脇田神父
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カトリック人吉会の100年 1899年〜1999年 脇田神父と青年会の活動 ★脇田浅五郎神父 1881.10.26〜1965.3.16 零名トマス。筆名 登摩。 長崎県久賀島生まれ。1909年7月長崎公教神学校を卒業、多年長崎熊本両県で司牧した後、1943年、朝鮮光州の知牧となりましたが、1945年辞任帰国、1947年には横浜教区司教に任命され、5月27日に司教叙階、戦後の同教区の復興に努めました。1951年7月に辞任。晩年は那須で静養、同地で亡くなりました。著書に「仏教概論」「主日・祝日説教集二巻」などがあります。第三代の主任司祭、人吉教会初めての邦人司祭、1918年から1928年まで在任しました。 1918年原敬による正統内閣が成立し、我が国に今までなかった自由な空気が送り込まれました。第一次世界大戦の終結、国際連盟の成立、ロシア革命などを通してデモクラシーと民族自決の風潮が沸き起こった時代でした。吉野作造による民本主義の啓蒙運動が行われたのもこの時代です。このような「大正デモクラシー」と呼ばれる雰囲気のなかで、教会の布教は国際色を帯び、また、上智大学、聖心女子高等専門学校が設立されるなど高等教育への進出が始まりました。こうした時期に、脇田神父は人吉に着任しました。 人吉の教会が発足してすでに20年、信者も増え人材も揃い、神父着任の前後からキリスト教についての啓発活動が、布教とともに積極的に進められていきます。神父は、修道女たちのとの連携を深めながら、青年や婦人を積極的に組織して、宣教に働く信徒の育成に力を入れました。周りに積極的に働きかけ、教えを求める人たちのためには、気軽に足を運び、個人的に或いは家族単位に教理を教え、宗教講演を開き、教会機関紙「オトヅレ」を発行しては、誌上に論陣を張り、信徒教育、地域の人たちの啓発・宣教に努めました。彼の講和は「常に味わい深い」と評価され仏教・神道に対しては攻撃的であったにもかかわらず多くの人々に受け入れられたようです。 こんな逸話が残っています。 人吉に着任して間もなく、神父はロシア正教の司祭を訪問しました。師は歓迎されざる客だったのでしょうか、大変無愛想に迎えられたそうですが、兄弟として忍耐強く接し、話合いを繰り返して、「正教」から「カトリック」へと回宗に導きました。 1919年12月8日、この司教は、妻や二人の子供とともに、8代教会において多くの信者を前にして声高らかに回宗を宣言し、ロシア正教の人たちや一部の親族の嫌がらせを乗り越えて、その後も信仰を守り続けました。 この時代の受洗者は、乳幼児を含め実に600人におよびました。宣教への熱意と努力、シスターの活動、信徒の働きは見事としか言いようがありません。神父によれば、この頃の受洗者の数は次の通りで、神父はこの成果はシスターや信者の働きに負うところが大きいと述懐しています。 |
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脇田神父は後年横浜司教に任命されました。聖務の合間に「仏教概論」「祖先崇拝と仏教と加特力(カトリック)教」「主日・祝日説教集」などの著書を残し、カトリック出版界に高く評価される記事を提供し続けました。 コンパス司教は、このような師を、「熱烈な発奮心と燃えるような言葉の人」「働き者で頭の切れる敬虔な司祭」「最善の努力と熱意を傾ける人」と称賛しています。 |
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■青年会・婦人会の発足と活動 ★ペトロ岩上進 1896.5.20〜1956.2.23 菊地出身、球磨農業学校を卒業、養蚕業指導者として活躍、後、片倉製糸工業株式会社に入社、九州各地の工場長を歴任しました。1921年4月17日、脇田神父より受洗。以来、信徒の中核として働きました。 ★ブラザーパウロ今村喜登(セバスチャン)1899.10.28〜 人吉市上林町出身。球磨農業学校を卒業、1921年4月21日、脇田神父より受洗。代親、富田稔。1926年厳律シトー会に入会、1929年8月20日誓願。1932年8月20日、終身誓願。修道院内で、乳牛飼育係、管理係、製酪工場係、北海道酪農の先駆者として活躍しました。現在、修道院受付係。 神父をやりこめようと訪問して、逆に神父の人柄と導きに感銘して洗礼を受けた、北海道トラピスト修道院のブラザー今村喜登は、その著書「あの日、トラピストは吹雪だった」に、神父との出会いを、次のように回想しています。 正月夕方になって親友の岩上がやってきた。彼は私にこんな話をした。「今村さん、わたしはね、先日2回ほど、高田とふたりで寺町のヤソ教会に行ったよ。あそこには日本人のバテレンがいるんだ。ふたりで議論を吹っ掛けて、やっつけようと思って行ったんだよ。そしたらそのバテレンはなかなかの学者でな、私達がかえって危うくなった。今度の日曜日いっしょに行こうや」「おもしろい話だなあ、いっしょにゆくよ」と即座にわたしは約束した。 |
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★あの日 トラピストは吹雪だった 人吉教会出身のブラザー、今村喜登著。女子パウロ会、パウロ文庫の1冊として出版。大正末期の人吉でバテレン征伐に出かけた著者が逆にキリストのとりこになり、以後、信仰の道をまっしぐらに進んでトラピストに入るまでの信仰の歩みと、長崎への巡礼、活気あふれる東京の教会に触れ、修道院に到着するまでの様子をいきいきと描いた愛と友情の回想の物語。 ★シスターマリア・ローザ上妻久恵 1905.11.5〜 旧人吉出身。1923年4月1日、脇田神父より受洗。代親は畑原スヨ。1928年、和洋専門学校高等師範科卒業後、公私立高等女学校に勤務。1934年、聖ドミニコ宣教修道女会に入会。1940年4月3日、終身誓願。1942年、聖カタリナ学園理事長。1966年聖カタリナ女子短期大学設立。1988年、聖カタリナ女子大学設立、同年退任、現在に至る。 この人吉公教青年会は、間もなく、ペトロ・レイ東京大司教が総裁を務め、山本信次郎海軍少将が会長であった 公教青年会の傘下に入り、福岡教区カトリック青年会人吉支部として活動を続けてゆくことになりました。神父はこれら青年たちに「宗教についての知識、人々を改宗させようとする熱心」を育てました。青年会のメンバーは、神父の手足となって教会機関誌「オトズレ」を配布し、町の公会堂で名士の講演会をたびたび催すなど、様々な活動を拡げていきますが、募金活動もその一つです。 警察の許可を得て、大阪・東京の洪水被災者や、飢餓で苦しむロシア(アルメニア)の子どもたちを救うために、寺町や近くの町々で信者・未信者を問わず寄進を呼びかけ、救済のため送金しました。ロシアの子どもの救援には、当時の金で、460円の寄進を得ています。 また、信者が非愛国者でないことを示すため、信者とシスター達で50円を醸金献納しています。これらの募金の成果は勿論、各戸訪問が青年たちに与えた勇気と希望は、その後の活動の大きな活力となっていきました。 青年会は、神父の励ましを受けながら、まず弁論の練習をして、クリスマスや聖母被昇天の祝賀行事の1つに弁論会を取り上げました。時を同じくして発足した人吉公教婦人会と協力して、宗教劇(殉教劇・古典ファビオラから取ったセシリアを主人公とする歌劇など)をも演じ、教会の広間は立錐の余地もないほどの観客だったと言われています。 更に、会員は神父と共に町や周辺の村々を巡って神父の講演を助け、また、機関誌「オトヅレ」の発行を支える力強いメンバーとなります。 |
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人吉公教青年会会則
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■礼拝堂の拡張 この時代、30畳の礼拝堂が手狭になったので、1600円をかけて42畳に広げました。その経費は神父と青年会の活動によって集められたものですが、彼らはこの成果に驚き、神の御摂理の恵みに感謝したと言われています。また、この時期、西間の土地が購入され、カトリック墓地として使用されるようになりました。 ■修道会の働き マリアの宣教者フランシスコ修道会は、シスター達の奉仕と献身によって診療所(復生院)、授産所(刺繍教室)、孤児と老人の世話などの仕事を着実に進めていきました。熊本琵琶崎のハンセン病院から、未感染の子どもたちを多数預かって養育したのもこの時期です。 これらの施設での人々とシスター達との交流は、神父との交流を生み、神父とのふれあいから多くの人たちが洗礼へと導かれました。また、亡くなっていく多くの人たち、特に幼児たちの臨終の洗礼が、シスターやカトリック信者の看護婦(人吉避病院・有田ミソギ、人吉公立病院、長濱ユク、おかむら病院・中村ジュキ)の手で行われ、多くの霊魂が救われたという事実が残っています。これら看護婦のほか、今村喜登、成尾晃一、山口キセ、上妻久恵、長船ヒロ、西チヤたちの働きもあります。この働きは戦争中のボア神父の時代まで続きます。 豊永マスさんのこと マスさん一家とプレンゲェ神父との縁については前に述べましたが、教会の創立時から明治・大正・昭和の3代に渡って、思い十字架を背負いながら信仰を守り、神父や信者の世話をして生涯を終えました。ブラザー今村喜登は、マスさんとの交流について次のように述懐しています。 「大正10年の春、親友の岩上進と一緒に洗礼を受けましたが、その頃は豊永の小母さんは脇田神父様の賄いなどお手伝いをしておられましたので、教会に行く度にお世話になりましたが、その後も大層お世話になったのです。数年後、岩上と私は下青井の青井神社近くに家を建て、岩上は肥後大津の両親の許から小学校5年と6年の妹を連れてきて、公教要理の勉強をさせ信者にし、4人で暮らしていましたが、岩上と私は養蚕期になると忙しくなり、家に帰られないことも度々ありました。 脇田神父さんは、そんなとき小さい姉妹だけ家に置くと不安だと注意され、薩摩瀬の宮原さん一家(宮原さんは豊永さんの長女)と一緒に暮らしておられた小母さんに、岩上の両親が人吉に引っ越して見えるまで、面倒を見てくださるようお願いしました。信仰の厚い小母さんと一緒に暮らして、私たちは勿論ですが、洗礼を受けて間もない小さな姉妹は大層よい感化を受けました。」と。 晩年は目が不自由で、娘のサトさんと教会の住宅で過ごされた由です。 ■ユスチン・ヴィオン神父 ★ユスチン・ヴィオン神父・Justin Joseph Noel Vion 1884.9.27〜1969.9.29 人吉教会第4代主任司祭。人吉在任は、1928年3月15日から1930年6月30日まで。カトリック墓地を整備し、大十字架を建てるなどの業績を残しました。 フランス、ディジョン司教区、コートドール県、ディジョン市出身。1903年6月22日、バリ外国宣教会に入会、1907年6月29日司祭叙階。中国を経て1924年来日。浦上、新田原、大牟田で司牧に当たりました。 在任1928年(昭和3年)〜1930年(昭和5年) ヴィオン神父時代の資料が殆どないのが残念です「オトヅレ」昭和3年4月号に掲載された同神父関連の記事を紹介します。 ヴィオン師着任 「脇田師の後任として人吉教区を担当されることになったヴィオン師は、去年12月正午着列車にて人吉駅に到着。脇田師をはじめ青年会などが出迎えた。同日及び18日の歓迎会に臨み歓迎を受けられた。 師は仏国の人、日本に渡られてより4ヶ年に過ぎないが、それ以前15ヶ年間支那の奥地で布教されたが、先年の南支動乱のために、所持品の如きは全部略奪せられてしまった由で、渡日以来、日なお浅きため未だ幾分日本語には不自由なるも、教務を弁ぜられるには十分であり、且つ漢文の如きは白文のまま現代支那語にて流暢に読まれる程で、日本語中難解なところも漢字にて示せば直ぐに了解できる便宜を持って居られる。本年44歳の由にて、やがて日本語熟達のうえは十分の力を発揮される事と期待さる。」 この年(昭和3年)、西間落水のカトリック墓地が整備され、大十字架が建てられ、それ以降墓地におけるミサはその下で行われてきました。 青年弁論大会など青年会の活動は変わりなく続けられ、「オトズレ」は師の在任中に、福岡新司教区(教区長、フェルナンド・ティリー司教)の機関誌として委譲されていますが、寄稿、編集は、人吉教会青年会のメンバー、長濱庄吉や岩上進によって続けられました。 ★フェルナンド・ティリー司教 Thiry Fernand 1884.9.28〜1930.5.10 パリ外国宣教会司祭。北フランス、カンプ教区、アノルに生まれる。1907年6月29日、司祭叙階。9月末、日本に出発しました。1926年、コンバス司教死去のあと代理司教。1927年、長崎教区から福岡司教区が分離、創設されるに伴い、同年12月11日、司教叙階、1928年1月16日、帰座しました。人吉教会機関誌「オトズレ」を教区報とし発行するなど、初代福岡教区司教として教区の基礎作りに努めました。
ヴィオン神父時代の信者数、洗礼者数 |
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パリ外国宣教会年次報告 今年のもっとも興味深い出来事の一つは、人吉の脇田師の賢明な熱意のお陰で日本人のロシア教司祭と、その家族が回宗をしたことであると、八代からルマリエ師が書いてきた。脇田師が、はじめてロシア教司祭のところにいったとき、彼は少しも親切気のないことばで迎えられた。しかし、師が実に兄弟的にこの迷った人を扱ったので、何回かの話し合いの結果、師は彼をそこから引き出し、羊の檻へと連れ戻した。ロシア教司祭は、その妻と二人の男の子と共に1919年12月8日、八代の教会の中で、多数の信者の前で回宗宣言をし、大きな感化を与えた。思いがけず起こったこの回宗には、たぶん他の回宗が続くことだろう。それを待ちながらも、このことはロシア教の陣営に混乱を引き起こした。(パリ宣教会報告、1920年、p178) 人吉で脇田師は大人の洗礼32と異教徒の子供の洗礼30という立派な束をマリアの宣教者フランシスコ会の修道女たちの助けのお陰で摘み取ることが出来た。 昨年、彼が回宗させたロシア正教の司祭は、その家族の一部のものが引き起こすあらゆる嫌がらせにもかかわらず、信仰のうちにしっかり留まっている。(パリ宣教会報告、1921年p196) 私は、脇田師が管理する肥後の人吉の小さい信者共同体をあげたい。この日本人司祭は90の洗礼を記録した。カトリックのいくつかの家族と彼の小さい若者のサークルに助けられて、彼は、その小聖堂を大きくするため、1,600円集めることに成功した。彼自身、それについて驚き、この幸いな結果を摂理の特別な恩恵に帰している。これらの同じ若者たちは、ロシア人の子供たちを助けるようにとの教皇の呼びかけに答えることを幸いとし、キャンペーンをやり始めた。彼らは警察の許可を受けて、すべての戸口をたたき、使節閣下に460円をおくることが出来た。 |
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人吉の拠点は日本人司祭トマ脇田に委ねられている。彼は働き者で、頭もよく、敬虔な司祭である。彼は異教徒に布教するのが好きだ。暇なとき、宗教出版物に記事を書き、自分の信者たちと、付近の異教徒のために「毎週の宗教的小雑誌」というちょっとしたものを発行し始めた。何人かの青年を集めることに成功し、彼らに人々の改心に対する熱烈な心を伝授した。また宗教についてのもっと深い知識を授け、一緒に町やその近辺で講演会を開いている。神が彼らの努力を祝福されたので聴衆のなかの何人かが我々の聖教の勉強をはじめた。マリアの宣教者フランシスコ会修道女の助けを得て脇田師は88人に洗礼を授けた。フランシスコ会の修道女はその聖児童福祉施設を人吉に移した。(1924年、パリ宣教会報告、p257) 人吉の小さな信者共同体においてはトマス脇田師が24人の成人と65人の異教徒の子供たちの洗礼の束を摘んでいる。この熱心な司祭はいたるところで講演をすることも不可能なので、彼のカトリック青年会の費用で印刷した小冊子を、異教徒や学校に配布したのである。その小冊子の中は我々の教えに対する非難を論破している。フランシスコ会修道女の修道女たちも協力している。彼女たちはそこに作業所と収容所を持ち、琵琶崎の癪病院から感染していない子供たちを預かっている(1925年、パリ宣教会報告、p282) 人吉。ここで脇田師は今年も立派な収穫を得ている。成人31人、子供57人の洗礼である。彼の講和は常に味わいの深いものである。毎月、小さな機関紙を発行している。この小冊子は仏教や神道に対して少し攻撃的であるにもかかわらず結構受け入れられている。(1926年、パリ宣教会報告、p17) |