強いメンバーとなります。
 
 

人吉公教青年会会則

第1章 総則

第1条

本会ハ人吉公教青年会ト称ス

2

本会ハ公教青年ノ団結ヲ計リ会員ノ成聖及公教伝道ヲ以テ目的トス

3

本会ノ目的ヲ達センガ為左ノ事項ヲ行フ

1.    会員は2週間ニ1度の告解及ビ聖体ヲ拝領ナスコト但シ止ムヲ得ザル理由アル時ハ会長ニ通知スベシ

2.    教理研究会ヲ開設スルコト

3.    伝道演説会ヲ開設スルコト

4.    会員相助並ニ慈善事業ヲ行フコト

5.    必要ノ印刷物ヲ発行スルコト

6.    其他本会ノ目的ヲ達スル為必要ト認ムル事項

4

本会ノ事務所ヲ人吉天主公教会内ニ置ク

2章 会員

5

本会ハ満16才以上満45才迄ノ人吉天主公教会青年信徒ヲ以テ組織シ、萬45才ヲ越フルモノハ賛助会員トシテ待遇スルヲ得

6

本会ニ入会又ハ脱会セントスルモノハ会長ニ申出デ会長ハ役員会ノ決議ヲ経テ承認ヲ與フルモノトス

7

会員ニシテ本会ノ体面ヲ汚シ又ハ本会ノ目的ニ反スル行為アルトキハ役員会ノ決議ヲ以テ之ヲ除名ス

会員ニシテ6ヵ月以上会トノ連絡ヲ絶チ、又ハ無断ニテ会費ヲ納メザルモノハ自然脱会者ト看做ス

3章 役員

8

本会ニ左ノ役員ヲ置ク会長  1副会長 1幹事  若干名

9

会長並ニ副会長ハ会員ノ選挙ヲ以テ定メ幹事ハ会員中ヨリ会長之ヲ指名ス

10

会長ハ本会ヲ統理シ本会ヲ代表ス 副会長ハ会長ヲ補佐シ会長事故アル時ハ之ヲ代理ス 幹事ハ会長ノ指示ニ従ヒテ会務ヲ処理シ会計ヲ掌ル

11

役員ノ任期ハ1年トシ会員ノ互選トス 但シ再選ヲ妨ケズ

12

本会顧問トシテ教会主任司祭ヲ推挙ス

4章 集会

13

毎月第2日曜、及第4木曜(夜)ニ例会ヲ開ク 毎年1回御復活祭ニ総会ヲ開ク但シ会長ハ必要ニ応ジ前項ノ期日ノ変更若シクハ臨時集会ヲ催スコトヲ得

5章 会計

14

本会ノ会計及事業年度ハ毎年41日ニ始マリ331日ニ終ル

15

本会ノ経費ハ寄付金及会員負担トス

16

会員ハ毎月例会ニ於テ金50銭ヲ会費トシテ幹事ニ納付スベシ

6章 少年組

17

15歳以下7歳以上ノ本教会信者少年ヲ以テ少年組ヲ設ク

18

少年組ハ青年会ノ監督ノ下ニ教会及青年会ノ事業ニ協力スルモノトス

19

少年組ノ修養及義務トシテ左ノ通リ定ム

1、教会及青年会員ニ対シテハ最善ノ服従ヲ守リ、又組員相互モ相競ウテ愛敬従順ナルベキコト

1、毎日曜御弥撒後1時間必ズ教理ノ勉強ヲナスコト 但シ止ムヲ得ザル時ハ青年会ニ届ケ出ルコト

1、毎日朝夕ノ祈祷ヲ怠ラザルコト

1、毎週可成告解ヲナスベキコト

20

少年組ニ青年会ノ推薦ニヨル若干名ヲ置キ教会及青年トノ連絡組員ノ統一ヲ図ルモノトス

21

少年組ニ左ノ賞罰ヲ設ク

1、従順ニシテ務ヲ守リ組員ノ模範トスベキモノニハ年21回相当ノ褒章ヲスルモノトス

1、        少年組ニシテアマリニ不従順ナルモノアル時ハ青年会ノ相談ニ依り主任霊父ノ許ヲ得テ相当ノ制裁ヲ加ヘルコトアルベシ

付則

22

本会則ハ発会当日ヨリ之ヲ施工ス

23

本会則ノ変更ハ総会ノ決議ヲ要スルモノトス

 

本会テ左ノ通り定ム  集会ノ時耶蘇ノ聖心ニ身ヲ献ジ奉ル文 大天使ミカエル戦ノ中ニ我等ヲ助ケ、摩鬼ノ凶悪ト謀計ニ克タシメ給ヘ、天主ノ彼ニ命ヲ下シ給ハンコトヲ伏シテ願ヒ奉ツル、嗚呼天軍ノ総督、霊魂ヲ傷ハントテ此ノ世ヲ徘徊スルサタン及ビ其ノ他ノ悪魔ヲ天主ノ力ニ由リテ地獄ニ閉込メ給ヘ 亜孟(アーメン) 各自毎日、至聖ナル耶蘇ノ聖心、我等ヲ憐レミ給ヘ 三度大天使ミカエル戦ノ中ニ我等ヲ助ケ・・・・・・
 
 

■礼拝堂の拡張

 この時代、30畳の礼拝堂が手狭になったので、1600円をかけて42畳に広げました。その経費は神父と青年会の活動によって集められたものですが、彼らはこの成果に驚き、神の御摂理の恵みに感謝したと言われています。また、この時期、西間の土地が購入され、カトリック墓地として使用されるようになりました。

■修道会の働き

 マリアの宣教者フランシスコ修道会は、シスター達の奉仕と献身によって診療所(復生院)、授産所(刺繍教室)、孤児と老人の世話などの仕事を着実に進めていきました。熊本琵琶崎のハンセン病院から、未感染の子どもたちを多数預かって養育したのもこの時期です。 これらの施設での人々とシスター達との交流は、神父との交流を生み、神父とのふれあいから多くの人たちが洗礼へと導かれました。また、亡くなっていく多くの人たち、特に幼児たちの臨終の洗礼が、シスターやカトリック信者の看護婦(人吉避病院・有田ミソギ、人吉公立病院、長濱ユク、おかむら病院・中村ジュキ)の手で行われ、多くの霊魂が救われたという事実が残っています。これら看護婦のほか、今村喜登、成尾晃一、山口キセ、上妻久恵、長船ヒロ、西チヤたちの働きもあります。この働きは戦争中のボア神父の時代まで続きます。

 

豊永マスさんのこと

マスさん一家とプレンゲェ神父との縁については前に述べましたが、教会の創立時から明治・大正・昭和の3代に渡って、思い十字架を背負いながら信仰を守り、神父や信者の世話をして生涯を終えました。ブラザー今村喜登は、マスさんとの交流について次のように述懐しています。 「大正10年の春、親友の岩上進と一緒に洗礼を受けましたが、その頃は豊永の小母さんは脇田神父様の賄いなどお手伝いをしておられましたので、教会に行く度にお世話になりましたが、その後も大層お世話になったのです。数年後、岩上と私は下青井の青井神社近くに家を建て、岩上は肥後大津の両親の許から小学校5年と6年の妹を連れてきて、公教要理の勉強をさせ信者にし、4人で暮らしていましたが、岩上と私は養蚕期になると忙しくなり、家に帰られないことも度々ありました。 脇田神父さんは、そんなとき小さい姉妹だけ家に置くと不安だと注意され、薩摩瀬の宮原さん一家(宮原さんは豊永さんの長女)と一緒に暮らしておられた小母さんに、岩上の両親が人吉に引っ越して見えるまで、面倒を見てくださるようお願いしました。信仰の厚い小母さんと一緒に暮らして、私たちは勿論ですが、洗礼を受けて間もない小さな姉妹は大層よい感化を受けました。」と。 晩年は目が不自由で、娘のサトさんと教会の住宅で過ごされた由です。

 

■ユスチン・ヴィオン神父

★ユスチン・ヴィオン神父・Justin Joseph Noel Vion 1884.9.271969.9.29

 人吉教会第4代主任司祭。人吉在任は、1928315日から1930630日まで。カトリック墓地を整備し、大十字架を建てるなどの業績を残しました。 フランス、ディジョン司教区、コートドール県、ディジョン市出身。1903622日、バリ外国宣教会に入会、1907629日司祭叙階。中国を経て1924年来日。浦上、新田原、大牟田で司牧に当たりました。 在任1928年(昭和3年)〜1930年(昭和5年) ヴィオン神父時代の資料が殆どないのが残念です「オトヅレ」昭和34月号に掲載された同神父関連の記事を紹介します。

 ヴィオン師着任  「脇田師の後任として人吉教区を担当されることになったヴィオン師は、去年12月正午着列車にて人吉駅に到着。脇田師をはじめ青年会などが出迎えた。同日及び18日の歓迎会に臨み歓迎を受けられた。  師は仏国の人、日本に渡られてより4ヶ年に過ぎないが、それ以前15ヶ年間支那の奥地で布教されたが、先年の南支動乱のために、所持品の如きは全部略奪せられてしまった由で、渡日以来、日なお浅きため未だ幾分日本語には不自由なるも、教務を弁ぜられるには十分であり、且つ漢文の如きは白文のまま現代支那語にて流暢に読まれる程で、日本語中難解なところも漢字にて示せば直ぐに了解できる便宜を持って居られる。本年44歳の由にて、やがて日本語熟達のうえは十分の力を発揮される事と期待さる。」

 

 この年(昭和3年)、西間落水のカトリック墓地が整備され、大十字架が建てられ、それ以降墓地におけるミサはその下で行われてきました。 青年弁論大会など青年会の活動は変わりなく続けられ、「オトズレ」は師の在任中に、福岡新司教区(教区長、フェルナンド・ティリー司教)の機関誌として委譲されていますが、寄稿、編集は、人吉教会青年会のメンバー、長濱庄吉や岩上進によって続けられました。

★フェルナンド・ティリー司教 Thiry Fernand 1884.9.281930.5.10

  パリ外国宣教会司祭。北フランス、カンプ教区、アノルに生まれる。1907629日、司祭叙階。9月末、日本に出発しました。1926年、コンバス司教死去のあと代理司教。1927年、長崎教区から福岡司教区が分離、創設されるに伴い、同年1211日、司教叙階、1928116日、帰座しました。人吉教会機関誌「オトズレ」を教区報とし発行するなど、初代福岡教区司教として教区の基礎作りに努めました。

1928

信徒数151

洗礼 大人9、幼児481

1929

信徒数160

洗礼 大人9、幼児98

ヴィオン神父時代の信者数、洗礼者数

 

 

 

 
 

パリ外国宣教会年次報告

今年のもっとも興味深い出来事の一つは、人吉の脇田師の賢明な熱意のお陰で日本人のロシア教司祭と、その家族が回宗をしたことであると、八代からルマリエ師が書いてきた。脇田師が、はじめてロシア教司祭のところにいったとき、彼は少しも親切気のないことばで迎えられた。しかし、師が実に兄弟的にこの迷った人を扱ったので、何回かの話し合いの結果、師は彼をそこから引き出し、羊の檻へと連れ戻した。ロシア教司祭は、その妻と二人の男の子と共に1919128日、八代の教会の中で、多数の信者の前で回宗宣言をし、大きな感化を与えた。思いがけず起こったこの回宗には、たぶん他の回宗が続くことだろう。それを待ちながらも、このことはロシア教の陣営に混乱を引き起こした。(パリ宣教会報告、1920年、p178

人吉で脇田師は大人の洗礼32と異教徒の子供の洗礼30という立派な束をマリアの宣教者フランシスコ会の修道女たちの助けのお陰で摘み取ることが出来た。

昨年、彼が回宗させたロシア正教の司祭は、その家族の一部のものが引き起こすあらゆる嫌がらせにもかかわらず、信仰のうちにしっかり留まっている。(パリ宣教会報告、1921年p196

私は、脇田師が管理する肥後の人吉の小さい信者共同体をあげたい。この日本人司祭は90の洗礼を記録した。カトリックのいくつかの家族と彼の小さい若者のサークルに助けられて、彼は、その小聖堂を大きくするため、1,600円集めることに成功した。彼自身、それについて驚き、この幸いな結果を摂理の特別な恩恵に帰している。これらの同じ若者たちは、ロシア人の子供たちを助けるようにとの教皇の呼びかけに答えることを幸いとし、キャンペーンをやり始めた。彼らは警察の許可を受けて、すべての戸口をたたき、使節閣下に460円をおくることが出来た。

 脇田師は、自分の小さい群れの熱心に満足している。来年は更によい結果を得られることを希望している。なぜならマリアの宣教者フランシスコ会の修道者たちは、その聖児童会を人吉に移し、託児所と裁縫学校とを開設したから。師は、異教徒たちのための宗教講和で大変忙しいにもかかわらず、カトリック出版界に、非常に評価されている記事を提供し続けている。(1923年、パリ宣教会報告、p239
 
 

 人吉の拠点は日本人司祭トマ脇田に委ねられている。彼は働き者で、頭もよく、敬虔な司祭である。彼は異教徒に布教するのが好きだ。暇なとき、宗教出版物に記事を書き、自分の信者たちと、付近の異教徒のために「毎週の宗教的小雑誌」というちょっとしたものを発行し始めた。何人かの青年を集めることに成功し、彼らに人々の改心に対する熱烈な心を伝授した。また宗教についてのもっと深い知識を授け、一緒に町やその近辺で講演会を開いている。神が彼らの努力を祝福されたので聴衆のなかの何人かが我々の聖教の勉強をはじめた。マリアの宣教者フランシスコ会修道女の助けを得て脇田師は88人に洗礼を授けた。フランシスコ会の修道女はその聖児童福祉施設を人吉に移した。(1924年、パリ宣教会報告、p257

 

 人吉の小さな信者共同体においてはトマス脇田師が24人の成人と65人の異教徒の子供たちの洗礼の束を摘んでいる。この熱心な司祭はいたるところで講演をすることも不可能なので、彼のカトリック青年会の費用で印刷した小冊子を、異教徒や学校に配布したのである。その小冊子の中は我々の教えに対する非難を論破している。フランシスコ会修道女の修道女たちも協力している。彼女たちはそこに作業所と収容所を持ち、琵琶崎の癪病院から感染していない子供たちを預かっている(1925年、パリ宣教会報告、p282

 

 人吉。ここで脇田師は今年も立派な収穫を得ている。成人31人、子供57人の洗礼である。彼の講和は常に味わいの深いものである。毎月、小さな機関紙を発行している。この小冊子は仏教や神道に対して少し攻撃的であるにもかかわらず結構受け入れられている。(1926年、パリ宣教会報告、p17

 

 熊川をさかのぼると人吉に着く。そこで206人の信者は熱烈な奮発心と燃えるような言葉の人、日本人司祭脇田師に託されている。彼は小さな雑誌を用いて信者のところにだけでなく、異教徒の所まで真理の言葉を届けている。それは明るい見通しを与えて成功を収めていると彼は言っている。23年前から始められたにすぎない彼の雑誌は、すでに1,500部発行している。フランシスコ会の修道女たちはそこに1孤児院、1作業室、1養老院を持っていて、それらは有利に交際を広めるのに役立っている・・・彼女らの熱意と信者たちの熱意は14人の大人の洗礼と38人の異教徒の子供の洗礼によって報いられた。


  
   




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