初代 脇田淺五郎主任司祭

 

昭和31115日 カトリック教報

○脇田師の全国行脚

 長崎教区には種々の新事業が計画されつつある。佐世保市の天主堂新築、及び法人童貞会の創設もその一で、今や教区内の信者達はその為に奮って応分の○○○○○○○○○○○○○○に導かんものと力んでいる。なお、佐世保市教会の主任脇田師は広く篤志家の援助を仰がんものと、全国を行脚しておられる。その間に師はご母堂を亡われたのだが、依然東奔西走を続けておられる。一旦手を犂に着けた以上、決して後ろを顧みられぬ所に、師の面目が踊っている。

 

 

昭和3121日 カトリック教報

早坂司教 回顧一カ年(その3)

 歓迎式後の祝宴

 歓迎式が終って間もなく宴会に移った。列席者は聖職者、マリア会修道士、信徒中の希望者合わせて320幾名であった。宴たけなわなる頃、脇田師は起って、邦人司祭一同の口となり、その胸底に渦まきたてる心情を吐露せられた。その大意を摘記すると「私等が御統率の下に進むべき法人司教様!今日最初の司教様を迎えることができましたのは、私等の喜びに堪えない次第であります。」「然しその喜びを述べるに先だち、外国宣教師方に責めて一言のお禮恩を知るという美しい心を忘れざるがため、一言のお禮を申し上げさして下さい。」「私等に今日の喜びをあらしめたのは外国宣教会の賜である。暗黒の日本が光明の天地と化し、長い迫害の中に泣いていた日本公教会が復活の喜を得たのは、実に外国宣教師方の努力の結果である。今日の喜の大なるだけ、感謝も亦大ならざるを得ないのであります。」「司教閣下が全世界から祝賀の雨を洪水の如く浴びせられなさいましたのは、御一人のためと言わんよりは、寧ろ長崎教区のため、私等邦人司祭の為でした。実際それは私等全体に対する祝賀の如く感ぜずにはいられません。是とても外国宣教会が私等の祖先の殉教者にあこがれて、わざわざこの国へ宣教師を渡来させ、汗みどろに働かせて下さったお陰で、言わば殉教者に浴びせられた祝賀を、殉教者の子孫として私等が直接に頂戴したかのような形になったのであります・・・・・」「父兄のたなごころに火傷の遺りを、その体中にの痕を見た私等の魂は未だに傷つけられています。それがあらぬか九州の信者はどうも卑屈で仕方がないと、よく言われるのです。幸い神様はこの信者の為に偉大なる司教を起して下さいました。あこがれの救い手として、閣下を私等にお与え下さいました。私等が一日千秋の思いしてその御来着を待ち侘びたのもあに偶然ならんやであります。」「ローマに於いて王たるキリストの祝日、天下億兆を憐れみ給える神の聖心の発露とも言うべき彼の日に閣下が祝聖式をお受けになったのは、ローマ聖座と吾日本と結び付けられた訳である。否、閣下がイタリア、フランス、ベルギー、アメリカ等をご巡歴になり、至る所で盛んに歓迎されなさりましたのは日本公教会が彼らの心に深く印象された証拠ではないでしょうか。外国宣教会の賜物たる長崎教区の名が、殉教者のそれと共に深く彼らの心に刻まれた訳ではありませんでしょうか・・・」「そして今やその宣教会の遺産が私等の手に委ねられました。もし私等の過失によって少しでもこの遺産を気づ付けるようなことでもあったら、何の顔あって殉教者に対しましょう。何の顔あって外国宣教会に対しましょう。何の顔あってローマ教皇様に対しましょう。」○○○○○○○○○○○○○○この長崎教区を立派に発達させて行かねばならぬ。ここが私等の一大決心を要する所である。今や天下の耳目は私等の上に、私等の司教様の上に集中されてある。もし私等の不心得よりして、この教区の上に一寸の汚点でも加えるようなことがあったならば、我が長崎教区の名誉を、我が大和民族の名誉を如何せんやであります・・・・・」 是に対する早坂司教様の御答辞は次の如し。「天性に於いて殆ど同じ様なフランス人を選んで、我日本公教会の復活に当たらしめ給うたことを私は教皇様に感謝いたしたい。人間味と言うものは外に表れる波の如きもので、水底は或いは平常であるかも知れないが、然し外に表れる所は決して一様ではない。然るに地を隔てること幾千里、言語、習俗も同じからざるにせよ、情愛に於いて、感じ方に於いて我々日本人と殆ど同じ様なフランス人を特に教皇様が選んで、日本公教会の復活を謀らしめ下さいましたのは、私等の感謝して措かざる所であります。」「尚そのフランス外国宣教会が伝道に着手せし以来すでに6010万の信徒と長崎のみにても30名の司祭を得、今日あるの基をお築き下さったことを私は感謝いたします。また外国宣教会の片腕のなって下さった修道会に対しては勿論、彼等を派遣して下さいました教皇様にも心から感謝いたします。殊に日本公教会が次第に芽を吐き枝を張り花を咲かすに至るや、今度の○○○○○○○○○○○○○○ ましたピオ11世聖下に最大の敬意と謝意を捧げざるを得ないのであります・・・・・」「そして外国宣教会の厚恩に報い、同時に教皇様の思召しに適うだけの実を結ぼうと思うならば、断じて祖先の名に背かない鮮血を流した殉教者の名を辱めないという一大決心であらねばなりません・・・・・」「部下の協力同心を得ないならば・・・司祭達の有力な後援を得ないならば、一人の邦人司教が何を全うし得ますでしょう・・・・・。外面的に祝賀するのではなく、その祝賀の真意を言行の上に表し、よく協力同心の実を揚げるに至った時こそ、始めて喜んで然るべきでありましょう・・・・・」「司教は司祭なしに何がやられますか。司祭も信徒なしに何がひとつ出来ますか・・・・・。各々篤と反省して下さい。信者が挙って司祭を尊敬しているのみならず、またよく服従している。司祭の指導の下に有終の美を全うしたいと欲しているのを見た時、私は非常に力強く感じ、心から神様に感謝する次第であります・・・・・。とにかく、信者を牧して行く邦人司祭、栄えある歴史のページを残せし有為な司祭を手許に持っているのは、本懐の至りであります。こんな司祭を養成して下さった外国宣教会に、感謝せずにはいられません。」「是から新たな舞台に立ち、新たな決心を以って勇往万進する時期に到達したとは言え、カトリックである以上、外面に表れる所○○○○○○○○○○○○○○ 上は決して異なる所がない。フランス人、アメリカ人、日本人というように、人間として、人情、風俗、習慣の上には多大の相違があるにせよ、カトリックたるに於いては全く同一であります。各々そんな心持で相提携し、相激賞、奮励して、長崎教区の進歩発展を謀ることに致しましょう・・・云々」 3時半に聖体降服式を終り、それから早坂司教様のご招待により、司祭等は一同大浦天主堂へ行き、同天主堂を背景として記念撮影をなし、晩餐会に興った上で散会した。(終)
 
 

○片岡吉一師

 片岡と言えば浦上、浦上と言えば片岡を連想する程、浦上は片岡姓の多い所であるが、邦人司祭の中片岡姓を有っているものと来たら浦上に決まっている。師も又当然浦上の出身である。至って快活、楽観な性分で、なおそうした半面には温順博愛の美徳が師の人格を飾っている。しかも驚嘆すべき記憶力の所有者で神学校に於ける試験の時などはよく先生に舌を巻かせたものであった。卒業後は佐世保教会に赴任し、博学多才の脇田霊父の指導の下に教役に服しておられる。
 
 

教会ゴシップ

●誰が、いたづらに附けたものやら、トンネル教会とあだ名されてる佐世保市の公教会、実際一見したところ、誰の目にも田舎の腰掛茶屋か、高く見積っても安下宿屋としか見えないあの荒格子だての教会は、長崎県下第二の都市、而も帝国有数の軍港に於けるカトリック教会堂としては、余りにもみずぼらしい。成程安料理屋のあとを一時の間に合せに買い、我慢して時の来るのを待ってる仮教会だと、その素情が判れば、如何にもと頷かれるところもあろう。けれどもそれならそれで早く適当な場所に教会らしい建物でも建てる用意と準備が出来てるのかと尋ねて見ると、実に案外、現任司祭が赴任した時は約一千円からの借金を背負ってたそうだ。

●これじゃどうにもならぬと司教を口説きおとして、どうやら予想外に立派な敷地だけは求めた。がさて是から聖堂、司祭館、伝道師宅、コックさんの家、等の普請となると、安く見積っても五六万円は掛かる。安閑としては居られぬと奮起した人のひとりに脇田師がある。全国行脚に乗り出して脚を棒のようにし、口を酸っぱくし、喉を嗄らしているとのこと、さて五六万円は愚か五六千円も集めて来るだろうかと、ゴシップ子の周囲の者が危ぶんでいる。ゴシップ子は天を仰いで「誰か万という札束をポンと投げ出す義侠家がいま○○○○○○○○○○○○

●ところが雲を掴むような物語では結局夢だと叫んで蹴起したのが長崎司教様自身だ。教区全体の各教会は挙って応分の寄付をなすべし、しかしてその援助によって佐世保公教会は生れ出づべし、と御命令なさった上に、教会遊説に自ら出馬なさった。何をするにつけても長崎教区内では八千人からの信者を膝下に控えている浦上公教会が先ず先に立ってひと肌脱いでくれなければダメだと見て取るや、明日は同教会議のため上京するというその前日の日曜日(930日)、大浦から浦上に乗出して先ず殉教丘の聖堂で午前8時の御ミサを挙げて、之等の聖きその血を以って贖うた信仰の犠牲者達にしきりにお祈りをし、説教壇に立って縷々数千言、泣くが如く訴えるが如く、佐世保公教会新設のため哀願懇請之に務められた。

●これを謹聴していた浦上の公教信者、素より殉教者の血を受けているカトリック的心臓だもの、冷たい心で風馬牛然としていられぬのは尤も千万、誰言うとなく大いに奮発しようじゃないか、奮発しようじゃないかで、今盛んに皆が懐のどん底まで手を突込んで栄えある祖先の聖き殉教者の子孫らしく「血の代りに・・・・キリストとキリストの教会のために」という熨のついた手の切れるような札束を銘々が競って納め合っているという聞くだに涙の滲み出る話がある。

●これを見て取ったお隣の西仲町公教会も、亦そのお隣の大浦天主堂、○○○○○○○○○○○○○○教会も、我らとて殉教者の子孫なり、何以て浦上の信者にのみこの名誉、この光栄、而てこの義侠を独占せしめ得べけんや。とばかり宿老、教方、有志等内々寄り合って協議一決、我等も亦我等が司教様を一つ御招待申しあげて、御足労、御舌労を掛けようよなど意気込んでるらしい。ゴシップ子恐るおそる司教様の御意向に探りを入れて見ると「可愛い信者のために、キリストの御国の格らんために、千の足労も、万の舌労も、血の代りには余りにお安いお返しにて恐慌千万には候えども、衷心欣然、憤然、何時にても何処にても乗出すべく、右御伝言相成たく候敬具」という御返事が来た。・・・・・さあさあ、全教区77教会の若い衆、年より衆、我等が司教様は我等の者だと御心得あって寸分間違いありませんぞ、山の上の教会、離れ島の教会、それオーライ、よろしくお招待状を発して然るべしだ。但し「血の代りに」を忘れてはいけませんぞ。

 
 

昭和411日 カトリック教報

○佐世保公教会の御大典奉祝

 佐世保市は県下第二の大都市であり、軍港でもあり、且は眼前に新聖堂建築を控えてる折から教会の御大典奉祝も極めて盛大に行われた。 門前のアーチは菊花と新稲を織り込み頗る丹誠を凝らしたものであった。1110日を奉祝日として午前7時より奉祝の祭典が挙行された。主任司祭脇田師は新聖堂建築費募集の為留守中にて補佐司祭片岡師が「忠君愛国の精神」について説教された。 型の如く聖祭を終えて感謝の讃美歌テデウムと御大典奉祝唱歌を歌い、皇室の繁栄を祈った。午後2時感謝の聖体降服式が挙げられ、晩には提灯のイルミネーションを施した。 翌11日は天空高く晴れ渡り申し分なきスポーツデーであった。佐世保教会の奉祝運動会、而もそれが同教会あって始めての催しであるというので素晴らしい意気込みであった。濱崎先生の御尽力に依り、運動具一切の準備は遺憾なく整った。開会午前1030分、教会委員谷村氏の開会の辞に次いで、君が代の合唱あり、直ちに競技に移った。否競技というよりは一種の余興で、婦人達の提灯競争や教有者繰り出しの「お猿の舞」は最も人目を惹いた。 最後に片岡霊父は満面に笑みを浮かべて閉会の辞を述べられ、天皇陛下万歳、佐世保公教会万歳を三唱して無事散会した。

 

 

昭和4215日 カトリック教報

○福岡教区の機関雑誌

 脇田師が人吉町に布教せる頃、プロパガンダの補助機関として、独立で発行しておられた「オトヅレ」は今般福岡司教の手に移り、堂々と福岡教区機関雑誌と銘打って発行されることとなった。内容は従来布教向きたりしに反して著しく修養向きとなっている。ゆくゆくは機関雑誌として恥ずかしからぬものに作り上げるという意気込みであるから、その発展や刮目して見るべきものがあろう。代価は送金共2銭、月1回発行である。

 

 

昭和4515日 カトリック教報

○早坂司教様の御動静

 ●佐世保市に幼稚園を、大島と下神崎と平戸町には天主堂を建築することになり、早坂司教様は師基地検分の為、418日御出張、23日に御帰館になった。

 ●428日、別項の如く西浦上木場の歓迎会に御臨席。

 ●51日、港外伊王島へお出かけになり、同地女部屋の入会式を司会された。

 ●53日から堅振のため、下五島の堂崎、久賀島、水ノ浦、三井楽、玉ノ浦の井持を御巡回、一応御帰崎の上、69日、奈留島天主堂祝別のため、再び御出発の予定の由。

 

 

昭和4715日 カトリック教報

○大島の青年会

 佐世保湾の入口に村の名を黒瀬、島の名を大島と呼ぶのがある。蠣ノ浦炭坑を以って知られる崎戸村と狭い瀬戸を隔てて相隣接し戸数約600、内カトリックは約40であるが、然し頗る活気に富んでいる。 先ほど、受持司祭脇田師の御発起により満15歳より30歳までの青年42名を糾合してカトリック青年会を組織し、会員各自の品性向上を図ると共に、カトリック部落の精神的、物質的発展に力を尽くすことにした。我等は真心からその健全なる発育を祈るものである。 なお大島の信者達は一ケ月前から天主堂建築に着手し、日曜日にはお努めがすんでから老若男女総出で工事に手伝っている。6月の第4日曜日が棟上げであったから、落成の運びに至るのも余り遠いことではあるまい。

 

 

昭和4111日 カトリック教報

○佐世保教会通信

 昨年の秋、佐世保教会建設の心願を立て、全国同心の匿志者たちの門を叩いて、2カ月に亘る行脚を試みてから、早や1カ年にもなった。その間には亦早坂司教様の御声掛かりで、長崎県下の各教会からも非常なる御同情と御援助を恵んで頂いたのである。「さては未だ何をしてるのだろう?」と折角進んで御喜捨を賜ったお方々もきっと心待ちにしていて下さるに違いない。之を思うばかりでも、堪らないほど焦心する。ああ聖堂を、美しい聖心の聖堂を早く見たいものと気が気でない。 然し微弱な人間の手では、一寸新しい創造を見るには、悩ましくも亦夥しい骨を折らねばならない。しかのみならず、皆様の高価な御喜捨を永久に記念するには、やはり永久的建築としたい。建て上げると直ぐから白蟻が齧ったり、雨漏りが腐らしたりする様なものにしたくないとは、早坂司教様始め、一同の希望である。それとしては亦、それだけの費用の問題がある。「まだ寄付はそれほど集まらないのか」と幾度となく、司教様からは御下問がある。今少しの所だとは思っても、それがなかなかだ。そこで今暫く聖堂の方は、後回しにして、司教様の特別会計から、最初に幼稚園兼邦人童貞の養成所に宛がわれるべきものを、新築して下さる事となった。工事の始められたのが、本年の聖心月(6月)からで、来る12月までには落成の予定である2階建の鉄筋コンクリート造りで、総建坪80に近い。2階を養成所に、1階を幼稚園に充てる筈であるが、聖堂建築までは、1階を幼稚園に、2階を仮聖堂に使用させて頂きたいと、司教様にお願い中である。これでやっと布教機関の一部が、実現する訳なのである。 聖堂建築の方も責めて来年中には物にしたい、そして篤志各位の美わしき同情と、カトリック的愛の記念塔とも為し、救霊救世の活ける殿堂としたいものと、願いに願い、祈りに祈っている。 昨年夏、聖母被昇天の日に、カトリック処女会が生まれ、本年夏からカトリック青年会も組織されることになり、其々陣容を整えて将来の活動に備えようとしている。12月頃にもなれば幼稚園の落成を待ち、司教様の御臨席を願って一般の堅振式及び青年会の発会式など、盛大に挙行しようと、寄り寄り準備中である。昨年8月から本年にかけて、大人の受洗者16,7、研究者も多数であるが事務多端な上に、未だ補助機関がないので何事も思うに任せない。 主の時のこの小さき教会の上に恵まれんことを、祈って頂きたいものである。 尚これまで多大な御芳志を、同教会のために、恵んで下さった匿名或いは知名の方々に対し、ここに改めて深厚の謝意を表明する次第である。

 
 

昭和511 カトリック教報

○佐世保通信

 121日、大田尾天主堂献堂式=間口4間半、奥行き12間強の瀟洒たる新建築、丸天井、漆喰の捌き塗り、色ガラスの窓、彩光と型と内部の配合をなし、玄関と玄関上の尖塔と、搭の上なる鉄製の十字架及びその両側に配置せる聖ペトロと聖モーゼとの尊像は、正に禮拝所としての申分なき外観を形作り、外側は全部木骨の上に、ラス張りの堅牢なコンクリートの固めを為し、一見正に鉄筋コンクリートの建築かと疑われる美しい出来栄えである。 早坂司教閣下が親しく設計工事等に御指導を賜った最初の建築であり、加之青年技師金子騎氏が奉仕的聖心で以って、ほとんど義侠的に工事を引受け、9千円そこそこの最低限度の経費にて、この輪煥たる聖堂の竣成を見たるは、我等に取りて真に感謝感激の種であらねばならぬ。 当日は8時半より、例の如く司教閣下御先頭にて、堂の内外を祝別せられ、続いて閣下の御説教に島内信者の熱誠を称揚して、この物質的建設の上に、更に布教伝道の精神的建設の要あるを力説せられ、直ちに司教歌ミサという島始まって以来初めての大祭典が挙げられた。上下神崎の山川師、片岡師及び伊王島の松岡師が、式を助けられた。 佐世保教会よりも、20名に余る青少年、処女児童等、祭式及び聖歌応援の為に来島した。祭式後従来の仮教会所にて、重なる来賓への饗応祝賀会があり、村長、小学校長、医師、駐在巡査、村議員区長有志等の参列するもの50名近く、頗る盛会であった。 午後3時半より小学校舎にて、司教閣下の講演があった。聴衆は当日の諸来賓始め信者未信者数100名、講演は日本現時の大患たる経済難及び思想難に就きて、徹底的批判を、而も痛快克明に試みられ特に思想難に就きて大中小学に於ける我教育制度の矛盾極まれる事実を指摘し上閣の諸公より下庶民を通じて無信仰的教育が生める戦慄すべき躓き罪悪、疑獄等に照らし、真実なる宗教なき国民の暗黒と悲惨とを叫ばれしあたり、閣下独特の豪放明快なる語調と痛烈辛辣なる皮肉なり批判なりに、聴衆は全く魅了せられ、固唾を飲み、机上に顎突き立てて殆ど茫然自失せるかの感があった。頃日長崎あたり、神社参拝問題で、中学校とか師範校とかゴタついていた直後の御講演なりしだけに、如何な頑冥者流をも感銘感動させては止まない底の真に力瘤の入ったものであった。 ちなみに聖堂は早坂司教閣下御叙階の記念たるべく、「王たる基督」に奉献せられた。 128日、佐世保市聖心幼稚園祝聖式及び堅振式=、芽出度き聖母無原罪祝祭日である。この日までに工事を終えたいと、焦りに焦った甲斐もなく、2階の仮聖堂を除いて、未だ床板も嵌らない始末である。幸い、2階だけの取付が済んだので、司教閣下が平戸紐差天主堂献堂式よりのお帰りを待ち受け、仮聖堂の祝聖を兼ねて80余名の堅振式を挙げて戴くことができた。佐世保で堅振式の挙げられたのはこれが??だとの話である。これまでは教会所が余りに狭隘なため、堅振受領者は皆群部の梶の浦、神崎地方に司教巡錫の折を見て、そこらの式に参加したものだそうである。 生憎雨天にて工事場の泥濘甚だしく頗る困却したが、50坪に余る2階の大広間には、今まで谷郷町の大道を埋めながら、ミサを拝聴していた多数の信徒も、その全部を容れて尚余地があった。 早坂司教閣下には、御ミサ後その親しき御督励の下に、出来あがった新築の堂内に立たれて新建設の苦心を物語られ、而も聖母無原罪の芽出度き日にそが祝聖式と多数信者の堅振式とを挙げ得るに至った歓びを高調され、授堅者たちが、佐世保市に於ける布教伝道の将来を控えて、如何に堅固熱烈な信念に生きざるべからざるかを諄諄と御訓示になり、斯くて随行せられたる松岡片岡両師補佐の下に、堅振式を挙行せられた。 式後一同は、谷郷町教会所に帰りて午餐を取り、午後は授堅者一同の司教閣下に対する謝禮に次いで、児童及び児女等の余興劇、唱歌等があって聖き一日を極めて楽しく、愉快にすごしたのであった。

 
 

昭和511日 カトリック教報

○佐世保通信

 121日、大田尾天主堂献堂式=間口4間半、奥行き12間強の瀟洒たる新建築、丸天井、漆喰の捌き塗り、色ガラスの窓、彩光と型と内部の配合をなし、玄関と玄関上の尖塔と、搭の上なる鉄製の十字架及びその両側に配置せる聖ペトロと聖モーゼとの尊像は、正に禮拝所としての申分なき外観を形作り、外側は全部木骨の上に、ラス張りの堅牢なコンクリートの固めを為し、一見正に鉄筋コンクリートの建築かと疑われる美しい出来栄えである。 早坂司教閣下が親しく設計工事等に御指導を賜った最初の建築であり、加之青年技師金子騎氏が奉仕的聖心で以って、ほとんど義侠的に工事を引受け、9千円そこそこの最低限度の経費にて、この輪煥たる聖堂の竣成を見たるは、我等に取りて真に感謝感激の種であらねばならぬ。 当日は8時半より、例の如く司教閣下御先頭にて、堂の内外を祝別せられ、続いて閣下の御説教に島内信者の熱誠を称揚して、この物質的建設の上に、更に布教伝道の精神的建設の要あるを力説せられ、直ちに司教歌ミサという島始まって以来初めての大祭典が挙げられた。上下神崎の山川師、片岡師及び伊王島の松岡師が、式を助けられた。 佐世保教会よりも、20名に余る青少年、処女児童等、祭式及び聖歌応援の為に来島した。祭式後従来の仮教会所にて、重なる来賓への饗応祝賀会があり、村長、小学校長、医師、駐在巡査、村議員区長有志等の参列するもの50名近く、頗る盛会であった。 午後3時半より小学校舎にて、司教閣下の講演があった。聴衆は当日の諸来賓始め信者未信者数100名、講演は日本現時の大患たる経済難及び思想難に就きて、徹底的批判を、而も痛快克明に試みられ特に思想難に就きて大中小学に於ける我教育制度の矛盾極まれる事実を指摘し上閣の諸公より下庶民を通じて無信仰的教育が生める戦慄すべき躓き罪悪、疑獄等に照らし、真実なる宗教なき国民の暗黒と悲惨とを叫ばれしあたり、閣下独特の豪放明快なる語調と痛烈辛辣なる皮肉なり批判なりに、聴衆は全く魅了せられ、固唾を飲み、机上に顎突き立てて殆ど茫然自失せるかの感があった。頃日長崎あたり、神社参拝問題で、中学校とか師範校とかゴタついていた直後の御講演なりしだけに、如何な頑冥者流をも感銘感動させては止まない底の真に力瘤の入ったものであった。 ちなみに聖堂は早坂司教閣下御叙階の記念たるべく、「王たる基督」に奉献せられた。 128日、佐世保市聖心幼稚園祝聖式及び堅振式=、芽出度き聖母無原罪祝祭日である。この日までに工事を終えたいと、焦りに焦った甲斐もなく、2階の仮聖堂を除いて、未だ床板も嵌らない始末である。幸い、2階だけの取付が済んだので、司教閣下が平戸紐差天主堂献堂式よりのお帰りを待ち受け、仮聖堂の祝聖を兼ねて80余名の堅振式を挙げて戴くことができた。佐世保で堅振式の挙げられたのはこれが??だとの話である。これまでは教会所が余りに狭隘なため、堅振受領者は皆群部の梶の浦、神崎地方に司教巡錫の折を見て、そこらの式に参加したものだそうである。 生憎雨天にて工事場の泥濘甚だしく頗る困却したが、50坪に余る2階の大広間には、今まで谷郷町の大道を埋めながら、ミサを拝聴していた多数の信徒も、その全部を容れて尚余地があった。 早坂司教閣下には、御ミサ後その親しき御督励の下に、出来あがった新築の堂内に立たれて新建設の苦心を物語られ、而も聖母無原罪の芽出度き日にそが祝聖式と多数信者の堅振式とを挙げ得るに至った歓びを高調され、授堅者たちが、佐世保市に於ける布教伝道の将来を控えて、如何に堅固熱烈な信念に生きざるべからざるかを諄諄と御訓示になり、斯くて随行せられたる松岡片岡両師補佐の下に、堅振式を挙行せられた。 式後一同は、谷郷町教会所に帰りて午餐を取り、午後は授堅者一同の司教閣下に対する謝禮に次いで、児童及び児女等の余興劇、唱歌等があって聖き一日を極めて楽しく、愉快にすごしたのであった。

 

昭和541日 カトリック教報

○佐世保教会近信

 近き将来に於いて東亜の大鎮守府佐世保軍港の市街を俯瞰する大聖堂を持つであろう所の佐世保公教会信者達は、着々とその完成に向って対内的にも対外的にも邁進しつつあるのであるが、後援者諸賢、その他の各位に対し、その近状一般を報告することは機宜を得たるものと思うのである。 先ず34日夜6時半より、市内弥生座に於いて新築聖心幼稚園主催の伊太利大音楽会を開催し、市内外多数有志の??を得た事、そしてローマ・カトリック教会に就いての理解と接近とを促したる事は特記せられてよい事と思う。 特に中間に行われた司教ヤヌアリオ早坂閣下の大演説は識者多数の感嘆と賛辞の的とに成っている様である。 演奏者が名にし負う音楽の国伊太利の学生達であるので、この音楽会の人気が如何なるものであったかは諸賢の御想像に委ねる事とする。その前月、即ち33日は聖心幼稚園の新築落成式が挙行せられたのであるが、大体の様子は35日水曜日朝佐世保新聞に掲載せられた下の記事を以って代えることとしたい。

聖心幼稚園落成式  佐世保市三浦町に新築した聖心幼稚園の落成披露会は、3日午後4時から同園に於いて開催。重なる来賓は倉本裁判所長、海軍工廠造機部長吉原重時氏、海軍少佐東郷二郎氏、中野佐世保署長、高田収入役、その他有志等で早坂司教の挨拶に次いで脇田神父のカトリックに関する講話あり。カトリック青年団員の挨拶終って食堂に入り、倉本判事来賓を代表して謝辞あり、午後7時過ぎ散会した。

上の新聞記事中には青年団の発会式があった事を漏らしているが記載せられない方面に多数の人々が動いていることを蛇足ながら付記して置く。 落成式の前日即ち2日が主日で、司教閣下から堅振の秘跡を受けた者が32名、受堅者はフランシスコと名付けられ、新教から帰正した人もあり大いに異端習伏のため奮励する由である。 堅振の秘跡がすむと間もなく洗禮式があり、受洗者22名、大部分は古い切支丹の帰正したのであった。聖心幼稚園の2階を仮聖堂に拝借しているのであるが、随分広い所であるに拘わらず、信者全部を一時に収容できないのである。 司教閣下は一日午後来佐せられて新築すべき天主堂の敷地を実地踏査、建築学者を引見されて種々委細に亘る談合があった様子である。何分今まで谷郷町の貧弱な家屋で集会を続けて来た信者達が急に広大な建物を使用するようになったので各方面から注視の的になっているようなわけである。市街の一角に巍然として聳える大建築物は多数の求道者を招きプロテスタントの帰正を待っている次第である。尚この後とも益々有志の御声援と御祈祷とを賜りたい事は皆の希望であることを述べて??する。
 
 

昭和551日 カトリック教報

○佐世保聖心幼稚園開園式

 モダン幼稚園で知られた佐世保市三浦町の聖心幼稚園は、予期通り47日午前10時その開園式を挙行致しました。50名の募集に80名の入園幼児を数えるに至った盛況、新聞広告一つせずにこの予想外な最初の数多き育児を得たことは一は建物そのものと善美も興ったことでしょう。嬉々として天使の如く無邪気な幼児に、各々父兄に伴われて新築の聖心幼稚園指して、定刻よりも、ずっと早く来集致しました。型の如く「君が代」の合唱に始まり、設立者たる早川司教様の訓話あり、脇田神父様の講話、及主任保母両先生の父兄への御注意などのお話がありました。列席者にはちょうど平戸地方の御巡視より御帰途中の大阪の永田神父様あり、御随伴の片岡吉一神父様、御加勢に御来任中の有安神父様、園医の平田及び平山医師等があって、大層賑やかでした。東京からは江角及び大泉両先生も御参集下さいました。 式後各園児に一包みのお菓子を配りましたところ、何れもにこにこしてすっかり聖心幼稚園の園児になりすまし、園庭のシーソーやら滑り台に乗り降りしつつ十二分に満足し喜んで帰りました。因みにこの幼稚園には主任保母の外に高女卒業者が4名助手として働いております。 カトリック的精神で親切第一をモットーと致しまして、清い正しい純な心の終生所有主たる日本国民を養成しようと心がけて園児を教養し、一方外教者たる父兄と此精神のもとに連絡を取りまして、布教機関と致しているのでございます。所在地は佐世保市三浦町、月謝は月に150銭でございます。
 
 

昭和581日 カトリック教報

○長崎の暴風雨

 718日、716ミリという恐ろしい台風が長崎県を襲い、多大の損害を与えた。教会側の被害だけを挙げると大浦天主堂、神学校等は瓦を剥がれ、雨樋を破られた位に過ぎなかったが、西中町天主堂は高塔を吹き落され(大時計のから上を)心棒だけを残している。海星中学校は雨天体操場を倒壊され、新築の講堂もその正門を吹き破られた。浦上神学校は瓦を飛ばされ、校庭の守護の天使の聖像を微塵にされた。伊王島天主堂も大破損をした。とにかく長崎市内の天主堂、神学校ばかりでも小1万の損害を被ったわけだ。その他、大村の教会は屋根を剥がれ、附属の小屋を全て倒壊され、教会の前に防風林として植え付けてあった松樹も悉く吹き倒されてしまった。五島、平戸地区の天主堂も多数の損傷を免れなかった。無論信者の家の破損、倒壊せしものの少なくなかった事は言うまでもない所だ。
 
 

カトリック教報   昭和5年8月1日    第178

 

佐世保教会の新事業

脇田師は佐世保市に公教信者よりなる産婆または看護婦会を設置する計画中で既に司教閣下の認可を得て、いよいよ会員募集の運び隣、今回左の如き広告をおだしになった。会名は佐世保聖心助産婦会、および佐世保聖心看護婦会

広告

産婆、看護婦免状所有の公教信者にして主のために献身的奉仕希望の御方は左記へ申し込まれたし。

佐世保市三浦町36

聖心看護婦会

会長 脇田登摩

よきおとずれ  2002年(平成14年)  第881

三浦町教会献堂70周年

 佐世保市三浦町教会(主任司祭、村中 司師)は12月6日、献堂70周年を迎え、記念ミサと祝賀会を開催した。

 最初の邦人司教として長崎教区を司牧した早坂久之助司教は、佐世保を県北の拠点にとの意向から当時の主任司祭脇田浅五郎師(後の横浜司教)に佐世保駅前の小高い丘に新聖堂の建設を命じた。脇田神父は教会建設資金の調達に全国を行脚した。当時の信徒は豊ではなく進んで労力を提供、完成にこぎつけている。献堂式は1931128日「無原罪の聖母の祝日」に教会内外の多くの来賓を迎え、早坂司教によって「イエスの聖心教会」として献堂。建物は今日まで堅ろうで20年前、屋根をふき替えたが、その他は献堂当時のままで70周年を迎えた。祝賀会は佐世保地区の司祭、シスターをはじめ三浦町のほか天神、早岐教会の信徒らも駆けつけ盛大に祝った。
 
 

カトリック教報、昭和6515日、第62

萩原霊父の銀祝祭

 今年は紐差天主堂主任司祭萩原師の聖職叙品25周年に当たるので、その祝賀会が48日に挙行された。前日来の暴風もからりと晴れて恵まれた好天気に信徒等は喜びに胸を躍らしつつ聖堂を指して馳せ参じた。午前8時半、鐘楼より打ち鳴らされる鐘の音は余韻嫋々(じょうじょう)として緑の丘を超え谷を渡って平和な村のすみずみにひろがり、静かな朝の空気を震わした。やがて脇田師が教壇に起たれ、司祭職の崇高さとその責任の重大さについて御説教をなさった。師独特の流暢な雄弁に信徒は多大の感銘を与えられた、続いて萩原師が大ミサを歌われ山口宅助師が助祭、脇田師が副助祭の役を務められ、なお中田、山川、片岡、濱田の4師がこれを助けられ、地方ではまれに見る盛況であった。ミサに次いで聖体降福式があり、それより直ちに祝賀会に移った。群衆せる信徒は実に実に数千人、郡内の諸霊父も生月のブルトー師を除いて皆御来会になった。先ず紐差カトリック青年会長田崎辰雄氏の開会の辞に次いで銀祝歌の合奏があり、よく精錬された青年処女の美しいメロディーは萩原師をはじめ参列者一同を楽しませること百%、それから信徒総代、青年会宝亀信徒代表など23の祝辞がありこれに対して萩原師は左の意味の御答辞をなさった。

 「不徳非才なる私が尊い司祭の位階に上げられ、以て今日あるを得たのは天主様の御憐れみによるのは申すまでもないことでありますが、なお又皆様のご熱心なルお祈りのお陰でもあります。心から厚く感謝致します。願わくは今後とも引き続いてお祈り下さって必ず終を全うさせてくださいますようお願い致します。私もまた皆様のために必ずお祈り申しますのでございましょう云々」

 それが終わっていよいよ宴会となった。80坪からなる聖堂地下室も、参列者のため立錐の余地なきまでに埋められ、なお室外にも溢れていたということは、師が如何に学徳兼備、親情に満ちた、優しい慈父で一般仰望の的であり、信徒は勿論異教者からまで尊敬愛慕されているかを如実に物語って余りあるではないか。

 実は師は大きな度胸の持ち主だ、師に接して共に話を交えた者は、誰しも笑い崩れざるを得ない程の快活な明るい心の人である。年齢は57歳で今なお元気旺盛、壮者をしのぎ、風采堂々、実に邦人司祭中の巨人である。

 我らは天主がこの強き我らの慈父をいつまでも保ち以て御自分の御光栄を発揚する有為な器としてお守り下さいますよう祈ってやまないのである。

 ちなみに師は明治3825日叙品、1カ年半は南松浦郡北魚の目仲地教会を牧し、それから鹿児島県大島郡傘利教会、その次に佐世保教会、またその次に紐差教会へ

 
 

カトリック教報、昭和6101

 ・・・11時半佐世保に着いたが、汽車は1210分発、まだ半時間の余裕があるので、一寸教会に立ち寄って脇田師にご挨拶申し上げました。

 佐世保の教会は豪勢なものですよ、佐世保教会用としては小さすぎるうらみを免れませんが、然し佐世保駅に近く小高い崖の上に高塔を戴いて突っ立つのですから、落成の上は佐世保市随一の建物となりましょう。殊に今秋陛下の御来保を機として、その崖の下の人家はことごとく取り払われ、広い大きな道路が一直線に走ることになりますので、もしその道路に面して通路でも設けることにしたら、天主堂はいよいよ創刊を加えるのみでありましょう。
 
 

カトリック教報   昭和711日   第77

佐世保天主堂成る

 128日聖母無原罪御やどりの祝祭日!

 この日は西日本の一隅に存在する       ?        三浦町カトリック聖堂が、ようやく世の光を浴びるに至った記念すべき日である。当教会の歴史的沿革を詳述することはこれをしばらくおき、この献堂式に列し得た信徒のひとりとして、当日の模様をここに簡単に記したい。前日より振り出した雨で天候が気遣われていたにかかわらず小春日和の如き穏やかな温かい晴天となった。

当日の式を祝するかのごとき暁の陽光に万国旗をもって飾られた新装なれる白亜の聖堂が、佐世保駅前の小高き丘の上に巍然として聳え立つ雄姿は正面の佐世保湾内に浮遊せる幾多の戦艦の雄姿とあいまって、この土地に汽車より船より1歩を踏み入れたるものに、ある種の感銘を起こさせないではおかなかったであろう。午前10時より早坂司教閣下主催の下に献堂式を挙げられ、式終わりて約半時間わたる閣下の御説教があり、思想困難に直面せる今日、カトリック信者の国家社会に対する使命の重大なる所以、およびその進路などを説示され、特に確固たる信念の必要を力説された。

および鎮守府、要塞司令部、警察署等より多数の参列あり、式の終了後来賓および一同に折り詰めの午餐が供せられ、午餐中脇田師は起って新天主堂が特に最初の邦人司教たる早坂閣下長崎教区入りの記念事業として、貴き意義ある所以を述べ、これが建築されるにいたるまでの司教閣下の一方ならぬご尽力および日本全国篤志家たちの熱誠あふるるご後援に対し深厚なる謝辞を捧げられ、なお、今後この物質的機関の上に精神的収穫を図ることの緊要なるを説いて、更に一般のご同情に訴えるところありしに対し御厨市長は来賓を代表して祝辞および将来に対する希望を述べられた。

かくして少年、少女、処女会、青年団の日頃練り来たりし余興によって湧くが如き賑わいを見せ、午後4時無事にその日の幕は閉じられた。当日この新聖堂に集まった人々にはどの顔を見ても、どの顔を見ても、それぞれ言い知れぬ喜びの喜びのほほえみが浮かんでいる。実際この日の喜びばかりはどうしても包みきれなかったものと思われる。

無理もない。20枚そこそこの畳を敷かれた一十有余年来のあのちっぽけな仮教会から、大鉄筋コンクリート建物の中に主の祭壇を遷し奉る事ができたのだもの、どうしてこの喜びを隠す事ができよう。我等はここに重ねて早坂司教閣下多年の御恵みを感謝すると共にこの建設に多大の犠牲と奉仕とを賜れる全国篤志家たちに、深甚の謝意を表する次第である。
 
 

カトリック教報   昭和7615日   第88

井持のルルド マルガリタ大林ハルの話

 長崎県南松浦郡久賀島大開のマルコ大林丈八とイソの長女マルガリタ・ハルは、1912年(明治45年)4月上旬頃畑の草取りに出掛け、労働中、突然肩が非常に痛み出し、労働に耐えず、ついに帰宅した。その後は良いという養生は色々やってみたが何の効験もなかったので、福江の郡立病院に行き、診察を乞うと、是はリュウマチスで早全快の見込みがない、ただ幾分でも痛みを和らげたいならば、入湯してその患部を揉むより外はないと院長から丁寧に諭された。

 しかし残念ながら湯治に行くことが出来ず、さらばとて養生もせずに死なれずと云うもので、種々様々の養生を2ケ年も試みて見たが、全快は愚か、益々耐え難き重症となった。斯くして今後何年間、この苦痛を忍ばねばならぬことかと案じ、日々悲観するのみであったが、終に母に伴われて井持のルルドに参詣することにした。幸いにもその時は久賀島の婦人等が多数参詣に行くのであったから、ハルも大に喜び、19142月井持に参詣し、「聖意(おぼしめし)にかなう事なら、全快さして下さい。死ぬのが聖意ならば善き最後を遂げさして下さい」と聴くさえ痛ましき祈りをした。こう祈ったのも、医師には不治の病と診断され、益々重体に赴く一方なので、満3ケ年間、昼夜の別なく苦痛に泣き、人知れず袖をしぼりて居た揚句のことであれば、全快などは夢にも思わず、ひたすら死期の到を待つのみであったからである。然るに休憩所に到着したその日には、疲れてこそいたが苦痛の薄らぐのを覚えたのに、翌日には前日より苦しみが増加し、3日目には久賀島に居た時より一層甚だしくなり、是では帰宅もおぼつかない、このままここで死ぬのではないかと一方ならず心配した。死ぬにしても今夜中に何とかして霊水に浴したいものだ。途中滑るとも倒れるとも厭わぬと決心し、参詣人が寝(や)すんだのを見定め、誰も知らないよう、屋外に出で、あらゆる苦痛を犠牲にして遂に浴室に到着し、喜色満面に溢れて着物を脱ぎ、冷たい霊水に入り、主祷文、天使祝詞、各々3回ずつ唱え終わるや否や、頭上に何物か落下したような大音響を聴き、身は木片微塵になった心地がしたので、あわてて霊水を飛び出で、着物を引っかけ、帯は手に持ち、一生懸命に走って休憩所に駆けつけ何人も知らないよう、寝床に入った。その時は早全快していたのである。翌朝は健全の身となって聖堂に行き、ミサ聖祭を拝聴し、聖母の大恩を感謝した。その日主任司祭脇田師の指揮の下に、井持の処女達が畑に出で労働するのであった。久賀島より参詣に来た婦人達も加勢を頼まれて、出掛けて行った。ハルも共に行きたいと言ったが、病気の故を以て断られた。でも畑に行き、健全な時と少しも変わりなく、終日働いた。

 帰村後10日を経て、薬代を支払う為、耕地整理組に加入し、雨天の外4ケ月間土を担ったが、依然として変わりがなかった。依って同年7月再度井持へ参詣して、聖母の恩恵みを感謝した。その後も何回か感謝の参詣をした。全快当時より1932年まで18ケ年間、右の病気が再発した覚えは一回もない。本人の全快した事は一人として知らぬ者はなかったが、如何にして全快したか、その事実を本人は秘して人に洩らさず、その母も知らなかった。その後瘰癧(るいれき)病に罹り、1920年に参詣し、之も全快したので、1930年に感謝の参詣をした際、いかなる事情あって感謝するかと島田師に問われて、両病全快の事実を打ち明けたのである。瘰癧病全快の事は後に記すこととする。

カトリック教報   昭和7515日   第86

脇田師の渡鮮内地人信徒の喜び

 在鮮の内地人信徒(京城のみにて約5百名)は内地人神父の説教を聞く事極めて稀なるより、常にその機会が与えられることを渇望しつつあった。ところが佐世保教会主任脇田師が、今般支那青島を訪問せらるるので該旅行の途次訪鮮方を願ったのを聞き入れられ、師は4月5日朝京城に着し明治町天主堂に入って、ミサ聖祭を行われた。同夜は730分から京城駅階上食堂のホールに於いて、求道者に対し説教があり聴衆はいずれも真の人生観、天主と来世との存在を明確に悟らされ感激して9時40分終了した。次に6日は聖ポーロ修女院内にある啓星女学院(本校は高女卒業生に進んで高等教育を施す朝鮮唯一の最高の女学校にして校長はカミール童貞)の新入学式に臨場し「真の幸福は愛より生じ、愛は犠牲をなさしむ」との要旨に基き、献身的に教育に従事しつつある同校の童貞を例に挙げて一場の講演を試みた。更に同夜午後730分からは伝道館に於いて、信徒一同に対し「信者の良き行い、特に相互の愛は強き引力ある伝道なり」と説教された。久方ぶりの内地人神父の説教が一同を感動せしめた事申すまでもない。

 7日は昼間信者、求道者の家庭訪問をなし午後730分前夜に引き続き「天地の創造、御託身聖体の主義によりて表現されある神の驚くべき愛」を説かれた。なお、終りに朝鮮における内地人信者の心得、注意、慰めを述べて祝福を与えられたので岩谷信徒会長聴衆を代表して謝意を述べた。

 翌8日は早朝より希望者の告白を聴き午後4時伝道館に於いて日曜学校生徒とその父兄とに有益なる教訓を与え、かくして同日午後720分急行列車にて京城を出発し満州の安東、奉天などへ向かわれた。
 
 
 
 

○カトリック大講演会

 前々号に一言して置いた如く、西中町教会で専ら布教の為に手伝うと云う目的の下に働いている聖パウロ会は、六月五日の出版日を期して袋町公会堂でカトリック大講演会を開いた。講演師は佐世保教会主任の脇田師、我早坂司教閣下で、定刻までに早や公会堂は一千余の聴衆で埋められた。

 七時半―長崎神学校コーラス団の「君が代」合奏で会は始まり、やがて聖パウロ会員渡辺氏が立って「・・・・泣く人は幸いなり。それは慰めらるべければなり・・・・カトリックこそ・・・・犠牲的精神の生活の中に真の幸福を見出さしめるもである」と開会の辞を述べた。次に脇田登磨師が拍手喝采裡に演壇に立たれ、

 明るき生活―と云う題の下に本誌第一ページに読まれる如き大講演をなし、実例を引き、経験に訴えて「カトリックこそ神、出し宗教、真の明るき生活を教えるもの・・・」と論じ去り論じ来り、水も漏らさぬその井然たる論断に聴衆は何れも酔えるが如く、静かに謹聴の耳を欹てるのであった。

師が壇を降られると神学校のコーラス団の荘重なる数回の合奏あり、我早坂司教閣下は満場の喝采を浴びつつ悠然として演壇の中央に進まれ、カトリックの三大特質―(1)一致共同の精神、(2)愛、(3)教義の絶対的権威を一時間四十五分に亘って滔々と述べられた。その聲その熱、その威圧的論旨は深く人々の心にカトリックの真理を印刻せでは措かぬものがあった。終りに大浦の聖パウロ会員高柳氏が起って閉会の辞を述べられた。我々は神の御恵みの下に必ず豊かな刈穫のある事を信じて疑わぬのである。
 
 

昭和七年七月一日

明るき生活

        脇田登磨師

 明るき生活!明るき生活と世人はよく申すが、今日の世の中は如何にも暗い。何とかして明るくしたいと思って内閣などを立てたり壊したりするが、結果はどうも面白くない・・・我々がこの世に於いて明るみと暗がりに生きて行くのには大分の相違がある。闇を愛する者は闇の中に罪を働いて行く、反って光の子は明るみの中に生きて本当の希望と憧れを見出すのである。さてどうしたら明るき生活になるのか、人間は生まれながらに明るさを持っているが、是を明るくする所以のものを知らない。我々は先ず心を明るくせねばならぬ。そしたらその家庭、国家、社会は自ずと明るくなって来る。先ず己が心を明るくし、そして各々が明るい心持になって来ると、世の中は明るくなって来る。

然らば心を明るくする所以のものは何であるか?我々は光を望んでいる。光を見出す時、そこに幸福を感ずる。我々の心はどうして幸福を体験するか。世の人は幸福を得ようとして、金や名誉や学問を積んでいる。世の人はどうしたら楽しく安らかに活きて行けるかと苦心するが、惜しい哉、彼等は己が心を忘れている・・人の心は平素美を求めている。一寸汚れた肌着、汗ばんだ着物を見てもいやな感じを覚える。心以外の汚れでも左程厭うものだ。まして
癩病患者等の腫れ爛れたのを見たらば、とても堪らなく感ずる。我々は天性かかる綺麗な心を恵まれている。

心が清くしてこそ美を憧れるのだが、不幸にして多くの人は心そのものが腐敗し、臭気粉々としている。それで居て、どうして美が求められようか、幸福が味われようか。心が明るくなってこそ初めて真の幸福を体験する。明るく清く美化する幸福の器を汚しているとすれば、必ずや真の幸福を入れる事はできない。人間到る
所幸福あり。それを知る人々に取っては、一瓢の飲、一箪の食にしても、「心だに義しければ楽しみその中にあり」とか、「不義にして富むは我に於いて浮雲の如し」とか古の聖人賢者も云っている。然らばどうしたら我々の心を明るく、生気溌剌となす事が出来るか。

 すべて生命には糧を要する。肉には肉の糧、精神には精神の糧を興えねばならぬ。肉体に必要な糧を興えねば、「飢餓」を生ずるが如く、精神も之にその糧を興えないでは之をして向上せしめ、力づける事は出来ぬ。然し肉の為の糧と精神の為の糧はその趣が違う。肉は土より出たものであるから、土より出来るものを食べれば良い。穀類、野菜、果物すべて土より出来る。牛、羊にせよ、魚介にせよもとは必ず土よりのものを食ったに違いない。是等の者はすべて土より出て、また元の土にかえる。然るに精神は土より成って居ない。従って土よりの物を食べぬ。どうしても之に精神的の糧を興えねばならぬ。精神的糧とは何であるか「人はパンのみにて生くるに非ず」とキリストの仰った如く、精神は真善美に依って培われ耕される。

 
 

 人々が学校に於いて学ぶのは真を知ろうとするのだ。研究より研究へと進んで、遂に一の真理を得る。かくして二を知り三を求め、遂に多くの真を取り入れるに至る・・・・斬くして精神は向上し、智者、賢者となるのだ。多く真を所有するほど己を智者、賢者となす。精神内容が広くなればなるだけ、面白く興味をおぼゆる様になって来る。

世の学者達が、日夜研究に没頭するのはその為である。彼のアルキメデスがシラクザの王からその王冠が純金なりや否やを調べさせられた時、長らく考えに考え抜いたが、分らなかった。或る日風呂に入って偶然物の比重を考え付いた時、如何に嬉しかったか、彼は遂に一の真理を捉えた。かくて狂喜の余り何もかも忘れて風呂を飛び出し、裸のまま「分かった分かった遂に分かった」と云ってシラクザの町中を飛び廻った。一の真理を見つけ出すのは如何にも愉快だ。学生が一週間もかかってひとつの問題を解決した時、萬金にも替え難き愉快を覚えるものだ。かく研究に研究を重ねて真理を掴み、それに依って知識は向上し愉悦を感じるのである。

善をなすのも是と同じだ。世人は多く、善をなすの喜びを知らぬ。私が未だ熊本に務めている時分、ある晩一人の見知らぬ青年が真に消沈して私の部屋に這入って来た。そして云うには「私は生きる興味がなくなってしまいました。失礼ですが、どうしたら良いのでしょうか」と涙ながらに尋ねる。未知の人だったが、余程苦しんだものらしい。「人と云うものは生に対する憧れが強いのだ。君は真剣な生の体験がないらしい。君はあらゆるものに不平を抱いている。真剣に善をなした体験を持たないのだろう。それを篤と考えて分らなかったら又来たまえ」と云うと、「じゃあ又参ります」と云って矢張り悄然として出て行った。二三日立ってから果たしてやって来たが、少し顔色が落ち着いている。


「先日は突然伺いまして誠に失礼いたしました。はじめて真剣な体験と云われました時、ハッと非常なショックを感じて、目が眩んで物が云えなかったのです。あの晩は一睡もせず考えてやっと分りました。本当にそうでした。どうぞはっきり教えて下さい。

今から一心に貴方の教えが研究しとうございます」と涙を流し乍ら云うのだ。「そうですか、それが分って本当に研究しようとするのならやりましょう。然し中途で止める様なら決して始めませんよ」、「いや私は実際命がけです、決してそんな事はありません」と云って、それから一カ月あまり一心に教理を学んだが、今までとは丸で変わって、心から感激してカトリックになった。それからの彼の働きは実に目覚ましいもので、家を助ける、社会の為に尽す、本当に見る人も目を見張る位であった。彼が町で一心に敬虔に働いている姿を見て感激し、終に教会の人となった彼の友が後でこんなに物語った。

「私はあの青年の今までと違った敬虔な態度を見て感じて終に教会に入って来たのです」と。つまり世の人の多くは善を為すのが辛いと思っているのだがそれが一番の間違いである。何故善をなすのを心苦しく思うか、それはその人が人類の為に本気になって善をなした経験がないからである。

 青春時代には活動が如何にも愉快なものである。人が走っているのを見ると、自分も一つうんと走って見たくなって来る。角力を取っているのを見ると、自分の体まで力が自ずと出て来て、しっかり拳を握りしめるものだ。

 要するに元気の時は力が溢れて活動的に興味を有するのであるが一度体が弱ってベットに横たわる様になり、我身を動かすのさえ大儀になって来ると、全然活動に面白みを持たぬ・・・・人が愉快に働いているのを見て、それに感激を有し得るか、否むしろ其れを聞くだにいやになって来る程で、人が動いても気を悪くする。それはその人の気が抜けた、力が衰えた結果である。

精神に於いてもやはりその通りで、明るく曇りなき心を持たねば善をなすの愉快を知り得るものではない。教理を学ぶ者が長い研究の結果、はっと悟りを開き、翻然と神の尊前に従来の罪を懺悔する体験を味わうまで真面目な生活をせねばならぬと聞けば、大変苦しい思いをするが、そんな人が洗礼の時救われたと云う気を味わえば、今まで辛かったことが反って喜ばしくなって来る。善をなすのが嬉しくなって来る。人類の為に善をなすのは偉大なる力である。善をなす者の興味は幸福である。善より善へと進んで我々の精神はより明るくなって来るに至るものだ。

 こんな事を云えば恥ずかしい位だが御参考にもなろうかと思って申し添えて置く。私は神学校に於いて十七八年間勉強したのだが、その間随分辛い思いも致した。やっと修業して見習の司祭となった時、ある病人を導いて遂に救われた者の喜びを分かつ事が出来た。その晩は実際嬉しくて嬉しくて神に飛び付きたい程であった。私等司祭はそんなに人の為に尽す感激に依って多くの苦難に打ち克つのである。その感激こそ求道者に取って精神の強みとなるのである。

世の人は我々カトリック司祭が妻子を持たず一生を送る事についてその内面的気持ちを分ってくれない。その生活を不思議がって、その裏面には何かの生活をしているんだろうなんて実に気持ちの悪い話をしている。我々が善をなす感じ、人々の為に献身的に尽す心境、心理状態を解して呉れねば我々の生活は分らないのである。多く知る事に依って人智が啓発するのと同じく、多く善を行う事に依って、その人の人格は向上し心は明るく幸福になって来る。その幸福があらゆる苦悩に打ち克たせるのである。
 
 

 世の人は、多く苦しみの価値を知らず、何故神は斯く人間を苦しめるのか位に思っているが、決してそんなものではない。それは人間が幸福の器を壊してしまっているから、そんなに見えるのだ。神を知る者の眼には苦しみはこの上もなく尊く見える。草木の肥料を思って見るがよい。如何に綺麗な花を咲かす草と云えども、肥料がなければ何にもならぬ。

反って根が充分付いていないのに肥料を多分にやれば腐る許であるが、根がしっかり付いて居れば、強い肥料をやるだけ、艶々しく、立派な花実をつけるのである。精神に於いてもそれと同じだ。明るい力を体得している人には苦しみは尊いものだ。苦しみに依ってその人格が磨かれる。云わば苦しみは精神の肥料である。然しそれを肥料になすかなさぬかに依って難問を切り抜ける事が出来るか出来ないかになるのである。所謂肥料負けをすると一寸した苦しみにも堪えなくなってやれ滝壺だ、やれ鉄道飛び込みだとなって来る。つまり精神が充実していないから、精神美を発揮する事が出来ぬのである。精神的に強められていると、その人は初めて「人生至る所興味あり」と叫び得るのだ。然らば如何にして精神の力を発揮させ、明るき人生となす事が出来るのか。

 世に真理を求める人は随分沢山ある。然し真の光の外にあっては到底駄目の事だ。人間は神より美わしい器として作られ、神に象られたものだ。それで、己が身に反省して、生の美に憧れぬ者はない。未来に向かって進む者が知って居らなければならぬ事は、誰もが善の器として造られたと云う事である。自分では駄目だと思ったら、その時こそ自信を失ったと同じである。人は何十年の経験によって自分では駄目だと思っているが、それは間違いである。それを悔い改めさせる秘訣は、その人に善の器である事を悟らせる事だ。それが分ったら大概の人は、ああ俺も真の明るい生活が出来るのだと云う力が出て来る。

 
 

カトリック教報   昭和7515日   第86

 

脇田師の渡鮮内地人信徒の喜び

 在鮮の内地人信徒(京城のみにて約5百名)は内地人神父の説教を聞くこと極めて稀なるより、常にその機会が与えられることを渇望しつつあった。ところが佐世保教会主任脇田師が、今般支那青島を訪問せらるるので該旅行の途次訪鮮方を願ったのを聞き入れられ、師は4月5日朝京城に着し明治町天主堂に入って、ミサ聖祭を行われた。同夜は7時30分から京城駅階上食堂のホールに於いて、求道者に対し説教があり徴収はいずれも真の人生観、天主と来世との存在を明確に悟らされ感激して9時40分終了した。次に6日は聖ポーロ修女院内にある啓星女学院(本校は高女卒業生に進んで高等教育を施す朝鮮唯一の最高の女学校にして校長はカミール童貞)の新入学式に臨場し「真の幸福は愛より生じ、愛は犠牲をなさしむ」との要旨に基き、献身的に教育に従事しつつある同校の童貞を例に挙げて一場の講演を試みた。更に同夜午後730分からは伝道館に於いて、信徒一同に対し「信者の良き行い、特に相互の愛は強き引力ある伝道なり」と説教された。久方ぶりの内地人神父の説教が一同を感動せしめた事申すまでもない。7日は昼間信者、求道者の家庭訪問をなし午後730分前夜に引き続き「天地の創造、御託身聖体の主義によりて表現されある神の驚くべき愛」を説かれた。なお、終りに朝鮮における内地人信者の心得、注意、慰めを述べて祝福を与えられたので岩谷信徒会長聴衆を代表して謝意を述べた。

 翌8日は早朝より希望者の告白を聴き午後4時伝道館に於いて日曜学校生徒とその父兄とに有益なる教訓を与え、かくして同日午後720分急行列車にて京城を出発し満州の安東、奉天などへ向かわれた。

 
 

カトリック教報、昭和7111

カトリック大講演会

 長崎市公会堂に於ける第3回カトリック大講演会は、1019日午後7時を以て開会された。聴衆1千に余り、一人の弥次を飛ばす者もなく極めて静粛に謹聴した。先ず西中町教会の聖パウロ会員平山氏は満場の拍手裡に登壇して開会の辞を述べ、次いで大阪玉造教会司祭古屋義之氏が平山氏の紹介によって壇上に現れ「輝く光」と云う題の下に雄弁をふるいそれから岡山思想研究所長渋谷治師が演壇に立たれ、約2時間に亘ってとうとうと「カトリックの神髄」を論断しその爽やかなる弁舌、その一貫せる論旨に満場をすっかり酔わされた。

カトリック教報、昭和71115

南田平及び神崎天主堂堅信傍観記

 北松浦郡の小佐々村神崎という1漁村に1昨年新たに現代的なゴチック式鉄筋コンクリートの聖堂が新築せられ、しかもそれが佐世保と平戸の中央に位する海岸に面して渡航者には呼べば答える程の距離にあることとて、観る人にはすべて驚異と称賛の種であり、誰にも清楚の感を与える偉観である。

 緑なす山又山、寄せては返す波又波、点々としてその間に介在する九十九島、北松の自然美費やさずして備わる一大庭園の観はあっても、随所に点在する漁民の住み家は人工美を尽くせる産物とは誰にも思えない。その間に立ちて断然群を抜いて一大異彩を放つものは神崎天主堂である。40年来の信仰と熱愛の結晶、それが今日の神崎天主堂を生んだのであることを聞いては、誰人も貧しきキリシタン半農半漁でその日その日を辛うじて送り居るこの一小部落のカトリックに絶大の尊敬を払わずには居られない。而して信仰の力の偉大さを礼賛せざるを得ないのである。

 918日午前9時この天主堂で南田平のそれの如く司教様の大歌ミサと堅信と聖体のベネディクションとが荘厳裡に挙行された。1930年?月?日献堂式のおりにかかる盛典を初めて観たばかりでその後2年有余今日の如き諸部落民の参集下に悦と満足と感謝との光景は見えなかったのである。実にこの日は褥崎、梶の浦、大崎等より多数の信者はせ参じ、定刻には新築の聖堂にもあふるる位であった。南田平に於ける如く先ず司教様の大歌ミサを以て式は始まり、中田師、山川師、鶴田師等が主任片岡吉一師を助けて今日の盛儀に万遺憾なからしめ、歌ミサに続いて140名の少年少女に堅信の秘蹟が授けられた。晴れ渡るこの日の空の如く受堅者はその心清澄であり、その魂は穏やかなる波の如く温和静順、実に神に近き喜びと感謝の人であった。

 この神崎天主堂が主任司祭を常住的にもらい受けたのは3年前の19?年でそれ以前はこの辺一帯が佐世保係で ?  度神父の巡回を待つのみであったのである。実に現任片岡吉一師が神崎を中心に常住せられてこの地方を受け持たれるようになって以来、1千に余る信者の幸福と満足と喜悦とは信者・・・原稿ここまで 

カトリック教報、昭和7121

長崎教区の現状

地域 1,048平方キロ

全人口 1,206,100(内カトリック 54,706、プロテスタント 2,000

司教 1 総代理 1  外人司祭 1 邦人司祭 31


  
   


inserted by FC2 system