第2代 主任司祭 ヴェイヨン師

 

 VEILLON François-Marie

  氏名 ヴェイヨン

 洗礼名 フランソワ・マリー

生年月日 1883年5月22日

 出生地 カンブルト  Chambretaud

 司教区 リュソン   Lucon

司祭叙階 1907年12月21日

  出発日 1908年4月22日

  派遣地 日本南緯使徒座代理区

  地域 長崎

経歴

1908年6月、長崎に上陸し、クザン司教に迎えられた。2年間ここにいてジョリー師が彼に日本語の初歩を教えた。1910年久賀島に派遣され、五島の旧キリシタンたちの世話を託した。

 1915年-19年、兵役に招集されフランスに戻った。

 1920年、日本に戻り、久賀島で7年間働いた。

1927年、出津主任として赴任したが、その年7月16日長崎司教区は二分され、長崎の側は邦人司祭に他方はパリ外国宣教会福岡教区に委託された。ヴェイヨン師はこの状態を利用して香港に休みをとった。戻ったとき、福岡から2時間の小さな村、呼子の責任者に任命された。

1936年、ブルトン司教は彼に、新しく唐津の教会を建てることを頼んだ。彼は適当な土地を探し出し、そこに教会と住居を建てた。太平洋戦争の間、福岡司教館に他の同僚のように監視されて住まなければならなかった。戦争後、唐津小教区に戻り、1954年まで留まった。

1954年、北九州の孤児院を持っていた天使の聖母修道会の修道院付き司祭に任命された。

 1962年、北九州八幡の共同の家に引退することを受け入れた。

 1973年2月新田原の訪問会のシスターの家に入院した。

 

逝去 1973年3月12日

 墓所 ?

 

ミニ解説
ベイヨン師は1910年から1915年まで5年間第2代主任司祭として久賀小教区で活躍されたが、1916年から5年間は、第1次世界大戦のために母国フランスに帰った。ここには1910年から1915年までの下五島地区の司牧宣教状況について、パリー宣教会報告から抜粋する。師の名前は一度しか紹介されていないが、その頃の下五島の司牧状況がある程度把握できるからである。



パリ―宣教師報告 4  1912年~1925年

 

1912年    16ペ-ジ

五島の古い信者共同体は64歳にもかかわらず、常に敏捷で、疲れを知らぬ牧者ペル―師の力強い手のもとに引き続き繁栄し、彼らの信仰と宗教上の義務の真剣な実践によって慰めのもととになっている。二人の宣教師と二人の日本人司祭に助けられて、彼は信者の子供の洗礼519の洗礼の他に、大人の洗礼48、異教徒の子供15を記録した。多くの島々に散在する14,178人の地区の信者たちは、聖務担当の司祭たちに、彼らの望むだけの時間を異教徒の改心のために用いることを許さない。神父たちは、自分たちだけで教育の務めを果たすことは出来ない。それに、善意に満ちてはいても、現代の世代の必要に応じるには、充分教育されていない伝道師たちによっては、ごく不十分な助けしかえられない。ペル-師は、最近16人の生徒を数える伝道師の学校を開いた。この夏の間、小崎師の直接の指導のもとにある地区の中で赤痢が猛威を奮った。彼はすべてに対してすべてとなり、信者、異教徒の区別無く皆を助けた。

1913年  42ペ-ジ

 

 私は一年の大半をほとんど古いキリスト信者共同体を訪問のために費やした。堅信を授けたり、聖堂及び墓地を祝別した。堅信の総数は3756人であった。私の義務を果たすべく行くところで、私の同僚たちの善意と疲れを知らない熱意、信者たちの生き生きした信仰とその温かさを私は賞賛した。堅信式に与かるために信者たちが雨風にもめげず、道なき道を何里も徒歩で来るのを知った。私はここで神父方や信者たちが私を文字通り満たしてくれた行為をこと細かく話すことは止めにしよう。それは、あまりにも長くなるだろうから。このようにして五島の諸島では1ヶ月近く南から北へと徒歩かまたは船で訪問した。それぞれの村長方は私の所に挨拶に訪れ、贈り物として卵、鶏、新鮮な魚などを下さった。23の村では私の個人的は都合から、より中心的な場所に集まる必要があった。彼らのうちには満艦飾りをした船で歓迎を表してくれた人もいた。至る所、常に境界は単純ではあるが美しく飾られていた。日本人はどんな辺鄙な所でも天性の趣向を持っている。わずかなものでも、彼らは素晴らしいものを作って目を楽しませ、心をうっとりさせてくれる。

 五島諸島の信者共同体はペリュー師の司牧下にある。2人の宣教師と6人の日本人司祭が働いている。この諸島の全人口は、およそ7万人で、カトリックは15千人で、多くの村落に散在している。

 年の告白、復活祭の聖体拝領の他に、通常の告白数83,000回、信心の聖体拝領219,000回が、1912年から1913年の間の長崎教区の統計である。これは宣教師や司祭がロ―マ聖座の方針に添ったことの証明であろう。また信者たちは、ロ―マ教皇の薦めに従い、聖体の祝祭を相応しく準備している。昔は両親たちは11,12歳では子供の聖体拝領を準備させなかった。今では低い年齢から聖体を拝領する必要さを理解し、子供たちが告白したり、聖体を拝領することに努めている。

 

1913年   66ペ-ジ   

全五島諸島の尊敬すべき主席司祭ペル-師は、その指導のもとに2人の宣教師と日8人の日本人司祭を持っている。小委員会では彼のことを「聖省長官」と呼んでいる。

五島諸島は三つのグル―プに分かれている。すなわち、北五島、中央五島と南五島。信者人口は14,962人、巡回伝道師は145人の小天使に天の門を開いた。彼らは皆、昔の大名の住居で、今日では郡長の所在地である福江に、ペル―師が最近創設した新しい宣教所のため、天国での取り次ぎ者となることだろう。気前のよい恩人方のおかげで、宣教師はこの町に建物つきのかなり広い土地を入手した。家は祈祷所と宣教師の住居と講話室のため充分ある。去る6月、いくつかの講話が行われ、多数の聴衆が好意をもって耳を傾けた。郡長も村長も、そこに列席することをのぞんだ。ほとんど同時にバプテスト派の人たちが町に居をかまえ、誤謬を蒔こうとした。しかし、近隣のカトリック信者たちのよい評判のため、ほとんど成功しないように見えた。

1914年   83ペ-ジ

 68歳にもかかわらず、常に元気で力強いペル-師のたくみな指導のもとに、五島諸島の地区は、その15,000の信者みついて、正当な誇りをいだいている。しかし、ここにもまた、ユゼ―師(上五島桐小教区主任司祭)とヴェイヨン師(浜脇小教区主任司祭)の出発以来、手不足に悩まされている。とはいえ、大人の洗礼161、告解12,000信心の聖体拝領35,000を提供した。伝道師の二つの学校も隆盛である。

五島での今年の目だった出来事は、福江の宣教所の公的落成式であった。式は624日に行われた。五島子爵が、副知事の補佐のもと、町の主だった名士たちに囲まれて司式した。
 
ミニ解説
ヴェイヨン師は1920年に帰国後、再び浜脇小教区の主任司祭として1928年まで8年間司牧宣教に励まれた。

1920年 177ペ-ジ

 五島諸島のカトリック人口は、総計16,768である。彼らは、ヴェイヨン師8人の日本人司祭に助けられて、日本人司祭大崎師の優れた指導のもとにある。距離と交通のため引き起こされる幾多の困難にもかかわらず、彼らは26,900の繰り返された告解と70,308の信心の聖体拝領を記録した。日本人の乙女たちの共同体の協力で異教徒の子供113人と38人の大人が洗礼を受けた。

1921年  195ペ-ジ

五島はいつも大崎師の優れた指導のもとにある。16,768カトリック信者からなるこの素晴らしい地区において、司祭はあまりにも数少ない。彼らは60の大人に洗礼を授け、30,000以上の信心の告解を聴いた。巡回伝道婦は献身的な助産婦に助けられて、異教徒の子供65人に救いをもたらした。玉の浦ルルドの洞窟は、数多い巡礼者がひっきりなしに押し寄せて、敬虔にひざまずいて高声でロザリオを唱えている。信頼に価する何人かの人が、聖母によって著しい恩典が与えられたと断言している。

 信者の旧い地区を離れると異教徒の町の福音化に献身している10人の宣教師と5人の日本人司祭に出会う。そのうちのある者たちは、請求される報酬を与えることが出来ないため、伝道師だけでなく賄いまでも持っていない。無数の困難にもかかわらず、彼らは皆いくつかの穂を拾うことが出来た。

 
 

1922年  218ペ-ジ

 

 五島諸島の信者は16,857人でヴェイヨン師と8人の邦人司祭の協力によって、大崎師の良い指導のもとに常に置かれている。ここには、良い伝道者を充当するために、遠い信者共同体には時々、司祭が巡回しなければならない。この地区には小さいが伝道学校があり、青少年と少女たちを交互に教えている。学科課程は3年間である。

 日本人の修道女たちは聖児童福祉会の二つの替えの責任を持ち、一人の敬虔な助産婦にも助けられて、80人の子供に洗礼を授けている。彼らは天においてこれらの恩人たちに祈っているだろう。

 

1924年  254ペ-ジ

 

 五島列島で、もう一つの記念式典が行われた。25年前、玉の浦のすてきな、そして敬虔な共同体に熱心なペリュ―師が、ク―ザン司教の勧めに従い、五島の全共同体の助けを得て美しいルルドの洞窟を築いた。以来、全国各地からの巡礼が引きも切らない。去る5月には洞窟の前の野外で司教ミサが行われた。教会は小さすぎて3,000人の以上にのぼった信者たちを入れることが出来なかった。聖体行列が行われ、何時間にもわたって聖母の前で聖歌とロザリオの祈りが捧げられた。どうかこの良き御母が、この巡礼者たち皆を力強いご保護のもとに守り、多くの信者青年男女をそれぞれの家庭に留まらせてくださるように。都会の見せかけの幻影が彼らを余りにも引きつけているからである。

 

1924年  259ペ-ジ

 

 五島列島の総人口は、およそ20万人で、カトリック信者は17,800人である。幾人かが、毎年他の地区か隣接の宣教地区へ移っていくが、彼らの信仰は必ずしも一切の危険から守られているわけではない。ヴェイヨン師と9人の日本人司祭は五島列島で一生懸命、身の限りを尽くしている。彼らはペリュ―師亡き後、彼らの中の一人で、25年前叙階されたヨゼフ大崎師の指導のもとにある。師は信者3,000人の地区も司牧している。何年も前から、彼は私に一人の助け手が欲しいと願ってきているが果たせないでいる。彼は下五島に伝道師学校を建てた。すでに、同じものが上五島にあり、そこから方々の地区に、教理に通じた伝道師が派遣された。他にも聖児童福祉会の施設が二つあり、そこで日本人修道女が献身的に働いている。五島列島では704人の洗礼と2,300人の告解が記入された。

パリ―宣教師報告 5  1926年~1927年~1928年

 

 1926年  15ペ-ジ

 五島の共同体。信者数18,000.1918年まで、ペリュ―師がこの列島の信者たちの司牧のために、7人または8人の司祭たちの協力によって、完全に組織化したのである。1918年3月4日、ペリュ―師逝去のため、一人のフランス人宣教師と10人の日本人司祭たちと共に働く大崎師に全体の管理をコンバス司教は任せた。十字架会(女部屋とも呼ばれた)の姉妹たちは浦上のそれと同じように、この島でも宣教師たちに大いに役に立っている。



  
   
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