初代 脇田淺五郎主任司祭

 

カトリック教報   昭和14年7月1日   第257号

 

郷土部隊の慰問を終えて

  脇田師報告講演会

    純心高女における盛況

 皇軍将兵特に郷土部隊勇士慰問のため、南支、北支の前線を廻られた長崎教区慰問使脇田登摩、七田和三郎両師は、4月12日出発以来使命遂行に活躍すること月余、両師の慰問は郷土部隊特にカトリック将兵に深甚な慰めと励みとを与え、また秘蹟授与、現地カトリック教会との連絡などに予想以上の効果をあげて5月24日帰崎されたが、その報告講演会が脇田師により6月25日午後7時半から純心高女講堂で開催された。折からの暴風雨と、田植え時の多忙さとにもかかわらず、前線将兵の消息を聞きたがる信者たちが続々詰めかけて大講堂を埋めた中に、宮城遥拝始業全の祈り、国歌奉唱についで松岡氏から開会の挨拶が述べられ、次いで脇田師が長崎県カトリック皇軍慰問使の腕章を輝かせて登壇、現地将兵のせい戦振りと軍当局がカトリックに寄せられている関心を紹介、郷土部隊を慰問して将兵に与えた喜びと激励、現地カトリック教の情態から、日本の大陸?上陸?政策の根本となるべく信仰による提携?親善の必要など説き来たり説き去ること1時間半前線と銃後が協力一致して興亜の?業長期建設に邁進すべしと結んで拍手裡に降壇、真田精一氏から信者代表としての感謝の辞、山口司教さまから、慰問使および軍官民に対する挨拶があり午後9時半、盛会裡に終了した。 
 
 

カトリック教報   昭和14年7月1日   第257号

 

郷土部隊の慰問を終えて

  脇田師報告講演会

    純心高女における盛況

 皇軍将兵特に郷土部隊勇士慰問のため、南支、北支の前線を廻られた長崎教区慰問使脇田登摩、七田和三郎両師は、4月12日出発以来使命遂行に活躍すること月余、両師の慰問は郷土部隊特にカトリック将兵に深甚な慰めと励みとを与え、また秘蹟授与、現地カトリック教会との連絡などに予想以上の効果をあげて5月24日帰崎されたが、その報告講演会が脇田師により6月25日午後7時半から純心高女講堂で開催された。


折からの暴風雨と、田植え時の多忙さとにもかかわらず、前線将兵の消息を聞きたがる信者たちが続々詰めかけて大講堂を埋めた中に、宮城遥拝始業全の祈り、国歌奉唱についで松岡氏から開会の挨拶が述べられ、次いで脇田師が長崎県カトリック皇軍慰問使の腕章を輝かせて登壇、現地将兵のせい戦振りと軍当局がカトリックに寄せられている関心を紹介、郷土部隊を慰問して将兵に与えた喜びと激励、現地カトリック教の情態から、日本の大陸?上陸?政策の根本となるべく信仰による提携?親善の必要など説き来たり説き去ること1時間半前線と銃後が協力一致して興亜の?業長期建設に邁進すべしと結んで拍手裡に降壇、真田精一氏から信者代表としての感謝の辞、山口司教さまから、慰問使および軍官民に対する挨拶があり午後9時半、盛会裡に終了した。
 
 

この慰問行には大きな天の摂理が動いていたように思うのです。実は恤兵部からの渡航許可書があまり早く来過ぎました。指定の日付も切迫して取るものも取り合えず立たねばなりませんでした。聖木、金、土曜から復活祭にかけカトリックの一番大切な祭礼季節を始めて自分の教会でせず下関の教会で過ごしたのです。これは軍用船の手配の関係から早く下関に渡ったのでしたが、遂に軍用船は来ないので満員の民間船に、軍の配慮のお陰で、それも特に神戸の本社に電話までしていただいた結果やっと乗り込み4月12日出版の運びとなりました。「人間が企て、神が完ふする」という言葉がありますが全くその通りです。私らはこの言葉の意味を現地にいってはっきり認識しました。現在日本から南支に行くには1ヶ月くらいかかると思わなければならないのに私らは1週間でつきました。

12日出帆してから1日の無駄もなく18日には廣東についたのです。まことに恵まれた旅行で、始めから不思議な天の配剤を感じました。私たちの船に同じ方面に部隊長として赴任なさる少佐の人が乗り合わせておられたので、私はその人とお話をしました。その方も私たちの腕章を見て、『何処へ行かれるか』とお聞きになるので『南支へ』へとお答えすると『実は自分も南支へ行くのだ』とおっしゃってよい連れだと喜んでくださいました。

こうして少佐の方も私も明るい意気もちで打ち解け友達のように親しくなりました。船は基隆に着きました。ここで下船して陸路高雄に向いそこからまた廣東行きの船に乗るのですが、その手配のため運輸部に行くと少佐の方も来ておられる。高雄行き急行に乗ってふと見ると偶然といおうか自分の前に丁度座っておられるのです。高雄についてから、また運輸部に参りますとまたばったりここでお会いしました。翌日丁度御用船が出るのですが乗られるか判らない。少佐殿は、特に私らのために一緒に乗れるよう口添えまでして下さいました。然し船が小さくて乗れるか判らないので、明日来てくれとのことで、翌日は日曜日でしてミサ後行くと、都合してくださってありました。10時乗り込むとのことです。ほっとしました。ここの信者たちが荷物を運んで送ってくれました。

腕章のお陰で税関の検査もなく
15日いよいよ出帆です。ここは丁度いまの長崎より少し暑い位で4月15日が海水浴場開きでした。廣東は水が悪いので果物やサイダーを少し乗せてもらいました。ボーイが私らの部屋に案内します。暗い物置みたいな部屋で荒削りの板の上に薄い木綿の毛布が敷いてあります。荷物をここに持ち込んで3日2晩、廣東につくまでここで起臥しました。早くも第一線将兵の労苦をしのぶことできると思いました。ミサをあげることができないので苦痛でしたが、幸に順風で潮流の具合もよく船はぐんぐん速力をのばして行った。かの少佐ともたびたびお会いし互いに慰め励まし道中から慰問の役割を果たす事ができた次第です。

 
 

 廣東に到着すると軍司令部から迎えの自動車で司令部に参りました。恤兵部からの手配がしてあり、慰問日程を造ってくださってありましたので私達はそれにより行動することになったのです。郷土部隊は討伐中とのことで会えないのではないかと心配しましたが、2・3日中に帰るとのことなので、それまで病院慰問や各司令部へ挨拶することにして、宿につきました。旅館は兵站部の日本館というのに指定してくださいました。始め廣東ホテルという大きなホテルにとってあったそうですが、都合でここに変更されたのです。ところが、あの少佐の人もまたここに宿をとられることになったのでした。

第1夜は私はある絵の先生と、七田師は福日特派員と同室で、二人離れ離れになり翌朝ミサを捧げるのも遠慮しました。然しできればミサだけは捧げたいと思いましたので、司令部の主任のお方にお会いして『私らは宗教上の勤めがあるのでご都合がつけば七田師と二人を同室にしていただければ幸いです。

ご都合がつかなければ構いません』と申し上げると、『それは貴師たちだけ二人同室になるように部屋の番号まで指定してある』直ちに旅館の主人に電話してくださって、3階の一番端の部屋を下さいました。これは七田師が居られた部屋で福日特派員を替わって頂いたのです。然しこの人も快く変わってくださってその後もたびたび話に来てくださいました。この部屋には実はこの部屋だけで他の部屋にはないのですが、大きなテーブルがあり、丁度ミサを捧げるのに都合がよく、翌朝からは毎日、気兼ねなくミサを立てることができました。翌日、軍から自動車でお迎えを受けて病院をお見舞いしました。

兵隊さんはちゃんと待っていてくださいまして、皆大変喜んでくださいました。信者ばかりでなく、未信者の中にも、私を知っているものがたくさんいらっしゃいました。自動車の運転手の兵隊さんが『あなたを知っている』とおっしゃるので驚きました。実は私達はこの慰問行に当たってずっと黒のスータンで押し通しました。生死共にこのスータンでという気持ちと、自分が代表するものを簡明に表明する心からそうしたのですが、内地でこれを着ているのは    ?  のですから、未信者の方の中にも私を見覚えていらっしゃる方が多かったのでしょう。

それで現地の兵隊さんの中にも、私を知っていらっしゃる人があって大変喜んでくださったのでした。私を見て『親兄弟にでも会えたように嬉しかった』という手紙を故郷に送った未信者の兵隊さんもたくさんありました。

 私は内地に帰りましてから、兵隊さんのことづけを伝えるために方々廻ってみましたが、私の留守中ある老婆が訪ねてこられました。午前に来て、また午後来られました。しかも魚まで下げてきて永いこと待っていて『戦地の息子から、神父さまに会って大変嬉しかった』といってきたから、懐かしくて会いにきたとおっしゃったそうです。私は帰ってからそれを聞いて、早速その晩、留守宅にお伺いして戦地の模様などお話して差し上げた事でした。

 
 

 廣東に到着すると軍司令部から迎えの自動車で司令部に参りました。恤兵部からの手配がしてあり、慰問日程を造ってくださってありましたので私達はそれにより行動することになったのです。郷土部隊は討伐中とのことで会えないのではないかと心配しましたが、2・3日中に帰るとのことなので、それまで病院慰問や各司令部へ挨拶することにして、宿につきました。旅館は兵站部の日本館というのに指定してくださいました。始め廣東ホテルという大きなホテルにとってあったそうですが、都合でここに変更されたのです。ところが、あの少佐の人もまたここに宿をとられることになったのでした。

第1夜は私はある絵の先生と、七田師は福日特派員と同室で、二人離れ離れになり翌朝ミサを捧げるのも遠慮しました。然しできればミサだけは捧げたいと思いましたので、司令部の主任のお方にお会いして『私らは宗教上の勤めがあるのでご都合がつけば七田師と二人を同室にしていただければ幸いです。ご都合がつかなければ構いません』と申し上げると、『それは貴師たちだけ二人同室になるように部屋の番号まで指定してある』直ちに旅館の主人に電話してくださって、3階の一番端の部屋を下さいました。これは七田師が居られた部屋で福日特派員を替わって頂いたのです。

然しこの人も快く変わってくださってその後もたびたび話に来てくださいました。この部屋には実はこの部屋だけで他の部屋にはないのですが、大きなテーブルがあり、丁度ミサを捧げるのに都合がよく、翌朝からは毎日、気兼ねなくミサを立てることができました。翌日、軍から自動車でお迎えを受けて病院をお見舞いしました。兵隊さんはちゃんと待っていてくださいまして、皆大変喜んでくださいました。信者ばかりでなく、未信者の中にも、私を知っているものがたくさんいらっしゃいました。

自動車の運転手の兵隊さんが『あなたを知っている』とおっしゃるので驚きました。実は私達はこの慰問行に当たってずっと黒のスータンで押し通しました。生死共にこのスータンでという気持ちと、自分が代表するものを簡明に表明する心からそうしたのですが、内地でこれを着ているのは    ?  のですから、未信者の方の中にも私を見覚えていらっしゃる方が多かったのでしょう。それで現地の兵隊さんの中にも、私を知っていらっしゃる人があって大変喜んでくださったのでした。私を見て『親兄弟にでも会えたように嬉しかった』という手紙を故郷に送った未信者の兵隊さんもたくさんありました。

 私は内地に帰りましてから、兵隊さんのことづけを伝えるために方々廻ってみましたが、私の留守中ある老婆が訪ねてこられました。午前に来て、また午後来られました。しかも魚まで下げてきて永いこと待っていて『戦地の息子から、神父さまに会って大変嬉しかった』といってきたから、懐かしくて会いにきたとおっしゃったそうです。私は帰ってからそれを聞いて、早速その晩、留守宅にお伺いして戦地の模様などお話して差し上げた事でした。

 
 

 次に藤田隊に参りました。隊長自らが信者のいた隊に自動車で案内して下さいました。浦上家野町の深堀英吉軍曹、平戸の中田敬輔伍長、生月の大山伍長お会いすることできました。あの深堀軍曹は、ある堅固なトーチカを4回も強攻撃をやって遂にこれを占領し、しかも無傷で帰ってきました。中田伍長も大山伍長も非常な手柄を立てましたが、その果敢さは全く信仰の力であろうと、隊長が語っておられました。深堀軍曹も『語復活の祝日に、告白と語聖体の両秘蹟を授かることが出来ました。それで思い切って活動することが出来ます』とお話になったことでした。

私らの慰問の目的も信者の兵と死生を共にし、秘蹟を授けて精神を強める事にあります。それで隊長に『今後教会のある町などに駐屯することがあるようなとき、信者の兵で教会に行きたいと願い出るものがありましたらなにとぞ、出来るだけ便宜をはかってください』とお願いすると『仏教の兵で寺にやってくれというものはないが、カトリックの兵は教会にやってくれと言ってくる。

考えさせられます』とおっしゃるのでした。信者の兵は、一般に黙々として働く、それが各隊長の目に留まって好感をもたれているので、私たちまで優待して下さることになったのだろうと考えました。信者が内にあっても外にあってもよく勤めることがカトリックを正しく人々に認識させる力となり、証明の機会となるものであると考えます。銃後の皆さまの御心にもめて ? たいと思うのです。



  
   
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