竹谷音吉 主任司祭

 
 

水の浦小教区時代(お告げのマリア修道会史「礎」)

 

2次世界大戦終結後、農家では養蚕が盛んになった。それに伴い大正年間より養蚕と機織りに力を入れていた聖ヨゼフ院には下五島各地から多くの繭が持ち込まれるようになった。注文に応じるため製糸と機織りを事業化することとなり1947年に養蚕室を新築した。1951520日岐宿町の青柳に保育所「白百合愛児園」を開設した。カトリックに対する邪教感の強い町であったが、会員たちの布教への熱意と信者たちの強力な応援を受けて開園に漕ぎ着けた。幸い、当時の岐宿町長貞方留之助氏と町会議員飯田小吉氏が好意的に協力してくれた。

開園してみると受けた猛反対が嘘のように定員
50名に2倍の応募がありまた保護者は非情に協力的で驚きの連続だった。さて、司祭館を園舎にしていた楠原光幼児園も新築の運びとなり同年9月に着工した。

地元の信者たちは資材を提供し、積極的に作業に当たり半年後の
4月には新園舎で入園式を行った。聖ヨゼフ院で独自の修練を開始したのは1952(昭和27)年4月からである。指導を水の浦教会主任司祭浜口貞一師(194812月着任)が担当し、修練長は農耕主任の赤窄カヲだった。修練者には週2回訓話と霊的指導がなされ特別な信心業が課された。また毎日の作業は農耕係の会員たちと一緒に行った。翌1953319日、修練の実りとして着衣・立誓願式が盛大に執り行われた。

この修練制度は聖婢姉妹会に移行するまで続けられた。さて
1954125日建築後2年に満たない楠原光幼児園が全焼した。暖房用大火鉢の火の不始末が原因で隣家も類焼してしまった。力を入れて造った園舎だっただけに会員たちと楠原の信者たちの落胆は大きかった。しかし、子供たちのためにすぐに再建に取りかかり資金と資材の不足に悩まされながら19555月に完成している。19541月楠原分院建築が始まった。かねてより地元の強い要望であったが、迫害時代に楠原の牢として使われた建物の材木を狩浦政雄氏から譲渡されたため実現した。

牢の材木を一階部分に使用し、信者たちの協力を得て木造二階建ての分院は
9月に完成した。1955年に入ると織物が注文に追いつけない状況となった。保育所の充実に伴い人手が不足したためであった。そこで合理化のために力織機を導入しこの織物業は1965年まで続けられた。さて、1956(昭和31)年7月長崎県内に散在する23の小共同体が長崎教区長山口愛次郎司教によって統合され聖婢姉妹会が誕生したが聖ヨゼフ院も聖婢姉妹会水の浦修道院として歩みを進めることとなった。早速開始された第一回の修練に3名が参加して初誓願を宣立した。

他の会員たちもこれに続いて次々に誓願宣立の恵みを受けた。
19634月、山内保育所が開設された。山内地区住民の強い要望に応えて、岐宿町立の保育所として建てられたが、経営は修道院に委託された。この保育所開設に当たっては、当時の主任司祭竹谷音吉師、町議会議長狩浦政雄氏(楠原教会信徒)、町長飯田小吉氏の尽力が大きかった。こうしてカトリック色の全くなかったこの地区にキリストの灯りを携えて通勤することとなった。

白百合愛児園は
1965年に定員を90名に改め、建物を増築し補修した。しかし敷地が狭くて十分なことができず苦慮しているところへ念願の「西村の屋敷」が手に入ることとなった。早速新築の運びとなり19696月に鉄筋コンクリート一部二階建ての新園舎が完成し移転している。岐宿町立川原保育所が開設されたのは1971(昭和46)年55日である。地元の強い要望で町当局は「町の経営、修道院の会員が保育に当たる」という形で引き受けて欲しいと再三依頼してきた。結局無理を押して4名の会員が町職員として勤務することとなった。

 
 

カトリック教報(昭和4211日発行号)

 

 

ある友に   竹谷音吉

 

明けましてお目出度う存じます。神様のお恵み、特に生命の喜びを感謝いたしましょう。与えられた年が、霊肉共にもちの酔一年であるようお祈りいたします。「今年はどんな年だろうか」この言葉に含まれるある種の不安は棄てることにして、平和の望み幸福の夢だけをたずさえて出発しましょう。

とてもたくさんの可能性を含んだ一年に違いありませんから、ただ希望や願いの積み重ねに終わらないよう、できるだけの効果的方法を試み、可能性にいどみたいものです。年の始めに色々と考えたり、計画したりすることが多いとはいっても、ちょっとさかのぼって幼な時代の正月風景でも思い出し、なつかしむ余暇ぐらいはほしいと思います。

そこで今日は故郷に帰れない代わりに家族について少し考えてみようではありませんか。私たちは家族の中に生を受け、育ち、召命も其処で感じました。両親や兄弟の血族的つながり、さらには信仰・愛・祈りが私たちの
今日にどれほど大きく影響したかとうてい測ることは出来ません。家族の縁は何処まででも続き、いつでもその子らを一つの屋根の下に集め、温かい愛の流れを感じさせます。

しかし、「吾よりも父母・・・を愛するならば・・・」とのみ言葉を絶えず黙想し、隣人への愛が神の愛の中で同時に満たされるよう調整しなければなりません。とにかく私たちのとって家族は聖旨の温床だったということが出来ます。さてこちらの教会ですが、クリスマス、新年と続いて沢山の若人が帰省します。歌ごえや笑いが家をみたし、溢れた喜びが部落中に広がり、丘の上の教会にもこだましてきます。

連れだってミサに集まる家族がそれぞれにいいようのない安らぎが読みとれます。聖なる食卓の集いが信望愛を倍加してくれるように感ぜられます。田舎も昔のようにノンビリ出来なくなりました。何時もいつも忙しいのです。それでも感心なことに子供たちの集まる家には常にはない平安が漲っています。見る、語る、聞く等の極自然な表現が家族的出会いを通じて、深い泉から平安を汲み出してでもいるかに見えます。心の奥深い泉の扉を出会いという鍵で開き、親は子の心まで、子は親の心まで降りてそこから喜びを汲み上げては家族と呼ばれる
入れ物を満たしてゆく、私はなごやかな家族を眺めてそう考えました。

「出会い」、「心の触れ合い」の不思議な作用を発見出来るのは大きな慰めの一つです。人間は「喜びの為に造られている」と語ってからそれはそれは苦労して何処でも探して廻りました。ただ一つ人間を除いて。しかし、未だに見つかりません。喜びは神様のものですが、人間の心の袋には「神の喜び」が隠されていて、やがてそれが家族の中でふくらみ世界を覆うようにご配慮下さっています。

徒に心の外で平和を、喜びをと叫んでもただ疲れるばかりです。急いで家族の心は締まり、喜びの席で憩はねばなりません。私たちは年に一度くらいは自分が家族の中で人間になったことを思い起こすべきではないでしょうか。なぜなら最初の家族が祭壇で結ばれるとき、神様はご自分の方から、聖なるみ業への参加を呼びかけられ、それに惜しみない協力を得て私たちをお創りになったからです。その上、私たちの成長のために人間の知恵の及ばない方法で高価な栄養(やしない)と霊薬をお与えになりました。それこそ両親なのです。

両親が尽きない愛の手でその子らを、より完全な神の姿に形造ろうと如何に己を犠牲にして代理者の務めを果たしているか決して忘れられてはならないと思います。「神の聖意」への協力犠牲は幸福の秘訣ですが家族は一つの
聖旨“で聖旨のあるところに喜びが潜んでいます。キリスト様は世の救いのためにお降りになりましたが、「仰せの如く吾になれかし」とのマリア様の答えを聞いて聖家族の基礎を固められ、そこで人となることをお望みになりました。

ナザレトの聖なる家族内で人間は初めて神様に会い、家族の中で祝福を受けたのです。新約の家族は救いの揺籃となり、救いの遺産の分配にも与り天国から伸びてきた救いの道を玄関まで引いて来ました。「救いと家族は深く結ばれています。信仰に比較的きびしい家族の子弟は何処ででも、案外容易に救いの手段を見出しますが、無頓着な家庭ほど多くの魂を危険にさらしているのをみても明白でしょう。

キリスト信者はもっと聖家族の姿を黙想し自分らの生活の場でキリスト様にもっと語りかけるよう心がくべきだと思います。幸い貴方は育てられた家庭よりもっと高い立場の生活ですから、客観的に家庭をとらえ、その神秘を理解出来ると思います。どうぞ捕捉しながら読んで下さい。(水の浦教会主任)

 
 

稲佐教会献堂50周年誌  光への旅路  2000年 カトリック稲佐教会

 

昭和3710月頃から、画期的といわれる第二バチカン公会議が始まり(昭和40128日閉会)教会のダイナミックな動きに導かれ、長崎教区でもその精神に生きるための研究が進められていった。昭和40年は信徒発見100年祭が行われ、稲佐教会から多くの方が、各種祭典、行事に参加。参加者、地区長の協力で参加状況の統計をとるなど啓もうに努めた。またこの頃、地区の集い(地区研究会と称していた)を、月2回開催し、中田神父様、および助任神父様も各地区に出向き指導されていた。

なお、この年稲佐教会創立
15周年に当たり、55日、稲佐山山頂で記念野外ミサを行い600人が参列した。その後運動会が盛大に行われた。昭和4112月にはJOCFが発足し、長崎教区ではクルシリヨが開かれるようになった。

このように最初の聖堂時代は苦難の時代から歴代神父様の指導により、信徒としての自覚が芽生え、組織化されそれぞれの役割を果たす努力が重ねられていったのでした。教会を形づくる信徒の集まり、それはミサ聖祭をはじめ、洗礼、堅信、結婚式、葬儀などの典礼、黙想会、信者大会、幼稚園発表会など、あたたかく受け入れ、育んできた聖堂も次第に白蟻の被害が広がり、塔の改修を行ったが、建物も老朽化し狭かった。昭和
41年教会再建のため、中田神父様をはじめ顧問団、地区長などで、体制を整えつつ既設場所での建設費の試算から、調査、検討が進められていく。

問題は土地である。現在、第
2代目の教会が建てられている土地に決まるまで、実に45転血の滲むような調査、検討、交渉が重ねられた。挫折感を味わいながらも、粘り強い取り組みにより、敷地、交通の便等々、必ずしも十分でないがほぼ現在地に決まっていくのである。

この間、新聖堂建設資金の積立などの業務を行ってきた建設準備委員会を改組して、資金面にたずさわる人、建設面にたずさわる人を加えた“実行委員会”を発足させ業務を一括移行し、具体的数字を出し、また土地取得などの実務を遂行していった。昭和
431月、建設新地区委員が決まり、4月になって本部役員が推挙され、中田主任司祭、野下助任司祭を顧問に、浜端清委員長をはじめ、新聖堂建設委員会が発足したのでした。

資金計画の具体化もすすめられ、昭和
441019日には、旧聖堂いっぱいにしての使徒職大会が催され、西町教会のウィゼン師、飽の浦教会の鶴田師が招かれ、聖堂建設の参考例や、改修工事にまつわる苦労話に耳をかたむけた。中田神父様は、新教会の構想を聖パウロ大聖堂をモデルに図面を作成されていた。このように永年、司牧とともに教会再建に人知れぬ犠牲を捧げられた中田神父様は、昭和452月新聖堂を胸に秘めながら、五島・水ノ浦教会へ赴任され、竹谷神父様へその業を託されたのでした。

 
 

聖堂は神の民の家

 

新聖堂の再建は、時にくじけそうになる信徒をつねに励まし、祈り指導された神父様、それにこたえて建設委員は辛酸を経験しながら、粘り強くその役割に身を捧げられた。そして苦しい生活環境当時はインフレの様相で、物価高騰のなか、度重なる建設資金分担額の上積みに、信者は生活を切り詰めながらその責任を果たしたのです。

使徒職会、壮年会、婦人会、青年会はそれぞれの機関で士気を盛り上げ、協力しあい、廃品回収、バザーなどに汗を流し、地区集会でお互いの心をかよわせ完成させたのでした。忘れてならないのは、教区長たる大司教の温情、他教会からの心あたたまる寄付などのおかげである。

昭和
461215日新聖堂は祝別され、現在に至っている。鉄筋コンクリート4階一部軽量鉄骨建ての司祭館が設けられている。限られた敷地に建てられた聖堂はその設計段階から苦労があり、制限のなかで必ずしも理想通りにいかないこともあった。それだけに現在の私達は次の世代の信者のため、信仰の継承、発展を願い、祈りと活動の場として聖堂を大切に保守していく必要があるのです。

新聖堂は
1階にホール、小会議室、事務室、賄部屋、トイレなど、信者の活動拠点、交流の場となり、23階は聖堂として約400人が入堂、典礼に参与できます。司祭館は4階にあり、訪れるのは階段が大変だが司祭館へご用の方は登り上がるとしばし息を整え、長崎の山々、町を一望できます。

最初の聖堂を建立し、
20年の年月の間に天国へと旅立たれた先達の信者たちは、この立派な2代目の新聖堂を天上からどのように見ているのでしょうか。この新しい聖堂も敷地としては狭く高さも制限されかなり厳しい設計・工事だった。建物は当然年月を経るにしたがい少しずつ老朽化が進む。また台風・大雨など自然界の状況により被害もうける。

現在、この教会で恩恵を受けている私達は、次の時代の人達のため、努めて大切にし適切な予防保全とともに、被害発生の時は早急に対応策をとることになるのです。今回、教会創立
50周年に当たり、昭和46年に献堂された聖堂のこれまでの営繕工事について概略述べ次世代へ継いで行きたい。

昭和
461215日新聖堂の祝別から昭和52年までは議事録はなく、営繕工事の有無については定かではない。昭和53年聖堂入り口付近および1階南側側壁2カ所にモルタルの一部剥離が発生、また台風により司祭館食堂の屋根が吹き飛ばされ雨漏りがあり、いずれも補修したが記録上最初の営繕工事である。営繕工事には大小及びいくつかの種別に分けられるがここでは主なものについて記す。

 

 
 

外壁剥離補修工事

 

外壁の剥離現象は昭和53年頃から発生しはじめたが、昭和57年になると教会北面の外壁が剥離現象をおこした。そのまま放置することは危険であり、建設会社である大進建設を呼び、竹谷主任司祭、岩村、鳥巣、山口の各財政顧問の間で数回にわたり、原因の追及、修理の方法など検討を重ね補修工事が決定した。工事は昭和5745日に実施。一部内装工事を含め473万円の工事となった。一世帯15千円の拠出金が集められ、修道院から50万円の援助と教会設立金からの出費と合わせ決済した。

 

上水道の赤水対策

 

水関係については、ポンプ、モーターの故障、配管のびびり音対策などその都度修理を重ねているが、昭和58年頃から赤水問題が発生してきた。水道管及び接続管の内部腐食によると思われる赤水対策について貯水槽、高架水槽などの清掃工事を行ってきたがなかなか解決しなかった。平成2年から検討を重ね、平成3年給水系統を一新する工事を行った。
 
 

カトリック教報(1985111日発行)

 

太田尾教会

 

長崎県西彼杵半島から4kmの海上に浮かぶ大島は、島の中央にある百合岳を頂点に東面はビル街で当大島町の基幹産業である世界最新鋭機で省力化された中型造船所があり、経済の中心地となっている。造船所従業員や家族のため巡回教会間瀬教会が建っている。西面はゆるやかな傾斜地に、段々畑や渓谷が広がり田園で太田尾教会(西彼杵郡大島町4522)は山のふところにいだかれたような形で建っている。

片岡弥吉著「長崎のキリシタン」誌によると、太田尾教会信徒渡来の起源は定かではないが、徳川幕府が出したキリシタン禁教令期間中、外海地方より移住したと記されている。太田尾教会主任司祭竹谷音吉師は、「当教会は古い記録が全く残っていないので祖先がいつ頃移住して、どのような信仰生活を送っていたかは古老のおぼろげな記憶だけなので定かではありません。外海や平戸それに西彼杵半島から移ってきたキリシタンを先祖にしているのは事実です」と語る。当時、島の西面にある新地と呼ばれている(塩田、塔の尾、太田尾、中戸、徳万)のほとんどの住民がかくれキリシタンだった。明治
6年キリシタン禁教令が解かれ、カトリックに復帰した信徒戸数は23世帯。あとの百数世帯はほとんど仏教を信じるようになっている。

当時は黒島教会の巡回地となっており、パリ外国宣教会ペルー師が司牧にあたっていた。明治
15年頃には太田尾も信徒数が増え、塩田にあった「家み堂」も手狭となり教会設立の計画が出された。教会建設に当たっては、老若男女信徒総出の奉仕の結実として昭和411月太田尾天主堂が献堂された。

現在、太田尾教会では高校を卒業した大多数の若者が就職のため県外に出て行くので教会内の活気はいま一つ。しかしお年寄りは信仰の遺産をしっかり守り、信仰の重みを祈りによって次の世代へ伝えている。主任司祭の「信徒は一つになってほしい」の願いを込めた教会行事には、婦人会のメンバーの働きが大きく教会を支えている。昭和
31年より続いている御復活を祝っての百合岳への山登りも信徒一同の一致と親睦を深めている。造船の町大島町の住民で造船従業員や家族の多くは他県から移住した人々。

この移住信徒の人々が間瀬教会に所属メンバーとなっているが、ややもすると共同体の一員であるという連帯感が薄くなりがちだという。そのため教会は運動会、バザーを計画し参加を呼びかけている。信徒達は協力して司祭館建設のためバザーを開き、念願かなって今年
4月司祭館は落成し、松永司教の手により祝別された。竹谷師は「現代経済社会の中で生活のため一生懸命働き生きることはもちろん大切な事であるが、信者は信仰心を強く持って祈り、天国を買い取るくらいのファイトを持って神に向かってほしい。

教会の子供達には、テレビや各種情報に振り回される事なく、毎日の生活の中で祈る事が習慣になるよう願っている」と信徒への期待を語る。現在この小教区から、福岡の小神学校へ
1人、神学校へ1人と召命の恵みが確実に実っている事を喜んでおられた。

日の盛りお告げの鐘に立ちどまり

 

十字架からの宣教 

 

教会宣教の歴史はヨーロッパ、アメリカ、アフリカと焦点を移し、現在その視線はアジアに注がれている。特に韓国における宣教の進展はめざましく、教皇訪韓に際し集まった百万の信徒、荘厳な列福ミサ、半島にこだました信仰宣言等、まさにアジアに始まった「恵の時」を告げるものであった。ところが日本は、宣教者の海外派遣の時代を迎えても、国内宣教は伸び悩み見るべき成果を収めていないのが現状である。物の豊かさに気を奪われ、その影には精神の空白が拡がり、心の支柱さえ失いかけている社会が見えないのであろうか。目を見開いて時代を見つめ、「時の要求」をしかと受けとめて、強靱な宣教活動を展開すべきではなかろうか・・・・・・。

以上は黙想会の説教の一部ですが、「日本教会の基本方針と優先課題」を前にして、恵のしるしである「韓国の宣教」或いはすばらしさの理由について考えてみることは無益なことではないと思います。元々は韓国には一神教的考えがあり、キリスト教を受け入れる下地が出来ていたため、あのような効果をあげることができたのだとも言われ、他にも色々の考え方があるでしょう。

しかし何よりも彼等は「苦しみの民族」でした。その苦難の道に、或いは苦しみの周辺に何か隠された鍵があるのではないでしょうか。
1910年の日韓合併以来戦争終結までの朝鮮民族の受けた不当な苦しみは、日本人の想像を遙かに超えています。精神的屈辱はもとより、酷しい労働や兵役等に強制連行され、自国の言葉すら失う危険にさらされました。

信仰の面でも日本教会の数倍もの弾圧を受けています。また当時朝鮮に二人の日本人教区長が任命されました。布教熱に燃えた優れた宣教者でした。しかしこのことは民族意識から見るかぎり、どれほどの耐え難い犠牲であったか「自国を亡ぼし、苦しみしか与えない日本」それだけでも非情と思える大きな試練だったに違いありませんそれでも韓国の教会は堪えぬきました。

神の摂理を容れ、尊敬、服従、真心で仕え通しました。そこには、民族的苦しみも、教会的いたみも凡てを十字架に繋ぐ信仰、殉教者的知恵が見られ、何事もなしとげる神の恵みが感じられます。彼等はこの信仰体験から現在の民族解放と自由を十字架の恵として受けとめ、今尚南北分裂の悲しみを背負いながらも失望せず、凡てを一つに集める十字架の力を信じ、各の十字架をとってキリストに従う福音的生き方を会得したのではないでしょうか。

韓国の福音宣教は手段、方法ではなく、生き方であり「十字架からの宣教」という意味で人々の心を捉えているのではないかと思います。尚韓国に信仰が伝えられた経緯から考えて、信仰の生命、信徒の道は信徒自身の考え、判断、実行にかかっていましたので、所謂信徒使徒職が伝統的に根強く定着し、信徒の発言が吸い上げられ、創意工夫が生かされることによって宣教の推進力を増しているのも事実だ思います。(太田尾教会・主任司祭)
 
 
 

ザビエルの足音

 

聖マリアの園・司祭 竹谷音吉

 

稲佐教会建設50周年を迎え、主任神父様をはじめ信者の皆さんに心からお慶び申し上げます。教会建設50年を「献堂50年」と読み替えますと真先に守護者ザビエルの面影が浮かんで来ます。稲佐の信者の心には「宣教者ザビエルの像と、ザビエルを全く変えてしまった聖書の言葉が深く刻まれています。この二つの所謂「像と銘」が色々の形で信者を養いガードして、今50年を迎えたのです。

稲佐教会とザビエルの最初の出会いは「ザビエル渡来
400年祭の「聖腕」を迎えた時でした。そして「聖腕」の前で稲佐が変えられていく、いわば回心の大きな恵をいただいたのです。それはまだ小教区独立前でした。実際あの出会いは稲佐の再創造となり、過去からの脱出となる偉大な神の力の体験、豊かな恵の発見ともなりました。やがて喜びや責任を伴う信仰が或いはより深く内面化し或いは外に燃え広がり、ついに小教区独立をかちとり教会建設をなしとげ喜びのうちに教会も信者もザビエルに捧げられたのです。今、次の50年に引き継がれようとする時、若し稲佐に要求されるものがあるとすれば、ザビエルが駆りたてられ、先代の人々が駆りたてられた「熱情」と勇気、それに冒険の精神ではないでしょうか。

教会建設以来
50年、その歩みの中で特筆に値するのが幼稚園の開設です。信仰教育を振り返る意味で、開設者梅木神父様を思い出したいと思います。神父様は信仰教育の理想を「宣教者ザビエル」の中に見ていました。ザビエルに学ぶ教育が全人教育、人間教育に繋がることを確信していました。子供の背丈で子供の中にはいり、明日の使徒、明日の宣教者養成に精力を傾けました。

神父様の夢は将来の稲佐教会を宣教する教会に造り上げることでした。その夢の実現は一つにかかって信者皆さんにあるのではないでしょうか。昨年「ザビエル渡来
450年祭」が開催され、平戸でザビエルに再会し50年前の感激を新たにしましたが、長崎では県立美術館で「大ザビエル展」が開かれ、136点が展示されました。その中に「長靴の部分」と書かれたとても古い靴底がありました。聖遺物の一つです。それにしても、どうしてこんなものを・・・・・・と一瞬感じましたがそれはおそらく、他の遺物からは聞こえてこない特別な「宣教の跫音」を持っているからでしょう。

『行って福音を宣べ伝えなさい』・・・・・・

しかし宣べ伝えに行く者がいなければ、何も伝わらない。神の聖旨も実現しない。福音と宣教の関わりと両者間の消息をこの靴は鮮やかに示しています。ザビエルと供に行動したこの靴は絶えず信仰の行堂化を叫び、生活の福音化を訴え続けています。特にまた、その居場所を何処に変えたとしても、そこを訪れる人には例外なく「あなたは宣教者」をアピールし「福音を宣べ伝えなさい」と呼びかけて止まないでしょう。

誰でも軽快に行動するためにはピタリと足に合う靴が必要です。同様に宣教活動もそれぞれにあう手段方法を取らねばなりません。換言すれば宣教姿勢が問われているのです。それでは一体靴を履くとはどういうことでしょうか。聖パウロは「平和の福音を告げる準備を履物としなさい」と言っています。

「過越の祭」の規定でも「腰帯を締め靴を履き」とありますが、やはり準備を意味し特に過越の食事では急ぐ姿と、すぐ次の行動に移る順応の姿勢が見えています。神の聖旨に従う準備が何時も出来ている。これが教会活動の基本ではないでしょうか。「神の慈愛に生きる者の足を神は守られる」慈愛に生きるザビエルの「神の栄光・人々の救い」です。頑張りましょう。

 



  
   
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