パウロの手紙における「神の国」 このタイトルは編集者からいただいたものですが、正直いうと、このタイトルの響きには少々奇異な感じを受けました。というのは、実はパウロの手紙に「神の国」「へ・バジレイア・トゥ・セゥ」という言葉は稀にしか使われていないし、使われている個所でも(6回)、この用語は直接に「来るべき神の支配」に摘要されていません。それでもなおパウロにとって「来るべき神の支配」はすでに現存しているキリストの支配の完成であり、キリストの支配において完成しているのです(1コリント15・24〜25、―24節の「国」〔ヘ・バジレイア〕は明らかに「神の国=支配権・統治権」を意味しています)。パウロは「神の国」を「神の義」という用語で表現しています。共観福音書のイエスが神の国到来の直接の仲介者であり、神の国の宣教者であったとすれば、パウロはイエス・キリストによって啓示された神の義の宣教者でした。 神の義 神の議に関する教えはすでに旧約・ユダヤ教に存在していた教義です。しかし、パウロはかれ独自のキリスト論によって,全く新しい「義」に関する教えを展開しています。パウロの「神の義」の解釈については今もなお議論があり、パウロの「義」理解の斬新さ―というより両者の間にはかける橋はないのですが―を示すために、旧約・ユダヤ教における「義」について理解の流れを簡単にでも紹介した方が親切かと思います。 旧約・ユダヤ教における「義」 聖書においては「義」は「法廷用語的」に用いられ、義は人と法廷との関係を示す、つまり、たとえば人が義によって無罪として承認される妥当性を示すというのです。ユダヤ教の黙示文学においてはこの旧約の義の理解は「終末の審判における義認の判決」と転釈されます。最初は救いの前提や条件であった義は、後になると、すでに与えられている「賜物」として、その中に永遠のいのちを含み、それ自身が救いの内容となり得たのです。さらに、クムラン文書の特に「感謝の詩編」にはすでにパウロ的といえる『神の義と共に受領される救いの終末的現在』という教えすら見いだされます。 その例をあげます。神は、よしとされるときのために母の胎内にあるときから選び定めた義人の創造者である(]X・14〜15、XVI・10)。したがって「あなたの慈しみによってのみ義とされる」([・16〜17)。このことは、神の元にある神の恵みによって示される義によって起こるのです(]U・17〜18)。その義に関して「あなたは不義を赦しあなたの義によって人間を罪責から浄めてください」(Y・37)と言われます。このようにして可能になった新しい状況における新しい従順の立場について次のように告白されます。 「あなたはわたしをあなたの義の中に建てられた」([・19)。あなたはあなたの真実をもってわたしの歩みを義の道に向けられた」(Z・14)。こうしてすでに義に選ばれた者たち、つまり正しい人たちがいるのです。しかもその正しさは、自分の義によるのではなく「他なる義」によるのです。「わたしはあなたの慈しみを待ち焦がれ、あなたの恵みにわたしの望みを置きました。そのようにどうかあなたの義によってわたしを浄めてください」(]T・30〜31)。 このように「恵みによってのみ」という少なくともその表現においてクムラン文書とパウロとは一致しています。さらにまた「恵みによってのみ」というユダヤ教的義認論の主張を「第4エズラ書」は次のように表明し、そこにおいてパウロ的な「不敬虔な者の義認」が信じられています。「というのは、我々と我々の先祖は死のわざを行ないましたが、しかしあなたは我々罪人のゆえにあわれみ深い者と呼ばれたからです。なぜならあなたが何の(善き)わざも持たない我々をお憐れみになることを望まれたのなら、あなたはあわれみ深い者と呼ばれることになるからです。 あなたが何のわざの宝も持たない者たちをお憐れみになるとき、主よまさにそのことにおいてあなたの慈しみ〔=あなたの義〕が示されるからです」(8・31〜36)。これまで示したように、ユダヤ教─少なくともクムラン文書のある部分の義認論において、パウロに劣らず「恵みによってのみ」ということが主張されていますが、パウロ自身はユダヤ教的義認論を「自己義認」として退けているのです。なぜなのでしょうか。 |
パウロの手紙における「神の国」 このタイトルは編集者からいただいたものですが、正直いうと、このタイトルの響きには少々奇異な感じを受けました。というのは、実はパウロの手紙に「神の国」「へ・バジレイア・トゥ・セゥ」という言葉は稀にしか使われていないし、使われている個所でも(6回)、この用語は直接に「来るべき神の支配」に摘要されていません。それでもなおパウロにとって「来るべき神の支配」はすでに現存しているキリストの支配の完成であり、キリストの支配において完成しているのです(1コリント15・24〜25、―24節の「国」〔ヘ・バジレイア〕は明らかに「神の国=支配権・統治権」を意味しています)。パウロは「神の国」を「神の義」という用語で表現しています。共観福音書のイエスが神の国到来の直接の仲介者であり、神の国の宣教者であったとすれば、パウロはイエス・キリストによって啓示された神の義の宣教者でした。 神の義 神の議に関する教えはすでに旧約・ユダヤ教に存在していた教義です。しかし、パウロはかれ独自のキリスト論によって,全く新しい「義」に関する教えを展開しています。パウロの「神の義」の解釈については今もなお議論があり、パウロの「義」理解の斬新さ―というより両者の間にはかける橋はないのですが―を示すために、旧約・ユダヤ教における「義」について理解の流れを簡単にでも紹介した方が親切かと思います。 旧約・ユダヤ教における「義」 聖書においては「義」は「法廷用語的」に用いられ、義は人と法廷との関係を示す、つまり、たとえば人が義によって無罪として承認される妥当性を示すというのです。ユダヤ教の黙示文学においてはこの旧約の義の理解は「終末の審判における義認の判決」と転釈されます。最初は救いの前提や条件であった義は、後になると、すでに与えられている「賜物」として、その中に永遠のいのちを含み、それ自身が救いの内容となり得たのです。 さらに、クムラン文書の特に「感謝の詩編」にはすでにパウロ的といえる『神の義と共に受領される救いの終末的現在』という教えすら見いだされます。その例をあげます。神は、よしとされるときのために母の胎内にあるときから選び定めた義人の創造者である(]X・14〜15、XVI・10)。したがって「あなたの慈しみによってのみ義とされる」([・16〜17)。 このことは、神の元にある神の恵みによって示される義によって起こるのです(]U・17〜18)。その義に関して「あなたは不義を赦しあなたの義によって人間を罪責から浄めてください」(Y・37)と言われます。このようにして可能になった新しい状況における新しい従順の立場について次のように告白されます。「あなたはわたしをあなたの義の中に建てられた」([・19)。 あなたはあなたの真実をもってわたしの歩みを義の道に向けられた」(Z・14)。こうしてすでに義に選ばれた者たち、つまり正しい人たちがいるのです。しかもその正しさは、自分の義によるのではなく「他なる義」によるのです。「わたしはあなたの慈しみを待ち焦がれ、あなたの恵みにわたしの望みを置きました。そのようにどうかあなたの義によってわたしを浄めてください」(]T・30〜31)。このように「恵みによってのみ」という少なくともその表現においてクムラン文書とパウロとは一致しています。さらにまた「恵みによってのみ」というユダヤ教的義認論の主張を「第4エズラ書」は次のように表明し、そこにおいてパウロ的な「不敬虔な者の義認」が信じられています。 「というのは、我々と我々の先祖は死のわざを行ないましたが、しかしあなたは我々罪人のゆえにあわれみ深い者と呼ばれたからです。なぜならあなたが何の(善き)わざも持たない我々をお憐れみになることを望まれたのなら、あなたはあわれみ深い者と呼ばれることになるからです。あなたが何のわざの宝も持たない者たちをお憐れみになるとき、主よまさにそのことにおいてあなたの慈しみ〔=あなたの義〕が示されるからです」(8・31〜36)。これまで示したように、ユダヤ教─少なくともクムラン文書のある部分の義認論において、パウロに劣らず「恵みによってのみ」ということが主張されていますが、パウロ自身はユダヤ教的義認論を「自己義認」として退けているのです。なぜなのでしょうか。 |
クムランとパウロの親近性と相違 クムランの義認論においてパウロに劣らず「恵みによってのみ」を主張し、さらには、パウロ同様に「現在的義認」をかたっているのは、なぜパウロはクムランの義認論を「自己義認」として退けるでしょうか。ロ―マ人への手紙全体の使信は「神の子は我々の主である。そして、神の子、主は我々に対する神の唯一の終末論的賜物である。この賜物において、我々の救いと同様に、我々に対する神の権能が啓示される」と言います。 救いの普遍性と現在性 これまで述べて来たことから、神のみ子の啓示〔=キリストの支配についての使信〕によって、神の義がユダヤ人とギリシャ人に、したがって全世界に公然と知らされていることが示されたと思います。《救い》が差別なく、しかも公然の知らされているから、第1コリント1・18以下が示すようにつまずきと愚かさを引き起こすのです。「救い」という言葉の根本的な意味は、パウロとパウロが依拠した伝承源による(ロ−マ13・11、5・9、第1コリント3・15、5・5、フィリピ1・19)と《終末の裁きに際しての救出》であると言われます。 (時津教会主任司祭) |
「気をつけて目を覚ましていなさい」 だから「気をつけて、目を覚ましていなさい」〔マルコ13章1〜37〕 マルコ13章の文書は特別な文学〔黙示文学〕に属するもので、終末の時の情景を預言の形で述べているのです。「終末の時」というのは、この世界がメシアによって完全に新しく変えられる時を指しています。その時は必ずやって来ます。しかし、その時がいつであるかはわかりません。そのことを聖書は、「人の子は必ず来る。しかし、その時がいつであるか、誰も知らない」という言い方をしています。ですから、「目覚めていなさい」、「気をつけていなさい」、「だれにも惑わされないように、注意しなさい」と言われるのです。 では、何に気をつけて、目を覚ましていればいいのでしょうか 福音書の前にもどって、11章27〜33節を読んでみましょう。「イエスさまの権威」の問題が議論されている記事です。私はそこに「気をつけるべきこと」が示されているような気がします。それは次のように言われているように思います。「君たち、何が真実なのか、だからどうしたらいいのか本気で尋ねだい、本気で探し求めなさい。それを聞いてわかったならば、本気でそれに向かって生きて行きなさい。人々の流言に惑わされたり、わがままな心に負けたりしてはなりません」。大祭司や指導者たちは、イエスさまのエルサレム入場の情景や神殿での行為に、メシアの権威を見たはずでした。 |
「泣き部屋」に思う なぜわたしにかそれは知らないが、「泣き部屋」について意味を求められた。それについて以下率直に私見を述べることにする。小さいお子たちといっしょにミサに参加したいと望まれるご両親の皆さんの中には、わたしの意見に賛同できない方が多くいると思う。周囲の人々に対する彼らの心理的プレッシャ―を考慮するとき、反対するご意向も分かるような気がしないでもない。それでもわたしは、わたし自身の体験と理論にしたがって、「泣き部屋」には反対である。それどころか、こどもの信仰教育という観点に立って眺めるとき、それは有害であるとさえ考えている。 体験から 今日まで主任司祭として派遣された小教区のうちの2ヵ所において、わたしは泣き部屋を体験した。まずその驚きの体験から報告しよう。それはミサの最中のことである。泣き部屋にいるこどもたちは何の緊張感もなくただ好きなことをしている。おもちゃで遊び、お菓子さえ持っている。親も何も注意もしないどころか、彼らといっしょに遊んでいる。堪り兼ねたわたしはある母親に注意を促した。そのときの彼女の返事がふるっている。「あら」、神父様、そのために泣き部屋はあるのでしょう!」。母親が緊張していないのに、どうしてこどもが緊張することがあろうか。 論理と実際において まず生態学者に耳を傾けよう。動物生態学的に人間の嬰児を観察するとき、彼らが本能的に持って生まれてくる能力は次の3つだけだと職者はいう。すなわち、母の胎から出ると空気呼吸を始めることと乳を呑むこと、そして摂取したものを自分の血肉に変える消化作用とである。 真の教育者 生きておられる主キリストの前における祈りやその同じ主の現存を証する秘跡を尊いと思う教会と両親の心と態度が子供たちを育てる。誘惑の多いこの世の中でそれ以外の教育はないとわたしは思っている。教会と、こどもにとってまず教会の代表者である両親が、神の子であり、主であるキリストの現存を自らの生活をもって示すのでなければどうして彼らのうちに信仰が始まるだろうか。 (時津教会主任司祭) |