第15代主任司祭、アンドレア道向栄次郎 1911年(明治44年)9月8日 南松浦郡(現五島市)三井楽町大川に生まれる。 1946年(明治21年)12月8日 山口司教、叙階(大浦天主堂)。 12月 田平教会助任。 1947年(昭和22年)11月 浜脇教会主任。 1953年(昭和28年)7月 青砂ケ浦教会主任。 1963年(昭和38年)2月 下神崎教会主任。 1973年(昭和48年)3月 奈留教会主任。 1977年(昭和52年)3月 福江、聖マリア病院に入院。 1978年(昭和53年)6月 聖フランシスコ病院、三ツ山ときわ荘に療養。 |
久賀修道院 殉教の島、久賀に聖家族修道院が創立されたのは1932(昭和7)年11月18日のことである。その目的は教え方として教会に奉仕することであった。1914(大正3)年に奥浦伝道学校が開設されて以来、下五島各地の多くの男女の信者がそこで学び、小教区へ戻ると信者の信仰教育に励んで司祭を助けていた。司祭の数が少ない頃のことで大切な奉仕者であった。ところがその伝道学校が1929(昭和4)年3月をもって閉鎖されたのである。その事態を受けて、当時の浜脇教会の主任司祭清水佐太郎師は、小教区内の教え方養成に悩み、修道院を創立するという結論を出したのである。 当時の長崎教区早坂久之助司教により認可と指導及び創立資金を得、信者たちの手によって修道院建設が始まったのは1932(昭和7)年6月であった。二階二間の完成を11月18日までに間に合わせ、早坂司教司式による入会式が行なわれた。最初の入会者は次の4名である。川端エキ(24歳)、田中スヤ(22歳)、脇田マス(17歳)、野原ツヤ(15歳)初代院長は川端エキが務めることとなり、清水師の準備した会則と時間割に沿って修道生活は開始された。朝の1時間は清水師の指導によって会則、修道精神、ローマ字の勉強に当てられた。日毎の糧は畑を耕すほか、日雇いや小作に出て得ていた。会員たちには修道院の建物と芋畑3反のほか何一つ財産がなかったからである。 翌年2人の会員が加わり活気を帯びたが、脇田マスが病に倒れた。その日暮らしの会員たちには何の治療もできず、親元に引き取ってもらうという辛い決断をしなければならなかった。修道院の生活にリズムが見られるようになった1934(昭和9)年清水師は教え方養成を始めた。五輪、赤仁田、永里、浜泊、小島、細石流の各地区から選ばれた6名と、修道院から野原ツヤが加わって指導を受けることになった。3ヶ月間の養成を受け、その後3年間教え方として奉仕する約束であった。清水師、清水師の妹マス氏、奥浦伝道学校で学んだ川端エキが指導にあたり、彼女たちは会員と起居を共にしながら学んだ。 創立当初から聖家族修道院には、浜脇教会の教え方が課せられた。最初の担当者川端エキは、午前中は会員たちと共に農耕に汗を流し、午後になると毎日学校帰りの子供たちに要理を指導し、教会のあらゆる雑事をこなした。日曜日の夫人たちの要理指導も彼女の役割あった。教え方養成を終えひと息ついた清水師に、同じ年、転任の命が届き、師は久賀島を去った。創立者を失った会員たちは大きな衝撃を受けた。しかし、後任の司祭方も指導と協力を惜しまず、1935年から相次いで4名が新たに会員に加わっている。しかし会員の一人は他の修道会での修道を望んで去り、寂しい思いもしたのであった。教え方はその後、野原ツヤ、中村スミ、肥喜里スマ子に引き継がれていった。 1952(昭和27)年に保育園を開設するまで、日雇いと農耕によってその日の糧を得る生活が繰り返された。次第に田畑や牛が財産に加わったものの、なかなかゆとりをもてるほどにはなれなかった。保育所開設のきっかけになったのは、たまたま来島した長崎教区司祭川口善助師の勧めであった。島に保育所を開設することについて主任司祭道向栄次郎師と信者たちの賛同を得、村長江頭鉄之助氏に好意をもって受け入れられ準備にかかった。準備は道向師、村会議員中村與蔵氏及び教会役員を中心になされ、建物建築に当たっては資財と労働提供を信者たちから受けて、1952年4月20日、久賀保育所開設となった。定員50名で認可を受けている。 |
カトリック教報、平成3年12月1日 修道院からこんにちは お告げのマリア修道会久賀修道院 福江島から「フェリー久賀」で久賀島に渡ると、浜脇の海岸の近くに教会と少し離れて左横に修道院の建物が目に入る。この修道院が歩んできた道をふりかえってみますと、徳川幕府のキリシタン弾圧のもとに密かに信仰を守り続け、遠い西彼杵半島・外海地方のキリシタンが移住してきた時代にまでさかのぼる。 昭和7年、久賀島に修道院創立を思い立たれたのは、当時の主任司祭清水佐太郎師である。師はその頃、各教会で要理を教える教え方の養成機関である奥浦の伝道学校が閉鎖されたため、教会への奉仕者がいなくなることを憂い、修道院創立を思い立ったのである。聖家族を守護にいただいて、従順・清貧・貞潔を誓い、御ミサに与かり、喜びと感謝のうちに「聖家族修道院」の名称で、修道院としての第一歩を踏み出しました。 また、保育所開設のきっかけとなったのは、川口善助師の来島である。昭和26年、当時の主任司祭道向栄次郎師のところへおいでになった川口師は、出迎えて修道女に「保育園をやってみないか」とすすめをくださり、昭和27年、久賀保育所がスタートしました。昭和34年には、蕨(蕨)保育園が落成し、それまでの仮住まいから新園舎での保育が始まりました。しかし、次第に園児が減少し46年、19年間の蕨町での保育活動は終止符をうつことになりました。その時残っていた園児は、久賀保育所に通園するようになりました。 昭和54年、久賀保育所は増改築を重ねていましたが、次第に老朽化したため、新園舎を建てることになりました。今は広い園舎に少人数の園児たちが、園庭の聖母マリア様に見守られて、毎日明るく過ごしています。久賀修道院は、小さい共同体の中に、教会奉仕、福祉事業、また農耕・炊事に携わりながら、互いに補い合い協力し合って、先輩たちの歩んだ足跡をたどりつつ、神様のお恵みの中で、皆さま方への奉仕と福音の証しとなるよう祈り、努めて行きたいと念じております。 |
カトリック教報、昭和42年11月1日 褥崎教会祝別 新設されたばかりの褥小教区に、新教会堂と司祭館ができ上がり、小教区信者たちに喜びが重なった。褥教会は52年前に建てられた木造でひどく老朽していたので、昭和39年から敷地造成を始め、本年5月1日から教会堂の新築工事にかかっていたが、主任信徒と信者たちの一致協力の苦労がみのって10月18日、めでたく落成、山口大司教の手で祝別された。敷地1,700平方メートル。教会堂の床面積21平方メートル、司祭館11平方メートルの2階建て。 |
カトリック教報、昭和26年11月1日 全村民が追悼―久賀の産婆畑田さん 久賀島で、産婆として尽くすこと40年、その献身的な働きと、人間愛に生きた模範的カトリック産婆として全村民から慕われていた畑田ワサ婆さん(72)が8月30日、安らかに帰天した。畑田さんが、去る2月長崎医大に入院すると、その徳を敬慕していた村民たちは信者も未信者も全快を祈り、見舞いにつめかけたり、見舞金を電報為替で送ったり、自分の母に尽くすように尽くしていた。 11月1日、諸聖人の祝日には、全村あげての追悼祭を行い顕彰碑を建てる計画もある。 ワサ婆さんは18歳で産婆見習として福江で修業する事10年、免状を取ると、1人の産婆もいなかった久賀島に帰り、爾来40年、時の経つのも忘れて、産婆と産児のために生涯を捧げてきたものである。村民たちは「村長さんには頭だけ下げるるような人でもワサさんには、心も頭も一緒に下げた」と述懐している。 非常な倹約家でつつましい生活をしていたが、貯めた金やもらった米、魚などは貧者に施し、謝礼なども、貧しい人からは決して取らず却って産着などを贈っていたという。 カトリック教報、昭和54年3月1日 道向栄次郎師帰天される 2年前から病院治療の為司牧をはなれ、聖マリア病院(五島市)、聖フランシスコ病院(長崎市)、三ツ山ときわ荘と入院生活をおくっておられたアンドレア道向栄次郎師は、ついに去る1月28日午後11時2分、聖フランシスコ病院で、糖尿病のため帰天された。67歳。 翌日、ご遺体は浦上教会公民館に移され、昼夜を問わず司祭、修道者、信徒多数の祈りとミサがささげられた。通夜の儀は、29日夜7時から、里脇大司教司式で行われ、葬儀ミサは翌30日午後2時、浦上天主堂で、里脇大司教を中心に、松永補佐司教、百余名の司祭による共同司式でささげられ、司祭らの手で赤城の聖職者墓地に運ばれ手厚く葬られた。(松永司教が説教を担当された) これで教区司祭数は79となった。 下記は故道向栄次郎師の略歴である。 1911(明治44)年9月8日、南松浦郡三井楽町大川に生まれる。 1946(昭和21)年12月8日、大浦天主堂で司祭に叙階される。 1946(昭和21)年12月、田平教会叙任。 1947(昭和22)年11月、久賀島教会主任。 1953(昭和28)年7月、青砂ケ浦教会主任。 1963(昭和38)年2月、下神崎教会主任。 1973(昭和48)年3月、奈留教会主任。 1977(昭和52)年3月、福江マリア病院に入院。 |
カトリック教報、昭和54年4月1日 ながさき、あるかると 故道向栄次郎師の思い出 道向栄次郎神父さまが、帰天されたことを知った時、また長崎の名物神父が、一つの流れ星のように消え去る寂しさを感じた。おそらく、道向神父さまが主任をなされた教会、その司牧の恩恵によくした信者さんは豪傑肌の知勇にすぐれた彼のことを、忘れることはできないであろう。◎熱烈な政治家―私の主任司祭でもあり、また司祭職への召し出しの案内者である神父さまについて、熱烈な政治家だと書いたら、天国で、苦笑いされるかもしれない。もう数十年も昔のことになるが、村の村長選挙の時、新人候補に熱を入れ、日曜日の説教の時、どうどうと選挙演説をしたのであった。 そしてミサ後は、教会の前で、その新人候補の挨拶があり、神父さまも、りっぱな応援弁士をつとめたのであった。そして、力を入れた新人候補をみごとに当選させたのであった。おそらく神父さまの意とするところは、迫害のためにちぢこまった信者の考え方、生き方を、先頭に立って、洗脳されようとしたのではないか、とそのとき感じたのであった。◎柔道六段(むだん)―神父さまの若い時は、走ることも、早かったし、相撲も一番強かった。教会の連合運動会は昔よくはずんだ。 しかも神父さまの足が速かったので、特に一致団結の精神を運動会を利用して力説されたが、ご自分の足の速さをみてもらうことにもあったかもしれない。村中で百メートルグランドで一番速い人と、いつも競争して、一等賞をもらう神父さまの顔は、とても誇らしげに私にはうつっていた。兵隊に行った時、相撲大会があり、一番ちびっこだったのに、優勝した話を、私は一緒にお酒を飲みながら何回も聞かされたものだ。その相撲優勝から、いっきょに柔道六段にまつりあげられた。それは「君は柔道何段か」とたずねられた。神父さまは素直に「柔道無段です」と答えたのだったが、その答えを聞いた相手が早とちりして「柔道六段」と解釈してしまったという。だから兵役中、神父さまは堂々たる柔道有段者として恐れられたと話していた。 ◎植木愛好家―人間だれしも、老木に近づくものだが、神父さまも、走ることも、相撲をとることもできなくなると、植木を鉢にあげて、自然に親しむ人にかわっていった。私が神父さまを訪ねると、決まって、大事な植木鉢がおかれている庭に案内してくれた。その時、神父さまは「水と植木」の因果みたいなことを話され、神の恵みと、人間の関係を説明してくださった。庭に立って植木鉢をみながら、神父さまは、神様の恩恵を黙想しているのだなあ、とその時直感した。小神学生のときもミサと告白は、とくに大事なものだから、たとえ休みの間でも、さぼったら、いけないと教えてくださった神父さまのご教示は、今もって心の底にやきついている。豪傑肌の神父さまが、ひとことふたことささやいた精神的話はなんとなく重く強く残るものだということを、恩師を失ってみて昨今思うのである。(坂谷豊光) |
カトリック教報、昭和54年3月1日 故道向栄次郎師の追悼告別式―下神崎教会― 去る1月28日帰天された道向栄次郎師が1963年2月から1973年3月まで10年間司牧された下神崎教会(中田武次郎師主任)では、初7日に当たる2月5日午後5時から道向師の追悼告別式がしめやかに行われた。 追悼ミサは「レクィエム」のグレゴリアン聖歌が厳かに流れる中、道向師の後任浜口貞一師と現主任中田師、褥崎教会主任小瀬良師の共同司式で捧げられ、浜口師の追悼説教により故人の遺徳を偲んだ。ミサ後主任司祭の司式で追悼告別式が行なわれ、感涙の中で信徒総代、婦人会代表等の弔辞、献花の後、特に主任司祭から道向師の葬儀の際の里脇大司教様のお言葉が参列者に伝達され、最後に道向師の近親に当たり臨終に立ち会われた純心聖母会のSr山本の遺族代表のお礼のことばで式を閉じた。参列者約200名。 |
「弔辞」 道向栄次郎神父様 奈留島教会に今から6年前に下神崎の教会から転任しておいでた時、こんなに早く神父様とお別れしなくてはならないとは、夢にも考えておりませんでした。 体は、どちらかといえば病気がちな神父さまではありましたが、そのお話好きな神父様の、だれにも口では絶対に負けない強さとユーモアは、「昔、相撲をしてオレに勝った者はいなかった」という自慢話にもみえるように、実に強烈でありました。そのため、神父様は、交際も広く、政界の人、社会の人とつき合い、五島の迫害のために小さくなっていた私たちに、社会に向かって強く生きるよう励まし、目を開かせてくださったのであります。 2年前、福江教会のマリア病院に入院されてからも、奈留島の魚の味が忘れられずに、生きた魚の見舞いに喜ばれる神父様でした。しかし、病がすすむにつれ、マリア病院から長崎に移されましたが、いつまでも奈留島の教会に対する気持ちをもっておられました。よき牧者としてもう一度、信者のいる教会で働きたい、できたら奈留に帰りたい気持ちをもっておられましたが、天の御父のみ旨は他にあり、今日ここに、慈父と仰ぐ神父様と、お別れすることになってしまいました。 |
昭和54年1月30日 奈留教会信徒代表、古巣福一 拝啓主任神父様 浜辺若之 浜脇教会の桜の木は、道向神父様と子供達の深い関わりとその思い出を良く知っている木です。昨年は丁度、御復活祭に満開の花でしたが、その実を啄みながら、神父様をなつかしく思い出しています。神父様は戦後間もなく久賀島に来られましたね。当時あんなに多かった子供達も今はまばらになりましたが、桜の木だけは、風格を増し、逞しくなっています。 当時子供達は学校帰りに教会のケイコに行き、泥んこになって遊んだり、サクランボを採って食べ、赤く染まった唇で姉さん(教え方のシスター)を困らせていました。私の家の隣に住んでいた中村清さんから何十年ぶりかの便りがあり、忘れられない子供の頃の神父様との出会いを懐かしそうに書いていました。「朝ミサに行き、朝食に帰宅すれば学校に遅れるので、ケイコ部屋で芋を食べて登校したこと。教会の庭の桜の木に登って実を食べていたら、エータンバン(神父さもの呼び名)に見つけられ、「降りて来い」とゲンコツを見舞われたことも懐かしい思い出です。」 その当時は男子も女子も木登りが上手でしたし、遊びほうける子供達をうまく扱ってケイコや朝ミサの礼拝等神様に対する信者としての躾を大切にし、厳しく指導してくださいました。それは清さんばかりでなく、神父様と関わったみなが忘れられないことなのです。 |
「道向栄次郎」鳥巣シスター 永里教会 永里教会は、大正7年8月15日に建立された。宮本家の土地に、もとは海軍の大きな旅館であったのを若松から運び、教会として改造されたものである。当時、この教会に島田喜蔵神父が常時住んでおられたと言われている。この教会は、“被昇天の聖母マリア”に捧げられた教会ではなかったかと思う。8月15日には、きれいに飾られた教会でミサにあずかり、どこの家にもふくれ饅頭が作られていたのを思い出すからである。 わたしのこの教会での思い出の中に小さなエピソードがある。ある日、宮本俊雄さんに道向栄次郎神父さまが散髪してもらっていた。私の姿を見ると、笑いながら、“おー、男の子がきたぞ。赤いズボンを履いて、赤いセーターを着て・・・、よくにおーとる”と言われた。私は、“違うよ、女の子よ、男の子は赤いもんは着ないよ。これは、かあちゃんが編んでくれたとよ。アー、神父さまは女の人だ。長いスカートを着ているもん、ワンピースみたい・・・”神父差は大きな声で笑いながら、“こりゃ―、わしが負けた、この服はスータンというんじゃ”と、神父様がこの教会に来られる時はよく遊びに行っていた。神父様と遊んだり、おしゃべりしたり、時には神父様の祈りや読書の姿を静かに見ていることもあった。 この頃、私たちは教会の下の海辺の家に住んでいたので、父は伝馬船で久賀まで神父様の送り迎えをしていた。ある日、船上の客となっておられた神父様は、私たちを笑顔で見ながら、“子供は神様からの恵じゃ、授かる子はみんな宝。たくさん育てろよ”と言っておられたのを興味深く聞いていたのも懐かしい。 私がこの宮本に住んでいた頃は、幼い好奇心いっぱいの時期であったので、ミサにあずかる時の姿勢、祈りや信仰生活の基礎となるいろいろなことを見、聞き、教えられ、学んでいた。 教会と家庭の中で一番大切にされていたことは宗教であった。信仰教育は、三度の食事のように生活の中に折り込まれていた。大きくなるにつれて、一番懐かしいと感じる思い出は、信仰生活と結ばれているものが多いといっても過言ではない。母は赤ちゃんに母乳を上げる前に、必ず自分の手で額に十字架のしるしをするか、赤ちゃんの手を持って十字架のしるしをさせていた。家庭の中での信仰教育ほど大切なものはなく、そのような雰囲気の中で育てられた事を感謝のうちに思い出さずにはいられない。人の生き方を神の前にも人の前にも正しいものとして伝え、生かしていくものは家庭の中で育まれ、大切にされなければならないと信じている。信仰心は大きくなってからでも得られるであろうが、幼い時から成長と共に心身に刻まれていくことは非常に大事なことだと思う。 主の日には一家揃ひて教会へ共に捧ぐる賛美の祈り 孝子 幼子の心に祈り与ふとき慈愛あふるる祖母のまなざし 孝子 赤仁田教会 大正12・3年頃、久賀島には浜脇教会と永里教会があったが、病弱な老人たちのために赤仁田にも教会が欲しいとの声が上がり、信者一丸となって教会の建設をした。フランス人の宣教師・ヴェイヨン神父によって「平和の玄后」と名付けられたが、後に「聖母のけがれなきおん宿り」に改められた。大正15年に完工され、早坂司教によって祝別されている。 私は、この教会でのミサには数回だけ行ったように思う。こじんまりとした小さな教会ではあったが、主日の9時のミサは、小教区の教会以外の信徒が参加し、聖堂の外まで祈りと賛美歌が響き、感動したことが思い出される。寒い冬には、田んぼの間の道が霜柱で覆われ、その上をじゃりじゃりと音を立てながら歩き、足先が冷たくなるのを感じつつ、行った思い出がある。 |
青砂ケ浦小教区報、昭和54年3月号 思い出の神父さま「道向栄次郎神父様」松本清喜 ○ごめんください。(返事なし)、(テレビが聞こえているから留守ではないと思いながら、もう一度声を大きくして)○ごめんください。△神父様はおらんと。○あけてくれよ、暑くて死にそうだ。△神父様は大加勢にミサたてにいっとっと。○なにせ暑うてたまらん。早うあけてくれよ。△その声は聞いたことのある声だ。 これは昭和38年8月のある日曜日の午後2時頃、道向神父様が青砂ケ浦を発たれて6ケ月目、佐世保出張の折。やっと暇をみつけて、下神崎教会に神父様をお訪ねしたときの司祭館玄関での私と畑田おばさんとのやりとりである。下神崎入口のバス停からすぐだと伺って歩いた所が、予想以上に遠く、汗だくでやっとの思いで着いた所、以上のような玄関払いに吃驚するやら、がっかりするやらで、水をかぶったような汗びしょびしょのシャツを脱がされ、神父様のシャツをお借りして、お帰りを待った。4時からのミサの後は二人しての話し、話し。語ることは青砂ケ浦の思い出ばかり。神父様にとって、青砂ケ浦という所はこうも印象に残る所だったのだろうか。信者はこうも心に残るように可愛がられていたのだろうか。何れにしても懐かしさ一杯の神父様は、青砂ケ浦に居られた時の神父様とは別人のような感じさえした。 夕食もまた語らい。話は尽きない。時計を見たら、真夜中を過ぎて、2時を指していたので、「神父様、もう休みましょうや」と申し上げて、漸く2人枕を並べて床に入った。それでも、布団の中で、話しは切れない。その夜はおそらく、2時間くらいしか眠っていないと思う。朝食の時、おばさんが、「よう話の種もあったもんだ」とあきれていた。その神父様とおばさんの二人は、こうして思い出に浸っている私を、天国から笑いながらながめていて下さることだろう。その晩の神父様のお話の中に、別れる時に、初めて人間の本心が解ったというお言葉がありましたが、これを肝にめいじて、主任神父様に接して行きたいと思っている。主よ永遠の安息を御身の司祭とはしために与え給え。 |