清水師回顧録

清水神父様、安らかに…

病気療養をかね、お告げのマリア修道会十字修道院で引退生活を続けておられたドミニコ清水佐太郎師は、老衰のため去る10月9日聖フランシスコ病院で帰天された。85歳。清水師は生涯の大半にわたって健康に恵まれず、司祭生活の労苦と闘病という、二重の十字架を背負って歩みつづけた一生であった。師の幼子のような単純な人柄はさまざまなエピソードを生み出したが、それだけに多くの人から親しまれ愛された。葬儀は10月11日午後2時から、浦上教会でしめやかに行われ、浦上の赤城聖職者墓地に丁重に葬られた。

 

略暦

明治29年12月9日、

長崎市辻町に生まれる、

大正15年3月7日、

大浦天主堂で司祭叙階、

昭和2年3月中町教会助任、

昭和3年10月青砂ヶ浦助任、

昭和4年、浜脇教会主任、

昭和9年11月蔭ノ尾主任、

昭和11年、大平教会主任、

昭和14年6月、鹿児島教区川内教会主任、

昭和16年7月、長崎教区三ツ山教会主任、

昭和23年大平教会主任、

昭和40年病院引退、お告げのマリア修道会十字修道院にて療養。

昭和57年10月9日、聖フランシスコ病院にて帰天。

10月11日、赤城聖職者墓地に埋葬。

 

神学生諸君へ

清水佐太郎

私の様に老境に入る司祭は、後輩の続出の必要を痛感せずにはおられません。今年も、司祭になることを志して入学される方の多くあることを期待し、また喜びつつ、老婆心をも顧みず彼らにお願いしたいと思います。俗世間をはなれた神学生生活にも、思わぬ難関があります。勉強の辛さ、生活の窮屈さ、学友の、或いは世俗の快楽の誘惑等々。これらは純心な神学生を惑わします。しかし、このような時こそ、不撓不屈の精神、確固不抜の信仰をもって戦いぬき、初志を完徹せねばなりません。

聖ヴィアンネ師を思い起こして下さい。彼らは革命によって荒らされたフランスの教会の姿を見て、司祭職への召命を感じ、おそまきながら勉強を始めましたが、ラテン語の修得は思うに任せず、遂には大神学校を退学する憂目を見ました。しかし、この悲しみにも屈せず、恩師パレー神父様の下で、血のにじむ勉強を続け,信心と苦業に励みました。遂に、その模範的な信心と熱心が認められて司祭になってからは、数知れぬ人々を聖なる生活に導き、自分は聖人になりました。長崎教区でも、今は故人になりましたが、勉学の困難にもかかわらず、その信心と、特に従順の徳故に叙品され、模範的司祭生活をされた人を私は知っています。どうか神学生諸君、ヴィァンネー神父様の克己忍耐、不撓不屈の精神を学びながら、司祭職への初志を完徹して下さい。

(筆者・大平教会主任)

 

金祝

清水佐太郎

ドミニコ清水佐太郎師

明治29年(1896)年浦上生、大正15(1926)年3月7日司祭叙階、80歳、任地は中町、青砂ヶ浦、久賀島、蔭ノ尾、鹿児島、三ツ山、大平。十年ほど前引退して、現在、お告げのマリア修道会(旧十字会、長崎市辻町)で余生をおくっておられる。朝5時前に起床、自室でミサを捧げ、隣の浦上養育院の子どもたちを相手に遊ばれ夜9時就寝という日課。三週間に一度十善会病院に、一週間に一度聖フランシスコ病院に出向いておられる。金祝祝賀会は、4月29日、浦上修道院聖堂で浦上出身の司祭たちと共同司式ミサをささげられ、親族、シスター方、信徒の方がたと喜びを共にされた。
 

思い出の記

 

神学校入学のころ

清水佐太郎

 わたくしの幼い思い出の中に、十字架山がよみがえる。それは悲しみの節と昔は言われていたもので、今の四旬節に当たるのだが、この悲しみの節になると、家でもあまり歌もうたってはいけないとやかましく言われる程、キリスト様の受難ということがかなり強く守られていた。畑仕事を終えた後、金曜日にはかならず、家族そろってこの十字架山にのぼっていた。悲しみの節は、だから、幼いながらも、いくらかは、キリスト様のこと、家とは結びついていたように思うことがある。いよいよ、聖週間になると、この山にのぼる信徒たちが一段と多くなり、信仰の山、祈りの山となっていた。聖金曜日の夕方は、毎年ながら、立派なお月さまがこの山をほのかに照らし、灯火をさげて、のぼる必要はなかった。

 いよいよ悲しみの節の終わりは、ハタ上げの祝い日がやってくる。キリスト様の復活祭である。どうしてか、浦上ではキリストの復活祭をハタ上げの祝い日と、小さい時はきかされたものである。春風にのって,意気揚々とおどるハタのすがたが、死にうちかって復活したキリスト様の喜びを表しているからだろうかそれとも、復活祭の喜びは大空のかなた天国への勝利を意味しているとして、ハタが春風にのってまいあがるように信者も復活祭のお恵みによって天国へとのぼることを意味しているのだろうか。このハタ上げの祝い日は、大人も子供も、しめっぽい悲しみの節からの解放と主の復活祭の喜びとを、ことさらもり上げるに十分であった。時代は明治である。

 

わたくしが9歳の美少年の昔といえば、明治38年のころである。浦上ももの静かな村落として、畠あり、田あり、田ありのどかな田園風景をかもしだしていた。そのような浦上のあちこちでハタがあげられていた。今もって、主の復活祭のハタ上げのスナップは、私を60年昔の楽しい追憶へと時折、つれもどしてくれる。十字架山のふもとに平といわれる村があった。そこが私の生まれた里である。家は百姓であったが、父は農繁期以外は人力車の車夫として、走りまわっていた。今でいえばタクシーの運ちゃんともいえるが、その苦労は車夫の方が大きいものだったと思われる。よく家ではコンタツ(ロザリオ)を朝夕となえていた。母も人並みの信心をしていたとおもわれるし、今思えば父母のそぼくな信心が、私を司祭職という聖い召し出しに導いてくれたと思っている。

 

十字会でミサがある時はよくミサん使いをしていた。私は身体が小さくて赤いス―タンをきることができなかった。赤いスータンのかわりに、赤い腰巻を脇の下にまいて、それでミサにつかえた思い出がある。はずかしくて、赤くなった一面もある。しかし、ミサん使いだけは、おこたらなかったそのことが、神父様と親しくなるチャンスであり、神学校にはいる機会ともなったのだから、ミサん使いの子供の受ける恵みも大きいのである。

大浦の神学校にはいりたくて父につきそわれて大浦へいった。しかし、長男だった私は家を相続する義務があるということで、神学校には入学できないとの返事だった。14歳になっていた私は、オケ屋の弟子として、腕一本をみがき、それに生きる運命に流されようとしていた。神のみせつりをはじめて身にしみて考えはじめていた。

(文責      坂谷)  小神学生時代の清水師

 

思い出の記

 

小神学校入学

清水佐太郎

オケ屋の弟子になる運命をなんなく受け入れるわけにもゆかなかったが、父がオケ屋で身をたてるのが、将来の生活のために良いということだったので、承知しないわけにもゆかなかった。その時は、今のように軽くて便利なバケツなど、見当らない時代である。それからの要品はオケ屋がにぎっていたから、父の見通しもまちがってはいないわけである。ゲタをつっかけてガランゴロン音をたてながら、浦上の下へ歩いていった。第2の人生として、今考えられることはオケ屋の弟子になることしかないのかと思うと、淋しいものが、私の心をとりまいた。負けてたまるか、オケ屋で腕をみがき、この浦上の家が使う桶は、おれがみんなつくってやろう、そう思いなおすのだが、心のそこまでひびかないのか、ぴりっとした心のひきしまりがなかった。こんな心のわびしさを吹きとばすことが起った。神様のみせつりとは、本当にはかりしれないものである。

 

今まで長男は家のあととりだから、神学校へは入れないといっていたのが、長男でも神学校入学がゆるされるというのである。半信半疑とはこんなことを耳にした時におこる心理状態をいったものと思う。ふさいでいた気持ちが明るくなったし、また、神学校へ入学したい希望が強く湧いてきた。父につれられて、大浦へいった。ガラシー神父様が校長だったが、「今度は長男のあなたも入学してもよい」といってくれた。私もうれしかったが、父も同様に喜んでくれたことが、昨日のように今もうかんでくる。その年には、山口司教様も一諸に入学された。大司教様もやはり長男だったとおぼえている。父が私が司祭になるか、どうかもわからない小神学生の時から、「お前の初ミサをおがみたい」といっていた。その父も、47歳の若年で帰天してしまった。父の死は私が21歳の徴兵検査の日だった。みんな21歳の祝杯をあげるめでたさにこおどりしていたが、つめたくなった父のそばで、私は涙のわかれをしていたことを記憶している。私にとっては大きな試練だった。明治という時代は、家の相続は長男がするという時世だったからである。

 

ガラシー校長は、母が一人で百姓をするのはたいへんだろうと思ってか、田畑の仕事がいそがしい農繁期には、母の手伝いにかえるようにいうので、いわれるままに、母の畑仕事を助けに神学校から自家にかえるようなことも何回かあった。長男とはやっかいなものだ。長男に生まれていたがため、あやうく神学校を止めさせられようとしたことがある。それは、その当時、浦上の主任をなされていたラゲ神父様が、「清水が神学生でいては、家がたたんといって、神学校からだすように」ガラシー校長に話しにきたことがある。この時は本当につらい思いをしたし、せっかく入学した神学校からだされるのではないかと、小さな胸をひどく痛めたものだった。しかし私は、その時すでにミーレスを受けていた。そのことを理由に、ガラシー校長神父様はその話をことわってくれた。そして三番目の吉郎が、法的に家をつぐことに話がまとまり、うるさく私にまつわりついていた長男の座としての相続の問題も、ようやく終わった。これで私は神様が示して与えてくれたわが道を進むことができるようになった。神学校では、松岡司教様と一諸にガラシー校長の部屋の掃除をしていた。松岡司教様は私よりずっと上級生であったから机やその上の方を、私は床を掃除していた。金曜日は床をふく日だったが、その日になると、床の上に一銭や五銭がばらばら散らばっていた。どがんしてこんな金が掃除の日になると落ちているのだろうと妙に思っていた。

(文責 坂谷)

 

思い出の記

 

大神学校時代

清水佐太郎

大神学校時代の思い出の中には、なんといっても、ガラシ校長神父様にまつわるものが多いようである。家庭が父によって支配され、形成されていくように,大神学校はガラシ校長のカラーでもって支えられていたかもしれない。ガラン神父様はきさくな人だった。つくろったというか偽装することがきらいな神父様であった。その当時の風潮は、「三尺さがって師の影をふまず」といったもので、先生と生徒の間に、いくらかの間をおくのであった。それは、教える先生という立場はいくらかの威厳がいつも要望されたし、その貫録はいくらかの師弟間とのへだたりのなかに保たれることは、平凡ながらも、ひとつの常識とされていたが、ガラン校長は、師弟の間にへだたりをつくらなかった。遊ぶのも生徒と一緒だったし、散歩もまた生徒と一緒になされた。ある人が、すこしは校長としての威厳も必要だから、生徒と一緒にいつもいるのは、あまり良くないからといわれても、自分はこの方がいいだからといって、いつも神学生とテニスなどして遊ぶ時間をすごしていた。右も左も自由にラケットを持ちかえてやるのだから、かなり以上のスポーツ感もあったのだろう。

今でも、40年昔のガラシ校長の陽気なテニス姿が、思いだされ、ふと「それは、あんたのボール」といって、むずかしいボールを相手にまかせていた茶目気なポーズがしのばれるのである。大正14年、1月6日の私の日記帳をみると、その日、校長神父様が大神学生になされた訓話がある。聖堂内の礼儀、校内における沈黙といった月並のことはもとより、良書を読め、時間を重んずるように実話をしてくださったことを認めている、たしかに、神学生にたいする躾は、将来のことを考えながら、きびしくあったが、当てを得ていた。欧州大戦に召集されて、途中で除隊になり、元気な姿で大神学校におかえりになった。その時、お土産としてもらったのが、風船まくらだった。これは長いこと愛用させてもらった。

大神学校の勉強というものは、必須科目は、今も昔も同じだから、哲学(論理学、認識論、存在論、宇宙論、論理学、心理学、自然神学)は主として、コンバス司教様が担当された、神学はガラス神父様が担当なさっていた。浦川司教様は日本文学を受けもたれていた。他にも教授はいた。これといって勉強のことについての思い出は、今、すぐはうかばない。日記帳をみればわかるのだが。五島にのこしたままにしている。

今、思い出しても、どうして、あんなバカなことをしたのかと、思うことがある。それは、ある年の夏休みだった。当番で二週間ずつこうたいで鐘ならしや、ミサの使いなどのため、大浦天主堂にきていたころのことだった。アンゼラスの祈りの鐘を日に三度、ならしてやるのが、私のつとめだった。腕時計などハイカラなものはなかった。目覚時計をかりてきて、朝6時、昼の12時、夕方の6時と時計のベルで鐘をならす時間をきめていた。その時計がなったら、急いで鐘へと走るわけである。ある夜、真夜中の12時に時計のベルがなった。私は無我無中で鐘をならしに走り、鐘をたからかにひびかせた。あとでわかったことだがわがいと親しき友のいたずらが、真夜中の12時にセットしていたのだった。今はなつかしい思い出であるが、その時は、たいへんな迷惑なことを信者さんにかけたということで、会わせる顔がなかったほどだった。

 
 

思い出の記

 

司祭生活

清水佐太郎

桜がつぼみをつけ、春の息気があたりをとりまいていた。私が待ちに待った日は、生涯のうちで、もっとも記念すべき日司祭の位を受ける聖い日も、目の前にせまってきていた。大正15年3月6日、春の夕暮れ時、私は一人、父の墓前にたっていた。それは、明日の司祭叙階を、まず、父の墓前に報告したかったからである。小神学校へ入学するようになり、明日の司祭の位をうけることになったのも、長男としての私のわがままをゆるしてくださった、父の寛大さがあったと思うからであった。両手を合わせて、心から父の永遠の安らぎを祈って、神学校へかえってきた。夕食が始まったが、あまり食欲がない。みんなもあまり食べていない。長いこと待った喜びの日が、目の前にちらついているからかもしれない。

夕の祈りと黙想をして、床についたが、ねむれない。とうとうねむれないまま、司祭叙階の朝をむかえてしまった。3月7日、5時起床、校長神父さまと大浦へむかう。もちろん、歩いてである。今のような乗り物はなかった時代である。8時30分、叙階式が始まった。大浦天主堂には、多数の信者があつまり、外にあふれるほどだった。「あなたは永遠の司祭である」。その声は私の心に強く弱く、くりかえし、くりかえし、こだましていた。式は終わった.待ちに待った司祭になった…。永遠の司祭であるそう思う時、喜びが胸をしめつけていた。男は涙を見せないという。顔で笑って心で泣くともいう。だが、それをこえる時もある。私は喜びのあまり、顔で笑いながら、心で喜びながら、涙がとめどなく流れた。本当にうれしかったのである。キリストの後者となって、福音をつたえることができる司祭になったこと、神の秘跡をつかさどる権利をあたえられた者であること、思うぞんぶん、天国のために働ける者となった、ことである。

 

3月7日は、浦上で初ミサ。感こもごも私をつつむ…。午後、病床の伯父を訪問、告白を聞き、明日の聖体拝領の準備をさせる。私の最初の司祭活動であった。母や弟姉妹たちと祝いの杯をかわす。長い間、祈りや犠牲をささげてくださった方との顔をながめる時、深く頭をさげざるを得なかった。これからの生活のためにも、親類や見知らぬ人が、私のために祈ってくださる。その助けが何より必要である。そう思って、みんなにこれからも、祈ってくださいと一人びとりにねがった。司祭になった7日目の3月12日に、私は助任司祭とし中町天主堂へ着任した。主任として島内神父様がいた。司祭生活で一番、最初につらいと思ったのは、日曜日の説教だった。夜おそくまで、それに費すこともあったが、はりのある苦労だった。ある思い出が今でも私の頭をかすめることがある.助任として中町にきて一月もたっていただろうか、島内神父様が他の教会へ御ミサの為にゆかれて、私が留守番だったちょうど、その日は日曜日だった。説教の準備をして、のどがかれていたので、水でのどを洗っていた。それをくりかえしていた時、つづけさまに水を一口、二口とのんでしまった。ちらっと窓をみると信者が聖堂へ御ミサにきているではないか。その時、私の頭に血がのぼるのをおぼえた。私はスータンをまくりまくり大浦天主堂へ向かって、一気に走った。それは、御聖体拝領前の断食をやぶったからそのゆるしをもらうためだった。今は一時間前までは、水をのんでいいとあらためられているが、その当時は、夜の12時以後は、水さえものんではいけなかったからである。司教様は、信者さんに深くおわびをして、ロザリオをとなえさせなさいといってくださった。私は急いで中町へとんでかえって、集まった信者さんに深くわびた。司祭生活の最初の失敗だったわけである

(文責坂谷)

 
 

思い出の記

 

司祭生活(ニ)

清水佐太郎

私はもともと身体が弱かった。それに司祭生活は過労ともいえる精神的仕事である。当時、司祭はすくなかったし若い司祭は教会から教会へあるきまわらねばならなかった。病人を見舞い、年の黙想会を指導する時は、精神的にも肉体的にも、つかれを感じたものだ。しかも、未熟なかけだし一年生には、なおさらそうである。司祭になって5ヶ月たって、私は金子医院に入院してしまった。背隋の病気である金子先生の手によって手術がなされ、どうにか元気な身体になったものの、一年余りは背骨がいたんだものだ。でも病院は大きなお恵みだった。一年4ヶ月、中町にいて、昭和元年7月に、新しい任地青砂ヶ浦の教会へ任命された大崎神父様の助任として、山をこえ、海をわたる司祭生活が始まった。ある時は、真夜中に、病人の家へ呼ばれる。教会からあるいて2時間もかかる信者の家へ呼ばれる。重病人が待っていると思うと、せまい山道を、ふところにしっかりと御聖体をだいて、夜の道を歩いたこともある。そのような時、心臓がブッつぶれるような怪談の話にでてくるような場面にぶつかることもある。月の夜もあれば、雨がしとしとものさびしく降る夜だってある。どんな天候だって、「病人と呼びだし」があれば、司祭はとびださねばならない。臆病なんって、身をかがめていては、司祭の仕事はできない。あるきながら気はあせるものだ。司祭が病人のところへたどりつくまで無事であるだろうかと…ロザリオをくりながら、病人のことをマリア様にお願いする。

 

やっと病人の家へたどりつき病人の告白をきき、御聖体を拝領させる。安らかな表情が病人の顔にあらわれる。えもしれぬ喜びがわき、2時間もあるいてきた夜のつかれも忘れてしまう。聖務をおえて2時間の山をたどりながら教会へかえる。背骨が熱につつまれたようなウズキを感ずるせまい山道に腰をおろしていこう。朝が東の空にやってくる。教会のミサの時間が気になり、腰をあげる。キリスト様が山でよく祈られたことが、思いだされ、山に親しみを感ずる。朝露が草葉にたっぷりとおりている。神のお恵みが豊かにおりているようである。青砂ヶ浦教会の思い出は、こうして病人と山道につながっている。そうこうしているうちに、また新しい任命書がとどいた。今度は久賀島教会へゆくようにとのことである。昭和2年11月、主任として久賀島へわたった。その当時、久賀島にはベエイョン神父様が建てた小さな教会があったが、信者のためには小さすぎた。そこで、新しい教会をたてることになった。

 

金は7千円あったが、計画した教会をたてるのには、不足していた。そこで、信者は山を売って、積み立てていた金をおろして、資金にしてくれたし、私も、あちこち建設資金のため、お願いにまわった。金子建設の金子さんにも非常に協力され,森建築家が仕事をすることになった。信者たちは全員、砂、バラスを浜からあげるし、ある者は、敷地造成に精をだしていた。あの時の信者の一致協力があれば、なんでもできるような気がする。敷地ができあがった。教会をたてる前に、信者の運動会をしようというので、盛大な運動会をしたものだ。自分たちの手で敷地を造成し、これから教会がたつその土地で、信者は喜びに喜んではしっていた。昭和5年5月3日、2万6千円を投じて、百坪たらずの鉄骨コンクリートの丈夫な教会が浜脇の丘に姿をみせた。(文責・坂谷)

 

思い出の記

(最終回)

司祭生活(三)

清水佐太郎

40余年の司祭生活を思う時、神への感謝で、私の心はいっぱいになる。たしかに、私の力の不足や欠点などのため、神から与えられた、数多くのお恵みに、十分にこたえなかったことは、いくたあることは、認めている。その点、心から神のみ前でおゆるしと償いの毎日であるようねがっている。そうした毎日が、今の心境の私にとっては、安らかな気持ちさえ与えてくれる。神のみ前で、無力さを認めることができることはこれも神のお恵みのひとつであり、さらに、大きなお恵みだと考えている。

この長い恵まれた司祭生活のなかで、いくたの先輩、聖者等のように、神の聖心を喜ばせる大きな事績は、何もしなかった私である。せめて、この不肖なる私が、神の聖心にかない、そのお気に召すことができるものがあるとすれば、弱い自分自身を認め神のみ前に、自分の無力を語り、へりくだる者となることだと、私は知るようになった私にとって、神は偉大な、そして思いやりのある父であり私はその小さな子供であるのだ。父の背によりかかる無力な子供の安らぎを、私は求めつつ、この残された人生を送るよう、つとめたいものだ。もう一度、もし、私が生まれてくるなら、何になるかとたずねられるとすれば、私は心から、もう一度、司祭としての生活だと答えよう。たしかに、わがままとか、経済や生活の面では、司祭の生活にはニガ味は、いっぱいある。自己の人間的要求をのりこえなくてはならない。しかし、そのようなニガ味があったにしても、人間の心に、救いをもたらす司祭生活は、さらに多くの生き甲斐を、私に与えてくれたからである。

 

人生にはチャンスがあたえられる。その好機をいかに生かすかによって、人生は大きく左右される。そのチャンスは神のお恵みである。スポーツ好きな人なら、このチャンス到来の場面をよく知っていることだろう。野球でいえば一打が出るか、ヒットになるかで、その試合の勝負がきまる場面がよくある。追加点のチャンスもあり、逆点のチャンスもある。その場面で観客はかたずをのんで、その動きを注目する。そのような場面が、人生にもある。神はお恵みという、好機を送る。そのチャンスをいかに生かすか神はよくごらんになっておられる。その好機を生かすも遁すも、人間の自由意志にかかっている。その意味を考える時神のお恵みへの協力、これは大事にしなくてはならないと私は考えるようにしてきた。しかし、いつまでも力んではいけないということである。私にあたえられた能力、天性というものは、私なりのものであり、他の人とはちがったものである。すみれ草はスミレの花をさかすことが天性でありスミレ草が、バラの花を咲かすように力んでは、おかしいように人は、神から与えられた、それぞれの天性や才能をよく知り、そのなかで、独自のものをつくりだすことが望まれている。それが人間完成であろう。スミレは花の中では平凡な花かもしれない。しかし、スミレはスミレの花であってこそ、天性をはっきりすることになる。めだたぬ花ではあっても、一生懸命にスミレの個性や特徴をだすようつとめていてこそ、スミレはその花として、価値がある。

私が思うことは神のせつりはタナからボタモチといった安昜なことではない。神からあたえられた天性や能力に、さらにすぐれた神のお恵みに協力し、努力して、あたえられたものが、本当のせつりだと思うことである。長い人生とも思えるし、生まれたばかりの幼稚な人生にも思える。えらいことはいいえない。つえをつきながらも、よちよち歩きつづけねばならない。佐太郎に与えられた、わが道をおりなすたまである。お祈りください。

(文責・坂谷)

 



  
   
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