歴代主任司祭

 
 
初代主任司祭

アンドレア畑原松平(平戸)

1909年(明治42年)7月4日、クザン司教、叙階。

1909年(明治42年)〜10年(明治43年)、浜脇教会主任。

1914年(大正3年)4月、鯛の浦教会助任・青砂ケ浦教会助任。

1915年(大正4年)2月〜7月、桐教会主任。

1927年(昭和2年)3月、宝亀教会主任。

1928年(昭和3年)2月〜1932年(昭和7年)12月、出津教会主任。

1933年(昭和8年)223日、大学病院で帰天。58

 
 教会めぐり

出津天主堂

平村神父様の御厚待を謝し出津天主堂に向かう。徒歩30分にして聖堂門にたどり着く。聖体を見舞うべく行き当たりのドアを押す。目に触れるもののことごとく奇奇怪怪行かない合点を行かせてみると、裏表の入口を間違えて納室に入ってきてるんだ。「間違うのは貴方ばかりじゃない」と畑原神父様も同情してくださったが、実をいうと山手に向いた正門に大きい塔があり、海と国道に面した裏門にも小さい塔があって、国道から上って行く者には裏門の小塔しか見えぬ、テッキリこれが正門と勘違いしたわけ、今後の訪問者の参考までに記しておく。明朝早々の汽船便で帰る予定なのでそそくさと神父様への挨拶をすまし、今度は正門から聖堂の拝観をなす。

切り石を高く積み上げた堂々たる正門をまたぐとこれはまた奇怪、
4尺位の腰板をはめた高さ15尺ともおぼしき純日本障子がドアの代わりをなしている。正門に大門丈あって、男女別の左右小門のないのもまた一つの特徴だ。天井の低さと、奥行きの長さのつりあいが取れず、大型の客車を23台継ぎ合わせたような観を呈している。目を惹くべき華美な内飾りはないが、大小香台の構造、彫刻等、古典的な味わいを見せている。なお見落としてならぬものの中には、オルガンと洗礼盤がある。夕食には畑原神父様と談笑し、鮮魚の馳走を受く。食後中村近蔵氏の話を聞く。慶応、明治に於ける、出津キリシタン物語はみな浦川師の方へ書き送っているとて、記者は単に教会に関することのみを承る。出津の布教は慶応3年頃より始められ、ペル師、シャトロン師、ポリエ師等、こもごも、長崎より夜陰に乗じて来たりまた夜帰るのであった。後ペル師のみ時折、尾下達次郎氏宅に寄寓せられることあり。仮聖堂の建築に奔走された。

 
昭和40年頃の出津教会
 
   
 昭和40年代の出津教会  畑原師時代の司祭館 教会の隣にあった。
 
 かくて山本茂左衛門、濱崎福蔵氏等の献身的協力によって、明治9年はじめて仮聖堂の建立を見るに至った。場所は今の橋口という所で、僅か3間に5軒の平屋根であった。然るに当時信徒の数は現在と大差なかったというから右仮聖堂でもって何時までも満足しておられる筈はない。ペル師の後をうけて明治13年赴任せられたドロ師は早速新聖堂建設の議を立て資財を投じて自ら設計、監督せられ、レンガ造りの新聖堂が現在の場所、長隅の小丘にそびえたつに至ったのは明治15年である。

該聖堂は明治
24年更に増築せられ、明治44年には煉瓦を廃して石材に代え、正門高く全石造りの鐘楼が築かれた。これが現聖堂で間口5間半、奥行20間、石造、平屋根のどっしりしたものである。イエズスの御心を保護者とし、聖ミカエル、聖マリアの美麗なる聖像を安置している。一千九百の信徒が所属し、出津、牧野、赤首、大野等の各部落に分かれている。なお大野には2間半に4間の小聖堂があり、牧野は記者の祖父の出身地であり、自分と同姓の人が多いと聞き両部落を見たい心は山々ながら他日のために割愛する。青年会、処女会等の設けはないが、祈祷の使徒会は他に例を見ないほどの発達を遂げ、四百五十名の会員がある。したがって聖体拝領者の数も多いとのお話であった。
 
 午後10時近くまでいろいろのお話を伺い寝に入る。23時間微睡して目がパッチリ開く。一日の見聞を原稿にする。午前5時半ごミサに行った。30名くらいの婦人と45名の男子が与かっていた。子どもの姿が一人も見えないのは神島と違っている。出津の女部屋は昔から有名であるが来て見て一層びっくりした。石造り2階建ての長屋、倉庫風の家屋が3棟までもずらり並んでいる。かっては製パン、機業が盛んであったそうだが、今はその職が廃れ、主に農業をやっている。女部屋のほかに村の処女らが集まって、聖壇用、祭服用の刺繍を生業とする刺繍部屋があり、10名ばかりが仕事をしていた。7時、神父様に謝意を述べ浜辺に出て汽船を待つ。7時半に出発。
 
 

畑原師のご永眠

黒崎村出津教会主任アンドレア畑原松平師は、数年来膓結核を患い漸次重態に赴くのみで、田舎にいては病名すら判明しない所から本年1月中長崎の大学病院に入院療養中名利師も、薬石その効なく、215日浦川師より終油を受け23日飽の浦教会の出口師に護られつつ永い眠りに入られた。葬儀は翌24日午前9時浦上天主堂で早坂司教様によってすこぶる盛大に執行された。補佐司祭松岡師、助祭古川師、副助祭片岡吉一師、高座付助祭脇田師、副助祭出口師で市内各教会の司祭等、平戸方面より会葬の中田師、山川師もお見えになった。ミサに続いて謝祷式が行われ、続いて会葬者一同赤城墓地へ行列をなし、埋葬を終わったのは午前11時であった。

師は明治9年(1876)に平戸の上神崎に生まれ、明治427月(1909)脇田師、大阪の竹野師と共に司祭に叙品せられ、下五島の久賀島、三井楽、中五島の桐の浦教会等に勤め、それから鹿児島大島教会詰となり、大島がフランシスコ会に譲り渡されるや、出津教会を担当されたのである。師は生来寡黙の人であったが、しかしその寡黙の中にも時としては皮肉もいい、警句も発するというすこぶる面白き性格の持ち主であった。

長崎教区はいよいよ多忙多難に見舞われてきた。我等は師のために祈ると共に、また倍旧の刻苦精励を持って事に当たるの覚悟にならなければならぬ。
                     
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