山口武主任司祭

 

今日も、また新しい今日も

わたしのもとに来なさい。

わたしから学びなさい、わたしは柔和で、謙った者であることを。(マタイ11章…)

はじめに

〈キリストが建てられた教会〉って本当は何だろうか、と実現の種々の事態に出会う度によく考える。それを建てられたご本人に聴くのが一番だと言い聞かせながら。そんなわたしは、原稿を依頼されたこの祭、重い腰を上げて、そのことを尋ねてマタイ福音書を散策してみようと思い立った。この福音書の著者の執筆目的が次のような点にあったのだろうという小川陽氏の見解に賛同しているからである。マタイは「彼が理解したイエスの歴史を世に示したのである」。

すでにマルコが示したイエスの歴史に満足せず新しくイエスの歴史を執筆した動機とその意図は「キリスト教信仰の規範をイエスの歴史の中に基礎づけようとしているのであろうか。あるいは、実践的な目的をもって、キリスト教信仰のあり方をイエスの歴史の反省の中に求めようとしているのだろうか」と彼は肯定的に言う。


80
年代といえば、神殿崩壊後の混乱の中で、ヤムニヤ学派(ファリザイ派しか残らなかったユダヤ教)は早急に教義(聖書)を整理確立して教団の建て直しを図り、キリストの教会を迫害し、キリスト者を破門(追放)するに至っていた時代である。地方、マタイが所属する教会はというと、たとえ話が示唆しているように、キリストにふさわしくない要素で満ちていた。

その中には、理論家ではあるが、マタイが特に指摘する〈振る舞い〉においてイエスに学ぼうとしない者たちや全く無関心な者たちがいたにちがいない。7・
1523は、イエスを「主よ、主よ」と呼び、イエスの名によって預言し、悪魔を追い出し、多くの奇跡を行なった者たち、つまり、教会の指導的な立場にある人びとのことが示唆されているようである。その彼らが「不法を行う者たち」と厳しく非難されている―〈不法〉とはマタイにとって、相互に愛の実を結ばないことである。そのような状況の中で、マタイは史的イエスに次のように発言させている。

〈あなたがたは「ラビ」『教師』と呼ばれてはならない。あなたがたの「先生」「教師」ただひとりキリストだけである〉。〈わたしのもとに来て、わたしが柔和で、心から嫌った者であることを、学びなさい〉と。地方で、迫害する律法学者や「ファリサイ派の人びとに対しては、律法の中で最も重要な
(正義と慈悲と忠実)とをないがしろにしている」と非難させている。 
 
 

「義を満たす」(3・15)

マタイはイエスを「アブラハムの子」と紹介する。神はアブラハムを祝福して、彼を「大いなる国民とする」と約束する。したがって、彼は異邦人の父でもあるので、彼の祝福はユダ民族に限らず、イスラエルの全部族「そして全人類にも及ぶのである。

アブラハムに対する神の祝福において、イスラエルの選びの歴史は始まる。神がアブラハムを選んだのは、これ以降、人びとが「主の道を守り、主に従って正義を行なう」ためであり、こうして、イスラエルは神との契約の民になるのである。

マタイは、アブラハムに始まるイエス・キリストの系図を示して、神がかつて約束されたことがイエスにおいて実現するに至ったことを強調する。マタイにとってこの系図はイスラエルの史の要約である。神がご自分の民を世代から世代へと絶え間なく導いてこられたという事実を承認する、マタイの信仰の文書である。

そして、彼の信仰は、神のみが歴史をその終局的完成へと導かれるという確信である。創造者である神は同時に歴史の主だからである。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」という復活者イエスの言葉は、異邦人の視野に入れた創世記12・
3と対応している。マタイの教会(初期の教会)において、民を罪から救う方、「わが子」と呼ばれるイエスが、水による悔い改めの洗礼を授ける洗礼者ヨハネから受洗したということにつまずく人びとがいたのであるが、マタイは彼らに答えている。

イエスを思い止らせようとするヨハネに、イエスはいわれる。「今は許せ。このように〈すべての義を満たす〉ことは、私たちにとってふさわしことだから」と。洗礼者の水による洗礼が神の義
(み旨)を満たす行為であるがゆえに、イエスもまた〈神の義を満たす〉ために受洗されるというのである。天から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしは彼を喜んだ」同じ声が変容の場面でも天から告げられている。

「愛する子」あるいは「神の子」は一般的に言っても、神との特別の親密な関係を意味する―「すべてのことがわたしの父によってわたしに任されている。子を知るのは父のほかにはなく、父を知るのは子と、子が(父のことを)知らせようと思う者以外に誰もいない」―「わたしは彼を喜ぶ」、「わたしの喜びが彼にある」は、神の選びを意味するが、神の〈選び〉は同時に〈服従〉の要求である。選ばれた者は従う者に変えられる。〈神の喜びが従う者にある〉と宣言される。したがって、神の子は「神のしもべ」である。「誘惑」の記事で、神の子・神のしもべの内実が示される。

この物語の背景にはおそらく、悪魔が世の事柄に対して支配権を預かっていること、神の子性と奇跡遂行能力とが同じであるという誤解がある。「聖霊に導かれる」とは神の意志を指示する。「試みる者」はイエスが神の子であると知っている。したがって、「もし、神の子なら」は、「あなたは神の子だから奇跡を行なえ」と言っているのである。イスラエルの民も同じことを言った。あなたが私たちを守っておられるのなら、パンをください、水をくださいと。
(しるし)を求めることは神を試みることにほかならない。

独特の方法で、第一戒に関して、しかも聖句をもって迫る悪魔に対して、イエスも聖句をもって答えられるが、イエスの本当の、完全な答えはイエスの〈十字架〉にある。そこでも指導者たちや通りがかりの人びとは「もし、おまえが神の子なら」と叫んでいる。しかし、イエスは沈黙のうちに〈神の子、神のしもべ〉として〈父の義を満たされた〉のである。第三の誘惑に対するイエスの言葉は頂点である。

〈特別な使命を委ねられた〉ばかりのペトロが、しかも必死に師イエスをかばおうとしているのに、同じ言葉「サンタ、退け」をもってお叱りを受けている。神が準備された十字架の道を回避させる者こそサタンであり、彼は「引き下がらなければならない」のである。神を礼拝し、神に仕えることが〈すべて〉だからである。
 
 

弟子たちの選びと使命、派遣(10章)

イエスは(12)を選び、彼を〈使徒〉(特定の使命のために職権を委ねられて派遣された者

)と名付け、イスラエルの失われた羊のもとに派遣される。しかし、この任務と権威を与えられた〈使徒団〉とはイエスの生前に任命された〈12人〉に限定されるものではなく、その後の〈教会〉を意味する。教会は、イエスの働きの〈継承体〉である。〈12人〉という数はイスラエルの12部族に基づくものであるから、12人の弟子から出発した教会は、古いイスラエルを起克された後、新しいイスラエルとして救済史に登場したという初期の教会の思想が込められているのである。

したがって、この〈
12人〉は教会の基礎的な範例である。―そのように理解するとき〈もっと多くの働き手を送ってくださるように、収穫の主に祈れ〉という言葉が正しく理解される。12人に、イエスは汚れた霊に対する権能を与え、病とすべての患いを癒す力を授けて、それを行使するようにと命じられる。弟子たちに与えられた権能と力とはイエスが8~9章で行われ、またヨハネの使者に示されたメシアの行為と同じである。

派遣の際して指示される宣教の言葉も、イエスの宣教の第一声と同じ「天の国は近づいた」と〈宣べ伝えよ〉である。さらに〈枕するところもない〉の身着のままのイエスと同じく、他の福音書に比べて徹底して〈何も持たないで〉、つまり予め必要な物を自分で調達しようとしないで、全き信頼をもって宣教の旅に出かけるように命じられる。

―これは各地に教会が設立されてからも巡回説教者がいたが、裕福な支持者の多い都市部を求めて巡回していた、マタイにとって〈偽使徒たち〉の対する非難でもある。これらの記述を通してマタイは、〈弟子たちはすべての点において、師・イエスと同じ働きをする者となる〉のであり、それが〈使徒たる者の内実である〉と強調している
 
 

わたしから学びなさい

だからマタイのイエスは、ご自分の働きの継承者である〈弟子〉(=幼子)たちを招き諭すのである。「わたしのところに来て、わたしが柔和で、心から嫌った者であることを、学びなさい」と。「柔和と謙遜」はすでに旧約聖書で相互に結合されている。が〈与格・τωνευματι〉との結合の例もある(70人訳詩篇33・18…神は謙る者を救われる)

マタイ自身の参照句18・
4、23・1112から、この句によって〈愛ゆえに、他者のために自分自身を後退させる人間の態度〉が考えられている。(πραυs)もマタイにおいて、ろばに乗ってエルサレムに入場する〈王〉のよな、5・5(幸い)といわれる〈謙って、好意的な〉態度を意味する。マタイはここで、自ら、父の意志を自分の生活の中で具体化し、そのようにして律法を成就したイエスの例を考えているのは明らかである。

父は、ただみ子・イエスを通してのみ、ご自分を教会〈・単純で無知な者たち〉に与えられる。だから、み子・イエスもそうである。しかもイエスは「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(インマヌエル)と約束されている。ルカの場合もそうであるが、マタイのイエスは、教会を制度
(組織)として立てることを意図されたとわたしは考えている。

それは「いのちを賭けて世界に奉仕する」という組織にほかならない。イエスはまず、神の義を満たすために神が準備された十字架の道を歩みとおされ、いのちを賭けられた。それが悪魔と傲り高ぶっている宗教的エリ−トたちや世の者たちへの終局的な答えであった。

〈ネピオイ・νηπιοι〉はそれを知っている。そして、神の助けなしには自分では何もできないと分かっていながらも、使命の重大さの前に立って、とても、とても力不足であることを痛感している。だからネピオイは派遣の主、刈入れの主に祈る。今日も、また新しい今日も、いつでも。「主、イエスよ、あなたから真心学ぶことができるように、あなたのみ心の思いに、深く気づかせてください」と。

2002年パウロの改心の記念日に、川棚にて

 
 昭和4821日久賀島大火にあたたかい愛の手

大みそか、大火にみまわれ県民の同情を集めている、福江市蕨町の被災者に教会からも、救済活動が活発に行なわれている。当夜、同島浜脇教会〔主任山口武師〕は聖婢会修道院、信徒、保育園に呼びかけて、毛布などを運び、あけて元日には、各信徒家庭から拠金して、食事などのたしにと寄付。現在、教会からの寄付金は、50万円に達している。大司教から教区全域に、救援の呼びかけがなされ、これにこたえて、各教会から、物資募金、による愛の手が、さしのべられつつあり、地元の信徒は、神の民のつながりを強く感じ、感謝感激している。現在第7号の編集とりかかっている。これは、青年会の報告事項、及び一般青年の生の声を数多く取材し,巾の広い機関紙活動を目指している。現在発行部数400部、1518ページと成長し、青年会の柱になろうとしている。

 
 


  
   


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