第5代主任司祭 島田喜蔵

 

キリシタンのル−ツ −最後の殉教者とその一族−   中田武次郎

蒸気船のおば

千代の弟島田喜蔵神父は、明治3年大浦の神父館天井裏の秘密の部屋で神父になる為のラテン語を学び、浦上信徒の流罪中は密航して、香港、上海等で勉学を続け、後横浜に帰国、明治20317日大浦天主堂でクザン司教により神父の位を受けた。島田神父は私の小学低学年頃は下五島の久賀島の教会に勤めていた。

 

口のまわりにどじょう髭、あごには山羊髭を生やした細身の神父だった。ソンブレロのような、つばの広い帽子でつばの両側を上に巻き上げた黒い宣教師の帽子をかぶっていた。時々、食事や洗濯などの身の回りの世話をする賄い婦のモミ伯母さん(千代の次女)を連れて、蒸気船で鯛の浦に来て、中野の教会に泊まることがあった。モミ伯母さんは「女部屋」に入ることにしていたが、叔父にあたる喜蔵神父のたっての依頼で、女部屋入りを延期して、賄い婦をしていた。 モミは30年間喜蔵神父の賄い婦をして、神父が104歳で亡くなってから「鯛の浦修道院」(女部屋)に入り、そこで昭和35621日に84歳で他界した。 

 

私たちは父の姉に当たるモミ伯母さんを「蒸気の伯母」と呼んでいた。勿論、煙をもくもくはいて、福江から鯛の浦に通っている「五島丸」という蒸気船に乗ってくるからである。伯母はいつも信玄袋と言って、底が四角で上は巾着のようになった大きな袋の長い紐を肩に担いで来ていた。そして何時もその中から、真中が高くなった五色の「へそ」菓子や、巻貝の形をした「西蜷」菓子を持って来て、幾つずつ数えて掌に並べてくれるのだった。

 

教会で結婚式があった後には固い香砂口を半分ずつ割って貰うこともあった 当時中野の教会の神父館は月1回位の巡回の時以外は空き家だった。島田神父が泊るときは、朝のミサの侍者をする為に私達も泊まりに行っていた。神父館の裏の2坪位の小さな賄部屋に伯母と一緒に寝るのだった。 ある晩双子の兄と一緒に「お休みなさ」を言いに行ってみると、神父は縁の端の洗面所で歯を磨いていた。誰でも歯ブラシを口に差し込んで磨くのに、神父はどうしてか歯を口から取り出して洗面器の中で洗っていたのである。びっくりして賄部屋に帰り、二人でお互いに相手の顎を動かして歯を外そうとして見たが、どんな仕掛けになっているのか、私達のは中々外れなかった。

 

若い中にはあまり外れずに、年を取ってガタガタになったら外れるのか?丁度入ってきた伯母に聞いてみた。「伯母さんも歯ば出しきると? 歯ば出して見せんね」伯母は歯をむき出して見せた。「いや、歯ば外して見せんね」「歯は外れんよ」「でも神父様は、ちゃんと外して洗っていたもん」伯母は急に大きな声で笑い出した。あごをかかえて。「あーあ、もう少しであごが外れるところだった!」「ホラ、やっぱり外れるとでしょう」「神父様のはね、入れ歯ですよ。入れ歯」「入れ歯ってなあに?」「入れ歯ってね、人工の歯ですよ。歯が悪い人や無い人が代わりに入れるもので、神父様は総入れ歯ですよ」 何だ、(初めて入れ歯を見て)神様中々やるね、人の体って色々便利に出来ていると思っていたのに人工の歯を入れていたのか、道理で神父様が柿を食べる時にカタカタ変な音がしたのだなと思ったものでした。

 
 

鉄砲水

ある時、島田神父様は新しい細石流の聖堂(教会)が出来上がったが大変疲れたと言って4,5日休養したことがあった。そして、甥に当たる父や叔父に聖堂造りの苦労談をしていた。 細石流の聖堂を造る為に、上五島の広ん田という山の杉の木を買った。

 

相河川の上流の深い渓谷で、杉を切り倒しても運び出すのが大変なところだった。当時は五島には馬もおらず、全部人力で担ぎ出すより外はなかった。神父も山に登り、評議したが、一応切り倒したうえで運搬の方法を考えることになり、久賀に帰った。いよいよ伐採作業も終わったとの連絡があり、青年たちを引き連れて山に向かい、途中相河の集落で材木出しの  人夫を募ったが、距離が遠いために応ずるものがなかった。止む無く信徒たちだけで山に登った。

 

山に着くと大雨になり、外にも出られない有様だった。樵夫小屋に入って弁当を食べ夜を明かすことになったが、大雨は止む様子もなく、一晩中降り続いた。一同は降るような雨漏りの小屋の中で大声で「ロザリオの祈り」を誦え苫をかぶって寝た。明くる朝、見回りに行った青年たちが大騒ぎで帰ってきた。「大変です。鉄砲水で谷間の材木が水につかって流れそうです。早く引き上げなければ!」神父は落ち着いて言った。「谷間の材木はそのままでいいぞ。反対に山の材木をみんな谷間に担ぎおろせ」 そして、半分の人を連れて河口に走り、材木止めの堰を造らせた。相河川の水量が見る見るうちに増し、流れも早くなって、山奥の材木も次々に流れ出し、続々と河口に流れ着いた。

 

結局その日一日で河口までの運搬が全部終わり、その翌日は、青空のもとで、その材木を筏に組み、団兵船で引いて海路久賀島に悠々帰り着いたのである。こうして、神様のお加勢もあって、細石流の美しい教会が思い出の地に建ったのである。思い出の地とは、細石流の教会が建った土地は、迫害中に久賀島のキリシタンたちが、秘かに集まってオラショ(お祈り)を誦えていた隠れ家のあった所で島田神父も少年のころ大浦から久賀島に避難し、この隠れ家に行きオラショを教え、島民たちから命がけで助けて貰った処なのである。

 
 

浦上信徒総流罪

島田喜蔵が最初上五島信徒の代表格、森松次郎に連れられて長崎に渡ったころは、浦上キリシタン発見後、浦上の信徒宅に秘密の集会所が出来神父が変装して、出入りしていたころだった。浦上には4っの秘密の集会所があった。 喜蔵は、ブチジャン司教の命により、暫く浦上の高木仙右衛門宅にかくまって貰うことになった。 

 

この高木仙右衛門宅も実は辻の集会所で、仙右衛門の二人の子供、敬三郎と源太郎は危険が迫ったため大浦の秘密の神学校から我が家に引き取られていた。間もなく北松の神崎から有安秀之進と言う少年も来て一緒になった。仙右衛門の家では、時々大浦から変装神父が来てミサを捧げていたが、ある晩、お手入れがあり、夜中に役人たちが踏み込んだ。

 

予めの手筈の通り長男の敬三郎が祭壇用具を収めた袋を持ちだし、二人の少年を連れて裏口から山に遁れた。 仙右衛門は次男源太郎と共に捕えられ、役所に引き立てられ、桜町牢にぶち込まれた。そして、その家は引き倒され焼き払われた。喜蔵は五島で江袋の我が家が焼き払われるのを姉千代と山から眺めたが、浦上でも亦、隠れ家が焼き払われるのを二人の少年たちと穴弘法の山中から見つめていたのである。 喜蔵らは敬三郎の案内で大浦に走った。そして、大浦の神父館の屋根裏にある秘密の間の3名のラテン生と合流した。こうして神父になる為の必修基礎科目、ラテン語の学習を始めたのである。喜蔵は五島の殿様に仕え勘定方になるのだと言って幼児から算盤や習字をならい、又侍の子孫と言うことで厳しい躾を受けていた。でも初めて見る横文字やラテン語の文法、動詞の変化には頭をいためた。 

 
 

ルルド参詣

当時五島のキリシタンたちは召集令状を受けると、出征の前に必ず五島の最南端にある、玉之浦の井持浦教会にある「ルルドのマリア洞窟」に参詣して武運長久を祈っていた。また、教会の成人式に当たる「堅信式」を受けた後も、全五島のキリシタンたちは子供の立派な成長を祈る為に、漁船に乗り込んで参詣していたし、私も北海道のトラピスト修道院に行く前にお参りした。 玉之浦町内には、大宝の町にお大師様の中国行き帰りの霊場大宝寺があり仏教徒の巡礼地になっていたが、これに対抗してか、この大宝から数キロのところにある井持浦に、カトリックの霊場ルルドの洞窟が1899(明治32)に、全五島のキリシタンたちの協力によって造られたのである。 

 

そもそも「ルルドのマリア洞窟」と言うのは、フランスとスペインの国境に聳えるピレネ−山脈のふもとにあるフランスのルルドの、ピレネ−の冷たい雪解けの水が流れるガブ川のほとりにある洞窟で、1858年に2月から、村の少女ベルナデッタに聖母マリアが度々お現われになり、洞窟に泉を掘るように命じ、その泉の水により不治の病が癒えられる等の多くの奇跡が行われ、バチカン当局によって間違いなく奇跡であることが公認されて世界的に有名になり、ビレネのふもとの1寒村ルルドは、今では大きな駅が出来、パリ−からの直行の列車が往復し、郊外の空港にはパリ−、ロ−マ等から直行の航空機が次々に着陸して、ヨ−ロッパはおろか、アフリカ、アジア、アメリカからまで奇跡を求めて参詣者が絶えないヨーロッパ随一の霊場となっているのである。 

 

ルルドにおける聖母マリアの出現と奇跡がロ−マで発表されたから数年後に、時の法王レオ13世はバチカン宮殿の庭園に「ルルドの洞窟」同型の模型を造らせ、ルルドのマリア像を祀り、 祈りを捧げた。これに習って世界各地に同型の「ルルドの洞窟」が造られるようになった。 日本では1899年バチカンに最初のルルド洞窟が造られたから僅か9年後に最初のルルド洞窟が五島南端井持の浦に造られたのである全五島の神父、信者の代表が集まり、各部落から奇岩、美石を小舟に積んで持ち寄り、力を合わせて洞窟を造り、フランスにマリア像を注文して洞窟を祀り、本場のルルドからわざわざ霊水を取り寄せて洞窟の傍らの井戸に注ぎ入れ、1900(明治32)に盛大な落成式が行われた。

 

キリシタンの出征兵士たちは令状を受け取ると何よりも先にこの霊場にお参りして武運長久――心の中では無事に帰還出来ることを家族と共にひそかに祈っていたのである。  洞窟の近くに参詣者のための宿泊所があり、無料の宿泊室、炊事場、入浴の設備があり、病人の送り迎えなどにはボランティアが奉仕していた。 当時井持浦の教会には島田老師が勤務しており、神父の姪で私の叔母に当たるモミおばさんが神父館の賄い婦をしていたので、私は神父館に寝泊まりしてルルドの洞窟にお参りさせてもらっていた。

 
 

後 記

復員帰国後僅か1週間たった92日に、島田老師の勧めもあって、私は、出征前に「武運長久」祈願に行った玉之浦町井持浦のルルドの洞窟の前に跪いていた。私の両手には古い1冊の聖書があり、その開かれた箇所は、詩編ダビデ王の「詩編91章」だった。 それには次のようなことが歌われてあった――  詩編91  神の保護に身を寄せて―― 「神は私の逃れ場、私の砦、私は神により頼む」  神は、狩人の(仕掛けた)罠、命取りの疫病からあなたを救われる。 神は、その羽根であなたを覆い、その翼の下にあなたは逃れる。神の信義は大盾、小楯。 夜襲ってくる恐怖、昼飛んでくる弓矢も、あなたは恐れることはない。夜中忍び寄る疫病も、昼間襲い来る危険も、恐れることはない。 (あなたの)右に千人、左に一万人が倒れても、危害はあなたの身に及ばない。 

 

あなたは、神に逆らう者の応報を、目の前に見るであろう。 神があなたのために天使に命じ、あなたの進むすべての道を守られる。 足が石につまずかぬように、天使は手であなたを支える。 神は仰せになる「私は私に頼るものを救い、私を(神と)認めるものを保護する。 叫び求めるものに私は応え、苦悩の中で共に居て、援護と栄誉を与えよう。 生き延びさせて喜ばせ、豊かな援助を与えよう」 この詩はダビデ王が、不利な戦乱から神の援護を得て戦いに勝ち、生き延びて無事帰国できた時に歌った感謝の詩であろうか? 

 

あらゆる人に適合する言葉の宝庫である聖書の中のこの詩編は、あの恐ろしい戦禍の中から無事帰還できた私にとってもまた、そのまま神に捧げることが出来る感謝の祈りである。 私はルルドの洞窟に参詣し、ゆっくり熟慮した上で、生涯の進路を大きく変更することを決意した。それで、従軍中現職扱いで、直ちに復職できた町役場を去って、翌年、昭和224月に神父になる為に、大村の、私と同年齢の教授が三人もいる神学校に入学した。

 

 それは、ルルドのマリア様への願を果たすためであり、帰国した晩の母への誓いを果たして、志し半ばに、まるでこの兄に交替しに来たかのように、フ−コンの密林で戦死した弟の意思を継ぐため、そして、異国の地で無念の死を遂げ、未だ弔う人もない無数の部下、戦友、上官、そして弟の魂の冥福を一生祈り続けるためである。

 

 そのため、神学校をやっと卒業できて、神父の位階を受ける事になった時、自らデザインして注文し、今、毎日のミサの儀式中に使用しているかリス(祭式用カップ)に握りの所は、象牙の地球になって居り、この地球の右側には日本が、左側にはロ−マが、そして、正面にはビルマが見えるように刻まれて居るのである。

 
 

キリシタンのル−ツ 2   −最後の殉教者とその一族−   中田武次郎

ルルド参詣

当時五島のキリシタンたちは召集令状を受けると、出征の前に必ず五島の最南端にある、玉之浦の井持浦教会にある「ルルドのマリア洞窟」に参詣して武運長久を祈っていた。また、教会の成人式に当たる「堅信式」を受けた後も、全五島のキリシタンたちは子供の立派な成長を祈る為に、漁船に乗り込んで参詣していたし、私も北海道のトラピスト修道院に行く前にお参りした。

 

フランスの寒村ルルド……その泉の水により不治の病が癒えられる等の多くの奇跡が行われ、バチカン当局によって間違いなく奇跡であることが公認されて世界的に有名になり、奇跡を求めて(世界中から)参詣者が絶えないヨーロッパ随一の霊場になっている。 キリシタンの出征兵士たちは令状を受け取ると何よりも先にこの霊場にお参りして武運長久――心の中では無事に帰還出来ることを家族と共にひそかに祈っていたのである。 

 

洞窟の近くに参詣者のための宿泊所があり、無料の宿泊室、炊事場、入浴の設備があり、病人の送り迎えなどにはボランティアが奉仕していた。当時井持浦の教会には島田老師が勤務しており、神父の姪で私の叔母に当たるモミおばさんが神父館の賄い婦をしていたので、私は神父館に寝泊まりしてルルドの洞窟にお参りさせてもらっていた。
 
 

井持浦ルルドの奇跡

ある晩、島田老師が私の部屋に入ってきて1冊のノ−トを参考までに見ておくようにと言って置いていった。表紙には「井持浦ルルドの洞窟における奇跡的治癒について」と書いてあり、長崎の教区本部に提出した報告書の原稿だった。急いで目を通してみると島田師の在任中に井持浦ルルドで起こった奇跡的治癒例が10件ほど書いてあった。その中の一例は今でもはっきり覚えている。 五島 五島出身の政治家、大臣にもなった故白浜仁吉先生の出生地中五島の主婦が長患いをしていたが、近くに病院もなく何年も苦しみ通しだった。

 

愈々耐え切れなくて、何時間も櫓を漕いで小舟で福江の病院まで運び、診察を受けたが既に手遅れだった。ひどい腹膜炎を起こしていて開腹手術も出来る状態ではなく、そのまま急いで連れて帰り善い死の覚悟をさせて上げなさいと言って匙を投げられてしまった。 船が福江の港の入口まで出た時、病人は「どうせ死ぬならルルドの洞窟にお参りして、マリア様のお側で死にたい」と言い出したのである。病人の願いは叶えられて船は南に方向を変え、久賀島の田の浦瀬戸を通り、三井楽の沖を回って玉之浦湾に入り、玉之浦湾の一番奥にあり井持浦にやっと夕方に着いた。

 

早速病人を戸板に乗せて参詣所に担ぎ上げ、神父に連絡して翌朝病人の善い最後のためのミサを捧げて貰うように依頼し、昔からのキリシタンの「願掛け」の「9日間の祈り」が始められた。9日間も生きているとは誰も思っていなかった。9日目の最後の日が来た。そして病人の容体は最悪となった。 ところがその日の午後、虫の息の病人が最後の我がままを言い出した。

 

ルルドの霊水を入れたお風呂に入りたいと言うのだった。お風呂の中で死んでも本望だろうと言って、最後の願いも叶え上げることにし、井戸のルルドの霊水を汲んで五右衛門風呂に入れて沸かし、病人を慎重に運んでお風呂に要れ、お風呂の裏では一同ロザリオのお祈りを唱えて病人の呼ぶのを待った。

お祈りが終わってもお風呂から中から病人の呼ぶ声がなかった。しまった!と言って急いで覗いて見ると、お風呂の中には五右衛門風呂の丸い底板が
1枚浮いているだけで、病人の体が見えなかった。参詣部屋にもいない大騒ぎで家族の人達は手分けをして探し回った。

さては神隠しかと神父にも知らせようと聖堂横から神父館に行こうとした時、病人は神父館に上がる
20段ほどの階段の一番上に神父と並んで立っていたのである。 この病人が神父館に入って来たとき、まず神父が驚いた。 「あなたは、中五島の病人でしょう。どうしてこんな所に上がって来たのですか?大人しくベッドで死の準備をしているのです。今日か、明日かの重病人ですから」 「治りました。私は治りました。私はもう病人ではありません。」

 

 一同に迎えられ、ルルドの洞窟の前で一緒にしばらく祈り、参詣部屋に帰って全快祝いの御馳走が始まった。そして翌日からまた9日間の感謝の祈りを捧げて元気で中五島に帰っていき、そして毎年この頃になると必ずお礼詣りに来ている、と記されてあった。

病人はお風呂に入って間もなく電気にでも打たれたような気がして、驚いて風呂を飛び出したのだと言う。この外にも、失明した人の治癒の例なども記されてあったこの報告書を読んで、 改めて洞窟の前で祈り(絶対に生きて帰れる)という確信を得て我が家に帰って出征した…… 復員帰国後僅か
1週間たった92日に、島田老師の勧めもあって、出征前に「武運長久」祈願に行った玉之浦町井持浦のルルドの洞窟の前に跪いていた。

 

私の両手には古い1冊の聖書があり、その開かれた箇所は、詩編ダビデ王の「詩編91章」だった。……この詩は……あの恐ろしい戦禍中から無事帰還できた私にとっても、またそのまま神に捧げることが出来る感謝の祈りである。私はルルドの洞窟に参詣し、ゆっくり熟慮した上で、生涯の進路を大きく変更することを決意した。それで、従軍中現職扱いで、直ちに復職できた町役場を去って、翌年、昭和224月に神父になる為に、大村の、私と同年齢の教授が三人もいる神学校に入学した。

 それは、ルルドのマリア様への願を果たすためであり、帰国した晩の母への誓いを果たして、志し半ばに、まるでこの兄に交替しに来たかのように、フ−コンの密林で戦死した弟の意思を継ぐため、そして、異国の地で無念の死を遂げ、未だ弔う人もない無数の部下、戦友、上官、そして弟の魂の冥福を一生祈り続けるためである。 

 

[著者略歴]

中田武次郎(なかた・たけじろう)

大正31026日、長崎県南松浦郡有川町鯛の浦中野に生まれる。

昭和64月より同123月北海道トラピスト修道院。

昭和1213年有川町役場勤務(公務員)

昭和135月より208月まで広東、マレ−、ビルマ(ミャンマ−)前線に従軍(菊部隊)

昭和20815日〜昭和218月終戦降伏後ビルマにて捕虜収容所

昭和224月大村大神学校入学

昭和29319日福岡サンスルピス大神学校卒業・司祭叙階。長崎教区司祭として活躍

現在外海町の「聖マルコ園」にて静養中

 
 

島田師帰天

 トマス島田喜蔵師(94)は327日聖土曜日の朝345分五島鯛の浦教会で逝去された・師は五島北魚の目村江袋に生まれ、日本教会復活後間もなく大浦神学校に入学したが、浦上四番崩れから起こった迫害中、明治2年ドイツ汽船でひそかに香港に避難、ショウザンの広東教区神学校で勉強を続けた後、横浜神学校でラテン語と修辞学を勉学、東京神学校の開設と共にここに入ったが、明治8年長崎神学校仮校舎が建てられたので、大浦に帰り、明治20213日司祭の聖位に挙げられた。長崎神学校第1回の卒業生で現存の日本人司祭の最高齢者であった。生得の誉れ高く、死の病床に倒れるまでよく聖職を全うしていられた。葬式は330日梅木、西田、出口三師が執行され、遠近の信者多数が参列、信徒、青年、少年少女代表の弔辞が捧げられたが、特に少年少女代表の真心こもった弔辞は参列者の涙を絞った。



  
   
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