峰 徳美主任司祭

 

ミカエル 峰 徳美 神父 経歴

1937(昭和12)年  3月23日生まれ

1962(昭和37)年  3月19日 大浦天主堂で司祭叙階

         同年  4月 稲佐教会助任

1963(昭和38)年  4月 中町教会助任

1966(昭和41)年  8月 紐差教会助任

1968(昭和43)年  3月 浜脇教会主任

1971(昭和46)年 10月 大曽教会主任

1983(昭和58)年  3月 稲佐教会主任

 
 
 

ひとこと

 

昭和4621日、 教報  峰 徳美(浜脇)

 元旦、信者一同鐘の音と共に平和への祈りとあいさつを交わす。ミサのあと、張り替えられたばかりの真白な障子を開け乍ら次から次へと新年のあいさつまわり。次第にフラフラの態になる者のあり。日く。これぞ、ほんものの平和の、あいさつばい。

 

二日、初春の海おだやか。はやくもホロ引き船が浮かぶ。大漁旗をなびかせながら正月気分は上々。はやりの公害も知らず、ライバル意識もなく、おべっかもない。思う事は、ただ、かぶりつく正直な魚のことだけ。

 

四日、瀬戸は大荒れ、潮騒の音を聞き乍ら、出稼先の子供達からの便りは、いつもかわいく、うれしい。“神父様、日曜日のミサも信仰もまだ元気にしていますからご安心下さい”。

 

六日、神父様を見送る。六十一歳の春とはいえ東へ西へ又西へ、お忙しいご栄転である。聖霊は、あやまることはない。

 

九日、沖縄から便りがあった。“心から平和に向かって掌を合わせる”、と、ひとこと。恵まれた環境のなかで、いとも易すく、口ばしる、平和の名が余りにも価値なく、迫力もなく、やたらに、きれいごとに、きこえてならない。自分のからだでおぼえたものでなければ人に迫るものがない事を痛感する。人からの、かりものは安っぽいばかりか、けいべつを誘う。

 

十一日。本土へ新年のあいさつにゆく。世の大人達は遠慮しながら話をする。賢いからだとか・・・・。現実を話すには他人の首ではなく、おのれの首をさし出さねばならぬ。今年も大人の心は変わらないのだろうか。

 
 

現実の神を知る  

仲町教会助任 峰 徳美  教報、昭和4031日 

 

信者発見百周年をむかえて祖先の信仰をお護り下さいましたマリア様をはじめ、当時の神父様方に心から感謝を申し上げましょう。又私たちの家族からの親せきの中からの或いは同じ郷里出身の先祖たちの勇気ある信仰に敬意をあらわそう。その子孫である私たちは、この信仰を守り伝えて下さった先祖に恩がえしをしなくてはならないのです。その恩がえしの一つとして、もう一度私たち自身の信仰を調べてみる必要がありましょう。

 

わたし達の先祖は信仰を第一、つまり神様を第一とし生活はその次ぎでありました。それは神様の特別の聖寵をうけていたから彼等は勇ましく信仰を守ることが出来たのであって現代の私たちにも同じ聖寵が与えられるならば、私たちだって立派な信者となれるのだ、と云う理くつがとおるでしょうか。或いは又時代が時代で現代人のように生活に追いまわされなくとも結構食べていけたからでしょうか。神さまの聖寵は私たちの心がけしだいであることを決して忘れてはなりません。又先祖たちは生活に追いまわされるどころか、自由に信仰を守ることが出来ずしかも私たちのように立派な教会や司祭にも恵まれていなかったのです。にも拘わらず信仰を守り通すことが出来たのは聖寵はもちろん、神さまを現実なお方としてよく知っておられたからに他なりません。

 

私たちもひるがえって神さまを現実なお方として知り、理解することから始めましょう。考えるに私たちは、ほとんど赤ん坊の時に洗礼をいただき、もの心がつく頃には神様のお話しをききました。天国が花園であって楽しいところであるのに反して地獄はこわいかっこうをした、たくさんの悪魔がはねている火の海だときかされました。そして別に悪いこともしないのに地獄のこわがっていつもお祈りしたものでした。この恐怖心が大人になりお年よりになると更に強くなり本来の神さまの慈愛を忘れてしまい、むしろ正義の神さま、罰し給う神さまだけを現実に考えて来たようでした。

 

その結果は神さまを愛するからこそ天主の十戒教会のおきてを守るのではなく神さまの正義の罰のみをおそれて掟を守ろうとしたようでした。これからは今までの考えを切かえることにしよう。神さまが私たちを限りなく幸せな天国へ引き入れて下さろうとしている、いつも、そばにて見守っていて下さることを現実に知らなければなりません。そしてこれからは神さまを、はるか雲のかなたに、遠い天国のかなたに住まわせず、私たちがいる家庭の中に学校の中に働きの場所、私たちが至るところに一緒にいて下さることを強く信じよう。

 

このようにして、はじめて私たちは一日の朝夕のお祈りにも実感をもつことができるようになるのです。毎日のミサも日曜日ミサもギムの観念は全くなくなりましょう。そして食卓につく子供たちにも神さまえの感謝の祈りを忘れさせはしないでしょうか。現在これほどまでに熱心になっている学校の勉強と同じ力こぶを入れて神さまを知るための勉強にもあたるでしょう、又私たちが世間の生活に朝から晩まで関心をよせているように魂の生活にも注意を払うようになるでしょう。

 

信者発見百周年をむかえた私たちは、新しい信者発見にその熱意を盛あげようと努力しています。司祭も信徒もわけへだてなく布教の責任を課せられているからです。しかしここで考えを誤ってはなりません。現在の私たちが新しい信者を発見しようと努めるならばまずわたし達自身の枯れた信仰を生かすよう、さびた心に気ずかねばならないのです。

 

多くの世間の人達は教会から出て来る信者たちが本当にキリストの愛の教えをその日常の態度にあらわしているか、どうかを眺めるのです。そして日頃の立派な信者の態度を眺めた時はじめて彼等は教会の教えを尊敬し、興味をもつようになるでしょう。このような努力こそ新しい信者発見への努力だと確信するのです。

 
 

ロザリオを生活に託そう 

仲町教会助任 峰 徳美 

教報、昭和40101

 

わたしは熱心にロザリオを唱えるすべての人々に、とくべつの保護と大いなる聖寵を約束します。又けいけんにロザリオを唱えるものは不運に圧倒されたり、あるいは不幸な死をとげることはないでしょう。罪人は改心し義人は恩恵にはぐくまれ、かつ永遠の生命にふさわしくなるでしょう。聖母は、私達に約束なされました。ところでわたし達はさきほど、信者発見百周年をお祝いしました。そのとき先祖の信仰生活をよく知らされました。長い間ひたすら秘跡をもとめ、司祭の来訪を待ちこがれて耐えぬいた、きびしい生活を見せつけられました。そのかいあってついに聖母のご像の前でかれらが切に願い求めていた一人の司祭と直接対面することができました。これは偶然ではなく聖母に祈りをつづけていたからこそ、御母が司祭の下へ彼らを、みちびき案内して下さったのだという美しいお話をききました。

 

そうですかれらは朝夕の祈りを大切にするかたわら、ロザリオを手放すことを忘れなかったのでした、かれらはこの信心が聖母に対して最も美しい、効きめのあるお祈りであることを知っており、又つよく信頼していたのです。浦上のあるおばあさんが役人に身のまわりを調べられた時、頭のまるまげの中にかくし入れていたコンタツを見せて頂いたことがありますが、この一事実だけでもそれがわかるようです。わたしは小さいころ田舎で畑のあぜ道に杖を片手に、すわりこんでいる年よりの人を、しばしば見かけたことを覚えています。その老人は右手にコンタツをもち、わたし達がはしゃぎながら近よってもすました顔で一つ一つの珠をみがくように親指で繰っているのです。しかもリズムにのって、くちびると親指が動いていました。あの幼いころの映像がときどき浮かんでまいります。

 

先月の終わりから今月の初めにかけて、私は一年ぶりに対馬の信者を訪れました。年に一度しか司祭に会うことの出来ないかれらは本当に不安な毎日をすごしています。しかし、その不安な毎日を支え、勇気づけ、また、罪の危険から救ってくれるものがロザリオの祈りだと信じています。秘蹟に預かることの出来ないかれらは、毎日あるいは毎日曜日、ひとところに集まってロザリオを熱心にとなえ、来年また司祭に会えることを楽しみに聖母のほごに多忙な毎日を委ねています。俗にいう国境の島、しかも未信者の町の中にただ一軒、あるいは数軒といった、環境の中でロザリオの祈りはかれらの心を清くし純粋にしていることを痛感しました。

 

このように聖母のみことばどおり苦しい不安の生活もこの信心で明るさを取り戻しているのです、そして、これが今いきている私たちにどうしても大切であります。現代は平和なようであって、その実つねに不安を人々の心に投げかけているといわれます。私達のそばでは戦争がおこって、人々を恐れさせています。各国の首脳は平和を呼びかけ、骨折っているにも係わらず一こうにらちがあかないといったありさまです。

 

世界を、社会を、ただ人の力で支配していこうとするところに無理があるようです。今こそわたし達信者だけでも人の知力にのみたよらず平和の元后に信頼してお願いしょう。しかも最も効果あるロザリオによって平和を与えて頂こう。わたし達一人一人のこの信心はこのロザリオの力は各国の首脳たちの演説より、その労苦よりはるかに力があるのです。神様はいつも人を救おうと望んでいらっしゃいます。そして人を救うために人からのギセイを求められますすべての人を救うために、キリスト様は十字架のギセイになりました。

 

日本の教会に新芽を萌やすために二十六聖人は鮮血をながしました。わたし達に信仰を遺してくださるために、先祖は迫害と拷問をうけました。わたしは見すごすことがあります浦上の数多くの信者が原爆で燃えつくされて、いけにえになり、おそろしい世界戦争が聖母の大祝日に終わり、日本に世界に平和がやって来たということ。

 

このように乱れた世を神様はいつも救われますが、そのつど誰かが何かがギセイとならなければならない。現代の行きつくところを知らない文化の発展ぶりはよしとして道徳のすたれぶりを神様は救おうと思召されていることでしょう。それならば又何らかの方法で私達に救って頂けねばならないのです。又戦争で多くの人が死ななければならないのでしようか。いや、もうこれまでで充分です。それならば最良の方法の一つとして聖なる母へ熱心なロザリオを捧げて現代を救って頂きましよう。“ロザリオもて平和を祈れ”と聖母はわたし達の心につよくささやかれているのです。十月はロザリオの月です。各教会で行はれる信心業に熱心に預かるよう心がけましよう。

 
 

50年前の「感動の出発」を心に

植松教会主任司祭、峰 徳美

 

いまから、50年まえの昭和245月、ザべリオ日本渡来400年祭に当たり、ザべリオの聖腕が大浦天主堂の「信徒発見の場」となったマリア様の祭壇に安置された。当時大浦公教小神学校に入学したばかりの私は、ザベリオの聖腕のまえで祈った。この頃,稲佐信徒の皆さんは、ザベリオのあつき心を胸に、稲佐教会建設に向け苦闘していた。原爆ですべてを失い、失意のドン底にあったにも拘らず信徒の皆さんはジエロからの出発と云うよりもマイナスからの奮起であった。

 

まず、教会敷地さがしに、あちこち駆けまわる。数ヶ月にもおよぶ奮斗のすえ、土地確保できた時のみなの喜び。次に、建設資金、各自の負担金、寄付金の調達など、信徒達は、いくどとなく集会をくりかえす。役員の皆さんは話をまとめるため大変な苦しみをかさね、そして祈った。更に、建築資材あつめに力をふりしぼる。稲佐山復から切り出した木材、石材など道なき道の運搬。男も女も、汗と誇りにまみれた過酷な作業。原爆でやられた瓦れき道ばたの石ころ何一つムダなものはない。教会の石垣のグリ石として役立った。

 

こうして稲佐の地に、はじめて建つ教会の姿を夢みながら、皆で汗を流した。よごれた体にも、美しい汗が光っていた。こんな重労働のさなかにも、債権者からの矢のようなお金のさいそくがあり、まさに十字架に釘をうたれる思いだった。時には信徒皆で決めた事項にもかかわらず、いつのまにか、反対する人が現れたりして役員たちは苦しみ、悲しい思いをした事もあったという。

 

こんな時、家族の励ましが唯一の力になった。時あたかもザベリオの聖腕が浦上天主堂の焼け跡に捧持され、盛大なミサがささげられた頃、稲佐では教会の外観が出来上がり、待ちきれないように落成を行なった。歓声がおこり、苦しかった日々を思いだし、多くの信徒たちが涙した。それから昭和254月、自分達の手でつくりあげた教会の献堂式が行なわれた。子供、孫たちに誇れる汗と涙のにじんだ聖堂が出現したのだった。これこそ信仰の証しの聖堂であった。このかけがいのない聖堂を見上げて、かんがいにふける間もなく信徒たちはこの聖堂に魂を入れるべく、信徒職活動へとうごき出すのである。

 

信徒たちはまず、家族の信仰、生きた信仰、活動する信仰へと新たな使徒職の組織づくりにはげんだ。時はすぎ、稲佐教会創設12年目の昭和374月、稲佐教会は中町教会から独立して稲佐小教区が誕生した。時を同じくして私は司祭になり、最初の任地が稲佐教会となった。ところが、もうこの頃からあれほど辛苦して建設した教会も使徒が倍増し、また新しく大きい聖堂の必要に追われたのである。

 

以来,新聖堂に向けふたたび大きい試練がはじまるのである。創設当時とは、また異なった、さまざまな困難があったことは云うまでもない。主任司祭を中心に選出された役員、そして信徒の皆さんは一致団結して、わずか稲佐教会創立21年目にして鉄筋コンクリートの四階建ての教会を堂々と完成落成させたのである。まさしく活動する教会の姿を示すものであった。

 

さらに時は過ぎ、私が稲佐をあとにして、ちょうど20年目の昭和584月、私はふたたび稲佐教会へ、まいもどって来ました。最初の教会が建って12年目に私は新司祭として着任しましたが、この度も新聖堂建設12年目でした。在任中、稲佐小教区独立25周年に当たり、私も司祭叙階25周年を同時に迎えることができ、皆さんの熱いお祝いを承わり感激いたしました。稲佐教会の皆さんは、この50年のあいだに、二つの教会を建てました。中町時代をあわせると三つの教会を建て、支えてきたことになります。

 

今年キリストは聖誕2000年を過ごしている皆さんは、時を同じくして教会創立50周年を迎えています。この意義は非常に大きいと思います。50年前、ザベリオの聖腕が長崎を訪れ、稲佐教会建設を祝福して下さったように思います。皆さんも、そんな思いで稲佐教会をザベリオに奉献し守護者とされたのでしょう。そして再びザベリオ450周年を迎え、また、ザベリオが里帰りをして、稲佐教会創立50周年を祝っておられることでしょう。

 

願わくは、いま、新しい世紀をむかえるに当たり、ミサに、そして教会学校に集まる子供たち、とくに若いお父さん、お母さんたちが子供たちの手をとって私たちの稲佐教会は、どこにも負けない世界中で一番すばらしい教会、美しい教会である、と胸をはって宣伝してほしい。何故なら、先輩たちが血と汗と涙で建てた教会だから。皆で苦しみと、信仰を神様にささげて、つくった教会だから。そして、子供や孫たちに信仰を残すため、信仰を伝えていくために、汗を流した教会だから。最後に。私も皆さんと共に、稲佐教会創立50周年をお祝いしながら、この50年稲佐の皆さんと道ずれにさせて頂きたいことを光栄に思い感謝いたしております。光への旅はまだまだ続きます。ともに、歩いていきましょう。

 
 

祈りの島  

 

私の教会は、上五島の大曽教会である。島は中通島と呼ばれ、ちょつとでこぼこを削ると見ごとに十字架の島になる。この十字の接点に私の教会は位置する。遠くからの旅人も年中たえない。観光客たちは、港に上陸すると、ほとんどが島内の教会へとタクシーを走らせる。山と入江と教会がとりえのこの十字架島は、形からして、“祈りの島”である。

 

客人の中には、ときおり、さい銭をあげ、教会自慢の鐘を鳴らし、願い事をしている者もいる。薄暗い堂内に赤青緑色の光線が天国からの祈りをかもし出し、心を打たれた。この厳粛な雰囲気の中で二人の人生を誓いたい、そう言って、何組かのカップルがここで生まれた。ところがその矢先、この教会は使っているのか、と尋ねる者がいた。なるほど言われてみると、確かに古びた赤レンガ作りで、博物館にも見えるだろうし、ここ大曽の祈りも,古くさく、あかぬけしないのも事実だからと思ったりもした。

 

去る十一月三日教会創立百周年の催しを家族的に行なった。でも、大事な時間をさいてたくさんの神父様方が記念ミサを捧げてくださり、祈りにも心がこもった。思えば180年年前、外海方面から五島へ居ついた信徒たちは、司祭もなく自分らの住まいさえ事欠くなかに、礼拝堂を建てた。そこには、ひたすら信仰をつよめる祈りがあったのである。お年寄りの信仰生活、教会建設時の苦労ばなしを聞くにつけ、さらにその感を強くする。

 

ところで、それらの祈りは、どういうふうになされたのか,野良仕事で疲れきった身をふらつかせ、ねむり焦がれながらの夕べの祈り。薪を焼き芋が煮けたかどうか箸でつつき、味噌汁の加減をみながら祈りを唱える母親、畑の周囲で日向たぼっこをかねて牛に草を食ませているじいさんの手には、いつも光るロザリオの珠があった。冷たく潮風の吹きつける冬の海のイカ釣りは辛かった。船酔いと凍える寒さの中で親父は夕の祈りをかならず唱えさせ、海山どこにでも、時の祈りをしたものである。かならずしも意味を考えながらしたのではない。もちろん、ひまだったからでもない。気分がのっていたからでもない。ただ自然に、無心に、習慣的に祈ったという方が当たっていよう。だから祈りを唱えると言ったのだろう。

 

今、時代の要求に応えて、「祈りの意味を理解するために」、「現代人に適した祈りとは」などと、その方法をさぐり、時間をかけての話しあいをしたりする。物心両面にわたり、大変な犠牲を払ってもいる。こうしたことの結果が、結局は、「短くとも、内容、意味を理解させるなら合理的な祈りが出来る」という、祈りの合理主義者を生むことになってはいないだろうか。

 

だが、殉教者の身内に恵まれた私たちにとって、先祖の祈りは誇りであり、宝でもある。昔からの、唱える習慣を身につけさせることは、いずれにせよ、大切である。この大切な部分を取り除こうとする者はいないだろうが、知的祈りに片寄りすぎると、うっかりしてそれをなくしてしまう危険さえある。頭の中ばかりでなく,身体で祈りを覚えさせていくこと、とくに子供らに、自然に、無心に、大声をあげて唱えさせることの価値は,決してあなどれない。ここの、子供らは、決められた時が来ればいつの間にか教会へ走り着き,ワァーワァー騒いでいても、「父と子と・・・」と唱えはじめると、いっぺんに騒ぎをやめてしまう。「祈りの意味がわからんから、俺は祈りはせん」と拗ねる者は、ここにはまだいない。

(大曽教会・主任司祭)
 
 

久賀島(牢屋の窄)殉教記念祭

 

1、      第一回、公式盛人殉教記念祭、牢屋の窄、殉教100周年を記念して、1969年(昭和44年)7月31日、里脇大司教主式で盛大に行なわれた。司祭、修道者、浜脇小教区の信徒と共に、長崎からは九州商船の波路丸をチャーターして,久賀湾、牢屋の窄の下まで直行、多くの子孫たちが参加。先祖の遺徳を偲び、神への感謝を捧げた。当時の主任司祭は峰徳美師。説教は丸尾武雄師。当時はまだ牢屋の窄殉教記念聖堂も各殉教者名碑もなく、ただ中央の信仰の碑のみが建てられていた。浜脇小教区としては牢屋の窄殉教100周年を記念して「信仰の碑」記念誌を出版。先祖の歩みをくわしく田中千代吉師の努力と誠意によって紹介している。

 

 

 

殉教100年祭を盛大に

人口過疎による教会合同も

教報、昭和44年6月1日。

 

五島久賀島の浜脇小教区(主任峰徳美)では牢屋の窄殉教100年祭を7月30日行う事になり準備を進めている。牢屋の窄は久賀島大間の松ヶ浦にある。明治元年、三間に二間、六坪の民家を二つに仕切って男牢、女牢とし、200人余りの信者が押し込められ、人間の密集地獄を現出したところである。食物は小さなイモを朝,夕一切れずつ。大小便はたれ流し.餓えと不潔と座ることもならぬ密集地獄の中で39人が殉教した。在牢八ヶ月の間、この人々が示した神への信仰と愛とは、誠に感嘆すべきものであった。

 

ここには殉教記念碑「信仰の碑」が建てられていたが、100周年記念に納骨堂をつくり、殉教者のうち、墓がわかっている10人の分骨が安置される。100年祭には里脇大司教司式の記念ミサ、10余隻の船団による海上行進ほか新に立てた「久賀島カトリック信徒囚獄の跡」と刻んだ記念碑除幕式などが行なわれ、又殉教100年史も出版される予定である。

 

記念聖堂.久賀島には浜脇教会のほか、五輪,永里、赤似田、細石流という四つの巡回教会があり合計200戸以上の信者がいた。(昭和31年の信者1、252名)が、人口流出のため信者数が激減したので、永里、赤以田、細石流の三教会を合併し、不要になった九電の発電所を165万円で買収して内部を改装し牢屋の窄記念聖堂とすることになった。

 

これは辺地の過疎化が教会総合という形で表現化したもので長崎教区が抱えている問題の一つが浮かび出たもの、牢屋の窄合同教会の信者は20戸、五輪10戸、浜脇30戸、合計60戸で、その60戸も出稼者が多いので信者数は非常に少なくなっている。巡礼団、殉教100年祭には県内ばかりでなく、名古屋、北九州、別府などからも久賀島出身者が参列する予定なので九州商船チャーターして巡礼団を編成することになり。丸尾武雄師(紐差教会主任)を団長にいただくことになっている。久賀出身者はもちろん、一般信者も巡礼団に加わるように希望されている。

 
 

人口流出とその対策

昭和44810

 都市への人口流出が行はれた地方に見られる過疎現象は、わが国の由々しい社会問題となっている。それは農地荒廃、家庭崩壊,流出人口を抱えた都市問題などのほかカトリック信者にとっては看過できない信仰道徳についての問題に発展する。全面積の四五パーセントが島々、29パーセントが半島という島岨性の強い長崎県は、とくに人口流出が目立つのである。昭和39年、76,306人だった長崎教区信者数は年と共に減少して昨年は72,727人になった。それは、昭和39年1、940人だった転出者が昨年は3、020人というように増加しているからで、その傾向は今後もつづくであろう。

そのような人口流出が目立っているのが五島である。教区全体の教区外転質者に対するよりも、五島からの転出者の比率が非常に高いのは、長崎佐世保など教区内都市への移住、出稼ぎが加わるからである。その例として五島北端の野首小教区〔小値賀〕町と、南端の井持浦小教区〔玉の浦町〕をあげる。昭和30年、野首361人、井持浦1,142人だった信者が、昨年は、野首は223人、井持浦536人に激減し、野首小教区の瀬戸脇教会はついに閉鎖された。福江市久賀島の浜脇小教区も三井楽町岳小教区も同じような状況にある。

久賀は昭和30年1、195人だった信者が咋年は389人となり、細石流,永里,赤以田、五輪五巡回教会は閉鎖されて、大開の牢屋の窄に合同教会ができた
.岳小教区の巡回教会姫島の人口総流出によって教会が閉鎖されたのはすでに早い。このような過疎問題についての関心をたかめ、対策を考える資料として、野首,井持浦両小教区について紙崎・野村両師にペンをとっていただいた。

 



  
   
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