歴代主任司祭

田川伊勢松師 
 

略歴

1896(明治29)年、浦上に生まれる

1926(大正15)年37日、コンパス司教によって叙階

1926(大正15)年10月、鯛の浦教会・青砂が浦教会助任

1928(昭和3)年2月、浜脇教会主任

1931(昭和6)年12月、堂崎教会主任

1939(昭和14)年5月、相浦教会主任

1940(昭和15)年9月、出津教会主任

1942(昭和17)年12月、中町教会主任

1947(昭和22)年、黒埼教会主任

1962(昭和371227日、黒島にて帰天。68

 
 

カトリック教報、昭和61215

長崎教区の小異動

大崎師ご永眠後、長崎市飽の浦教会は孤独の淋しさをしみじみとなめさされ、一日も早く新しき父を与えられたいと懇望していたが、今回いよいよ南松浦郡奥浦村堂崎の主任司祭である出口一太郎師が飽の浦へご栄転になり、師の後釜には浦上の田川伊勢松師が据えられることになった。

 

カトリック教報、昭和7101

浦上教会の公式聖体

暑いといっても初秋の涼しさがどこかに流れている日であった728日、それは子供たちにとって、聖とくも懐かしい思い出として記念さるべき、朗らかな喜びに輝く日なのである。闇の子らが、山よ海よ涼を追いつつある時、光の子らは、みっちりと3日間の黙想に専念し、告白によって魂の聖化を終え、もっとも尊き主の御聖体を拝領すべく健気な準備を急ぐのであった。守山主任司祭を助けて堂崎教会の田川師と副助祭溝口師がこの説教と指導にあたられた。午前7時、教会の荘重な二つの鐘の音が、浦上一体に朗らかな余韻を送るとき、新調の洋服のユニホームを着そろった男児色とりどりの模様着につつましく身を包んだ可愛い少女たちは早くも定めの席に着いていた。朝の祈りが終わると続いて主任司祭のミサ聖祭が行われる。入祭文のとき、聖母に祈るという題歌が子供たちによって歌われた。福音の後には守山師の聖体に関する説教があり、奉献と聖体拝領後には、それぞれは医療前後の賛美歌が同じく子供たちの可愛い声で歌われた。
 
 

カトリック教報、昭和8315

堂崎便り

昨年来、堂崎教会の躍進は目覚しいものがある。温厚な主任司祭田川師の説教はすこぶる

老人たちに喜ばれる。賛美歌は信者一般を天国にも昇ったかのごとく恍惚たらしめる何が

こうも進歩へ導いたか?他でもない沈思熟考を旨とせし出口師に種蒔かれた果樹が、田川

師に培養されて開花結実したのである。田川師は赴任早々、先ず聖歌隊を指導して、コー

ラス団を整理し、去年6月奥浦村カトリック青年会なるものを組織された。会は毎年2回

の総会を開き、幹部の選挙や修養講和を傾聴すると同時に毎日曜日は数名の青年が交代で

児童の監督を引き受け、一方外面に向かっては青年布教デーなるものを定めて、布教戦線

に躍出するなど、引き込みがちな田舎青年に大刺激を与えている。

119日は会の定例総会とかで、とても賑わった。ミサに続いた降伏式が済み、少し早目

に昼食を終えた時は、早くも会場と決められた司祭館は広庭迄立錐の余地なきに至った。

当日のプログラムは次のとおりである。1.就業前の祈り、2.開会の辞、3.君が代、

4.会長挨拶、5.顧問の訓示、6.会長挨拶、7.会員の意見発表、8.入団及び退団

式、9.役員の改選、10.会長訓示、11.青年歌、12.余興なお退団者には記念と

して十字架を贈呈したとか。余興に移るや、先ず児童の歓声、壮者の拍手に迎えられたの

は半泊支部出演の「石地蔵」で、滑稽味百パーセントの活劇、次に演じられたのは浜泊支

部の「閑居は罪悪の母」は教訓に富んだ悲劇!強く慣習の心臓を刺し、反省悔悟をそそる

のであった。午後4時半までに数種目を演じ、万歳を三唱して家路に着いたときは、暮れ

やすい冬の陽は西山の端に没して、島の海にはいつしか淡い宵闇が棚引いていた。

 
 

カトリック教報、昭和1091

下五島漫遊記

1)堂崎教会

長崎教区の教会中でも下五島奥浦村堂崎教会ほど夏向きにできた教会はあるまい、都会近い海岸はモダンで退廃的な海水浴場に化し去っているが、この堂崎教会は福江港を北に去ること僅かに2里あまり緑滴る松林の中に孤立し、付近に民家一つなき涼味豊な平屋造りの一棟で碧碧として濁り一つ留めない海水は前後左右より10歩の外に迫っている。

毎年都会の炎暑に喘ぎ厭いた私が、主任司祭田川神父様との縁故をたどってここに避暑と洒落込んだのは719日の朝であった。見ると安楽椅子に悠然と構えて読書に余念なきスータン姿の一司祭!これこそ毎年夏を朝鮮行脚に過ごされる浦川神父様だ。今年は新進気鋭の大窄神父様と交代して、少し弱りかけた健康を回復せんとて、昨18日にここに身を寄せ静養に勉めておられるのだとか。

さすがわ常春の明け暮、水銀柱は極暑にも華氏845度を上下しているにすぎない。しかも涼しい海風が絶えず訪れ浦川神父様の如きは、オーバーを重ねて過冷しのいでおられる位。朝の紫雲、夕べの赤靄(あかもや)いずれも季節外れの昨日今日だ、波間にゆれる漁火が三つ四つと消えた後、真紅の海を昇る朝日輝く露滴の草を踏み分け聖堂さしてゆく人の群れ・・・黎明の静けさを破ってギーィギーィと流れてくる櫓の音それを黒衣こそ着けざれ、余りにも有名な奥浦慈恵院の修女たちがミサに急ぐ櫓の音なのである。朝の務めに夜が明けて華やかならねど平和な一日が始まる。

海藻の香り高い風もくすぶれば、旋律的な波の音も聞こえる。原始的な水底には海の神秘が秘められてあると共に、数多くのあわび、さざえの類が潜んでいる。毎日を潮に生きる私の顔の黒さよ!A神学生君が「漆」と呼んだとか、そのニックネームを私は憎からず思っている。ことに愉快なのが夕暮れの景色だ。教会の北面には青々たる芝生が長く広く連なり、その端は波打ち際になり満潮の時は海水がタブタブと音を立てて岸に迫ってくる。

夕食後この芝生に御座を敷き納涼かたがた星空を眺め、浦川師から星座の名を教わりたちまち素人天文学者となり「あれが鷲座だ、あれが琴座だ、あの南天に海老の形をした大きな星座がさそり座でその中の赤い大きな星がアンタレス、その体積はわが太陽の一億一千三百万倍だ」などと語り合うやがて金星は没し火星もよほど西天に傾いた夜露にぬれた芝生を往復しつつロザリオをつま繰り、夕の祈りをして寝に就く。

 
 

2)児童の黙想会

月24日田川神父様は濱○神学生を従えて福江教会に行き252627の3日間汗○になって小学児童の黙想会を開催された。28日のミサ○つて堂崎に帰り、30日か○の黙想会に取り掛かられ○今朝に限って、黎明を破る○音が馬鹿にかしましい。成る程○はそうでもない聖堂も今○かりは腕白小僧の総動員で○に近い。午前9時開始の鐘○ると、ここの松かげ、かしこの○から各部落の伝道士に伴われた少年少女の群れが嬉々として馳せ集まり田川神父様の○のもとに3日間黙想をなす。説教、ロザリオ、十字架の道行きの祈り、聖歌の練習等が次から次と繰り返される!何というおとなしい従順な少年のむれであろう!3日の間に百数名の告白を終わり、純白な児童の胸に神○子が降りたもうたのは82○第1金曜日の朝であった。

○の朝、身も心も神の愛に燃えている児童を前に最後の説教あり、続いて妙なる聖歌の○流れる。日頃練りに練った○冴え波紋は堂の内外にこだま・・・幼き子供たちよ難儀らも児童から少年へ、少年から青年へと時の足音に追われて成長するだろう。その日その折、すべからく後を振り返れ!思い出のページに秘められた信心生活に返れ!神は愛なりの思いが汝等の上に白き翼を伸べてくれないだろうか。暑中休暇を利用して児童のためにまで黙想会を開催するこの長崎教区の良習は実にうらやましいかぎりである。

3)細石流教会

田川神父様が福江の黙想会を開かれるという7月24日、私は浦川神父様に従い、川口神学生と入口伝道士の操れる小船にうち乗り真向かいの久賀島、その久賀島の北端に位する細石流教会を訪れた。久賀島と福江島との間には音に名高い糸串の瀬戸がある。潮が悪い時には千石船でも巻き込むという恐ろしい難所であるが、この日は川口船頭さんがよく潮合を見計らって漕ぎ出したので、幸い何事もなくその難所を切り抜けて細石流の浜に着いたのは午後4時頃であった。

天主堂は浜から2・3百メートルの高い山のいただきにある。汗をしぼってたどり着いてみると、久賀の主任司祭今村神父様は早告白場に座り込んでおられた。

細石流の教会は山の上に立つ・・・ほとんど蚊を見ないのに反してここには大きな山蚊が昼でも遠慮なく襲来する。水は冷たいし、鮮魚は多し、境内は幽すいで信者は熱心だ、いささかの申し分もないがしかしこの世はつまり涙の谷で、どこにも不足がある。細石流の蚊も天国を忘れさせないために神さまが特におつかわしになったものかと思えばあまり憎まれもしない。細石流といえば故野濱神父様や故畑田勇八神学生の出身地であるという所から、浦川神父様は一寸ご訪問になったまでのことで、翌25日に暇を告げて堂崎へ帰るつもりであったのである。然るに26日は細石流天主堂の擁護者たる聖アンナの祝日で細石流のためには5大祝日おとらぬ祝祭日である。折角来合わせていながらみすてて帰るとは礼にあらず今村神父様に突き込まれては流石に頑張れもしない。細石流信者等の心からなる歓迎振り、毎食ピチピチしたお刺身を一人前に大きな鉢一杯にづつも並べられるという歓迎振りを見ては悪い心地もしないのでついに今村師の意に従うことにした。8時に浦川師が説教をなしミサを歌い、一同に祝日気分を満喫せしめ、その代わりに午後発動汽船を出してもらい小舟は船尾に曳かして堂崎に帰った。
 
 

2)児童の黙想会

月24日田川神父様は濱○神学生を従えて福江教会に行き252627の3日間汗○になって小学児童の黙想会を開催された。28日のミサ○つて堂崎に帰り、30日か○の黙想会に取り掛かられ○今朝に限って、黎明を破る○音が馬鹿にかしましい。成る程○はそうでもない聖堂も今○かりは腕白小僧の総動員で○に近い。午前9時開始の鐘○ると、ここの松かげ、かしこの○から各部落の伝道士に伴われた少年少女の群れが嬉々として馳せ集まり田川神父様の○のもとに3日間黙想をなす。

説教、ロザリオ、十字架の道行きの祈り、聖歌の練習等が次から次と繰り返される!何というおとなしい従順な少年のむれであろう!3日の間に百数名の告白を終わり、純白な児童の胸に神○子が降りたもうたのは82○第1金曜日の朝であった。○の朝、身も心も神の愛に燃えている児童を前に最後の説教あり、続いて妙なる聖歌の○流れる。日頃練りに練った○冴え波紋は堂の内外にこだま・・・幼き子供たちよ難儀らも児童から少年へ、少年から青年へと時の足音に追われて成長するだろう。その日その折、すべからく後を振り返れ!思い出のページに秘められた信心生活に返れ!神は愛なりの思いが汝等の上に白き翼を伸べてくれないだろうか。暑中休暇を利用して児童のためにまで黙想会を開催するこの長崎教区の良習は実にうらやましいかぎりである。

3)細石流教会

田川神父様が福江の黙想会を開かれるという7月24日、私は浦川神父様に従い、川口神学生と入口伝道士の操れる小船にうち乗り真向かいの久賀島、その久賀島の北端に位する細石流教会を訪れた。久賀島と福江島との間には音に名高い糸串の瀬戸がある。潮が悪い時には千石船でも巻き込むという恐ろしい難所であるが、この日は川口船頭さんがよく潮合を見計らって漕ぎ出したので、幸い何事もなくその難所を切り抜けて細石流の浜に着いたのは午後4時頃であった。

天主堂は浜から2・3百メートルの高い山のいただきにある。汗をしぼってたどり着いてみると、久賀の主任司祭今村神父様は早告白場に座り込んでおられた。

細石流の教会は山の上に立つ・・・ほとんど蚊を見ないのに反してここには大きな山蚊が昼でも遠慮なく襲来する。水は冷たいし、鮮魚は多し、境内は幽すいで信者は熱心だ、いささかの申し分もないがしかしこの世はつまり涙の谷で、どこにも不足がある。細石流の蚊も天国を忘れさせないために神さまが特におつかわしになったものかと思えばあまり憎まれもしない。

細石流といえば故野濱神父様や故畑田勇八神学生の出身地であるという所から、浦川神父様は一寸ご訪問になったまでのことで、翌25日に暇を告げて堂崎へ帰るつもりであったのである。然るに26日は細石流天主堂の擁護者たる聖アンナの祝日で細石流のためには5大祝日おとらぬ祝祭日である。折角来合わせていながらみすてて帰るとは礼にあらず今村神父様に突き込まれては流石に頑張れもしない。

細石流信者等の心からなる歓迎振り、毎食ピチピチしたお刺身を一人前に大きな鉢一杯にづつも並べられるという歓迎振りを見ては悪い心地もしないのでついに今村師の意に従うことにした。8時に浦川師が説教をなしミサを歌い、一同に祝日気分を満喫せしめ、その代わりに午後発動汽船を出してもらい小舟は船尾に曳かして堂崎に帰った。
 
 

6)公式初聖体

816日浦川師は帰崎、田川師は梅木師のたすけをえて公式初聖体のため19日から3日間黙想会を開かれた。いよいよ22日の朝となると天は気持ち良く晴れ波も穏やかでうぐいすはしきりにさえずりわたって今日の良き日を祝うかのよう(五島には夏でもうぐいすが絶えずないている)今朝も海岸にはところ狭きまでに大小の船がつながれてた。初聖体の男児は霜降りの洋服、女児は純白の洋服に空色の帯白靴下白靴を履き頭には花冠をいただき包みきれぬ胸中の喜びを満面にあふらせて所定の場所に集合した。やがて十字架を先頭に行列は動き出した。千メートルもあろうかと思われる距離をうねうねと長蛇のごとくうねり行く、児童達の口より洩れいずる「いざ諸人こぞり来て主を歌いたたえよ」との讃美歌の声はこの塵の世をかけてはるか天国なるキリスト様の御胸にまで達したことであろう。

行列が聖堂の門に到着すると主任司祭田川神父様は「早準備はととのい主は皆を招きたもういざ入らん」というような意味の説教をされ、一同は案内されるままに着席する。ここにはじめてミサが始まった。両親たちは自分の子供の歌う姿を見、その可愛い声を聞いては、無量の感に打たれて思わずホロリとせずにいられなかった。ミサ中も児童たちの美しい賛美歌が絶え間なく聖堂の内外を流参集の信者等に多大の感銘を与えた。特に「聖母の聖名(みな)」の賛美歌の流れる時、幼子の母なる聖マリアは以下ばかり喜ばれ給い、彼らの上に祝福を雨降らしたもうたことであろう。信者たちはおそらく堂崎教会創設以来始めての行列、児童の額の上に飾れる美しき花輪、その愛らしき賛美歌に思わずわれを忘れて恍惚となり天国の道でもさまようかのような気がした、と後で物語るのであった。やがてミサも終わり、イエズス様をお迎え申した児童たちはさも嬉しそうにしかもつつましやかに松林の間に退いて朝飯をすました。

暫くして洗礼の約束の更新が始まり、遠き昔を偲ばせるペル神父様のお歌いになったという洗礼の約束を新たにする歌が歌われ、洗礼の約束に関する説教も住み児童らは二人ずつ主任司祭及び中村、梅木両師の前に進み、福音書の上に手を置き声さえ朗らかに「われ今より悪魔とその仕業とその栄華とを捨て公教を真実に間諸琴を約束し奉る」と叫んだ。ああこのときこの日悪魔はいかに狼狽したことであろうか。今まで自分の占有していたあるいは占有せんと働いていた児童の胸には光栄の王キリスト様が御宿りになり、これが上に王権を確率したもうたのを目撃してはいかにいかに歯噛みして悔しがったことであろうか。この日の約束を守る児童こそ実に幸福である。続いて降福式、聖母への奉献等があり終わって同神父様方へ謝辞を述べ記念撮影をなして散会した。
 

                     
                     
                     
                     
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