初代 脇田荒五郎主任司祭

 

トマス脇田師略歴

1881年(明治14年)1026日  久賀島生まれ

1891年(明治24年)    長崎公教神学校入学

1909年(明治42年)7月  長崎公教神学校卒業

1909年(明治427月〜439月) 堂崎教会助任

1910年(明治439月〜451月) 井持浦教会初代主任

1912年(明治451月〜458月) 水の浦教会4代主任

1912年(明治458月〜大正33月)   ?

1914年(大正34月〜73月)  福江教会初代主任

1915年(大正4年 〜 7年  )  浜脇教会

1918年(大正7年 〜昭和32月) 人吉教会

1928年(昭和32月〜311月)  三浦町教会

1939年(昭和146月〜224月) 島原教会1943年(昭和18年〜20年) 朝鮮光州の知牧

1947年(昭和22年 〜267月) 横浜教区司教

         5月  司教叙階

1965316日  那須にて帰天

 
 

カトリック教報、昭和7111

カトリック大講演会

 長崎市公会堂に於ける第3回カトリック大講演会は、1019日午後7時を以て開会された。聴衆1千に余り、一人の弥次を飛ばす者もなく極めて静粛に謹聴した。先ず西中町教会の聖パウロ会員平山氏は満場の拍手裡に登壇して開会の辞を述べ、次いで大阪玉造教会司祭古屋義之氏が平山氏の紹介によって壇上に現れ「輝く光」と云う題の下に雄弁をふるいそれから岡山思想研究所長渋谷治師が演壇に立たれ、約2時間に亘ってとうとうと「カトリックの神髄」を論断しその爽やかなる弁舌、その一貫せる論旨に満場をすっかり酔わされた。

カトリック教報、昭和71115

南田平及び神崎天主堂堅信傍観記

 北松浦郡の小佐々村神崎という1漁村に1昨年新たに現代的なゴチック式鉄筋コンクリートの聖堂が新築せられ、しかもそれが佐世保と平戸の中央に位する海岸に面して渡航者には呼べば答える程の距離にあることとて、観る人にはすべて驚異と称賛の種であり、誰にも清楚の感を与える偉観である。

 緑なす山又山、寄せては返す波又波、点々としてその間に介在する九十九島、北松の自然美費やさずして備わる一大庭園の観はあっても、随所に点在する漁民の住み家は人工美を尽くせる産物とは誰にも思えない。その間に立ちて断然群を抜いて一大異彩を放つものは神崎天主堂である。40年来の信仰と熱愛の結晶、それが今日の神崎天主堂を生んだのであることを聞いては、誰人も貧しきキリシタン半農半漁でその日その日を辛うじて送り居るこの一小部落のカトリックに絶大の尊敬を払わずには居られない。而して信仰の力の偉大さを礼賛せざるを得ないのである。

 918日午前9時この天主堂で南田平のそれの如く司教様の大歌ミサと堅信と聖体のベネディクションとが荘厳裡に挙行された。1930年?月?日献堂式のおりにかかる盛典を初めて観たばかりでその後2年有余今日の如き諸部落民の参集下に悦と満足と感謝との光景は見えなかったのである。実にこの日は褥崎、梶の浦、大崎等より多数の信者はせ参じ、定刻には新築の聖堂にもあふるる位であった。南田平に於ける如く先ず司教様の大歌ミサを以て式は始まり、中田師、山川師、鶴田師等が主任片岡吉一師を助けて今日の盛儀に万遺憾なからしめ、歌ミサに続いて140名の少年少女に堅信の秘蹟が授けられた。晴れ渡るこの日の空の如く受堅者はその心清澄であり、その魂は穏やかなる波の如く温和静順、実に神に近き喜びと感謝の人であった。

 この神崎天主堂が主任司祭を常住的にもらい受けたのは3年前の19?年でそれ以前はこの辺一帯が佐世保係で ?  度神父の巡回を待つのみであったのである。実に現任片岡吉一師が神崎を中心に常住せられてこの地方を受け持たれるようになって以来、1千に余る信者の幸福と満足と喜悦とは信者・・・原稿ここまで 

カトリック教報、昭和7121

長崎教区の現状

地域 1,048平方キロ

全人口 1,206,100(内カトリック 54,706、プロテスタント 2,000

司教 1 総代理 1  外人司祭 1 邦人司祭 31

 
 

カトリック教報   昭和981日   第139

脇田神父の叙品25年祝賀会

 佐世保市カトリック教会主任司祭、脇田神父様の叙品25周年、74日、堂教会で盛大な祝賀会が催された。はじめ神父様は、本年叙品25周年にあたることを信者に比し、自分の過去を顧みるとき、何らの功績もあるではなし、銀祝として祝って頂くような柄ではないと謙遜しておられたが、信者がどこからともなくそのことを洩れ聞き、直ちに役員会を開き、銀祝当日の方法を相談し、神父様の否応なしにまごころを披瀝というその熱誠に動かされて、ついに「祝って頂くというより、祈っていただきたい」ということに神父さまもご承諾になり、当日は出来る限り、聖体拝領をし、神父さまのために特に祈るべき申し合わせ、役員はじめ信者一同告白をなすなど、涙ぐましい一致の下に意義ある催しが盛大に行われた。

 先ずは当日午前9時、神学校長浦川神父さまをはじめ、この記念すべよよき日を祝うために馳せ参じられた20名近くの神父さま方によって、盛大、且つ荘厳なる歌ミサが行われ、萩原神父様は、脇田神父さまの今日の喜びを祝賀する説教をし、一同に多大な感激を与えられた。正午、脇田神父さま主催にて、神父さま方、並びに御厨佐世保市長、憲兵分隊長、県立高等女学校校長、教育課長、警察部員、23の新聞記者、その他30余名を招待されて午餐を共にし、市長、中学校長等神父さまの健康と今後とも一層のご奮闘を希望し、それに対して浦川神父様よりご挨拶、脇田神父さまの御答辞があって後、脇田師得意の座談に移り、現代カトリック教が世間でいろいろ非難されているがこれは一つに認識不足にもよることであり非難せんとするためにかえってカトリックを研究し、ついにカトリックを理解するに至ること、教会側の運動に対して一層のご援助を乞うこと等の話から、たまたま鹿児島大島高等女学校問題に話が移り、その誤解をとき、キりストと日本の天皇陛下とどちらをとるかなどの奇問を発して無知なる信徒を困らせ、頓珍漢な返答をするものがあると、直ちにカトリックを国賊呼ばわりするなどのことについても、神と現世の権威者、離れベからざる両者の関係を離し、神と陛下とを分たんとするところに無理があることなど説明したのに対し、来賓側よりも宗教と社会の密接な関係、従来の誤解は宗教に対する認識不足より来ること、隔意なき意見交換によりて、初めてお互い理解できることゆえお互いに相接近して、共同して社会のために尽くしたき旨を述べ散会した。

午後から信者側主催の祝賀会があり、脇田神父様は謝辞で、教会建設のために各地を行脚して、その資金募集に東奔西走しておられるときに、ご母堂のご死去があったことに関し、我が牧する信者こそ我が兄弟、我が姉妹であり、我が慰めの親である。この愛しい者のために奔走の最中、母を亡くし、その臨終に間に合わなかったことも何かのゆかりであり父も母もない今日当教会信者には一層の親しみを覚えると述べられた。

 
 

カトリック教報、昭和9111

 黙想会と脇田師の25年祝祭

 本年の黙想会は上智大学内なる修練院シェフェル師が指導に当たり、イエズス会一流の心霊修業法によってリードされたので従来のそれとは異なり一種の新味を味わうこと出来たのは一同の喜ぶところであった。

 黙想会の最終日たる15日聖テレジアの祝日には脇田師の司祭銀祝が行われ、師自ら唱歌祭を執行し、侍者はろうそく持ちに至までことごとく司祭が当たった。ミサ後の聖体降福は早坂司教様が御執行になった。御発病以来1カ年と7日にして初めて司教様が公に祭壇にたたれたので一同の喜びたるや多大であった。

 昼食の時、司教様は起って先ずシェフェル師に謝礼を述べ、次に自分の病臥中、各司祭の心からなる祈りを感謝せられ、それから話を脇田師の上に移し、師が25年の久しきに亘って神のため、人のために昼夜を分かたず御奔走になった功労を称賛し、是からも末永く指導のために活動あらんことを希望せられた。

 その時出口師が司祭一同を代表して、脇田師に祝辞を述べられた。出口師は脇田師を最も良く識る者、いわゆる莫逆の友なのでその祝辞も決して通り一遍の月並み的なものではなかった。実際脇田師は学徳兼ね備わり、筆にも舌にも及び難きところを有し、行く所として可ならざるなしである。しかも今やわずかに50歳を超えられたのみで、正に働き盛りである。我らは師の頭がいよいよ冴え、師の腕がますます伸び、我が教会のため、万丈の気炎を吐きたもうに至らんことを祈ってやまないのである―終に一同声を合わせて山頭師の作になる祝歌歌い、脇田師の謙遜に満ちた答辞があって、2時に至らざる10分まえに式を閉じた。

 午後5時には浦上天主堂に新設されし大祭壇の祝別式があり司教様が自ら之に当たり続いて聖体降福式をも御執行になった。思えばこの1015日は我らの司教様の全快祝いであったかのような気がしてならぬ。式後、田川源造氏の御饗宴に与り、一同歓を尽くした。本年の黙想会には大阪の永田、浦上、都田3師がご参会になった。

カトリック教報、昭和91215

佐世保教会の講演会

佐世保教会では、1020日の布教日の催しを都合により、117日に延期し、市公会堂に於いて講演会を開くべく、光?之友会、青年団、信愛処女団及び信者各位、或いは祈りに或いは資金募集に或いは宣伝に大わらわであったが、当日午後6時頃から、長崎西中町教会の山口愛次郎師、熊本の弁護士石井辰雄氏の応援を得て盛大に開催され聖歌隊の合唱に始まり、先ず石井氏が開会の辞に代えて、法律と道徳と宗教との関係を述べられ、山口師は「祖国の救い」という題下で日本国を讃え救うべき大国日本(救われるべき日本に非ず)に生まれ得た事に如何に誇りを感じ、感謝の心を持つべきか、如何に日本国民は「一致協力して、東洋を救うべきかを力を・・?・・国民相互に理解し合い、仏教も神道もまたキリスト教も打って一丸とし、非常時を突破すべきであるのに、世にはカトリックを毛嫌いし、危惧の念を抱くもの有りとて、カトリック宣教師が、真理奉公の為に全力を挙げて尽すいしつつあることを実証され、遂に、如何にカトリックが、国家に対する教義と感謝の情とによって、皇室の為また国家の為に熱烈なる祈りを神にささげつつあるかを述べられた。

 最後の脇田師は、日本精神とカトリック教と題して師得意の弁舌をふるい、3千年来培かわれて来た日本精神の由来と意義と真価とを、或いは北満の義人村上氏の例を引き、或いは上海事変に於ける我が勇士達の奮闘誌を籍(か)りて論述され、しかも神を信ずる宗教心なくしては、日本精神の骨子をなす所の、天授神聖なる皇室の大権も、神国の理想もその基づく所を失うべきを指摘して、無神主義、唯物主義の危険を喝破し、同時に、今日科学的及び哲学的権威の前に、高天ヶ原や、山の神、川の神、風神、金神等の八百万神の神籍奉還が要求さるる時、真に現代の学的背景を有し、宇宙観的哲理の上に、盤石の信念を確保するカトリック教の存在が、神への信仰と祖先の霊の存在とを基調とする日本精神の生命及び発達の為に如何に重大且つ緊要な意義をもつものであるかを詳論され、日本人は話せば分かる国民だと一点のすきもなき論法をもって説き去り、説き来たり、終に仏教神道を信ずる日本人が、時間的には永遠、空間的には不偏なる天地の公道、カトリックに対して信教の自由を今少し生かして国家に対する忠誠の表現を仏教が仏教式に、神道が神道式に公然と社会に認められるように、カトリック式に表現せしむる事によって各自の立場を尊重するにいたらば、現時国家の非常時に備えるにも、全体がどれほど気持ちよく、嬉しく一致し得るであろうと結ばれた。

 因みに、この催しは予期以上に盛況で、鎮守府、要塞司令部、支庁、警察署、憲兵隊、各新聞社、各学校、青年団、県市会議員等を訪ねて案内したため、軍人、教育家、僧侶(56名)等各階級の人士を網羅し、3時間にわたる講演に67百の聴衆が、水を打ったような静けさの中に、耳を傾けて居て下さったについて、主催者も講師の方々も、聴衆の方々それ自身も不思議に思うほどであったことを思えば、講師の方々が如何によくまた徹底してお話下され、主催者側及び信者の祈りと努力がいかに大であったかを創造するにたると思う。

 

カトリック教報、昭和1031

佐世保教会の建国祭式典

 佐世保教会にては例年の通り、建国祭式典を行い、211日午前7時より、国家のための祈願祭を行い、国家意識を鼓吹する神父様の説教があり、ミサ後聖堂正門にて、国旗掲揚式、君が代の合唱、遙拝式を済ませて、信者は帰路に就いたのであるが、本年は例年に比して3百に余る多数の信者がこの式典にあずかり、皇室と祖国のために祈願をこめていたことは、非常時の国家を思う赤心の発露かと、頼もしくも嬉しい感謝を覚えた。

 因みに、8日には、信愛処女団、光?の友会では、紀元節の贈りものとして、行旅病患者を慰める何らかのたのしみにと、市社会課を通じて金一封を贈った。

カトリック教報、昭和10315

佐世保聖心幼稚園の園児

 「私の好きな兵隊さん」童話劇で、海軍傷病兵を慰む

 海軍日本の干城佐世保市で、海軍士官の卵を養成して名声を博している聖心幼稚園では、国防の第一線に立つ大切な水兵さんたちの中、病床に伏して苦しんでいる者の多数あるを聞き知るや、幼稚園児たちのあどけない舞踊音楽で慰めて上げたいと思い、直ちに海軍病院に交渉して快諾を受けたので、224日うららかな春日和、はしゃぎまわる園児たち

を病院付の大自動車で病院に運んで、さて余興場に行ってみると、白い患者服につつまった水兵さん等がぎっしり座を占めて、園児達のかわいい踊りを待っている。「お行儀よし」で折り紙付きの聖心幼稚園の子供たちは、物音一つ立てず、朗らかに上品に、しかも極めて自然的に備えの座席について、保母の指図を待っているその愛らしさは、規律に生きた水兵さんに先ず好印象を与えた。

 午後1時半一同起立、君が代合唱、次に長谷部朔朗ちゃんが開会の辞を述べると、満場の水兵さんたちすっかり感激させられて、盛んに拍手を浴びせる。それから直ちに童話劇に移ったが、「私の好きな水兵さん」では、本物の水平帽一寸拝借して、手旗信号をあやしく取るその愛らしさ!水兵さんたちすっかり興に入って拍手また拍手、アンコールに次ぐアンコール、あれもやりましょう、これもやりましょうで、予定のプログラムをすっかり超えてしまった。松尾みやるちゃんの閉会の辞で、今日のプログラムを閉じたが、これほどの満足を病床の水兵さんたちに与え得るとは予期してなかったので、一同大満足、それから水兵さんの案内で、いろいろの貴重な記念品を参観した後病院の庭で記念撮影をなした。

 
 

カトリック教法、昭和1061

軍艦旗献納バザー

30年海軍記念日を祝する、佐世保聖心幼稚園

 帝国海軍が日本海場に於いて露国を全滅させ、もって海国日本の驍名(ぎょうめい)を世界に轟かした歴史的大海軍記念日が30周年を迎えんとしている。この記念日を最も意義あらしめんため、県当局にては軍艦旗献納のことを各所に奨励した。この海軍記念日と極めて関係の深い佐世保軍港に於いて、しかも将来の水兵さんたちを教育している我が聖心幼稚園にては、県当局のこの計画に感激し、幼稚園、母の会、並びに隣接せるカトリック信愛処女会の協力を受けて、軍艦旗献納バザー開催を519日の日曜日をきして決定し、直ちに目まぐるしい準備に移る。

 嵐に洗われたさわやかな5月の空に、初夏の暖かい日光をまばゆく反射する青葉の519日!カトリックなるが故に、好奇の筆を揃えて各新聞社まで前景気をつけてくれた結果、異状な宣伝効果が現れて、開場9時半のバザーに早くも雲集する人の波、それが食堂、余興場、また佐世保土産店と長崎物産店から来た雑貨、玩具、金物、手芸の売店になだれこんでは溢れるそれを素人ばなれのした処女団が優しく受けとめて、見事なサービスをやるので売れること売れること、来る人も来る人も財布の底をはたいて喜んで帰る。

 余興場には佐世保でも定評ある西本舞踊研究所員が控えていて、優雅な舞踊を演じては観衆を喜ばせ、東京銀座に美容院をもつ斯界(しかい)の権威山本鈴子女史の美容講習には、美に憧れるマダムやマドモアゼルが雲集する。食堂には、母の会、理事の方々の手製になる山と積まれた山海の珍味が、処女団の美しい、てきぱきとしたサービスで崩れてゆく。これら一切を景気づけて軽やかなメロディがラウンドスピカーから盛んに上っている。

 かくて大成功裡にバザーを閉じたのは午後5時、一同の顔に成功の喜びと、安堵の色が溢れていた。

 因みに純益は川田、鎌田両理事並びにK保母の手によって、憲兵分隊に献納を依頼した。

 
 

カトリック教報、昭和10615

佐世保教会

 佐世保教会は最も目抜きの場所に、衆人の、さからいとよろこびの対象を他所(よそ)に、毅然としてそびえているのであるが、これを仰ぎ、これを喜びとする者の心に、いちまつの淋しさと物足りなさを感ぜしむるものは、この教会の声、鐘の音を聞き得ない一事であった。

 その待ちに待たれる鐘が、このたび、同教会信者、ペトロ深堀竹次郎氏の寄贈によって、イタリーより着荷となり、62日(日曜日)長崎神学校長、司教代理浦川神父様によって祝別され、69日、聖霊降臨の日より、よろこびと感謝の声となり哀愁を称える弔いの声となり、聖祭に人を呼ぶ主の御声となってたからかに鳴り響くことになった。

 62日、9時の御ミサは浦川師によって捧げられ、御ミサ後、脇田主任司祭の御説教があり、初代教会信者の私財を投じて神のためにつくしたる例を引き2千円、3千円の金子の保証をして、他人の借財を背負い込む勇気あるものが、それだけの覚悟をもって神のため、社会のために働いたならば、どれほど美しい楽しい世の中が出現するであろうといい、或いは未信者にして一生の労苦によって得たる財産の全部をあげて社会のためにつくしたる篤志家の例を引き、同じく光輝ある大和魂の美風の内に育まれ、その上カトリックの愛の教えを吹き込まれたる信者の覚悟を促し、このたびの深堀氏の美挙と云い、昨年山口氏遺族の聖心像建設といい皆大和魂とカトリック精神の総合の表現であり、信者の歩むべき道を示しその覚悟を促すのもとして称揚し、感謝され、浦川師の聖体降福式後、同師の御説教があり、鐘の持つ多くの教訓を説かれた。特に信者達一同が鐘の音の調べ美しきが如く相和し相愛して行くよう且つ鐘が高き塔のてっぺんより四方に呼びかけるが如くに、信者達もその公明正大な行儀と模範との反響を全社会に及ぼすよう、ただし鐘が人を呼びながら自らは塔上高く鎮座して一歩も聖堂に入らない如きに習わず、他に呼びかけると共に他に率先して神に、信仰に、善行に突進するよう、また鐘が傷つき破れてはその音も雑然と聴くに堪えぬとなるが如く、信者達も信仰の本領たる愛の精神を傷つけて、信者たるの名を辱めざるように等々と諄々切々とお諭し下さったのであった。

 御説教後引き続き鐘の祝別式に移り隣接各町総代消防組頭、及び各部小頭、新聞記者等も列席し式後祝賀会に移り来賓の方は司祭館に饗応あり、一般信者は児童等に至まで幼稚園2階大広間、聖堂脇の広場にて昼食祝い餅

、記念手ぬぐいの配分にあずかり、もてなし方には役員、婦人会、処女団員等にててんてこ舞いの有様、それに青年団員の余興には観客皆抱腹絶倒の猛烈さ、しかもこれらの経費は一切全部深堀氏の一手持ちという義侠ぶり、全く未曾有の盛況とこぜんたる愛の具体的交響楽たるかの感があった。
 
 

カトリック教報、昭和101115

佐世保教会の近況

最近の佐世保教会では、余り目に付いたこともなく、沈黙を続けているかに見えていたが、それでも考えてみると種々な催しが2週間1度の告白の外にゲームその他教練の中に、楽しく有意義な国民としての教育を施し、真にカトリック信者らしい信者を作るという方針を立てた。

 818日、父兄及び教練指導を依頼していた憲兵分隊よりのご臨席もあり、80名の健児の宣誓式があって、大々的に新聞にも報道されてこの方、団服制作その他着々外部の整備もなり、各幹部は外観の整備と共に品性の陶冶に全力を傾聴している。

 なお父兄は勿論教会役員及び団顧問の方々も金策その他に努力せられ、特に聖霊婦人会では「児童の教育の為なり」と若干の金子を月々に補助される一方、自ら進んで子女の教育にあたり、少年団を導き、同時に各自自らの自覚向上をはかるべく、或いは主婦としての務めに就き或いは子女教育に関する主任司祭の講話を聞き(月に2回)座談会、生花の講習会などを開き機会のあるごとに第一線に立って範を示している。

 その最近の例を言えば112日海軍慰霊祭当日聖霊婦人会、信愛処女団連合にて、34人の光塩の友会員と共に主任神父様を先頭に、海軍墓地に花輪を献じ、終わって登山楽しく一日を過ごした。超えて同3日(日曜日)明治節には、午前850分より、信徒一同は主任司祭を中心に、聖心天主堂正門に集合し、国歌合唱、国旗掲揚、明治節唱歌、東方遙拝を終えて、ミサ聖祭を拝聴し、皇室の御安泰を祈り奉った。

 なお来る1110日には布教運動の試みとして、修養座談会を開くべく準備中である。

カトリック教報、昭和101215

佐世保教会便り

 佐世保教会では1120日の布教日には例年講演会を催し、信者一同その成果を祈ると共に各々応分の仕事をする事になっており、その日講演会を催さなかったとなると、その年は無意味に過ごしたとさえ感じられるほどに習慣づけられている

 本年はちょうど当日が長崎教区神父様方の心霊修業中であったし布教日の話が余りなかったのでこのままやり過ごす事かと物足らぬ感じをしていたので何らかの方法で形ばかりでもと思い立ったのが1110日(日曜日)の布教座談会であった。

 先ず光塩の友会と信愛処女団とで費用を分担することにし、宣伝(ビラマキ)を少年団と少女会が受け持ち青年団の応援を得て主任司祭脇田師を中心に座談会を開くことにした。

 次にそのお話の要約は1.苦しみの存在より観たる人生の意義(苦しみの役割、苦しみの効用は広大なりしかも多くは苦しみがなければよいなどと思う)=楽園的境地とその失態=罪の悲惨に目覚めて愛の生命に返る=現世えの執着を離脱せしめる(苦しみにより現世のはかなさを知る)=未来世の存在を証示する(現世の矛盾は未来世に是正されなければならぬ)2.苦痛に処する所以は=ヨリ大なる歓喜(よろこび)によりて苦痛を征服する。=幸福の真諦は神の愛に触れるに在る。=神の愛に触れるには心の浄化を要す。=神とは?というような順序で2時間半の間、だれもだれも真剣で、かねて説教の時にヒザの痛いのも、その痛さを忘れ夢中になっていたようで宣伝のわりに教外者の参列者も多数で真に愉快であった。

 
 

カトリック教報、昭和1161

戦死者慰霊祭の日(昭和11517日)浦上天主堂にて 脇田登魔

 君国のため名誉の戦死を遂げられた勇士たちの慰霊祭を執行するに当たりまして、私たちはその赫々(かくかく)たる勲功を記念いたしますると同時に、何が本当にかの勇士たちの霊(たましい)を慰むるにたるであろうか、どうすれば彼ら戦死者たちの魂が充分に慰められようかということを考えてみたいと存じます。

 私たちは第1にかの勇士たちが死なれましたその目的を想って見なければなりません。彼らは実に君国擁護の大任を果たさんがために、花々しき戦いを戦い、二つとなき命をなげうったのであります。既に君国のために身命をなげうったならば、その君国が救われて、永遠に栄え行く姿を見るより以上の歓び、慰めが、かの勇士たちの霊(たましい)にとってまたとあられますでしょうか。およそ国を守り、家を守り、身を守るというこの3つの守りは人間本来の最大義務であります。人にして身を守れなければ、放蕩児となり、堕落者となり、罪の子となって身を亡ぼす外はありません。また人にして我が家を守れないと在っては、破産者となり、放浪者となり妻は夫に離れ、子は親に離れて一家離散の悲哀を見るほか在りません。同様に我が国をさえ守れない国民があってご覧なさい。亡国の民となって自滅するくらいはまだしも、かのユデア民族みたように、自分の国が滅んだ腹いせに、秘密結社や赤化陰謀団の浮浪家業を営んで、世界の平和を攪乱するような真似でもされては、世界人類にとりて、これくらい厄介なことはありません。天下の憂いというは多く弱小国より起こるが常であります。体の病気は体の弱い部分から起こりますように、世界の乱れは世界の弱い国から起こるのです。かのセルヴィアと称する小さい弱い国から世界大戦が勃発して何千億の財と何千万の人命とを犠牲にしてしまったではありませんか。現在、もしもこの我が日本帝国が弱かってみなさい。もういつの昔、東洋の平和どころではない。全世界の平和がすっかり壊されているに決まっております。

 されば我らの軍人たちが、身命を賭して国防に当たり、国家擁護の大任を全うしてくれたその功績たるや、只に日本帝国のためといわず、只に東洋平和のためといわず、実に世界人類全体の平和幸福の為であって、人類はこぞってこの愛の犠牲者たる勇士たちの霊(たましい)に感謝しなければならぬ事を信ずるのであります。

 実に世界人類の平和という高大にして明朗な理想こそは、我が日本帝国の君民一同が、軍人といわず、一般民衆といわず、目指して実現せんことをこいねがうところのものでありまして、かの世界に於ける一部旧式な政治家連が、ただ自国の利益とか、優越感とかを維持せんがための陰謀や暗躍に専らであるのとは、天地雲壌の違いありといわねばなりません。

 何故我がカトリックの本山であるところのローマ法王庁が真っ先に、かの満州国の独立を承認しましたか、特に欧米中心の国際連盟なぞが、躍起になって満州国反対を煽りつつあった只中に、その連盟のゼネヴァとは、目と鼻の先にあるローマ、ヴァチカンの法王庁が、何の顧慮するところもなく、満州国承認を宣言し断行したか、しかしてその満州国在住のカトリック教職者たちもまた、その国籍の如何を問わず、皆

満幅の誠意をもって、同じく満州国の独立を支持声援するに至ったか、これ全く我が日本帝国が、ひたすらに世界平和と正義人道とを目指して邁進せんとする、その無私無偏の心事態度に共鳴したが為ではありませんか。この一事を鑑みまするも、ローマ法王庁が、真に俗界の物質的利害や、人種的偏見なぞに超越して、ただ正義これくみませんとする出世間的存在だと云うことをうなずかせるに充分だといえようではありませんか。

 「神にはエコの沙汰あらせたもう事なし」と聖パウロは叫んでおります。即ち天地の神様には白色人種だから、黄色人種だから、黒色人種だからとか、或いは西洋人なるがゆえに、東洋人なるがゆえにとかいったようなことでエコ偏頗(へんぱ)なおはからいを遊ばす如き事はない「産めよ殖やせよ地に満てよ」とは造物主なる真の神様が天地創造の日、万民を一視同仁に祝福したもうた、公明無私な御宣言なのであって、神様の子供らが、神様がお造り下さった天地四方に広がり行く如きは、実に当然な権利だといわねばなりませぬ。然るにかの世界の先進国をもって自ら任じている欧米の国々、その国々の政治家たちは、ただ自分の国の民の利益ばかり考え、神様が人類一同のために造り下された世界をば、我が物顔して、英米人以外のものは、どこにも入ってはならぬという。それでは人間が殖えて居場所がなくなったらどうするのかというと、それは産児制限をやって女たちは子を産んではならぬ、人間を殖やしてはならぬなどなど、かのサンガーなど呼ばれた馬鹿な婦人をよこして神様のご命令とはまるっきり正反対な、人間本来の要求から見ても、全く逆な、没義道な宣伝をさせるのであります。こういう無茶な不徳義な事はいくら英米や、国際連盟なぞの建前だとはいえ、神様の御前に通用するはずがない、だからヴァチカンの法王庁では断然、我が日本帝国の肩を持ちいの一番に満州国を承認して、神様には、金輪際えこの沙汰があり得給わぬ所以を明らかにしたのであります。この神の名においてなされたる正義の宣伝は、千5百の国際連盟を圧倒して余りありとも申すべきで我が国家国民の公明な理想信念が、全世界の上にかちえたる最初の精神的勝利だと言っても過言ではありますまい。中世期時代の諺を真似て申しますれば「ローマは宣言した、事件は解決した、国際連盟のゼネヴァあたりは指でもくわえて見ておらるるがよい」とでも、いいたい心地が湧いて参ります。思いまするに、世界の認識不足を嘆いて地下に眠った我らが勇士たちの霊(たましい)もこの貴き精神的勝利が、やがて表面的及び全面的勝利となって、我が日本帝国の上に輝かん日の近きを見まして、かっての日自分らが「帝国万歳」を呼ばわりつつ身命を捧げた事の空しくならなかったことを、無上の歓びと感激とをもって追憶される事でありましょう。否や、これこそ本当にかの勇士たちの魂おば七度八度蘇らずに足るべき慰めとも、能力ともなろう事を、我らは信ずるのであります。

 故東郷元帥は「天は正義に興し、神は至誠に感ず」問い卯をもってその終生の信念とされたと承っております。思うに、これは単なる東郷元帥一個人の信念であったばかりでなく実は我が皇国陸海軍何十万将卒全体の公的信念であり、根本観念だといって間違いはありますまい、世に正義ほど強いものはありません。従って正義を信念とし至誠を生命とする我が陸海軍が向かうところ敵なく、行くところ風靡せざるなしというおもむきがありますのはまことに当然だといえます。

 近くイタリアとエチオピアとの争いにつきてごらん下さい。イタリアの暴力行使を凝視しながら泣きすがる弱小国エチオピアの憐れむべき滅びを座視しながら何らなすことできなかった欧州列国の態度くらい醜いものがありますか。正義を忘れてただりこれ趨くという連中、自分の利益や安全ばかりを心がけるという連中ほど意気地なく、弱く、憐れななのはないということが、これでいよいよ明らかではありませんか。

 さわれ単に物質的な国防や軍備があったばかりで国や家が守れるものではありません。軍備の充実は今日我ら国民は陸海軍の方々に満幅の信頼を寄せておって何らの不安をも感じないのであります。ただ我らが今日いささか不安を覚えて止まれないのはそが精神的信念的方面に於ける国防の充実であります。物質的国防の上に於いて陸海軍の方々は実にびつせいの努力を払い、最新の発明や利器を応用して余すところ在りません。その発明といい利器というものが、舶来品だろうと国産品だろうと、いやしくも国防の上に益すべきものは、これを取り入れて躊躇するところはありません。これに引き替えその精神的方面、思想的、宗教的方面に於いては、いかに神ながらの道を称道し、国体明徴などの叫びを挙げるものがあるとは云え、いまだかって時代の進運に伴う所の信念といい、宗教というものがなく、明治大帝の御詔勅に拝さるるところのいわゆる天下の公道による所以のものが見られないために、天下無比の我が国体をもってしていたずらに赤化思想・・以下原稿なし

 
 

 カトリック教報   昭和14年7月1日   第257号

郷土部隊の慰問を終えて

  脇田師報告講演会

    純心高女における盛況

 皇軍将兵特に郷土部隊勇士慰問のため、南支、北支の前線を廻られた長崎教区慰問使脇田登摩、七田和三郎両師は、4月12日出発以来使命遂行に活躍すること月余、両師の慰問は郷土部隊特にカトリック将兵に深甚な慰めと励みとを与え、また秘蹟授与、現地カトリック教会との連絡などに予想以上の効果をあげて5月24日帰崎されたが、その報告講演会が脇田師により6月25日午後7時半から純心高女講堂で開催された。折からの暴風雨と、田植え時の多忙さとにもかかわらず、前線将兵の消息を聞きたがる信者たちが続々詰めかけて大講堂を埋めた中に、宮城遥拝始業全の祈り、国歌奉唱についで松岡氏から開会の挨拶が述べられ、次いで脇田師が長崎県カトリック皇軍慰問使の腕章を輝かせて登壇、現地将兵のせい戦振りと軍当局がカトリックに寄せられている関心を紹介、郷土部隊を慰問して将兵に与えた喜びと激励、現地カトリック教の情態から、日本の大陸?上陸?政策の根本となるべく信仰による提携?親善の必要など説き来たり説き去ること1時間半前線と銃後が協力一致して興亜の?業長期建設に邁進すべしと結んで拍手裡に降壇、真田精一氏から信者代表としての感謝の辞、山口司教さまから、慰問使および軍官民に対する挨拶があり午後9時半、盛会裡に終了した。

 先日山本少将閣下がこの地でご講演なさった由でありますが、丁度私は支那に居りまして残念ながら少将閣下のお話をたまわることは出来ませんでした。しかし佐世保に帰りましてから海軍部内で閣下の評判の大変高いのを耳にしました。山本閣下は海軍に居られても大将の器であるが、然しこんにちそれより以上有意義な使命に従事して居られるとのとのお噂でした。私は山本閣下の如き立派なお話はできないと思いますがあしからずご了承願います。先ずはこのたびの慰問旅行はいかにして行われるようになったかというとこんにちの時局の重大性を考え、陸海軍将兵の功績と、苦闘艱難をたまわるにつけじっとして居られぬ、止むにやまれぬというこんな気持ちから企てられ、遂行されるにいたったのであります。そのため皆さまに少なからぬ犠牲を払っていただきましたが、いま帰って考えますのに、いって本当によかった。いいことをしたと思うのであります。出発前には少々の不安はないではありませんでした。カトリック慰問使たる我々に、現地の軍当局がどんな感じをなさるだろうかとの危惧を抱いたのでした。然し向うに行って軍の最高幹部の方にお会いしお話をたまわり、丁重なる心からの歓待を受け驚いた事でした。全く予想以上の歓待ですべてが感激の種ならぬはないのです。それが儀礼的や挨拶もみの歓迎ではない事は、諸般の情況を総合して知りえたところであります。それは私のみでなく七田師も参られた事ですので証人があるのであります。

×             ×

この慰問行には大きな天の摂理が動いていたように思うのです。実は恤兵部からの渡航許可書があまり早く来過ぎました。指定の日付も切迫して取るものも取り合えず立たねばなりませんでした。聖木、金、土曜から復活祭にかけカトリックの一番大切な祭礼季節を始めて自分の教会でせず下関の教会で過ごしたのです。これは軍用船の手配の関係から早く下関に渡ったのでしたが、遂に軍用船は来ないので満員の民間船に、軍の配慮のお陰で、それも特に神戸の本社に電話までしていただいた結果やっと乗り込み4月12日出版の運びとなりました。「人間が企て、神が完ふする」という言葉がありますが全くその通りです。私らはこの言葉の意味を現地にいってはっきり認識しました。現在日本から南支に行くには1ヶ月くらいかかると思わなければならないのに私らは1週間でつきました。12日出帆してから1日の無駄もなく18日には廣東についたのです。まことに恵まれた旅行で、始めから不思議な天の配剤を感じました。私たちの船に同じ方面に部隊長として赴任なさる少佐の人が乗り合わせておられたので、私はその人とお話をしました。その方も私たちの腕章を見て、『何処へ行かれるか』とお聞きになるので『南支へ』へとお答えすると『実は自分も南支へ行くのだ』とおっしゃってよい連れだと喜んでくださいました。こうして少佐の方も私も明るい意気もちで打ち解け友達のように親しくなりました。船は基隆に着きました。ここで下船して陸路高雄に向いそこからまた廣東行きの船に乗るのですが、その手配のため運輸部に行くと少佐の方も来ておられる。高雄行き急行に乗ってふと見ると偶然といおうか自分の前に丁度座っておられるのです。高雄についてから、また運輸部に参りますとまたばったりここでお会いしました。翌日丁度御用船が出るのですが乗られるか判らない。少佐殿は、特に私らのために一緒に乗れるよう口添えまでして下さいました。然し船が小さくて乗れるか判らないので、明日来てくれとのことで、翌日は日曜日でしてミサ後行くと、都合してくださってありました。10時乗り込むとのことです。ほっとしました。ここの信者たちが荷物を運んで送ってくれました。腕章のお陰で税関の検査もなく15日いよいよ出帆です。ここは丁度いまの長崎より少し暑い位で4月15日が海水浴場開きでした。廣東は水が悪いので果物やサイダーを少し乗せてもらいました。ボーイが私らの部屋に案内します。暗い物置みたいな部屋で荒削りの板の上に薄い木綿の毛布が敷いてあります。荷物をここに持ち込んで3日2晩、廣東につくまでここで起臥しました。早くも第一線将兵の労苦をしのぶことできると思いました。ミサをあげることができないので苦痛でしたが、幸に順風で潮流の具合もよく船はぐんぐん速力をのばして行った。かの少佐ともたびたびお会いし互いに慰め励まし道中から慰問の役割を果たす事ができた次第です。

×         ×

 廣東に到着すると軍司令部から迎えの自動車で司令部に参りました。恤兵部からの手配がしてあり、慰問日程を造ってくださってありましたので私達はそれにより行動することになったのです。郷土部隊は討伐中とのことで会えないのではないかと心配しましたが、2・3日中に帰るとのことなので、それまで病院慰問や各司令部へ挨拶することにして、宿につきました。旅館は兵站部の日本館というのに指定してくださいました。始め廣東ホテルという大きなホテルにとってあったそうですが、都合でここに変更されたのです。ところが、あの少佐の人もまたここに宿をとられることになったのでした。第1夜は私はある絵の先生と、七田師は福日特派員と同室で、二人離れ離れになり翌朝ミサを捧げるのも遠慮しました。然しできればミサだけは捧げたいと思いましたので、司令部の主任のお方にお会いして『私らは宗教上の勤めがあるのでご都合がつけば七田師と二人を同室にしていただければ幸いです。ご都合がつかなければ構いません』と申し上げると、『それは貴師たちだけ二人同室になるように部屋の番号まで指定してある』直ちに旅館の主人に電話してくださって、3階の一番端の部屋を下さいました。これは七田師が居られた部屋で福日特派員を替わって頂いたのです。然しこの人も快く変わってくださってその後もたびたび話に来てくださいました。この部屋には実はこの部屋だけで他の部屋にはないのですが、大きなテーブルがあり、丁度ミサを捧げるのに都合がよく、翌朝からは毎日、気兼ねなくミサを立てることができました。

 翌日、軍から自動車でお迎えを受けて病院をお見舞いしました。兵隊さんはちゃんと待っていてくださいまして、皆大変喜んでくださいました。信者ばかりでなく、未信者の中にも、私を知っているものがたくさんいらっしゃいました。自動車の運転手の兵隊さんが『あなたを知っている』とおっしゃるので驚きました。実は私達はこの慰問行に当たってずっと黒のスータンで押し通しました。生死共にこのスータンでという気持ちと、自分が代表するものを簡明に表明する心からそうしたのですが、内地でこれを着ているのは    ?  

のですから、未信者の方の中にも私を見覚えていらっしゃる方が多かったのでしょう。それで現地の兵隊さんの中にも、私を知っていらっしゃる人があって大変喜んでくださったのでした。私を見て『親兄弟にでも会えたように嬉しかった』という手紙を故郷に送った未信者の兵隊さんもたくさんありました。

 私は内地に帰りましてから、兵隊さんのことづけを伝えるために方々廻ってみましたが、私の留守中ある老婆が訪ねてこられました。午前に来て、また午後来られました。しかも魚まで下げてきて永いこと待っていて『戦地の息子から、神父さまに会って大変嬉しかった』といってきたから、懐かしくて会いにきたとおっしゃったそうです。私は帰ってからそれを聞いて、早速その晩、留守宅にお伺いして戦地の模様などお話して差し上げた事でした。

 こんなこともありました。ひとりの兵隊さんからはがきのようなものを預かりましたので、それをお届けしますと、お母さんが、私の前で読んでおられましたが、『神父さまにお会いして親兄弟に会ったように嬉しかった』と書いてあるといって涙をぽろぽろ流すのです。

 これは二人とも未信者の方でしたが、こんな例はたくさんあったのでした。

 あるとき戦地で、ひとりの兵隊さんに、戦友が『この人に話しとけ』と小声で囁いているのです。兵隊さんはもじもじしている様子でしたが、思い切ったように私に近づいて『頼みたいことがある』とおっしゃいます。

 事情を聞いて見ますと、この兵隊さんの奥さんが亡くなられて、13の娘を頭に子供4人だけが残っておられる。家から便りがなかったのでしたが、私が行く少し前、風の便りにそれを耳にしてさすがに心配だったのでしょう『子供のことはこの人に頼んでください』と、自分の友人の名を書いて渡されたのでした。私はその地方の青年学校長をよく知っていまして、その人が大変よくそんな世話をする人だったので『多分もうよくお世話していると思いますが、その人にもよく頼んでおきますから』と申しますと、兵隊さんは大変喜ばれて『ほっとした』というような朗らかな面持ちになられましたので、私たちまで大変喜んだことでした。帰りましてから早速、そのお宅を訪ねますと、もう親戚の方々の手でちゃんとお世話が行き届いていましたので、その旨戦地にお知らせしました。

 2・3日後出動中の郷土部隊が凱旋しましたので慰問に参りました大変喜んでくださいました。部隊には信者の兵隊さんもたくさんおられました。皆強いとの評判でした。その部隊の副官にお会いいたしますと感激深げにお話なさるには、『実は2年前カトリック愛国号献納式の日にあれを操縦したのは自分であった。その日の新聞記事を今でももっている』とポケットから綺麗にたたんだ新聞の切抜きを出して見せて下さるのでした。私は『あの飛行機がお役に立ちましたでしょうか』とお尋ねしますと『私が出動中、負傷兵をたくさん出しましたが、直ちに無線で野戦病院に知らせると、すぐカトリック愛国輸送機が来る。負傷してから2・3時間で病院につくのです。尊い将兵の生命がそのためにどれだけ救われたか判りません。そのため、志気を鼓舞されたことも非常なものでした、私は今でもあの輸送機のことは忘れ得ないのです』と、口を極めてほめてくださいました。私もこれだけは是非、皆さまにお伝えしなければと思って帰ったような次第です。本部から加藤隊に行ったとき、信者の兵隊さんが私たちを見て、軍曹以下2・3名走って来ました。すると隊長が、お前たちはしばらくあっちへ行けと、遠ざけて置いて、しきりに手帳を繰っておられるのです。『何かあったのですか』とお尋ねすると、『実は、いまの軍曹に感心な事がありました。2月頃だったでしょう。討伐中、何時になくはしゃいでいるので、どうしたのかと調べさせると、軍曹の子供が亡くなった通知がきた。ところが本人よりも部下がそれを心配してみな滅入りこんでしまって、互いにものを言わない。それで軍曹はそれを心配して、歌ったことのない歌をうたったり、酒を飲ませたりしてはしゃぎたてて志気を鼓舞していたということが判ったのです。そのとき自分は、さすがに信仰の力だと感心した。いま軍曹の顔を見たので急に思い出し、あなたにそれを知らせようと思ってそのときの日記を探していたのでした。』こういって隊長は、信仰の偉大さを語り、信者の兵の頃がけのよいことを賞賛されました。

 次に藤田隊に参りました。隊長自らが信者のいた隊に自動車で案内して下さいました。浦上家野町の深堀英吉軍曹、平戸の中田敬輔伍長、生月の大山伍長お会いすることできました。あの深堀軍曹は、ある堅固なトーチカを4回も強攻撃をやって遂にこれを占領し、しかも無傷で帰ってきました。中田伍長も大山伍長も非常な手柄を立てましたが、その果敢さは全く信仰の力であろうと、隊長が語っておられました。深堀軍曹も『語復活の祝日に、告白と語聖体の両秘蹟を授かることが出来ました。それで思い切って活動することが出来ます』とお話になったことでした。

 私らの慰問の目的も信者の兵と死生を共にし、秘蹟を授けて精神を強める事にあります。それで隊長に『今後教会のある町などに駐屯することがあるようなとき、信者の兵で教会に行きたいと願い出るものがありましたらなにとぞ、出来るだけ便宜をはかってください』とお願いすると『仏教の兵で寺にやってくれというものはないが、カトリックの兵は教会にやってくれと言ってくる。考えさせられます』とおっしゃるのでした。

 信者の兵は、一般に黙々として働く、それが各隊長の目に留まって好感をもたれているので、私たちまで優待して下さることになったのだろうと考えました。信者が内にあっても外にあってもよく勤めることがカトリックを正しく人々に認識させる力となり、証明の機会となるものであると考えます。銃後の皆さまの御心にもめて ? たいと思うのです。

 

カトリック教報、昭和4661

思い出の記 70年の歩み

佐世保時代  鶴田源次郎

 下神崎在勤もわずか9ヶ月にして昭和1712月には海軍基地・佐世保に転任することになった。佐世保といっても、領域は広く全市内の他、船越、西彼の大島、崎戸、早岐方面までも及んだ。現在この地区には、7名の司祭が司牧に当たっているが、当時は司祭不足のおりがら、私は、一人でこの地域をかけまわった。

 教会は、三浦町、西彼の太田尾、船越の3カ所だけであったが、現在は、俵町、大野皆瀬、早岐、鹿子前に新しい教会が設けられている。

俵町・大野

 俵町教会の前進は、日本天主公教教団松山宗教結社と呼ばれ、松山町の現聖和女子学園の下にあった。日本天主公教教団という新体制は、昭和15年、政府の施策として布告されたものである。松山宗教結社の設立年月日は記録にないが、この新体制後のことだと思う。

 脇田神父様(後の横浜教区司教)が、三浦町教会の主任であった頃、市の北部に教会を設けたいと思い、その設立認可を当局に申請したが、教会としての認可は下らなかった。例によって、キリスト教を間諜視する政府、官憲のひがみは、容易に教会の設立を許さなかったのである。脇田神父様は、ここに一策を講じ「桜の聖母園」という幼稚園を建て、建物の一部に礼拝所を設けて、宗教結社という名義で、その認可を受けたのであった。当時は、日本天主公教教団の法規によって、教会でなく、教会でなく巡回地の礼拝所はみな宗教結社と呼ばれていた。

 名目はとにかくとして、実際には教会としての諸行事を行い、市役所以北の信者、大野、中里方面の信者たちの教会になっていたのである。

 時に、この松山教会には、大阪教区の浦上豊神父様が、老衰のため引退され、1年余りにわたり病床に伏しておられたが、昭和196月、ここで後死去なられたのであった。その後、元マリア会会員七田八十吉神父様が五島・青砂ヶ浦から転任されていたが、一年滞在後、鹿児島に移って行かれた。

 大野には、藤村五郎作という、善良な家族がいて、食糧不足のおりがら、大変な援助を受けたものである。広い田畑を所有していて、白米や里芋をたびたび戴いた。当時の配給食料というのは、トウモロコシやコーリャンの粉に麦を混ぜたもので白米となると大した貴重品であった。

戦時下の佐世保教会

 佐世保在勤7年間(戦時中4年、戦後3年)は肉体的にも精神的にも、全く、苦難の連続であった。肉体的には、前記の通り司牧区域が広く、それこそ席の温まるひまはなかった。しかしそれにも増して苦悩になったのは、精神的なものであった。太平洋勃発以来、政府や軍部の、カトリック教会に対する風あたりは、さらにはげしくなり、私は赴任する1年前には、三浦町教会に対する軍部や市民の弾圧騒動が起こった。幸いに、教会当事者の賢明な応対によって、一事火は消えたかに見えていたが、余じんは、なおくすぶっていた。主日や祝日のミサの説教中には必ず、一人や二人の私服の憲兵や警官が、信徒の中にまぎれ込んで、私の説教をメモしていたものである。私は忠良なる一国民として、時局に順応していくことが、こうした空気の打開策と思い、隣組の会合や奉仕、防火訓練などにも率先して出勤した。

 敵機のく羽州は日を追って頻繁となった。私は起床と同時にナッパ服を着てゲートルを巻き、空襲の合間を見てミサを行った。それにしても毎朝6時のミサ、主日のミサを空襲によって妨げられたことは、一度もなかった。

よきおとずれ  2002年(平成14年)  第881

三浦町教会献堂70周年

 佐世保市三浦町教会(主任司祭、村中 司師)は12月6日、献堂70周年を迎え、記念ミサと祝賀会を開催した。

 最初の邦人司教として長崎教区を司牧した早坂久之助司教は、佐世保を県北の拠点にとの意向から当時の主任司祭脇田浅五郎師(後の横浜司教)に佐世保駅前の小高い丘に新聖堂の建設を命じた。

 脇田神父は教会建設資金の調達に全国を行脚した。当時の信徒は豊ではなく進んで労力を提供、完成にこぎつけている。

  献堂式は1931128日「無原罪の聖母の祝日」に教会内外の多くの来賓を迎え、早坂司教によって「イエスの聖心教会」として献堂。

 建物は今日まで堅ろうで20年前、屋根をふき替えたが、その他は献堂当時のままで70周年を迎えた。

 祝賀会は佐世保地区の司祭、シスターをはじめ三浦町のほか天神、早岐教会の信徒らも駆けつけ盛大に祝った。

 

カトリック教報、昭和4661

思い出の記 70年の歩み

佐世保時代  鶴田源次郎

 下神崎在勤もわずか9ヶ月にして昭和1712月には海軍基地・佐世保に転任することになった。佐世保といっても、領域は広く全市内の他、船越、西彼の大島、崎戸、早岐方面までも及んだ。現在この地区には、7名の司祭が司牧に当たっているが、当時は司祭不足のおりがら、私は、一人でこの地域をかけまわった。

 教会は、三浦町、西彼の太田尾、船越の3カ所だけであったが、現在は、俵町、大野皆瀬、早岐、鹿子前に新しい教会が設けられている。

俵町・大野

 俵町教会の前進は、日本天主公教教団松山宗教結社と呼ばれ、松山町の現聖和女子学園の下にあった。日本天主公教教団という新体制は、昭和15年、政府の施策として布告されたものである。松山宗教結社の設立年月日は記録にないが、この新体制後のことだと思う。

 脇田神父様(後の横浜教区司教)が、三浦町教会の主任であった頃、市の北部に教会を設けたいと思い、その設立認可を当局に申請したが、教会としての認可は下らなかった。例によって、キリスト教を間諜視する政府、官憲のひがみは、容易に教会の設立を許さなかったのである。脇田神父様は、ここに一策を講じ「桜の聖母園」という幼稚園を建て、建物の一部に礼拝所を設けて、宗教結社という名義で、その認可を受けたのであった。当時は、日本天主公教教団の法規によって、教会でなく、教会でなく巡回地の礼拝所はみな宗教結社と呼ばれていた。

 名目はとにかくとして、実際には教会としての諸行事を行い、市役所以北の信者、大野、中里方面の信者たちの教会になっていたのである。

 時に、この松山教会には、大阪教区の浦上豊神父様が、老衰のため引退され、1年余りにわたり病床に伏しておられたが、昭和196月、ここで後死去なられたのであった。その後、元マリア会会員七田八十吉神父様が五島・青砂ヶ浦から転任されていたが、一年滞在後、鹿児島に移って行かれた。

 大野には、藤村五郎作という、善良な家族がいて、食糧不足のおりがら、大変な援助を受けたものである。広い田畑を所有していて、白米や里芋をたびたび戴いた。当時の配給食料というのは、トウモロコシやコーリャンの粉に麦を混ぜたもので白米となると大した貴重品であった。

戦時下の佐世保教会

 佐世保在勤7年間(戦時中4年、戦後3年)は肉体的にも精神的にも、全く、苦難の連続であった。肉体的には、前記の通り司牧区域が広く、それこそ席の温まるひまはなかった。しかしそれにも増して苦悩になったのは、精神的なものであった。太平洋勃発以来、政府や軍部の、カトリック教会に対する風あたりは、さらにはげしくなり、私は赴任する1年前には、三浦町教会に対する軍部や市民の弾圧騒動が起こった。幸いに、教会当事者の賢明な応対によって、一事火は消えたかに見えていたが、余じんは、なおくすぶっていた。主日や祝日のミサの説教中には必ず、一人や二人の私服の憲兵や警官が、信徒の中にまぎれ込んで、私の説教をメモしていたものである。私は忠良なる一国民として、時局に順応していくことが、こうした空気の打開策と思い、隣組の会合や奉仕、防火訓練などにも率先して出勤した。

 敵機のく羽州は日を追って頻繁となった。私は起床と同時にナッパ服を着てゲートルを巻き、空襲の合間を見てミサを行った。それにしても毎朝6時のミサ、主日のミサを空襲によって妨げられたことは、一度もなかった。

よきおとずれ  2002年(平成14年)  第881

三浦町教会献堂70周年

 佐世保市三浦町教会(主任司祭、村中 司師)は12月6日、献堂70周年を迎え、記念ミサと祝賀会を開催した。

 最初の邦人司教として長崎教区を司牧した早坂久之助司教は、佐世保を県北の拠点にとの意向から当時の主任司祭脇田浅五郎師(後の横浜司教)に佐世保駅前の小高い丘に新聖堂の建設を命じた。

 脇田神父は教会建設資金の調達に全国を行脚した。当時の信徒は豊ではなく進んで労力を提供、完成にこぎつけている。

  献堂式は1931128日「無原罪の聖母の祝日」に教会内外の多くの来賓を迎え、早坂司教によって「イエスの聖心教会」として献堂。

 建物は今日まで堅ろうで20年前、屋根をふき替えたが、その他は献堂当時のままで70周年を迎えた。

 祝賀会は佐世保地区の司祭、シスターをはじめ三浦町のほか天神、早岐教会の信徒らも駆けつけ盛大に祝った。

 
 

俵町小教区50年誌(19522002

松山教会時代

松山教会が建てられる前の俵町教会は谷郷町教会だった。紐差教会の巡回教会の巡回教会で、昭和3年脇田神父様が着任されました。しばらくして、片岡吉一神父様が助任として着任されました。昭和612月三浦町の佐世保聖心天主堂が完成しました。1200未満の信者数だったそうです。脇田神父様の全国行脚のご苦労、地元信者の懸命な努力、長崎教区及び全国の信者有志の信仰発露の結晶だといわれています。

 聖心天主堂は私たちにとって形の上でも、心の上でも力強いよりどころという頼もしい感じでした。「イエズスの御心に人類を捧げ奉る祈り」が毎日曜日に唱えられ、少し長いのに皆暗記していたようでした。

 松山教会の敷地開きは、現在のお告げのマリア修道院の位置に、信者の奉仕を加えて昭和12年に始まりました。昭和13521日完成しております。松山教会と保育園とが一緒の多々ものの中にありました。初代の主任神父様は、建設を進められた脇田神父様でしたが、翌14年に島原に赴任され浦上神父様が着任されました。
 

(パリ宣教会報告、1920年、p178

今年のもっとも興味深い出来事の一つは、人吉の脇田師の賢明な熱意のお陰で日本人のロシア教司祭と、その家族が回宗をしたことであると、八代からルマリエ師が書いてきた。脇田師が、はじめてロシア教司祭のところにいったとき、彼は少しも親切気のないことばで迎えられた。しかし、師が実に兄弟的にこの迷った人を扱ったので、何回かの話し合いの結果、師は彼をそこから引き出し、羊の檻へと連れ戻した。ロシア教司祭は、その妻と二人の男の子と共に1919128日、八代の教会の中で、多数の信者の前で回宗宣言をし、大きな感化を与えた。思いがけず起こったこの回宗には、たぶん他の回宗が続くことだろう。それを待ちながらも、このことはロシア教の陣営に混乱を引き起こした。

(パリ宣教会報告、1921年p196

人吉で脇田師は大人の洗礼32と異教徒の子供の洗礼30という立派な束をマリアの宣教者フランシスコ会の修道女たちの助けのお陰で摘み取ることが出来た。

昨年、彼が回宗させたロシア正教の司祭は、その家族の一部のものが引き起こすあらゆる嫌がらせにもかかわらず、信仰のうちにしっかり留まっている。

 

 私は、脇田師が管理する肥後の人吉の小さい信者共同体をあげたい。この日本人司祭は90の洗礼を記録した。カトリックのいくつかの家族と彼の小さい若者のサークルに助けられて、彼は、その小聖堂を大きくするため、1,600円集めることに成功した。彼自身、それについて驚き、この幸いな結果を摂理の特別な恩恵に帰している。これらの同じ若者たちは、ロシア人の子供たちを助けるようにとの教皇の呼びかけに答えることを幸いとし、キャンペーンをやり始めた。彼らは警察の許可を受けて、すべての戸口をたたき、使節閣下に460円をおくることが出来た。

1923年、パリ宣教会報告、p239

 脇田師は、自分の小さい群れの熱心に満足している。来年は更によい結果を得られることを希望している。なぜならマリアの宣教者フランシスコ会の修道者たちは、その聖児童会を人吉に移し、託児所と裁縫学校とを開設したから。師は、異教徒たちのための宗教講和で大変忙しいにもかかわらず、カトリック出版界に、非常に評価されている記事を提供し続けている。

1924年、パリ宣教会報告、p257

 人吉の拠点は日本人司祭トマ脇田に委ねられている。彼は働き者で、頭もよく、敬虔な司祭である。彼は異教徒に布教するのが好きだ。暇なとき、宗教出版物に記事を書き、自分の信者たちと、付近の異教徒のために「毎週の宗教的小雑誌」というちょっとしたものを発行し始めた。何人かの青年を集めることに成功し、彼らに人々の改心に対する熱烈な心を伝授した。また宗教についてのもっと深い知識を授け、一緒に町やその近辺で講演会を開いている。神が彼らの努力を祝福されたので聴衆のなかの何人かが我々の聖教の勉強をはじめた。マリアの宣教者フランシスコ会修道女の助けを得て脇田師は88人に洗礼を授けた。フランシスコ会の修道女はその聖児童福祉施設を人吉に移した。

1925年、パリ宣教会報告、p282

 人吉の小さな信者共同体においてはトマス脇田師が24人の成人と65人の異教徒の子供たちの洗礼の束を摘んでいる。

 この熱心な司祭はいたるところで講演をすることも不可能なので、彼のカトリック青年会の費用で印刷した小冊子を、異教徒や学校に配布したのである。その小冊子の中は我々の教えに対する非難を論破している。フランシスコ会修道女の修道女たちも協力している。彼女たちはそこに作業所と収容所を持ち、琵琶崎の癪病院から感染していない子供たちを預かっている

1926年、パリ宣教会報告、p17

 人吉。ここで脇田師は今年も立派な収穫を得ている。成人31人、子供57人の洗礼である。彼の講和は常に味わいの深いものである。毎月、小さな機関紙を発行している。この小冊子は仏教や神道に対して少し攻撃的であるにもかかわらず結構受け入れられている。

 

 熊川をさかのぼると人吉に着く。そこで206人の信者は熱烈な奮発心と燃えるような言葉の人、日本人司祭脇田師に託されている。彼は小さな雑誌を用いて信者のところにだけでなく、異教徒の所まで真理の言葉を届けている。それは明るい見通しを与えて成功を収めていると彼は言っている。23年前から始められたにすぎない彼の雑誌は、すでに1,500部発行している。フランシスコ会の修道女たちはそこに1孤児院、1作業室、1養老院を持っていて、それらは有利に交際を広めるのに役立っている・・・彼女らの熱意と信者たちの熱意は14人の大人の洗礼と38人の異教徒の子供の洗礼によって報いられた。



  
   
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