昭和3年11月15日 カトリック教報 ○脇田師の全国行脚 長崎教区には種々の新事業が計画されつつある。佐世保市の天主堂新築、及び法人童貞会の創設もその一で、今や教区内の信者達はその為に奮って応分の○○○○○○○○○○○○○○に導かんものと力んでいる。なお、佐世保市教会の主任脇田師は広く篤志家の援助を仰がんものと、全国を行脚しておられる。その間に師はご母堂を亡われたのだが、依然東奔西走を続けておられる。一旦手を犂に着けた以上、決して後ろを顧みられぬ所に、師の面目が踊っている。 昭和3年12月1日 カトリック教報 早坂司教 回顧一カ年(その3) 歓迎式後の祝宴 |
○片岡吉一師 |
教会ゴシップ ●誰が、いたづらに附けたものやら、トンネル教会とあだ名されてる佐世保市の公教会、実際一見したところ、誰の目にも田舎の腰掛茶屋か、高く見積っても安下宿屋としか見えないあの荒格子だての教会は、長崎県下第二の都市、而も帝国有数の軍港に於けるカトリック教会堂としては、余りにもみずぼらしい。成程安料理屋のあとを一時の間に合せに買い、我慢して時の来るのを待ってる仮教会だと、その素情が判れば、如何にもと頷かれるところもあろう。けれどもそれならそれで早く適当な場所に教会らしい建物でも建てる用意と準備が出来てるのかと尋ねて見ると、実に案外、現任司祭が赴任した時は約一千円からの借金を背負ってたそうだ。 ●これじゃどうにもならぬと司教を口説きおとして、どうやら予想外に立派な敷地だけは求めた。がさて是から聖堂、司祭館、伝道師宅、コックさんの家、等の普請となると、安く見積っても五六万円は掛かる。安閑としては居られぬと奮起した人のひとりに脇田師がある。全国行脚に乗り出して脚を棒のようにし、口を酸っぱくし、喉を嗄らしているとのこと、さて五六万円は愚か五六千円も集めて来るだろうかと、ゴシップ子の周囲の者が危ぶんでいる。ゴシップ子は天を仰いで「誰か万という札束をポンと投げ出す義侠家がいま○○○○○○○○○○○○ ●ところが雲を掴むような物語では結局夢だと叫んで蹴起したのが長崎司教様自身だ。教区全体の各教会は挙って応分の寄付をなすべし、しかしてその援助によって佐世保公教会は生れ出づべし、と御命令なさった上に、教会遊説に自ら出馬なさった。何をするにつけても長崎教区内では八千人からの信者を膝下に控えている浦上公教会が先ず先に立ってひと肌脱いでくれなければダメだと見て取るや、明日は同教会議のため上京するというその前日の日曜日(9月30日)、大浦から浦上に乗出して先ず殉教丘の聖堂で午前8時の御ミサを挙げて、之等の聖きその血を以って贖うた信仰の犠牲者達にしきりにお祈りをし、説教壇に立って縷々数千言、泣くが如く訴えるが如く、佐世保公教会新設のため哀願懇請之に務められた。 ●これを謹聴していた浦上の公教信者、素より殉教者の血を受けているカトリック的心臓だもの、冷たい心で風馬牛然としていられぬのは尤も千万、誰言うとなく大いに奮発しようじゃないか、奮発しようじゃないかで、今盛んに皆が懐のどん底まで手を突込んで栄えある祖先の聖き殉教者の子孫らしく「血の代りに・・・・キリストとキリストの教会のために」という熨のついた手の切れるような札束を銘々が競って納め合っているという聞くだに涙の滲み出る話がある。 ●これを見て取ったお隣の西仲町公教会も、亦そのお隣の大浦天主堂、○○○○○○○○○○○○○○教会も、我らとて殉教者の子孫なり、何以て浦上の信者にのみこの名誉、この光栄、而てこの義侠を独占せしめ得べけんや。とばかり宿老、教方、有志等内々寄り合って協議一決、我等も亦我等が司教様を一つ御招待申しあげて、御足労、御舌労を掛けようよなど意気込んでるらしい。ゴシップ子恐るおそる司教様の御意向に探りを入れて見ると「可愛い信者のために、キリストの御国の格らんために、千の足労も、万の舌労も、血の代りには余りにお安いお返しにて恐慌千万には候えども、衷心欣然、憤然、何時にても何処にても乗出すべく、右御伝言相成たく候敬具」という御返事が来た。・・・・・さあさあ、全教区77教会の若い衆、年より衆、我等が司教様は我等の者だと御心得あって寸分間違いありませんぞ、山の上の教会、離れ島の教会、それオーライ、よろしくお招待状を発して然るべしだ。但し「血の代りに」を忘れてはいけませんぞ。 |
昭和4年1月1日 カトリック教報 ○佐世保公教会の御大典奉祝 佐世保市は県下第二の大都市であり、軍港でもあり、且は眼前に新聖堂建築を控えてる折から教会の御大典奉祝も極めて盛大に行われた。 門前のアーチは菊花と新稲を織り込み頗る丹誠を凝らしたものであった。11月10日を奉祝日として午前7時より奉祝の祭典が挙行された。主任司祭脇田師は新聖堂建築費募集の為留守中にて補佐司祭片岡師が「忠君愛国の精神」について説教された。 型の如く聖祭を終えて感謝の讃美歌テデウムと御大典奉祝唱歌を歌い、皇室の繁栄を祈った。午後2時感謝の聖体降服式が挙げられ、晩には提灯のイルミネーションを施した。 翌11日は天空高く晴れ渡り申し分なきスポーツデーであった。佐世保教会の奉祝運動会、而もそれが同教会あって始めての催しであるというので素晴らしい意気込みであった。濱崎先生の御尽力に依り、運動具一切の準備は遺憾なく整った。開会午前10時30分、教会委員谷村氏の開会の辞に次いで、君が代の合唱あり、直ちに競技に移った。否競技というよりは一種の余興で、婦人達の提灯競争や教有者繰り出しの「お猿の舞」は最も人目を惹いた。 最後に片岡霊父は満面に笑みを浮かべて閉会の辞を述べられ、天皇陛下万歳、佐世保公教会万歳を三唱して無事散会した。 昭和4年2月15日 カトリック教報 ○福岡教区の機関雑誌 脇田師が人吉町に布教せる頃、プロパガンダの補助機関として、独立で発行しておられた「オトヅレ」は今般福岡司教の手に移り、堂々と福岡教区機関雑誌と銘打って発行されることとなった。内容は従来布教向きたりしに反して著しく修養向きとなっている。ゆくゆくは機関雑誌として恥ずかしからぬものに作り上げるという意気込みであるから、その発展や刮目して見るべきものがあろう。代価は送金共2銭、月1回発行である。 昭和4年5月15日 カトリック教報 ○早坂司教様の御動静 ●佐世保市に幼稚園を、大島と下神崎と平戸町には天主堂を建築することになり、早坂司教様は師基地検分の為、4月18日御出張、23日に御帰館になった。 ●4月28日、別項の如く西浦上木場の歓迎会に御臨席。 ●5月1日、港外伊王島へお出かけになり、同地女部屋の入会式を司会された。 ●5月3日から堅振のため、下五島の堂崎、久賀島、水ノ浦、三井楽、玉ノ浦の井持を御巡回、一応御帰崎の上、6月9日、奈留島天主堂祝別のため、再び御出発の予定の由。 昭和4年7月15日 カトリック教報 ○大島の青年会 佐世保湾の入口に村の名を黒瀬、島の名を大島と呼ぶのがある。蠣ノ浦炭坑を以って知られる崎戸村と狭い瀬戸を隔てて相隣接し戸数約600、内カトリックは約40であるが、然し頗る活気に富んでいる。 先ほど、受持司祭脇田師の御発起により満15歳より30歳までの青年42名を糾合してカトリック青年会を組織し、会員各自の品性向上を図ると共に、カトリック部落の精神的、物質的発展に力を尽くすことにした。我等は真心からその健全なる発育を祈るものである。 なお大島の信者達は一ケ月前から天主堂建築に着手し、日曜日にはお努めがすんでから老若男女総出で工事に手伝っている。6月の第4日曜日が棟上げであったから、落成の運びに至るのも余り遠いことではあるまい。 昭和4年11月1日 カトリック教報 ○佐世保教会通信 昨年の秋、佐世保教会建設の心願を立て、全国同心の匿志者たちの門を叩いて、2カ月に亘る行脚を試みてから、早や1カ年にもなった。その間には亦早坂司教様の御声掛かりで、長崎県下の各教会からも非常なる御同情と御援助を恵んで頂いたのである。「さては未だ何をしてるのだろう?」と折角進んで御喜捨を賜ったお方々もきっと心待ちにしていて下さるに違いない。之を思うばかりでも、堪らないほど焦心する。ああ聖堂を、美しい聖心の聖堂を早く見たいものと気が気でない。 然し微弱な人間の手では、一寸新しい創造を見るには、悩ましくも亦夥しい骨を折らねばならない。しかのみならず、皆様の高価な御喜捨を永久に記念するには、やはり永久的建築としたい。建て上げると直ぐから白蟻が齧ったり、雨漏りが腐らしたりする様なものにしたくないとは、早坂司教様始め、一同の希望である。それとしては亦、それだけの費用の問題がある。「まだ寄付はそれほど集まらないのか」と幾度となく、司教様からは御下問がある。今少しの所だとは思っても、それがなかなかだ。そこで今暫く聖堂の方は、後回しにして、司教様の特別会計から、最初に幼稚園兼邦人童貞の養成所に宛がわれるべきものを、新築して下さる事となった。工事の始められたのが、本年の聖心月(6月)からで、来る12月までには落成の予定である2階建の鉄筋コンクリート造りで、総建坪80に近い。2階を養成所に、1階を幼稚園に充てる筈であるが、聖堂建築までは、1階を幼稚園に、2階を仮聖堂に使用させて頂きたいと、司教様にお願い中である。これでやっと布教機関の一部が、実現する訳なのである。 聖堂建築の方も責めて来年中には物にしたい、そして篤志各位の美わしき同情と、カトリック的愛の記念塔とも為し、救霊救世の活ける殿堂としたいものと、願いに願い、祈りに祈っている。 昨年夏、聖母被昇天の日に、カトリック処女会が生まれ、本年夏からカトリック青年会も組織されることになり、其々陣容を整えて将来の活動に備えようとしている。12月頃にもなれば幼稚園の落成を待ち、司教様の御臨席を願って一般の堅振式及び青年会の発会式など、盛大に挙行しようと、寄り寄り準備中である。昨年8月から本年にかけて、大人の受洗者16,7、研究者も多数であるが事務多端な上に、未だ補助機関がないので何事も思うに任せない。 主の時のこの小さき教会の上に恵まれんことを、祈って頂きたいものである。 尚これまで多大な御芳志を、同教会のために、恵んで下さった匿名或いは知名の方々に対し、ここに改めて深厚の謝意を表明する次第である。 |
昭和5年1月1日 カトリック教報 ○佐世保通信 12月1日、大田尾天主堂献堂式=間口4間半、奥行き12間強の瀟洒たる新建築、丸天井、漆喰の捌き塗り、色ガラスの窓、彩光と型と内部の配合をなし、玄関と玄関上の尖塔と、搭の上なる鉄製の十字架及びその両側に配置せる聖ペトロと聖モーゼとの尊像は、正に禮拝所としての申分なき外観を形作り、外側は全部木骨の上に、ラス張りの堅牢なコンクリートの固めを為し、一見正に鉄筋コンクリートの建築かと疑われる美しい出来栄えである。 早坂司教閣下が親しく設計工事等に御指導を賜った最初の建築であり、加之青年技師金子騎氏が奉仕的聖心で以って、ほとんど義侠的に工事を引受け、9千円そこそこの最低限度の経費にて、この輪煥たる聖堂の竣成を見たるは、我等に取りて真に感謝感激の種であらねばならぬ。 当日は8時半より、例の如く司教閣下御先頭にて、堂の内外を祝別せられ、続いて閣下の御説教に島内信者の熱誠を称揚して、この物質的建設の上に、更に布教伝道の精神的建設の要あるを力説せられ、直ちに司教歌ミサという島始まって以来初めての大祭典が挙げられた。上下神崎の山川師、片岡師及び伊王島の松岡師が、式を助けられた。 佐世保教会よりも、20名に余る青少年、処女児童等、祭式及び聖歌応援の為に来島した。祭式後従来の仮教会所にて、重なる来賓への饗応祝賀会があり、村長、小学校長、医師、駐在巡査、村議員区長有志等の参列するもの50名近く、頗る盛会であった。 午後3時半より小学校舎にて、司教閣下の講演があった。聴衆は当日の諸来賓始め信者未信者数100名、講演は日本現時の大患たる経済難及び思想難に就きて、徹底的批判を、而も痛快克明に試みられ特に思想難に就きて大中小学に於ける我教育制度の矛盾極まれる事実を指摘し上?閣の諸公より下庶民を通じて無信仰的教育が生める戦慄すべき躓き罪悪、疑獄等に照らし、真実なる宗教なき国民の暗黒と悲惨とを叫ばれしあたり、閣下独特の豪放明快なる語調と痛烈辛辣なる皮肉なり批判なりに、聴衆は全く魅了せられ、固唾を飲み、机上に顎突き立てて殆ど茫然自失せるかの感があった。頃日長崎あたり、神社参拝問題で、中学校とか師範校とかゴタついていた直後の御講演なりしだけに、如何な頑冥者流をも感銘感動させては止まない底の真に力瘤の入ったものであった。 ちなみに聖堂は早坂司教閣下御叙階の記念たるべく、「王たる基督」に奉献せられた。 12月8日、佐世保市聖心幼稚園祝聖式及び堅振式=、芽出度き聖母無原罪祝祭日である。この日までに工事を終えたいと、焦りに焦った甲斐もなく、2階の仮聖堂を除いて、未だ床板も嵌らない始末である。幸い、2階だけの取付が済んだので、司教閣下が平戸紐差天主堂献堂式よりのお帰りを待ち受け、仮聖堂の祝聖を兼ねて80余名の堅振式を挙げて戴くことができた。佐世保で堅振式の挙げられたのはこれが??だとの話である。これまでは教会所が余りに狭隘なため、堅振受領者は皆群部の梶の浦、神崎地方に司教巡錫の折を見て、そこらの式に参加したものだそうである。 生憎雨天にて工事場の泥濘甚だしく頗る困却したが、50坪に余る2階の大広間には、今まで谷郷町の大道を埋めながら、ミサを拝聴していた多数の信徒も、その全部を容れて尚余地があった。 早坂司教閣下には、御ミサ後その親しき御督励の下に、出来あがった新築の堂内に立たれて新建設の苦心を物語られ、而も聖母無原罪の芽出度き日にそが祝聖式と多数信者の堅振式とを挙げ得るに至った歓びを高調され、授堅者たちが、佐世保市に於ける布教伝道の将来を控えて、如何に堅固熱烈な信念に生きざるべからざるかを諄諄と御訓示になり、斯くて随行せられたる松岡片岡両師補佐の下に、堅振式を挙行せられた。 式後一同は、谷郷町教会所に帰りて午餐を取り、午後は授堅者一同の司教閣下に対する謝禮に次いで、児童及び児女等の余興劇、唱歌等があって聖き一日を極めて楽しく、愉快にすごしたのであった。 |
昭和5年1月1日 カトリック教報 ○佐世保通信 12月1日、大田尾天主堂献堂式=間口4間半、奥行き12間強の瀟洒たる新建築、丸天井、漆喰の捌き塗り、色ガラスの窓、彩光と型と内部の配合をなし、玄関と玄関上の尖塔と、搭の上なる鉄製の十字架及びその両側に配置せる聖ペトロと聖モーゼとの尊像は、正に禮拝所としての申分なき外観を形作り、外側は全部木骨の上に、ラス張りの堅牢なコンクリートの固めを為し、一見正に鉄筋コンクリートの建築かと疑われる美しい出来栄えである。 早坂司教閣下が親しく設計工事等に御指導を賜った最初の建築であり、加之青年技師金子騎氏が奉仕的聖心で以って、ほとんど義侠的に工事を引受け、9千円そこそこの最低限度の経費にて、この輪煥たる聖堂の竣成を見たるは、我等に取りて真に感謝感激の種であらねばならぬ。 当日は8時半より、例の如く司教閣下御先頭にて、堂の内外を祝別せられ、続いて閣下の御説教に島内信者の熱誠を称揚して、この物質的建設の上に、更に布教伝道の精神的建設の要あるを力説せられ、直ちに司教歌ミサという島始まって以来初めての大祭典が挙げられた。上下神崎の山川師、片岡師及び伊王島の松岡師が、式を助けられた。 佐世保教会よりも、20名に余る青少年、処女児童等、祭式及び聖歌応援の為に来島した。祭式後従来の仮教会所にて、重なる来賓への饗応祝賀会があり、村長、小学校長、医師、駐在巡査、村議員区長有志等の参列するもの50名近く、頗る盛会であった。 午後3時半より小学校舎にて、司教閣下の講演があった。聴衆は当日の諸来賓始め信者未信者数100名、講演は日本現時の大患たる経済難及び思想難に就きて、徹底的批判を、而も痛快克明に試みられ特に思想難に就きて大中小学に於ける我教育制度の矛盾極まれる事実を指摘し上?閣の諸公より下庶民を通じて無信仰的教育が生める戦慄すべき躓き罪悪、疑獄等に照らし、真実なる宗教なき国民の暗黒と悲惨とを叫ばれしあたり、閣下独特の豪放明快なる語調と痛烈辛辣なる皮肉なり批判なりに、聴衆は全く魅了せられ、固唾を飲み、机上に顎突き立てて殆ど茫然自失せるかの感があった。頃日長崎あたり、神社参拝問題で、中学校とか師範校とかゴタついていた直後の御講演なりしだけに、如何な頑冥者流をも感銘感動させては止まない底の真に力瘤の入ったものであった。 ちなみに聖堂は早坂司教閣下御叙階の記念たるべく、「王たる基督」に奉献せられた。 12月8日、佐世保市聖心幼稚園祝聖式及び堅振式=、芽出度き聖母無原罪祝祭日である。この日までに工事を終えたいと、焦りに焦った甲斐もなく、2階の仮聖堂を除いて、未だ床板も嵌らない始末である。幸い、2階だけの取付が済んだので、司教閣下が平戸紐差天主堂献堂式よりのお帰りを待ち受け、仮聖堂の祝聖を兼ねて80余名の堅振式を挙げて戴くことができた。佐世保で堅振式の挙げられたのはこれが??だとの話である。これまでは教会所が余りに狭隘なため、堅振受領者は皆群部の梶の浦、神崎地方に司教巡錫の折を見て、そこらの式に参加したものだそうである。 生憎雨天にて工事場の泥濘甚だしく頗る困却したが、50坪に余る2階の大広間には、今まで谷郷町の大道を埋めながら、ミサを拝聴していた多数の信徒も、その全部を容れて尚余地があった。 早坂司教閣下には、御ミサ後その親しき御督励の下に、出来あがった新築の堂内に立たれて新建設の苦心を物語られ、而も聖母無原罪の芽出度き日にそが祝聖式と多数信者の堅振式とを挙げ得るに至った歓びを高調され、授堅者たちが、佐世保市に於ける布教伝道の将来を控えて、如何に堅固熱烈な信念に生きざるべからざるかを諄諄と御訓示になり、斯くて随行せられたる松岡片岡両師補佐の下に、堅振式を挙行せられた。 式後一同は、谷郷町教会所に帰りて午餐を取り、午後は授堅者一同の司教閣下に対する謝禮に次いで、児童及び児女等の余興劇、唱歌等があって聖き一日を極めて楽しく、愉快にすごしたのであった。 |
昭和5年4月1日 カトリック教報 ○佐世保教会近信 近き将来に於いて東亜の大鎮守府佐世保軍港の市街を俯瞰する大聖堂を持つであろう所の佐世保公教会信者達は、着々とその完成に向って対内的にも対外的にも邁進しつつあるのであるが、後援者諸賢、その他の各位に対し、その近状一般を報告することは機宜を得たるものと思うのである。 先ず3月4日夜6時半より、市内弥生座に於いて新築聖心幼稚園主催の伊太利大音楽会を開催し、市内外多数有志の??を得た事、そしてローマ・カトリック教会に就いての理解と接近とを促したる事は特記せられてよい事と思う。 特に中間に行われた司教ヤヌアリオ早坂閣下の大演説は識者多数の感嘆と賛辞の的とに成っている様である。 演奏者が名にし負う音楽の国伊太利の学生達であるので、この音楽会の人気が如何なるものであったかは諸賢の御想像に委ねる事とする。その前月、即ち3月3日は聖心幼稚園の新築落成式が挙行せられたのであるが、大体の様子は3月5日水曜日朝佐世保新聞に掲載せられた下の記事を以って代えることとしたい。 聖心幼稚園落成式 佐世保市三浦町に新築した聖心幼稚園の落成披露会は、3日午後4時から同園に於いて開催。重なる来賓は倉本裁判所長、海軍工廠造機部長吉原重時氏、海軍少佐東郷二郎氏、中野佐世保署長、高田収入役、その他有志等で早坂司教の挨拶に次いで脇田神父のカトリックに関する講話あり。カトリック青年団員の挨拶終って食堂に入り、倉本判事来賓を代表して謝辞あり、午後7時過ぎ散会した。 |
昭和5年5月1日 カトリック教報 ○佐世保聖心幼稚園開園式 |
昭和5年8月1日 カトリック教報 ○長崎の暴風雨 |
カトリック教報 昭和5年8月1日 第178号 佐世保教会の新事業 脇田師は佐世保市に公教信者よりなる産婆または看護婦会を設置する計画中で既に司教閣下の認可を得て、いよいよ会員募集の運び隣、今回左の如き広告をおだしになった。会名は佐世保聖心助産婦会、および佐世保聖心看護婦会 広告 産婆、看護婦免状所有の公教信者にして主のために献身的奉仕希望の御方は左記へ申し込まれたし。 佐世保市三浦町36 聖心看護婦会 会長 脇田登摩 よきおとずれ 2002年(平成14年) 第881号 三浦町教会献堂70周年 佐世保市三浦町教会(主任司祭、村中 司師)は12月6日、献堂70周年を迎え、記念ミサと祝賀会を開催した。 |
カトリック教報、昭和6年5月15日、第62号 萩原霊父の銀祝祭 今年は紐差天主堂主任司祭萩原師の聖職叙品25周年に当たるので、その祝賀会が4月8日に挙行された。前日来の暴風もからりと晴れて恵まれた好天気に信徒等は喜びに胸を躍らしつつ聖堂を指して馳せ参じた。午前8時半、鐘楼より打ち鳴らされる鐘の音は余韻嫋々(じょうじょう)として緑の丘を超え谷を渡って平和な村のすみずみにひろがり、静かな朝の空気を震わした。やがて脇田師が教壇に起たれ、司祭職の崇高さとその責任の重大さについて御説教をなさった。師独特の流暢な雄弁に信徒は多大の感銘を与えられた、続いて萩原師が大ミサを歌われ山口宅助師が助祭、脇田師が副助祭の役を務められ、なお中田、山川、片岡、濱田の4師がこれを助けられ、地方ではまれに見る盛況であった。ミサに次いで聖体降福式があり、それより直ちに祝賀会に移った。群衆せる信徒は実に実に数千人、郡内の諸霊父も生月のブルトー師を除いて皆御来会になった。先ず紐差カトリック青年会長田崎辰雄氏の開会の辞に次いで銀祝歌の合奏があり、よく精錬された青年処女の美しいメロディーは萩原師をはじめ参列者一同を楽しませること百%、それから信徒総代、青年会宝亀信徒代表など2・3の祝辞がありこれに対して萩原師は左の意味の御答辞をなさった。 「不徳非才なる私が尊い司祭の位階に上げられ、以て今日あるを得たのは天主様の御憐れみによるのは申すまでもないことでありますが、なお又皆様のご熱心なルお祈りのお陰でもあります。心から厚く感謝致します。願わくは今後とも引き続いてお祈り下さって必ず終を全うさせてくださいますようお願い致します。私もまた皆様のために必ずお祈り申しますのでございましょう云々」 それが終わっていよいよ宴会となった。80坪からなる聖堂地下室も、参列者のため立錐の余地なきまでに埋められ、なお室外にも溢れていたということは、師が如何に学徳兼備、親情に満ちた、優しい慈父で一般仰望の的であり、信徒は勿論異教者からまで尊敬愛慕されているかを如実に物語って余りあるではないか。 実は師は大きな度胸の持ち主だ、師に接して共に話を交えた者は、誰しも笑い崩れざるを得ない程の快活な明るい心の人である。年齢は57歳で今なお元気旺盛、壮者をしのぎ、風采堂々、実に邦人司祭中の巨人である。 我らは天主がこの強き我らの慈父をいつまでも保ち以て御自分の御光栄を発揚する有為な器としてお守り下さいますよう祈ってやまないのである。 ちなみに師は明治38年2月5日叙品、1カ年半は南松浦郡北魚の目仲地教会を牧し、それから鹿児島県大島郡傘利教会、その次に佐世保教会、またその次に紐差教会へ |
カトリック教報、昭和6年10月1日 ・・・11時半佐世保に着いたが、汽車は12時10分発、まだ半時間の余裕があるので、一寸教会に立ち寄って脇田師にご挨拶申し上げました。 |
カトリック教報 昭和7年1月1日 第77号 佐世保天主堂成る 12月8日聖母無原罪御やどりの祝祭日! この日は西日本の一隅に存在する ? 三浦町カトリック聖堂が、ようやく世の光を浴びるに至った記念すべき日である。当教会の歴史的沿革を詳述することはこれをしばらくおき、この献堂式に列し得た信徒のひとりとして、当日の模様をここに簡単に記したい。前日より振り出した雨で天候が気遣われていたにかかわらず小春日和の如き穏やかな温かい晴天となった。 かくして少年、少女、処女会、青年団の日頃練り来たりし余興によって湧くが如き賑わいを見せ、午後4時無事にその日の幕は閉じられた。当日この新聖堂に集まった人々にはどの顔を見ても、どの顔を見ても、それぞれ言い知れぬ喜びの喜びのほほえみが浮かんでいる。実際この日の喜びばかりはどうしても包みきれなかったものと思われる。 無理もない。20枚そこそこの畳を敷かれた一十有余年来のあのちっぽけな仮教会から、大鉄筋コンクリート建物の中に主の祭壇を遷し奉る事ができたのだもの、どうしてこの喜びを隠す事ができよう。我等はここに重ねて早坂司教閣下多年の御恵みを感謝すると共にこの建設に多大の犠牲と奉仕とを賜れる全国篤志家たちに、深甚の謝意を表する次第である。 |
カトリック教報 昭和7年6月15日 第88号 井持のルルド マルガリタ大林ハルの話 長崎県南松浦郡久賀島大開のマルコ大林丈八とイソの長女マルガリタ・ハルは、1912年(明治45年)4月上旬頃畑の草取りに出掛け、労働中、突然肩が非常に痛み出し、労働に耐えず、ついに帰宅した。その後は良いという養生は色々やってみたが何の効験もなかったので、福江の郡立病院に行き、診察を乞うと、是はリュウマチスで早全快の見込みがない、ただ幾分でも痛みを和らげたいならば、入湯してその患部を揉むより外はないと院長から丁寧に諭された。 しかし残念ながら湯治に行くことが出来ず、さらばとて養生もせずに死なれずと云うもので、種々様々の養生を2ケ年も試みて見たが、全快は愚か、益々耐え難き重症となった。斯くして今後何年間、この苦痛を忍ばねばならぬことかと案じ、日々悲観するのみであったが、終に母に伴われて井持のルルドに参詣することにした。幸いにもその時は久賀島の婦人等が多数参詣に行くのであったから、ハルも大に喜び、1914年2月井持に参詣し、「聖意(おぼしめし)にかなう事なら、全快さして下さい。死ぬのが聖意ならば善き最後を遂げさして下さい」と聴くさえ痛ましき祈りをした。こう祈ったのも、医師には不治の病と診断され、益々重体に赴く一方なので、満3ケ年間、昼夜の別なく苦痛に泣き、人知れず袖をしぼりて居た揚句のことであれば、全快などは夢にも思わず、ひたすら死期の到を待つのみであったからである。然るに休憩所に到着したその日には、疲れてこそいたが苦痛の薄らぐのを覚えたのに、翌日には前日より苦しみが増加し、3日目には久賀島に居た時より一層甚だしくなり、是では帰宅もおぼつかない、このままここで死ぬのではないかと一方ならず心配した。死ぬにしても今夜中に何とかして霊水に浴したいものだ。途中滑るとも倒れるとも厭わぬと決心し、参詣人が寝(や)すんだのを見定め、誰も知らないよう、屋外に出で、あらゆる苦痛を犠牲にして遂に浴室に到着し、喜色満面に溢れて着物を脱ぎ、冷たい霊水に入り、主祷文、天使祝詞、各々3回ずつ唱え終わるや否や、頭上に何物か落下したような大音響を聴き、身は木片微塵になった心地がしたので、あわてて霊水を飛び出で、着物を引っかけ、帯は手に持ち、一生懸命に走って休憩所に駆けつけ何人も知らないよう、寝床に入った。その時は早全快していたのである。翌朝は健全の身となって聖堂に行き、ミサ聖祭を拝聴し、聖母の大恩を感謝した。その日主任司祭脇田師の指揮の下に、井持の処女達が畑に出で労働するのであった。久賀島より参詣に来た婦人達も加勢を頼まれて、出掛けて行った。ハルも共に行きたいと言ったが、病気の故を以て断られた。でも畑に行き、健全な時と少しも変わりなく、終日働いた。 帰村後10日を経て、薬代を支払う為、耕地整理組に加入し、雨天の外4ケ月間土を担ったが、依然として変わりがなかった。依って同年7月再度井持へ参詣して、聖母の恩恵みを感謝した。その後も何回か感謝の参詣をした。全快当時より1932年まで18ケ年間、右の病気が再発した覚えは一回もない。本人の全快した事は一人として知らぬ者はなかったが、如何にして全快したか、その事実を本人は秘して人に洩らさず、その母も知らなかった。その後瘰癧(るいれき)病に罹り、1920年に参詣し、之も全快したので、1930年に感謝の参詣をした際、いかなる事情あって感謝するかと島田師に問われて、両病全快の事実を打ち明けたのである。瘰癧病全快の事は後に記すこととする。 カトリック教報 昭和7年5月15日 第86号 脇田師の渡鮮内地人信徒の喜び 在鮮の内地人信徒(京城のみにて約5百名)は内地人神父の説教を聞く事極めて稀なるより、常にその機会が与えられることを渇望しつつあった。ところが佐世保教会主任脇田師が、今般支那青島を訪問せらるるので該旅行の途次訪鮮方を願ったのを聞き入れられ、師は4月5日朝京城に着し明治町天主堂に入って、ミサ聖祭を行われた。同夜は7時30分から京城駅階上食堂のホールに於いて、求道者に対し説教があり聴衆はいずれも真の人生観、天主と来世との存在を明確に悟らされ感激して9時40分終了した。次に6日は聖ポーロ修女院内にある啓星女学院(本校は高女卒業生に進んで高等教育を施す朝鮮唯一の最高の女学校にして校長はカミール童貞)の新入学式に臨場し「真の幸福は愛より生じ、愛は犠牲をなさしむ」との要旨に基き、献身的に教育に従事しつつある同校の童貞を例に挙げて一場の講演を試みた。更に同夜午後7時30分からは伝道館に於いて、信徒一同に対し「信者の良き行い、特に相互の愛は強き引力ある伝道なり」と説教された。久方ぶりの内地人神父の説教が一同を感動せしめた事申すまでもない。 7日は昼間信者、求道者の家庭訪問をなし午後7時30分前夜に引き続き「天地の創造、御託身聖体の主義によりて表現されある神の驚くべき愛」を説かれた。なお、終りに朝鮮における内地人信者の心得、注意、慰めを述べて祝福を与えられたので岩谷信徒会長聴衆を代表して謝意を述べた。 |
○カトリック大講演会 前々号に一言して置いた如く、西中町教会で専ら布教の為に手伝うと云う目的の下に働いている聖パウロ会は、六月五日の出版日を期して袋町公会堂でカトリック大講演会を開いた。講演師は佐世保教会主任の脇田師、我早坂司教閣下で、定刻までに早や公会堂は一千余の聴衆で埋められた。 七時半―長崎神学校コーラス団の「君が代」合奏で会は始まり、やがて聖パウロ会員渡辺氏が立って「・・・・泣く人は幸いなり。それは慰めらるべければなり・・・・カトリックこそ・・・・犠牲的精神の生活の中に真の幸福を見出さしめるもである」と開会の辞を述べた。次に脇田登磨師が拍手喝采裡に演壇に立たれ、 師が壇を降られると神学校のコーラス団の荘重なる数回の合奏あり、我早坂司教閣下は満場の喝采を浴びつつ悠然として演壇の中央に進まれ、カトリックの三大特質―(1)一致共同の精神、(2)愛、(3)教義の絶対的権威を一時間四十五分に亘って滔々と述べられた。その聲その熱、その威圧的論旨は深く人々の心にカトリックの真理を印刻せでは措かぬものがあった。終りに大浦の聖パウロ会員高柳氏が起って閉会の辞を述べられた。我々は神の御恵みの下に必ず豊かな刈穫のある事を信じて疑わぬのである。 |
昭和七年七月一日 明るき生活 脇田登磨師 明るき生活!明るき生活と世人はよく申すが、今日の世の中は如何にも暗い。何とかして明るくしたいと思って内閣などを立てたり壊したりするが、結果はどうも面白くない・・・我々がこの世に於いて明るみと暗がりに生きて行くのには大分の相違がある。闇を愛する者は闇の中に罪を働いて行く、反って光の子は明るみの中に生きて本当の希望と憧れを見出すのである。さてどうしたら明るき生活になるのか、人間は生まれながらに明るさを持っているが、是を明るくする所以のものを知らない。我々は先ず心を明るくせねばならぬ。そしたらその家庭、国家、社会は自ずと明るくなって来る。先ず己が心を明るくし、そして各々が明るい心持になって来ると、世の中は明るくなって来る。 すべて生命には糧を要する。肉には肉の糧、精神には精神の糧を興えねばならぬ。肉体に必要な糧を興えねば、「飢餓」を生ずるが如く、精神も之にその糧を興えないでは之をして向上せしめ、力づける事は出来ぬ。然し肉の為の糧と精神の為の糧はその趣が違う。肉は土より出たものであるから、土より出来るものを食べれば良い。穀類、野菜、果物すべて土より出来る。牛、羊にせよ、魚介にせよもとは必ず土よりのものを食ったに違いない。是等の者はすべて土より出て、また元の土にかえる。然るに精神は土より成って居ない。従って土よりの物を食べぬ。どうしても之に精神的の糧を興えねばならぬ。精神的糧とは何であるか「人はパンのみにて生くるに非ず」とキリストの仰った如く、精神は真善美に依って培われ耕される。 |
人々が学校に於いて学ぶのは真を知ろうとするのだ。研究より研究へと進んで、遂に一の真理を得る。かくして二を知り三を求め、遂に多くの真を取り入れるに至る・・・・斬くして精神は向上し、智者、賢者となるのだ。多く真を所有するほど己を智者、賢者となす。精神内容が広くなればなるだけ、面白く興味をおぼゆる様になって来る。 善をなすのも是と同じだ。世人は多く、善をなすの喜びを知らぬ。私が未だ熊本に務めている時分、ある晩一人の見知らぬ青年が真に消沈して私の部屋に這入って来た。そして云うには「私は生きる興味がなくなってしまいました。失礼ですが、どうしたら良いのでしょうか」と涙ながらに尋ねる。未知の人だったが、余程苦しんだものらしい。「人と云うものは生に対する憧れが強いのだ。君は真剣な生の体験がないらしい。君はあらゆるものに不平を抱いている。真剣に善をなした体験を持たないのだろう。それを篤と考えて分らなかったら又来たまえ」と云うと、「じゃあ又参ります」と云って矢張り悄然として出て行った。二三日立ってから果たしてやって来たが、少し顔色が落ち着いている。 青春時代には活動が如何にも愉快なものである。人が走っているのを見ると、自分も一つうんと走って見たくなって来る。角力を取っているのを見ると、自分の体まで力が自ずと出て来て、しっかり拳を握りしめるものだ。 要するに元気の時は力が溢れて活動的に興味を有するのであるが一度体が弱ってベットに横たわる様になり、我身を動かすのさえ大儀になって来ると、全然活動に面白みを持たぬ・・・・人が愉快に働いているのを見て、それに感激を有し得るか、否むしろ其れを聞くだにいやになって来る程で、人が動いても気を悪くする。それはその人の気が抜けた、力が衰えた結果である。 世の人は我々カトリック司祭が妻子を持たず一生を送る事についてその内面的気持ちを分ってくれない。その生活を不思議がって、その裏面には何かの生活をしているんだろうなんて実に気持ちの悪い話をしている。我々が善をなす感じ、人々の為に献身的に尽す心境、心理状態を解して呉れねば我々の生活は分らないのである。多く知る事に依って人智が啓発するのと同じく、多く善を行う事に依って、その人の人格は向上し心は明るく幸福になって来る。その幸福があらゆる苦悩に打ち克たせるのである。 |
世の人は、多く苦しみの価値を知らず、何故神は斯く人間を苦しめるのか位に思っているが、決してそんなものではない。それは人間が幸福の器を壊してしまっているから、そんなに見えるのだ。神を知る者の眼には苦しみはこの上もなく尊く見える。草木の肥料を思って見るがよい。如何に綺麗な花を咲かす草と云えども、肥料がなければ何にもならぬ。 世に真理を求める人は随分沢山ある。然し真の光の外にあっては到底駄目の事だ。人間は神より美わしい器として作られ、神に象られたものだ。それで、己が身に反省して、生の美に憧れぬ者はない。未来に向かって進む者が知って居らなければならぬ事は、誰もが善の器として造られたと云う事である。自分では駄目だと思ったら、その時こそ自信を失ったと同じである。人は何十年の経験によって自分では駄目だと思っているが、それは間違いである。それを悔い改めさせる秘訣は、その人に善の器である事を悟らせる事だ。それが分ったら大概の人は、ああ俺も真の明るい生活が出来るのだと云う力が出て来る。 |
カトリック教報 昭和7年5月15日 第86号 脇田師の渡鮮内地人信徒の喜び 在鮮の内地人信徒(京城のみにて約5百名)は内地人神父の説教を聞くこと極めて稀なるより、常にその機会が与えられることを渇望しつつあった。ところが佐世保教会主任脇田師が、今般支那青島を訪問せらるるので該旅行の途次訪鮮方を願ったのを聞き入れられ、師は4月5日朝京城に着し明治町天主堂に入って、ミサ聖祭を行われた。同夜は7時30分から京城駅階上食堂のホールに於いて、求道者に対し説教があり徴収はいずれも真の人生観、天主と来世との存在を明確に悟らされ感激して9時40分終了した。次に6日は聖ポーロ修女院内にある啓星女学院(本校は高女卒業生に進んで高等教育を施す朝鮮唯一の最高の女学校にして校長はカミール童貞)の新入学式に臨場し「真の幸福は愛より生じ、愛は犠牲をなさしむ」との要旨に基き、献身的に教育に従事しつつある同校の童貞を例に挙げて一場の講演を試みた。更に同夜午後7時30分からは伝道館に於いて、信徒一同に対し「信者の良き行い、特に相互の愛は強き引力ある伝道なり」と説教された。久方ぶりの内地人神父の説教が一同を感動せしめた事申すまでもない。7日は昼間信者、求道者の家庭訪問をなし午後7時30分前夜に引き続き「天地の創造、御託身聖体の主義によりて表現されある神の驚くべき愛」を説かれた。なお、終りに朝鮮における内地人信者の心得、注意、慰めを述べて祝福を与えられたので岩谷信徒会長聴衆を代表して謝意を述べた。 翌8日は早朝より希望者の告白を聴き午後4時伝道館に於いて日曜学校生徒とその父兄とに有益なる教訓を与え、かくして同日午後7時20分急行列車にて京城を出発し満州の安東、奉天などへ向かわれた。 |
カトリック教報、昭和7年11月1日 カトリック大講演会 長崎市公会堂に於ける第3回カトリック大講演会は、10月19日午後7時を以て開会された。聴衆1千に余り、一人の弥次を飛ばす者もなく極めて静粛に謹聴した。先ず西中町教会の聖パウロ会員平山氏は満場の拍手裡に登壇して開会の辞を述べ、次いで大阪玉造教会司祭古屋義之氏が平山氏の紹介によって壇上に現れ「輝く光」と云う題の下に雄弁をふるいそれから岡山思想研究所長渋谷治師が演壇に立たれ、約2時間に亘ってとうとうと「カトリックの神髄」を論断しその爽やかなる弁舌、その一貫せる論旨に満場をすっかり酔わされた。 カトリック教報、昭和7年11月15日 南田平及び神崎天主堂堅信傍観記 北松浦郡の小佐々村神崎という1漁村に1昨年新たに現代的なゴチック式鉄筋コンクリートの聖堂が新築せられ、しかもそれが佐世保と平戸の中央に位する海岸に面して渡航者には呼べば答える程の距離にあることとて、観る人にはすべて驚異と称賛の種であり、誰にも清楚の感を与える偉観である。 緑なす山又山、寄せては返す波又波、点々としてその間に介在する九十九島、北松の自然美費やさずして備わる一大庭園の観はあっても、随所に点在する漁民の住み家は人工美を尽くせる産物とは誰にも思えない。その間に立ちて断然群を抜いて一大異彩を放つものは神崎天主堂である。40年来の信仰と熱愛の結晶、それが今日の神崎天主堂を生んだのであることを聞いては、誰人も貧しきキリシタン半農半漁でその日その日を辛うじて送り居るこの一小部落のカトリックに絶大の尊敬を払わずには居られない。而して信仰の力の偉大さを礼賛せざるを得ないのである。 9月18日午前9時この天主堂で南田平のそれの如く司教様の大歌ミサと堅信と聖体のベネディクションとが荘厳裡に挙行された。1930年?月?日献堂式のおりにかかる盛典を初めて観たばかりでその後2年有余今日の如き諸部落民の参集下に悦と満足と感謝との光景は見えなかったのである。実にこの日は褥崎、梶の浦、大崎等より多数の信者はせ参じ、定刻には新築の聖堂にもあふるる位であった。南田平に於ける如く先ず司教様の大歌ミサを以て式は始まり、中田師、山川師、鶴田師等が主任片岡吉一師を助けて今日の盛儀に万遺憾なからしめ、歌ミサに続いて140名の少年少女に堅信の秘蹟が授けられた。晴れ渡るこの日の空の如く受堅者はその心清澄であり、その魂は穏やかなる波の如く温和静順、実に神に近き喜びと感謝の人であった。 この神崎天主堂が主任司祭を常住的にもらい受けたのは3年前の19?年でそれ以前はこの辺一帯が佐世保係で ? 度神父の巡回を待つのみであったのである。実に現任片岡吉一師が神崎を中心に常住せられてこの地方を受け持たれるようになって以来、1千に余る信者の幸福と満足と喜悦とは信者・・・原稿ここまで カトリック教報、昭和7年12月1日 長崎教区の現状 地域 1,048平方キロ 全人口 1,206,100(内カトリック 54,706、プロテスタント 2,000) 司教 1 総代理 1 外人司祭 1 邦人司祭 31 |