清水佐太郎主任司祭

 
 

教報 昭和四年三月一日

 

○五島久賀の教勢

昨年九月の司祭黙想会に於いて、早坂司教は教区の全司祭信徒に向かい、来る一年間の主なる布教事業として「奮教徒」の帰正に努むべき旨を発表せられたが、それに就き聞くだに喜ばしき快報が五島久賀島から記者の許に届いた。曰くカトリックを毛嫌いすると云う陋習が本島異教徒間に段々と薄らぎ倒に好意を寄せる様はげに涙ぐましい程である。二三の例を挙ぐれば、聖堂通いの道路を修理してくれる、役場員、小学校教員等はカトリックの祝祭に多大の便宜を興え、又自らも之に参加する等である。

分けても「奮教徒」はカトリックに対して非常な好感を抱き「我々の祖先もお前達の宗旨を守っていたのだから、我々も何時かはお前達の厄介になる積りよ」と稱し現に教理研究を始めて居る者も少なくない。去る御降誕夜の如きは異教徒たる村長、小学校長、村の有志が率先して御ミサに列席し、その謹慎なる態度を以って、却ってカトリック教徒に美わしい模範を垂れた位であった。同日午後の聖体降福式の後には「奮教徒」主催の盛んな余興がカトリック教徒のために行われた。

そのために「奮教徒」の幹部、道脇吉松、松本猿松、近藤島一等が先に立って、「奮教徒」の青年を集め、数日前より練習したのであった。中にも近藤島一氏は東京鉱山学校の出身であり、クリスマス奉祝歌を自作して彼らに教え込み、聖体降福式後その奉祝歌を歌いつつ聖堂を一週し、聖堂の前に来て、クリスマス万歳を三唱した。主任司祭の清水霊父始めカトリック信徒一同は彼等の誠意からの奉祝を喜び、嬉し涙にくれたと。

 
 
 

教報 昭和四年三月一五日

○五島だより

 

キリストの愛に燃えた若い司祭その司祭を愛慕するの真情を謳った美しい詩のような左の通信が五島の一處女から記者の許に届いた。

 「二月四日の朝、海や山を越え○○郷の信徒は如何と探して御出で下さいましたのは、○○神父様で御座います。私共は待ちに待っていたのです。神父様には私共の好きな楽しみなキリスト様がお伴していらっしゃるのですもの。午後一時に黙想会が始まりました。キリスト様の愛に燃え立った神父様の熱情は暗い信者の心に明るい光のように差し込み、深く深く見にしみ入りました。

黙想会は七日の朝までに終わり、朝から告白にかかられました。八日も同じく告白にかかっていなさいますと、○○浦から病人が出来たとて呼びに来ました「病人には一刻も早く」と仰って、御聖体と一緒に飛んで行かれました。お帰りになると、腰をも下ろさず直ぐに告白場に入られるのです。黙想中は昼食後の休息時間を利用して青年處女に聖歌の練習をさして下さいます。夕食後も又歌というあん梅、神父様のお身体が鉄ならばこそですが・・・「お疲れなさったでしょう」と御挨拶申し上げますと、「却って皆さんこそえらいでしょう。

司祭たる者には是等の仕事が皆さんの休息と同じ感じですよ」と仰るのです。人々の上にを放つと今に信仰の燃えだしたように、春の野山の草木と共に芽を吹き葉を出し、花を咲かせ、徳の実を結ぶかの如く見えて参りました。青年處女は「小さき日曜日の仕事を」充がわれました。青年の仕事は日曜日に信者が聖堂に集まった時、大人や子供に向かい「皆さん稽古をして帰って下さい」と告げることで、處女の仕事は月二回司教様から戴いているカトリック教報を家毎に配達し、読み終わったのは再び取り纏めて奮公教徒や未信者に配達して読ませる事でございます。

かくして誰かの心に教えの光が差し込むようになれば何よりです。一二日の朝神父様は○○へお帰りになりました。悲しいのは御聖体を取り去られる事です。一日も早く若い立派な神父様が出来て、我が○○郷にも一人の神父様を戴くことになるのを祈ります。」

略同様の通信が他郷の一處女からも届きました。この種の通信を大いに歓迎します。
 
 

教報 昭和四年六月一五日

○下五島の堅振(其一)

 五月五日堂崎天主堂で早坂司教様を迎えて午前九時から十一時まで死者の為の祈禱、説教、堅振、ミサ聖祭等があった。受堅者百四十五名、聖体拝領者約五百五十名で実に盛大であった、堂崎管轄の信者は福江、濱泊其の他の地方から参集したので、勿論信者は聖堂内に入りきれなかった。午後からは濱泊の新墓地祝別式もあり多数の信者はこれにも列席した。

 司教様には続いて奥浦慈恵院を御訪問なされたが、二十九名の老幼修道女たちは嬉々として司教様をお迎え申し、育児、農業、養蚕、機織り等の各事業を御照会申し上げた。因みに奥浦慈恵院では年々育児事業が発展しつつあるに拘わらず、その維持経営に経済上の後援が不十分なのを遺憾とし、最近主任司祭出口神父様の賛助と指導の下に、福江教会内の敷地で或信者の経営しておった製麺、精米事業を譲り受け奥浦慈恵院後援会の名目の下に修道女約七十八名福江に出張して朝夕製麺事業に忙殺されて働いて居る。動力を運転して製麺、精米等の各部に粉に包まれ汗に染んで働いて居る修道女の有様は誠に健気なものである。社会事業に奉仕しようと努力至らざるなき献身的精神は、げにや祝せられかし。

 五月六日は司教様は濱脇天主堂に渡られ、村助役、三小学校長、村会議員、警官等を引見御挨拶を交わされ、午後からは赤仁田教会の祝別が行われ、続いて永里教会を御訪問、それから久賀島濱泊の山頂に新設せられた墓地をも祝別されて帰途細石流教会に立寄られた。山又山の各教会を健脚にも毎度一番乗りなさる元気には清水神父様も信者も皆喜んだ。細石流から濱泊教会に帰着した時は午後の八時で随行の片岡高俊老神父は疲労の重き足を引いて暗闇の山路を見えない目で喘ぎあえぎ辿りついたが殿だった。

 翌五月七日午前には濱脇天主堂で九十七名の受堅者あり。約三百五十名の聖体拝領者で賑わった。濱脇天主堂は腐朽しかけて居る上に狭隘で今は改築に迫られて居る。主任司祭の清水神父様は信者一同を督励して資金を募集し来年度中には是非五島最初の鉄筋コンクリートの聖堂を新築して見せるとて只今夢中になって居らるる。信者も之に力を得て必要な敷地を寄付したり、土木工事に奉仕的に働きに出たりしてその準備最中である。来年中には濱脇天主堂も新築出来あがって見上げた天主堂となることだろう。
 
 

教報 昭和五年十一月十五日

○久賀島通信

 この程下五島久賀島の濱脇では多年の懸案たりし天主堂の新築に着手することになり、八月上旬基礎工事も終わったので、九月一七日早坂司教様は三井楽よりの帰途、親しく御臨場、御視察を遂げられ、信者一同に工事上種々の御注意をお興え下さった。清水神父様を始め、信者等は何れも夫れに力を得て、来春御復活までには是非とも完成したいものと一層の馬力をかけて、邁進しつつある。早やコンクリート工事も半ば以上に達して居るから、必ず予定通りに運ぶものと信じて居る。

 
 

教報 昭和六年二月一日

内国ニュース

◎天主堂新築

昨年来、北松浦郡の平戸町と南松浦郡の久賀島とに新築中なりし天主堂は略竣工した。御復活前後には献堂式挙行の由。

同じく佐世保市と伊王島には去る一月からいよいよ天主堂の新築に着手した。此までに到るには、神父様も信者等も、それは涙ぐましいほどの尊い犠牲を払ったもので、天の御父はきっと彼等の献身的努力を高く評価し、この世に於いても後の世に於いても十二分に報い給うべきは云うまでもない所である。
 
 

教報 昭和六年六月一日

 

◎久賀島濱脇天主堂落成す

 

 ウエイオン師が幾年前から計画して居られた濱脇天主堂の新築工事は、昨年来清水師によって、いよいよ着手せられ約九カ月の日子を費やしてこの程漸く竣工したので、四月二十九日天長節を期して早坂司教閣下の御来臨を仰ぎ、その落成式を挙行した。同日は生憎風雨強くて定めの時刻に式を挙げることが出来ず、漸く正午に至って小雨となり、建築係の技師、棟梁、その他村長、役場吏員、小学校職員等の顔が見え出した。よって主任司祭清水師は起って来賓の御足労を謝し、同天主堂が全く島民の汗と涙に築き上げられた次第を略叙し、併せて島民たるものは、この物質的天主堂の落成に安んぜず、是からは進んで己が心に精神的天主堂を建設すべく努め、いよいよ以って信仰に道徳に向上し、進んでは血の塩となり、未信者をも誘導して、その助かりを謀るべく努める様にと御注意になった。次に司教閣下は、同天主堂の由来、貧弱なこの村に斯かる天主堂の建立を見たのは信仰の賜に外ならぬことを一言した上で、今日の思想困難に転じ、この困難を救うべき唯一の良法は我カトリックに在りと断じて聴衆に多大の感銘を興えられた。

 講演が終わって宴会に移った。青年處女の出演にかかる各種の余興や音楽に一同抱腹絶倒、感嘆激賞した。その中での呼物は長崎市西町聖歌隊の出演にかかるジメオン劇であった。

 献堂式は五月三日の日曜日に挙行された。この日は、麗らかな日本晴で、島の信者を始め、近隣の各教会から参集せし信者は三千と註せられ、午前九時浦上カトリック音楽隊の演奏を以って式は始められ、司教閣下は型の如く堂の内外を祝別し終わって、司教大ミサを歌われた。ミサの終わったのは十二時であった。然し音楽隊の演奏にせよ、司教大ミサにせよ、臍の緒をきってから始めて見もし聴きもした人が多かったので、何れも天国にでも昇ったかの様、茫然と我を忘れて時の移るのも知らぬのであった。午後、青年處女の運動競技があり、終わって青年会、處女会の発会式、司教閣下の訓示、会旗授与式等があって、めでたい、愉快な、喜ばしい、何時になっても忘れられぬこの日を無事に終わった。司教閣下万歳、清水霊父万歳、青年處女万歳。
 
 

教報 昭和六年五月十五日

◎久賀島の切支丹物語(1)

 今回、我等が久賀島に五島最初の鉄筋コンクリート天主堂が建築されたにつけ、是が如何なる汗と血と涙の結晶になったものであるかと云うことを思うのは我等久賀島民の血を湧かして、小成に安んぜしめず、いよいよ勇往邁進せしめるに興って力あるものであろうかと思い、教報の余白を借りて、旧稿を発表することにした。

 祖父が朝な夕な話してくれる宗教談、殊に久賀の迫害談は私が子供時代の唯一の楽しみであった。祖父がその身に体験せし迫害の事実を、記憶の中より呼び起こして話されるのを食事も忘れて聞き惚れるのが私の常であった。そして一週間に一度は「おじいさん、迫害の話を聞かせて下さい」と繰返しせがんだものである。

 八十五才の高齢で今より八年前に亡くなった祖父を追慕する時、我等が先祖の浴びせられた迫害、その鉄の様に堅かった信仰心と、今の浮薄な世相とを見比べて、感慨の情に堪え難い者があるのである。

 古老の語る所に由ると、今より百余年前、西暦千八百年頃、山林開拓の為一千の農民を貰い受けたいと五島藩から大村藩に交渉があった。その交渉に応じて、大村から五島に移住した農民は外海方面の隠れ切支丹で、一千人の代わりに三千人も渡って来たと云うことだ。

 その中の幾家族かは我久賀島にも住みこんで、山林を開墾しながら窃かに祖先伝来の切支丹宗門を信奉して、黒船の渡来を待つのであった。現在のカトリック信者、及び各所に散在して居る「サガリ」、旧信者が其等の子孫である。

 今の濱脇天主堂の敷地は最初濱村善五郎と云う者が来て、汗と力の限りを尽して求め得た所で、ここに鉄筋コンクリートの大天主堂が建立せられたのは決して無意味ではない。さて久賀島に移住した切支丹は家業に勤しむ傍、信仰の道にも怠りなかった。固より家には仏壇神棚を設け、法事もするし、寺宮にも参詣するし、外から見ると神仏教徒と少しも異なる所はなかったが、それでも代官に薄々感づかれ、年に一回の宗門調べには絵踏みを命じられたものだ。絵踏みの場所は島の中程で、港に面した大きな松の樹の下であった。

今でもこの松の樹を絵踏松と称して居る。信者等は心ならずも絵踏みをし、帰宅の上、痛悔の祈りを誦えて謝罪をするのであった。痛悔の祈りはアナタ様(イエズス)に四十五遍、おとりつぎ様(マリア)に三十三遍で、一週間は毎日これを続けたものである。

そうして居る中に、世は何時しか慶応元年となり、プチジャン師は長崎大浦居留地に天主堂を建て、奮信者の子孫を探して居られるとの事を久賀の隠れ切支丹が伝え聞き、一同協議の上、畑田藤七同九助外三人を長崎に遣わした。然るに彼等は港外の福田で捕らわれて監獄に繋がれ、許されて島に帰って来た時は髭は五六寸も延び、見知らぬ様になって居たと云う。

 それからも移り換り三度も出掛けて行ったが、どうしても天主堂に近づく事が出来ず、手を空うして帰った。四度目には水方の野原善太郎外二人が行き、無事天主堂の門を叩く事が出来た。で三人はプチジャン司教に面会し、自分等が切支丹なる事、島には数多の切支丹が隠れて居ることを打明けた。司教は大いに喜ばれ、一個のメダイを興え、色々と有難い教の話を聞かして帰された。島の信者たちは非常に喜び、メダイを神様の如く推戴いて拝んだそうである。

 二度目に天主堂へ行った時は、祈祷文を、三度目の時は聖教初学要理を戴いて帰り、信者一同に伝教した。その要理を学んで居る中

「○神仏を敬う事は如何、△大なる罪科なり、○異端と云うは何か、△信ずべからず、敬うべからざれども、是を信じ敬うことを異端という。喩えば夢を信じ、日を選び、占い、考え、山伏を呼び、祓い祈禱をさせ、札守を掛るなどの誤り皆この罪科の類なり」とあるのに気がつき、小頭組(部落の頭)が信者一同を集めて、右の文句を読み聞かせ、今の様にして居ては、魂の助かりは出来ぬ。

一層のこと仏壇も神棚も焼き棄て、切支丹たることを公に申出ようではないか、と動議を持出した。大多数は賛成したが、迫害を気遣って、不賛成を唱え、そのまま引下がったものも多少あった。それが今の所謂「サガリ」の先祖である。賛成派は協議の上、畑中栄八、野原善太郎、五輪仙蔵、峰之助、山内要助、松本久米造、上村長八、同銀蔵等が委員となり、隣島の奈留島や奥浦村の堂崎、同浦頭、大泊、嵯峨瀬等の信者を語らい、連署して切支丹なる事を発表しようと運動して見たけれども、拒絶された。然し久賀島の切支丹は尚一カ月余に亘り協議をこらして決心の臍を堅め、プチジャン司教にも伺いを立てた上で愈々代官の前に出て、

「私どもは是からデウスと云う神を信仰しますから、神仏の事には何も関係しません」

と申し上げた。その日の暮方、和尚と足軽二人が信者の集会所に来た。

和尚「お前たちは心得違いをして居る。よく考え直してみよ。今迄の通り佛の教を守って行く様にせい、天下御法度の切支丹宗門を信ずれば命を全うして行く事は出来ぬ。可愛い妻子も路頭に迷うであろう。早く心を入れ換えて元々通りの宗旨になるが可い。」

信者「お前さんの処に来ても是迄経文の一つも教わらず、賽銭箱は其処にも此処にも置いてある。入れろ、入れろ、と金取る道ばかりお前さんは考えて居る。誰がお前さんの宗旨になるものか」

と剣もほろろの挨拶をしてやったので、足軽と和尚は其のまま帰ってしまった。翌日も又その翌日も同じ様に勧められたけれども誰一人として代官や和尚の云う事を聞く者はなかった。それより二三日して、二十名内外の信者が福江城より御家老の名を以って呼出された。残りの信者は風になるだろうか、雨になるだろうかと心配でならなかった。

 呼出された信者は仮拘留を命ぜられ、頭株の十二人は幾日も幾日も打ちたたかれ、算木攻めやら、押から攻やら、火攻やらを受け、三週間計りの後には見る影もなきまでに窶れ果てて島に帰された。
 
 

◎久賀島の切支丹物語(2)

 

 福江に囚われて居た人達が帰島を許された翌日、福江から役人が渡って来た。越えて一日島の切支丹は代官の前に引出された。切支丹の教を捨てる様にと色々勧められたけれども、誰一人として聞容れる者がない。よって其中の二人だけが攻められて久賀の本村に留置かれた。その翌日は野原善太郎、山内エノ、山内常次、峰三助、同モヤ、が先ず攻められた。その又翌日からは十三日の間も一同食いも飲みもさされず、手を変え品を換えて言語に絶する責苦を浴びせられた。島出身の足軽鬼塚甚也の如きは婦人達を素裸にして路傍に縛りつけ、筆辞にされない程の不潔な攻め方をした。それでも教を棄てると云う者がない。

 十三日目に奉行は最後の命令を下した。それはこの世ながらなる地獄の牛頭、馬頭の責め方で、二頭の牡牛に括って股を引き割くと云うのであった。いよいよ秋の長夜もあけた、信者達は今日の死出の旅路をより善きものになさんと互に励み励まされて、今か今かと待って居ると、突然中止の命が来た。信者は互に顔を見合わせた。多分偽って信者達を威嚇したものであったらしく、実は本村の真向かいなる猿浦と云う処の獄屋に信者を入れるのであったのだ。引かれて行った信者は狭い仮小屋に無理に押込まれ、身動きもならず立づくめに立って居なければならなかった。時は西暦一千八百六十九年旧十月の肌寒き晩秋であった。

 入牢後も代官、足軽等は相変わらず虚喝を加えて、信者達の決心を破ろうとした。二三日後には牢屋と共に入牢者を丸焼きにして了うのだと言いふらし、人夫に命じて牢舎の周囲に薪を積ませた。愈々明日は丸焼きにせんと充分用意が調った時、分家の富江方から福江へ攻めかけると云う飛報が役人の耳に入った。彼等は忽ち顔色を変えて狼狽し我先きにと福江へ渡って行った。後には鬼塚甚也が残って居て悪魔そのままの暴行をなし、信者を散々に苦しめた。

 霜枯の野には枯尾花の淋しげに冬の来るを知らせて居る。寒さはいやましに加わる一方なのに、牢内では相変わらず身動きさえ自由ならず、着物は引剥がれて見るも涙の種である。

 鬼塚甚也はそれから数年後に死んだが、不思議にも墓に行く途中彼の棺は突然煙に包まれて焦げて了った。と今尚古老の懐旧談に残って居る。福江に召集せられた役人等は数日後帰って来たが、今度は信者等の食事を減らして三度のを二度にした。しかも一度の食事と云うのは小さな薩摩芋が一つづつだ。子を持つ母親は子にそれを取られてほとんど絶食の有様であった。なお牢内は狭苦しいばかりでなく、大小便所の設もなく、不潔此上なしで、このままでは物の二十日も生き延び得ようかと思われた。幸い代官が出張する前に五六人の信者が他に身を隠して居たので、其等が長崎へ行き、プチジャン司教に面会して島の有様を詳らかに報告した。司教も大いに同情して、少なからぬ金子を御恵み下さった。

よって彼等は其金で夜密かに知合の所へ行き、乾芋を買って来て獄内の者に興えた。然し其金とても無尽蔵ではなく、何時しか差入れも出来なくなる。飢えに泣く子供の悲しき聲が辺りにこだまして、断腸の思いあらしめた。子を持てる母親の苦しみは譬うるに物なしであった。かくする中獄内に死人が出来た。死んでも死体を葬る事は出来ぬ。小屋の片隅に横たえて居る中に次から次へと十数人も枕をならべて死んだ。初春の事なれば次第に腐ってうじが湧き、それが生きた人にまで食い入った。生きながら腐るとは嘘の様な話であるが、然し正味正銘の事実だ。斯の如き有様で、病人は日増しに増える。死骸の始末は出来ぬ。ここで信者は全滅と思われた。私の曽祖父も腐って死んだ一人である。

 斯く牢内の信者が断末魔の苦しみに悶えて居る中に、外ではこれまで彼等が汗の結晶に成った家財田地に至るまで役人や部落民等が横領して無一文としてしまった。全滅か?否、「汝はペトロなり我れ此の磐の上に我教会を建てん。地獄の門は之に勝たざるべし」との御言葉の通り、かくまで悪辣な迫害も、明治三年旧五月末方になると忘れたかの様に止んで、牢内の信者は開放せられた。悪戦苦闘まさに七カ月、雪降る朝、風氷る夕、つぶさになめた苦しみの数々を主は如何に高く見積もって報い給うたであろうか。出牢の幸を得た一同は互に抱き合って嬉し涙に咽んだと云う。

 さて、信教の自由の許されてより既に六十年、其間に波瀾曲折もあるには有ったが、島の教勢は年と共に発展して、信徒一千余、天主堂三、教会二を有し、熱烈な信仰を以って永遠の御国の建設に突進して居る。去る大正十四年十月に小学児童の神社参拝問題が突発した時も、信者は一歩も後へ引かずに村局をして終に我を折らしめたが如き、往時の気魄と切支丹魂とを保持して居る五島最初の迫害地たりし本島に五島最初の鉄筋コンクリート大天主堂が建造されたのは當然すぎた當然であろう。

 神の御国を築かんと 身にしむ秋の夕まぐれ

 愛しの我子をふりすてて ひとやの内に目を閉じつ

 友はたふれてまた立たず 此の身は蛆にくはるとも

 よしや火の中、水の底 骨までけづる寒さをも

 教の為の苦しみは 楽しき野辺の花の道

                (青年会員ヨハネ生)
 
 

<昭和六年畑田霜惣次日記>

はじめに

本書は私の父である畑田惣次が十七歳であった昭和六年に書き綴った日記をほぼそのまま活字にしたものです。先日別府の実家に帰省した際、母から父の日記があることを聴き、見つけ出してもらいました。今はほとんど人のいなくなった細石流がまだ賑やかだった頃の、教会を中心にした生活が記録されており、今後の良い資料になるのではないかと思い、今回製本することにしました。

惣次は大正二年に畑田栄作、中山ミヤ夫妻の長男として生まれました。大正十五年、十三歳の頃に堂崎にあった下五島公教伝道者養成所に通い、その後、五島久賀島の細石流カトリック教会の教え方となりました。本書には、子供や結婚する人の公教要理、司祭不在時の日曜日の祈り、冠婚葬祭の取りまとめ、神父様の送迎、接待、青年団の活動など教え方の仕事を兼務しつつ、農耕、炭焼き、漁労、家族の世話と日々の生活を忙しくこなしている様子がよく書かれていると思います。親戚同士も近くにいて、お互いに助け合いながら、親しく暮らしていたことがよくわかると思います。また、現在の浜脇天主堂が落成した時のことも記載があります。特に細石流に御関係の方に目を通して戴き往時の生活を偲んで戴ければ幸いです。

 文中、用語の不明なところが多く、() の印を入れさせていただきました。ご存知の方はご教示戴ければ幸いです。漢字の旧字体は改めましたが、原本の雰囲気を残すために、旧かな遣いはそのままにしてあります。読み違いなどによる誤りも多々あるかと思いますが、ご容赦戴きたく存じます。

 

平成二十一年二月

横浜にて  畑田 直純



一月二十六日(月曜)

雨天。朝食後ツナ藁をたたく。

十時に鰤網起しに来いと云ってきたので行ったが一尾もかかって居なかった。

帰って昼食。午後は清水神父様に手紙書き。葛島キノの為。終って夕食。祈り、就床。

 

一月二十七日(火曜)

雨、曇天、晴天。

朝食後、木炭小屋の所に俵をあむ為のカヤを取りに行った。帰ってから大細石流の浜の寄り木を拾い、又薪を少し取って負ってきた。直ぐに昼食午後、中山安五郎氏が長崎から来て居るという話を聞いて、叔母さん(※)の借金を取りに浜泊からワシノス(※)まで行ったら、日曜日に宮本に行ったまま来ないと云うので宮本まで行くと、今朝幸泊に行ったと云って居らなかった。あそこで一時

(欄外)

間ばかり遊んで内に着いたのは六時半それから夕食、風呂、祈り、日記、就床。

(※)畑田ワサ?

(※)鷲の巣(地名)

 

一月二十八日(水曜)

曇天。朝食後木炭出しに行く。三カラヒ(※)からってから、畑中庄八氏の子供を洗礼授けに奈留島に行くと云ふので中村神父様から頼まれた炭を5俵持って行った。奈留島の田ジリ(※)に船を着けてカチ(※)で聖堂まで行く。行ってみると店から1俵買って居た。

樫炭は八十銭、ハ炭七十銭、〆三円八十銭戴いた。洗礼を授けて帰ったのは、七時半頃だった。それから庄八様方で御馳走になり帰って祈りをして十時就床。

(※)背負うこと

(※)地名?

(※)徒歩のこと

一月二十九日(木曜)

晴天。朝から木炭出しに行った。山から二カラヒ聖堂の後から一カラヒ三カラヒ九俵、幸夫が二カラヒ四俵合計十三俵、野首の納屋まで出した。帰って昼食。後、大細石流の浜に寄木カラヒに行って来て、子供のケイコ。終って大根葉を麦畑にひく。夕食後、読書、日記、九時五分就床。

 
 

一月三十日(金曜)晴天。朝食後、牛の肥を小麦にになふ。

昼食後も矢張り小麦にになって了ってからジナワシ(※)の下の畑の麦にになって夜おそくまでかかってひいて了ふ。四時半頃叔母さん(※)が来て、新市(※)の形見などを拾い集めて5時半すぎに久賀の方に帰られた。畑から帰ってから夕食、風呂、日記、十時就床。葛原キノに就いて清水神父様にお伺いして居たら今日お返事の手紙が来た。

(※)地名(※)畑田ワサ

(※)亡くなった惣次の弟

一月三十一日(土曜)

晴天。朝から木炭山の木出しに行った。四時まで働いて、子供の稽古の為家に帰った。終って居ると相曽根のスナ叔母さんがお出ておられた。夕飯を食べ居ると鰯引きやとわれて呉れと来たので、納屋に行って遊んで九時半頃タテマワシタ(※)。それから引き上げて家に帰ってのは、二時 風呂に入って、寝た。

(※)網を立てて仕込む

二月十三日(金曜)

清水神父様細石流にお出でる。

二月十四日(土曜)

ミサ拝聴に行って帰って鰤網起しに行った。

帰ってきて少し仕事をして告白をしに納屋の者全部行った。

二月十五日(日曜)
細石流。起きて直ぐにミサ拝聴に行き、昼食を愛姉さん宅で馳走になり、聖堂に行って色々と毎年(※)等の打合せをした。

明日のスイさんのミサ(※)の為、教え方皆泊る。

(※)毎年の復活祭前の黙想会のこと

(※)葬儀のミサ

二月十六日(月曜)

朝起きてミサ拝聴に行く。泊スイさんのミサであった。教え方一同と畑中新之助様、野濱安造様、神父様の部屋で御馳走になり終ってカルタ取りをして遊んだ。帰る者は帰って明日の歌ミサに預るものだけ残って下さった。

二月十七日(火曜)

朝起きてミサ拝聴に行った。イナ祖母の歌ミサ(※)の為、教え方等が泊って下さった。帰って神父様を宮本まで下して行った。帰って昼食、鰯網仲間(?)に回る。

(※)葬儀のミサ

三月二十五日(水曜)

 今日まで黙想を終る。

 
 

三月二十五日(水曜)

今日まで黙想を終る。

三月二十六日(木曜)

子供の試験の為、宮本に行く。

三月二十七日(金曜)

今日から納屋に行く。

三月二十八日(土曜)

網起し。魚送り。

三月二十九日(日曜)

永里にてミサ。終って歌のケイコ。処女会(※)の総会開催。

納屋に帰って鰯網に西沖に出て、二十パイばかり取って来た。隣のサシ網仲間は網を百五十間も棄てた。

又助、勇八、又助、初次、繁雄、五人加勢に行った。清水神父細石流に来る。

(※)女子青年会

三月三十日(月曜)

今日から告白を聞いて下さった。四十人。僕等は鰤網起しに行って来てから魚送りに行った。

三月三十一日(火曜)

ミサは八時に始まる。朝飯を炊きあげて行って見るともう始まって居た。正午まで納屋の仕事。午後は納屋の者全部告白をしてから神父様を奈留島に下して行った。納屋に帰ったのは十時頃。風が強いためきつかった。

四月四日(土曜)

午前一番沖網の立替へを了って午後暇貰ふて聖堂飾りに行った。ノブさんを加勢して貰った。おそく宮本君も来られた。

四月五日(日曜)

吾主の御復活。ミサ細石流にて午前九時始まる。ミサ後聖体降福式前に子供の試験の発表があった。降福式は二時半。晩方カトリック青年細石流支部で演説の練習があった。

四月十九日(日曜)

浜脇にてミサ。ミサの後カトリック青年の運動会の内上平として・・・

四月二十日(月曜)

六時半頃家から来て朝飯炊いて鰤網起し。昼食。午後は魚送りに浜脇まで行った。それから戸岐に着けてマス網を積んで来た。

夕食。夕の祈。就床。

四月二十一日(火曜)

雨天。起きて庭の掃除。朝食。藁を少し叩いて、麻芋を取りに廻った。それからソを引き昼食。午後、葉書を書き。

四月二十二日(水曜)

浜脇天主堂落成式。雨天。午後は止んだ。上平青年の余興。其晩上平に泊る。

四月三十日(木曜)

ミサに行ったら司教閣下及び西中町聖歌隊一行が細石流に午後五輪からお出でる。晩は泊る。

五月一日(金曜)

ミサ後聖歌隊一同、野首に魚釣りに行った。午後は浜脇へ帰る。僕も一緒に浜脇に行く。

五月三日(日曜)

浜脇天主堂献堂式。ミサ後、久賀島カトリック青年処女会の運動会。終って家に帰ったのは七時半頃。

(以降七月一日まで記載なし)
 
 

畑田惣次

畑田利惣次が野濱マシに求婚した時、マシは一つの願いを受け入れてくれるなら結婚してもよいとの返事をした。それは生まれてくる長男を司祭として捧げることであった。利惣次はその願いを受け入れ結婚した。最初の子供は女の子でワサと名付けた。ある日、少女のワサが牛の番をしている時、牛が産気付いて子牛を生んだ。ワサはこのべべん仔の誕生の神秘に強く印象付けられ、後に野濱ナツのもとに弟子入りして、産婆となり、久賀島で活躍なさったそうである。

ワサの後に待ちに待った長男が誕生した。マシの望み通り、神学性になるが病気になり、叙階される前に帰天したので、司祭誕生の望みは実現できなかった。しかし利惣次の孫からすばらしい伝道士が誕生し、またその息子から司祭が誕生することになる。

利惣次は、細石流の大敷網に鮪の大漁があった時、長崎運送に雇われ、船夫として長崎に入港した。当時、長崎にはコレラが発生していたので利惣次それに感染し、亡くなった。その孫の惣次は司祭になりたい望みをもっていたのではないかと思われる。惣次が小学校を終えた時、堂崎の伝道学校へ入学することになり、よろこび勇んで行ったそうである。

この伝道学校は、出口市太郎神父が堂崎に赴任するや、伝道士養成の必要を痛感し、早速伝道学校を建設して伝道士養成を始められた。3年間の教育は、その当時としては最高の養成であった。教理の学科では、その当時の大神学校で用いたような過程のものを用いて深く教え、修得させている。この伝道学校を卒業した人たちが下五島地域の諸教会で大きな信仰育成の効果を上げている。畑田惣次と猿浦の畑田要助もこの伝道学校の同僚であった。久賀島の他の地域にも数人の伝道士が誕生し、それぞれの地域で新との信仰教育と秘蹟・典礼が熱心に促進されていった。

惣次は若い青年でありながら細石流地区の信徒のために伝道士の使命を生き抜かれた。彼の日記に目を通しながら、信徒であり、また伝道士として教会、典礼、祈り、秘蹟、要理教育、自分と家族の生活のために全力を注いでいた姿が想像される。しかし、頑丈であったにもかかわらず病にたおれ、松葉杖に頼る身となり、将来を考えねばならなくなった。当時の五島の生活では経済的に大変であったが、昭和14年頃に上京し東京高等針灸医学校で勉学と実技を身につけ、16年3月に卒業した。山形県と茨城県で、針、灸、マッサージ術の試験に合格し、指圧針灸師の資格を取得し帰郷したが、1610月に再び上京し、先生の下で修業に励んだ。

174月、父・栄作の帰天のため、帰郷する。その後、家督を継ぎ、伝道士としての使命を果たしながら、指圧針灸で島民に奉仕されていた。

いつも温和で、教会での奉仕を第一としていらっしゃったお姿が懐かしく思い出される。帽子をかぶり、松葉杖をつきながら、笑顔であいさつして下さるお姿に、うれしくなるのが常であった。修道院に入会後、夏休みに帰郷した折ご馳走して下さり、別府から東京に移動する時に、父と修道院まで面会に訪れてくださって、別府の地獄巡りを共にしながら別れの日を過ごしたことが思い出される。その頃、久賀島では農業で生活を営めなくなりやむなく島を離れていかざるを得なくなった。畑田惣次も専門の仕事を生かしていくために、別府に引っ越されたのであった。その後は、生前の惣次さんにはお目にかかれず、30年後に別府の墓前で、祈りの中で再会した。

先祖によってしっかり受け継がれた信仰生活が、細石流を中心に活き活きと保たれて行ったのは、畑田惣次さんの深い信仰と堅固な教義によるものと感謝のうちに思い出さずにはいられない。

島民の命の母・産婆 畑田ワサ

浜脇教区の伝道士他

若い力で信仰生活に活力を与える

最後列右端が畑田惣次

 
 

昭和七年四月一日

 

◎玉之浦ルルドに於ける出来事

 玉之浦井持天主堂の側には、ルルドの洞穴を模擬したものがあり此処に参詣して、聖母マリアに祈り、その御恵みを蒙るものが往々あるという話である。最近同天主堂の主任司祭島田師はその事実を取調べて、教報社に送られた。固より教会の正式な取調を経たものでないから、之を奇跡だ等と断言するのではなく、ただ報道のままを茲に掲げて置くまでに過ぎない。

1―白濱しよ―長崎県北松浦郡小値賀村野崎島字野首なる、フランシスコ白濱要吉の妻シヨは、一千九百三十一年で四十四歳になるのだが、幼き頃より胸につめ込む病(胃痛?)に罹り、長じても平癒しなかった。其上十二年前三十二歳の時に幼児キヤを出産せし頃より血の道の病に罹り、之も全快は愚か、益々重症に赴く一方であった。

右両病の為に多年悩みに沈めるシヨは此の上医薬に頼みを置かずルルドの聖母マリアに縋るべく意を決し、終に一千九百二十九年六月に井持の洞穴に参詣し、熱心に祈っていたが、九日目の睡眠中、突然何者からか胸部の肉を右の方に引き裂かれたる心地がした。其痛みに驚いて目を覚まし跳ね起きた時は早や両病とも全く回復した。それまでは参詣中でも、ミサ拝聴にすら行きかねていた病人が、翌朝からは難なくミサを拝聴する事が出来た。依って其の後四日間、全快の感謝をなし、十三日目に帰宅した。帰宅後今に至るまで前期の両病は一回も再発しなかった。依って一千九百三十一年四月十三日感謝の為再び井持へ参詣し、島田師に頼んで、感謝のミサを献げた。

2―中村志げ―長崎県南松浦郡久賀島村字上平のマリア中村シゲは一千九百三十一年で四十八歳になるが、十七歳の時、即ち今より三十一年前に椿樹に上り、実を取ろうとして高さ一丈の所より平石の上に落ち、左目の上の毛際より上部を強か打ち、三年間は身動きさえ出来ずに病臥していた。其間には井持のルルドの聖マリアに参詣したき望が湧き上がっていたが、そんな体ではどうする事も出来ない。しかし三年目には叔母の峰サノに伴われて井持のルルドに参詣した。九日目にはまだ全快したのではないが、何となく体が自ずと軽快になり、帰宅の上では労働も少々出来るようになった。

翌年も参詣したが前年同様、身軽くなるのみであった。又その翌年(一九〇五年)は四カ月間も井持に留まって聖母に祈ったが、其四ヶ月目の終に突然以前の如く身動きも出来ない様になり、常ならぬ苦痛を感ずること三日間、其三日目の昼、眠ったでもなく、夢見たのでもないが、突然嬉しくなり、又実際聖マリアを見たのでもないが、何となく聖母マリアに面談してる様な心地になり、言葉に述べ尽し難い程の喜びに溢れ、病はすっかり全快してしまった。それから二十六年間、即ち一九〇五年から一九三一年まで一回も再発したる事がなかった。

 前記のマリア中村シゲは六十年前、久賀島村での迫害の際、牢死した、タキ、サモ、シモ、モヨ、この四人の妹である。サモは死に瀕して其母に遺言し、「祈る時は、基督様の御傷に対して祈りなさい。そうでないと助かり難い。私は先に行きお母さんの為に座を備えて待ちませう」と言った。然らば後で生まれた可愛い妹にも基督様の御傷を味はせたくて怪我をさしたのではないだろうか。


  
   
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