歴代主任司祭

 
 

留学先のローマより七田神父の便り

カトリック教報、昭和11615

 

御聖体の両側のランプと祭壇の34本の蝋燭の光が注意を引くのみで、御堂の中は薄暗く人影も少なくない。聖アウグスチヌスの聖堂はどことなく御堂らしい静かさと落ち着きを見せて清楚な感じである祈りの家はかくもあるべきか。

祭壇の前にもっとも敬虔に跪く二人の姿がある。老婦人と小さな子どもである。聖女モニカの墓前に跪いて熱烈なお祈りをささげる二人の姿にことに注意をひかれまたある種の好奇心を覚えながら祭壇に近づいて暫くお祈りをささげる。

あたりは人の足音もなく、ざわめかしい話し声もない。すべては押し迫るが如き静寂さに帰って奥ゆかしい祭壇の前に跪いて黙祷すれば、厳粛そのものである。

聖女モニカの祭壇の下にあるお墓のランプと、きれいな花、青色の大理石、それらはかくされたものを新しい装いの中に描き出し、偉大なものを前に何かを求めんとする緊張せる魂に慰め深いある一つの歴史的なものから、力強く何かを呼びかけているようである。

薄暗く静寂な祭壇の前に熱心に跪く例の婦人は白いハンカチで目をおおいながら、祭壇の下に静かに眠る聖女モニカに何かをささやいているようである。側にいる子どもは母の悲しみの心をわからないのであろう。母の止めどもなく流れる涙の意味もわからないのであろう。そばについて一緒に跪いている彼は疲れを覚えたに違いない。それでもなお老婦人は熱心に祈り続けている。心の心配、悩みのすべてを打ち明け、夢中になって祈っている。聖女モニカの御墓のランプをヂッと見つめながら何かをしきりに念願しささやいているようである。

何故厚い涙を流すのか、静かに眠るモニカの御墓の前に何をささやくのか、何をしきりに祈念するのであるか。

 
 

しかり人間には物質的精神的逆境に運命つけられてきている。悩み多き人生は確かにパスカルの「狭き牢獄」であるに違いない。心霊上の不安と焦燥はそれを更に深刻にする。だがしかし祭壇の前に跪いて祈るかの悩める婦人は「狭き牢獄」の人たるに飽きたらずしてヴァイヨの「跪くことの偉大」を理論なくして学び胸底深く刻まれた厚い信仰は「貧しい世界の象徴的表現たるもの」を乗り越えて一つの存在的力を把握したのである。これ以上人間性に言動的支持性を与えうるものは決してない。キリストを、信仰の光を除き去ることほどこの現実的切実さに応えるに冷淡なものはない。故にパスカルにとっては死も命も不理解なものであったのだ。ドストエフスキーにはすべては泥土の如く無価値なものであったのだ。「貧しい世界の」の生み出す生活上の一切の苦悩と思想の泥沼にあえぎながらも尚且つ清澄な力と救いを求めうる新しい力は、この熱心に祈る婦人の態度でなくしてなんであろう。人間苦の矛盾は貧困の神秘性を肯定しえるあるがままの実在性に対して真の理解者である時キエルケゴールの「失望していない失望」の奥深く慰めと、否定することの出来ない心の安定さ及び魂の大きな動きを発見するのである。「幸なる罪」は必然「幸なる苦しみ」でならねばならぬ。そうして跪いて祈り続ける婦人の姿もまた幸の姿でなければならぬ。祭壇の下に静かに眠る聖女モニカは苦しみと信仰の対比される怒りの愛の厳正さにおいて、苦しみ悩むものの典型であろう。かの婦人はなにをもとめつつあるか。

涙と祈りをもってアウグスチヌスの魂を救いえた母聖女モニカの墓前に跪くかの婦人は同じ運命の人であると仮定すれば静かに省みて、はたさなけれならぬ要求は使命的一つの強い刺激、はてしない孤独の追及から、悲惨への重圧を感じるのである。

祈りたい。すべてをささげて奉仕したい。責めを問わるべき、罪に滅び行く魂の為に。そうしてモニカの姿を眺めて、更に黙祷したい。17年間の幾多の犠牲と祈りと涙。
 
 

ローマに程遠からぬオスチャの小さき港は神の永遠の御摂理の中に、モニカのもっとも激しい人間苦の戦いの救いの保証としてそうして天と地の感謝の歴史的な所在として備えられていたのである。恩愛なる母の冷たき死骸の横に伏して祈る救われたる魂!海のかなたのアフリカに面しもゆるが如き最高の野望と鬱勃たる功名心に満ちてタガステを旅立った偉大なる魂アウグスチヌスはこの夜の深い沈黙の中に何を考えたのであるか。無辺の宇宙に綺羅を競う満天の星宿、ベルトランに言わしむれば「永遠性のあらゆる妙理に満ちた、遥か彼方の紺青海波と和する、森羅且深刻味を帯びた青空」を仰ぎながらいかなる感慨にふけったか。救われた魂と万象を総括する永遠者とその私語!苦悩と愛の深遠さを意識せしめるこの深き沈黙の中に許された約束は只一つしかない。モニカはすでに探し求むべきものを指摘せんとするのではなくして生命の光の永遠性の中に過去的対象から正義と愛と賛美のひらめきを更にもう一度懇願し要求せんとするのである。最愛なる子になす最期の願いは聖き神の祭壇における祈念より外に何もない。フレシエのいう「神の奇しき配置」はアウグスチヌスの救いの光を求めた近き道程と備え設けられた動機を意味するよりも一切の憂い、慰めを送る歴史的悲劇が生命の夜に繰り返されるときにおいてより深刻に人間の憐れみに応えるのではないか。

「人としての」弱さの亡びと魂の罪悪の倫理性は人間工作の営みでは既にない。だがしかし転落の後の病める強迫と断念から健全なる歩みを持って示現さるべき回復の信実な力を学びえることである。悩めるものの力と慰め、レオン・ブロアのいわゆる「魂の中に潜在する失望を許さぬ秘密」、内生活の奥深き秘密を学び且つはまた短き苦悩を永遠の喜びと最上の慰めの中に見出してやりたいのである。

戦いの苦しみと祈りの苦しみが技術上の人間存在の只一つの粉飾でないかぎり、モニカの姿は、また、救うべきと救わるべきの大なる協力であり、また切なる要求でなければならぬのだ。恐るべき亡びよ!しかし怖るべき忘却よ!よみがえらすものは忍耐と謙虚の苦しみと祈りの姿にあるのだ。

 
 

カトリック教報、昭和11101

最近ローマから3人の新司祭がお帰りになりました。平戸島の切江音吉師は92日に、玉之浦の七田和三郎師は919日に、伊王島の万利師は9月末日に長崎上陸、暫く郷里にあって静養した後、各々任地につかれるはずです。そのついでに教区内には多少の地震もありましょうその地震が案外の小揺れであるか、あるいは皆をあっといわせるほどの大揺れであるかは天機もらすべからず、暫く口をあんぐりとお待ちください。

カトリック教報、昭和12121

下五島7か町村、教会連合慰霊祭、玉之浦天主堂で

福江町、外下五島7か町村(奈留島、久賀、奥浦、岐宿、三井楽、玉之浦)のカトリック教会連合戦没将兵慰霊祭は1123日新嘗祭(しんなめさい)当日玉之浦町井持浦天主堂で厳かに執行された。玉之浦町長代理、学校長、巡査部長、軍人会、愛婦、国婦各会長および幹部など来賓50余名、主催者たる西田、田川、濱田、七田、畑田、今村、中田各神父団参列、各町村の信者は堂の内外に溢れている。午前9時一同聖堂前に整列して東方遥拝、国家斉唱の後入堂、中田師の開祭の辞に次いで田川師は山口長崎司教の弔電を披露、防共聖戦に殉じた勇士を讃える説教があり、終わって西田師司式、今村、畑田両師助祭の下に荘厳な追悼祭と謝祷式とが執行された。七田師指揮の聖歌隊が追悼詩の哀調を謡する説き、日の丸の国旗に護られ蘭の花輪と、陸海軍軍帽とを載せられた仮棺に向かい祭主西田師の献香あり各神父これに倣い謝祷式を終わった。終わって別室で懇談会を開き、1130分天皇陛下と出征将兵の万歳を三唱して散会した。なお当日カトリック少年団は、式中信者や司祭、来賓らの喜捨を集めて1245銭を得たので日の丸の小旗に包んで巡査部長を通じて即日国防献金として献納した。

 

 

カトリック教報、昭和13415

下五島各教会堅信式、山口司教の手で633名に授堅

下五島各教会の本年度堅信式は、去る327日から43日に亘り、山口司教閣下の手により厳かに執行633名に授堅された。司教閣下は岩永四郎師を帯同、326日午前7時久賀島浜脇に御上陸、七田師を始め、受堅児童や宿老などの出迎えを受けられ、信者堵列の中に久賀教会に入られた。正午から村有志学校長等と昼食を共にし懇談会を開催、イタリ親善使節団を迎えての感想などを述べられた。翌27日の日曜日午前9時、晴れの入堂式を行なわれ、受堅児童に対する訓示あり、ミサ後、再び説教、受堅者80名に対し聖き堅信の秘蹟を授けられた。午後3時から聖体降伏式、終わって受堅者らの謝辞があり、司教閣下はユーモアの中に懇切なる訓話をされた。翌日直ちに発動機船を借り切って堂崎に向かい28日午前9時堂崎教会で130名に授堅、夜は奥浦慈恵院を訪問されて、会員等と種々くつろいで懇談された。よく29日朝福江教会に向かい正午町有志と懇談会を開催の後午後3時自動車で玉之浦に向かわれ、中田師や信者一同に迎えられて井持教会に入られた。30日水曜午前9120名に授堅されたが、堂崎の受堅児童らがここに感謝の参詣に来て司教閣下の祝福を受けた。

31日朝三井楽に向かわれて岳の教会に入り、4月2日、土曜午前6時半から193名に授堅、式後直ちに聖体降伏式、児童等の謝辞を受けられて後万歳の声に送られて汽船で岐宿に出発、3日午前9時には楠原で110名の児童に堅信の秘蹟を授けられた。翌4日朝、建築中の水の浦天主堂をご視察の後同日午後、田川、今村、濱田、中田諸師の歓送を受けられ七田、岩永両師帯同福江から汽船で帰崎の途につかれた。

 

教報 昭和十三年六月十五日

 

司祭移動

 

 久賀島教会主任七田和三郎師は佐世保教会助任に転任。後任には、先般叙品された岩永四郎師が就任されることとなり、左の如く教区辞令が発表された。

 

    久賀島教会主任  七田和三郎師  補佐世保教会助任  

          岩永 四郎師  補久賀島教会主任

 

 

聖母への信心昂る五月のルルド

 

 聖母崇敬の一中心として全国の信者達の信心篤い五島玉ノ浦ルルドの聖窟では、聖母聖月たる五月に入り、特に巡礼者で賑わったり、聖鐘の祝別式が行われたりなどして、聖母讃美の声に明け暮れしたが、その詳しいニュースが、いま、吾々の前にもたらされ、今更ながら、ルルド聖窟に於ける聖い雰囲気を感じさせるのである。

 

 

国威宣場を祈って

 連合巡礼団のルルド参詣

   福江、堂崎、久賀島三教会

 

 五月十七日、福江、堂崎、久賀島三教会信者百余名は、田川、七田師引率の下に大巡礼団を組織、皇軍武運長久、国威宣揚と、殊に徐州大会戦を目前にひかえて皇軍大勝利を祈願する為、大挙して玉ノ浦ルルドに参詣した。

 同日午後一時、祈願皇軍武運長久、国威宣揚の旗を流してルルド天主堂に到着、御聖体のイエズス様と、ルルドの聖母に先ず其の報告を行った。ついで田川師の説教があり、一先、宿泊所に旅装をといた。

 七時から聖体降福式と、提灯行列があり、後、ルルドの森か、聖母讃美歌に酔うて平和な安息に入ろうとするとき、七田師は、仏国ルルドの実況を肉聲放送して参詣等の熱心をあふられた。

 その夜は夜通し聖窟の前には・・・・・・(原稿途中まで)・・・

十八日の朝、田川師司式の歌ミサに和し、一同心こめて、皇軍の武運長久と、東洋平和確立の為に祈った。歌は、七田師の指導の下に、堂崎慈恵院の聖歌隊が奉唱した。

 十八日は雨に降りこまれ、宿泊所大広間で聖務を果たした。午前中、座談会開催、田川、七田両師の有益なお話があり、頭島、梅木、太田諸士の意見発表があった。

 十日は徐州陥落の日である。徐州陥落のニュースを聴いた一同は早速、主任中田師により献げられた感謝のミサに興り、同師の挨拶の後、玉ノ浦出帆、帰郷した。
 

カトリック教報、昭和13615

聖母への信心昂る5月のルルド

聖母崇敬の一中心として全国の信者等の信心篤い五島玉之浦ルルドの聖窟では聖母聖月たる5月に入り、特に巡礼者で賑わったり、聖鐘の祝別式が行なわれたりなどして、聖母賛美の声に明け暮したが、その詳しいニュースが、いま、我々の前にもたらされ、今更ながらルルド聖窟における聖い雰囲気を感じさせるのである。国威発揚を祈って、連合巡礼団のルルド参詣、福江、堂崎、久賀島3教会517日、福江、堂崎、久賀島3教会信者百余名は、田川、七田師引率の下に大巡礼団を組織、皇軍武運長久、国威宣揚と、殊に徐州大会戦を目睫にひかえて皇軍大勝利を祈願するため、大挙して玉之浦ルルドに参詣した。

同日午後1時祈願皇軍武運長久、国威宣揚の幟を流してルルド天主堂に到着、御聖体のイエズス様とルルドの聖母に先ずその報告を行なった。次いで田川師の説教があり、一先ず、宿泊所に旅装をといた。7時から聖体降伏式と提灯行列があり、後、ルルドの森か聖母賛美歌に酔いて平和な安息に入ろうとする時、七田師は仏国ルルドの実況を肉声放送して参詣らの熱心をあおられた。

その夜は、夜通し聖窟の前には参詣の人影が絶えなかったが、翌18日の朝、田川師司式の歌ミサに和し、一同心こめて、皇軍の武運長久と東洋平和確立の為に祈った。歌は、七田師の指導の下に、同崎慈恵院の聖歌隊が奉唱した。

18日は雨に振り込まれ、宿泊所大広間で聖務を果たした。午前中、座談会開催、田川、七田両師の有益なお話があり、頭島、梅木、太田諸氏の意見発表があった。10日は徐州陥落の日である。徐州陥落のニュースを聴いた一同は早速、主任中田師によりささげられた感謝のミサに与かり、同師の挨拶の後、玉之浦出帆帰郷した。

 

司教閣下を迎えて、武運長久東洋平和祈願祭、玉之浦天主堂で

5月11日、山口司教閣下をお迎えした玉の浦教会では翌12日、西田、濱田両師が助祭、副助祭に奉侍せられて厳かな皇軍武運長久と東洋永遠の平和確立との為の祈願祭を執行した。聖堂前に各団体が整列すると、東方遥拝国歌合唱に式は始まり、司教さまの約20分に亘る防共聖戦の意義と銃後者の覚悟についての力強い訓話があり聖体降伏式をもって式は終わった。式後、参詣所の別席で司教様をはじめ各神父様、町長以下各団体長、有志方と昼食を共にし、座談会後陛下の万歳を三唱して散会した。ちなみに主なる参列者は山口司教さま、萩原師、山川師、西田師、田川師、清水師、濱田師、今村師、七田師、切江師、畑田師、中田師、町側から藤田町長以下小学校、警察、軍人分会、国防、愛国その他有志20余名。田崎、同崎、水の浦、三井楽修道院の姉妹多数であった。

カトリック教報、昭和14515

前線慰問行、第3

兵隊さんの告白を聴く等万事好都合です

5月1日、脇田登摩、七田和三郎

(前略)当方の都合は全く予期以上の好首尾でございまして、信者の兵隊さんたちの中には、告白なさった方も多数ございまして、殊の外うれしく本人たちもこの上なく喜んでくれました。重傷の方も1名御座いました。特に軍のご配慮にてご面会を得告白を済ませましたが、幸に命に別状はなくてすみそうで喜んでおります。時期といい情況といい全く申し分なきめぐり合わせで、すべて御摂理の結果であった、皆様のお祈りの結果感謝するばかりであります。いずれ帰りましてから詳細なことはお話申し上げることにいたしましょう。慰問の方々はひっきりなしに来ておられる様子です。只お土産品がまだ届かないのでそればかりが気がかりでございます。ではどうぞご機嫌よく皆さまになにとぞよろしくお伝えくださいませ。3日の船で当地を立ちましてまた基隆から中支に往く予定であります。それ以外方法はないとのことでございます。あらあらご通知まで

 
 

カトリック教報、昭和14715

皇軍の聖戦を讃えて、七田師が熱弁を振るう

玉之浦町主催で2日に亘る講演会

長崎教区を代表して第一線の皇軍有志を中・南支に慰問し皇軍の実情を視察して帰った七田和三郎師を招いて去る625日午後2時から玉之浦第1小学校講堂における玉の浦町主催、国愛両婦人会後援の出征遺家族慰安会並びに現地報告講演会に臨み更に翌26日は午後7時から同町大宝小学校において講演会を開催し盛況理に終了した。両講演会とも予期以上の成功で五月雨にもかかわらず聴衆千名を超え会場は立錐の余地なきほどであった。

1回は町民を主としたのでことに日曜日を選び第2回目は干天に雨を得て植付けに多忙な農民の願いに応じたので午後7時を選んだ。開館と同時に国家合唱、英霊に黙祷、町長挨拶、続いて七田師が拍手に迎えられて登壇約2時間に亘って皇軍の悪戦苦闘、涙ぐましい傷兵等の尊い犠牲を物語り最後に臨んで郷土部隊殊に玉之浦町が生んだ藤田中尉殿の赫々たる武勲を讃えて集衆および遺家族に大なる感銘と慰安を与え銃後国民の血と熱を湧かして下段した。

最後に中田主任司祭の感謝と閉会の辞をかねて白衣の勇士を忘れるな出征遺家族を護れ皇軍の尊さ犠牲に応えるべく克己心とあらゆる犠牲心総動員して銃後の完璧を期せると結んで閉会した。閉会後別室で七田師の労をねぎらうべく町有志の茶話会があった。
 
 

鹿児島カトリック教区報、平成元年101

教区の礎を築いた、七田神父帰天

ザビエル教会を復興し祈りの大切さを訴え続ける

鹿児島教区の基礎を築いた七田和三郎神父が、9月8日(金)午前1時5分、腎不全のため入院先の鹿児島市内の病院で死去した。78歳だった。七田神父の死を悼む葬儀ミサは、10日(日)午後2時から850人にも上る悲しみの信徒、修道者が見守る中、戦後七田神父が青年たちと復興し、こよなく愛し続けたザビエル教会で荘厳に執り行われた。なお、七田和三郎神父の遺骨は玉里教会納骨堂に納められた。司祭叙階50周年(金祝)を迎えた昭和61年頃から病気で苦しんだ七田和三郎神父が天に召された。動脈瘤胃がん、逆流性胃炎、骨折、と次々に病に侵され、そして命を奪われた腎不全にかかるなど引退後の約3年間は病との闘いだった。七田神父は、「教区のシンボル」とも呼べる司祭で、昭和1311月谷山の小松原仮教会に着任以来これまで約51年間を鹿児島教区の為に働いてきた。この間神父は「ザビエル聖師来朝4百年祭」を陣頭指揮し、この4百年祭に間にあうように青年たちと共に、戦争で焼け野原と化した城山の下に、瓦礫の中から聖ザビエル教会を再建(昭和24年)したのである。また七田神父は戦時中、聖名会に女子修道会として長崎純心聖母会を招聘するのにも尽力したほか、ラサール学園開校(昭和25年)にも活躍した。この教区の基礎作りをした「七田神父帰天」の訃報は、直ちに召集された糸永司教を委員長としその他司祭、修道者信徒の計12人で組織された教区葬議委員会から、教区内はもとより県外にも届けられ8日と9日の2日間を通夜にまた葬儀を10日に、出棺を11日とすることなどが決められた。

8日、9日ともザビエル教会で午後7時から行われた通夜には、延べ25人の司祭と700人近い信徒、修道者がつめかけ神父の死を悲しみ思い出を語り合った。特に8日には純心聖母会からシスター八田カネが同会鹿児島招聘のころの七田神父の様子を、また9日にはかつて七田神父と共にザビエル教会再建に汗を流した信徒たちの代表3人が思い出を語り、神父の魂の安息を祈ったのだった。

10日行われた葬儀ミサには教区内各地から参列者があったほか、全国から神父の友人の司祭や修道者たち、また神父から愛された人々が駆けつけ、聖堂も中庭もいっぱいになった。ミサ中説教した糸永司教は先ず神父の業績を称えた後、「闘病生活は、十字架上のイエズスに近づくために必要だったのだと思う」と参列者たちを慰めた。葬儀ミサ後は告別式が行なわれ、司祭団を代表して田辺徹神父が、修道者を代表してヴィッデマン神父(レデンプトール会)信徒を代表として千葉幸男さん(ザビエル)がそれぞれ弔辞を延べ、神父との歴史を振り返り「ありがとう」と感謝をささげた。その後竹山司教総代理が参列者に挨拶し、献花がなされ、その長い列は延々と続いた。

七田神父の容態が急変した92日以来神父に付き添ってきた永山神父によると七田神父は臨終の間際まで、ロザリオの祈りで励ます司祭、修道者たちの声に合わせるように唇を動かしていたという。「マリアへの尊敬と祈りの大切さを訴え続けた神父の最期らしかった」と死の際を見守った関係者たちは口をそろえていた。なお、神父の柩は11日午前10時ザビエル教会を離れ、小山田霊園で火葬された後、玉里教会地下の納骨堂に安置された。

故アシジのフランシスコ七田和三郎神父

略歴

191010月2日長崎県玉之浦に生まれる

1936年ローマにて司祭叙階

1938年谷山仮教会(鹿児島)着任

1939年ザビエル教会着任

1949年鹿児島における「ザビエル聖師来朝四百年祭」を仕切り、現ザビエル教会献堂

1950年ラ・サール高校開校(招聘に尽力)

1972年吉野教会着任

1986年司祭叙階五十周年を祝う

引退後は司祭の家で静養

198998日帰天

 
 

七田和三郎神父様の思い出、田邉徹(鹿児島教区司祭)

私が七田和三郎神父様に始めてお目にかかったのは、1949年のフランシスコ・ザビエル渡来四百周年祭の時でした。当時私は大神学生の3年生でしたが、私の所属する鹿児島教区では勿論のこと、日本全体のカトリック教会にとっても、また日本国にとっても大きな記念の年でした。当時の日本は敗戦後僅か4年しかたっておらず、まだマッカーサーが占領軍の司令官として日本を統治していた時代でした。そのマッカーサーがザビエル渡来四百周年記念に際して、特にメッセージを出すほどの重大な記念祭だったのです。

したがって鹿児島は大変な賑わいでした。県や市の財界、政界の指導者達が音頭をとって、商工祭りの懸賞付大売出し、花火大会、ミスコンテスト、ザビエル記念競馬、全逓信祭り、記念ダンスパーティ。教皇特使ギルロイ枢機卿ほか、オハラ、レディ両司教率いるアメリカやスペインからの大巡礼団や、進駐軍関係の接待。教会側としては田中耕太郎博士(東大教授で後の最高裁長官)の講演会、鹿児島駅からザビエル教会までの聖腕行列、ザビエル巡礼ノベナの開始、新築となったザビエル教会の教皇特使による祝別式と式典ミサ。また純心学園と地元新聞社との共催でのザビエル子供祭りなどの行事があったのですが、このときこれらの先頭に立って、あるいは縁の下の力持ちになって出口教区長を支え、この大事業を完成させたのが七田和三郎神父様だったのです。

このとき私は初めて鹿児島の地に行き、教区長様以外の鹿児島教区司祭に初めてお目にかかったのでした。といっても鹿児島教区の司祭は教区長様以外は七田和三郎神父様ただ一人だけでした。ほかに七田神父様のお兄様のマリア会所属の七田八十吉神父様が加勢に来ておられただけでした。七田和三郎神父様の略歴を見ますと、神父さまは191010月のお生まれになっており、ローマの司祭叙階が1936年となっていますから、ザビエル祭当時は、39歳で司祭になってから僅か13年しかたっていなかったわけです。七田神父様は長崎教区所属で、ローマより帰国後久賀島の教会に勤務され、後に佐世保の教会に転任されました。当時は鹿児島教区の教区長は長崎教区の山口愛次郎司教さまが兼任なさっており、鹿児島には長崎から古川神父様や深堀仙右エ門神父様(後の福岡司教)達がいましたが、深堀神父様の転任によって、193811月七田神父様が鹿児島に転任となったのでした。鹿児島では最初は谷山の小松原教会(現在のラサール高校)に着任され、聖名高等女学校を経営していたカナダ系の聖名会の修道女のミサに通っていましたが、翌年には鹿児島市の山下町教会(現在のザビエル教会)に転任しました。

1940年鹿児島教区は出口一太郎教区長様を迎えましたが、出口教区長様は宮崎教区長も兼任なさったので、長崎から松下佐吉神父様がおいでになって、山下町教会に着任し、七田神父様は1941年宮崎の教会を司牧することになりました。しかし、大東亜戦争が勃発し、1942年には七田神父様も召集されて台湾で軍務に服することになりました。1945年終戦。翌年復員した神父様はすぐ鹿児島に帰りました。鹿児島市の山下町教会は勿論ほとんど空襲により焼け野が原となり、辛うじて市外の谷山の小松原教会が残っていました。そこには出口教区長様がただ一人留守を守っていました。強力な助っ人の帰還を喜んだ教区長様は、ミサ用ワインの栓を抜いて二人で喜び合いました。その時七田神父様は、身は敗残兵の軍服をまとっていましたが、心は天のマリア様に見てもらっていい清さを保って帰ってまいりましたという心境を、軍隊時代に覚えた貫太郎月夜歌に託して、教区長様の前で歌いました。・・・「形(なり)はやくざにやつれていても、月よ見てくれ心の錦。生まれ変わって天竜の水に、映す男の晴れ姿」

戦前、鹿児島教区は軍部によって外国人宣教師は追放され、奄美にあった12箇所の教会と種子島の教会は迫害によって破壊され、あるいは空襲によって焼失し、残った教会も没収されて一軒も残っていませんでした。また、鹿児島本土では薬師町にあった教区長館をはじめ、七つの教会も谷山の小松原教会以外は空襲で焼失してしまっていました。司祭も住居がなく長崎に帰り、出口教区長様一人になっていました。したがって小松原教会の教会に主日のミサに与かる信者は145名だったそうです。

七田神父様の回顧録によると,1947年頃になると、鹿児島市にもあちこちに家が建ち始め、教会に出入りする青年求道者の数も増え始め、その年の815日のマリア様の祝日に初めて3名の大人の洗礼があり、クリスマスには31名の大人の洗礼がありました。

学生や、求道者の数も増えたので、早速山下町の教会の建設に取り掛かりましたが、谷山から山下町の教会まで、彼らと一緒に第八車を引っ張って、およそ10キロの道を、教会の焼け跡の整地に向かいました。建設機械などなく、手作業で整地を完了して、ザビエル渡来四百周年記念に間に合わせるために建築開始に向けて活動を開始したのでした。教会が建つと神父様は山下町に移り、以後1972年の3月まで約23年間、山下町ザビエル教会の主任として宣教、司牧に励まれました。

特に公教要理は得意で、ザビエル教会で彼によって受洗した大人は千人以上のぼっています。その間出口教区長を助けてよき牧者会修道女会やラサール修道会を招致して、教区の福祉や教育活動を推進した。司教区になると里脇司教様の総代理として、また、純心短大、ラサール高校の教師としても活躍なさいました。19724月にご自分が開拓された吉野教会に転勤になり、そこで宣教活動を続けられました。1986年司祭叙階金祝を期に、主任司祭を引退して、司祭の家に移り、198998日帰天されました。彼はまさに聖フランシスコ・ザビエルの後継者でした。
 


                     
                     
                     
                     
inserted by FC2 system