川上忠秋師

 

川上 家庭は人間港  主任司祭川上忠秋 “つどい”より             

 

二人が睦まじくいるためには愚かでいる方がいい。  立派すぎない方がいい。立派過ぎることは窮屈だと気付いている方がいい。   完璧をめざさない方がいい。完璧なんて不自然なことだとうそぶいている方がいい。  二人のうち、どちらかがふざけている方がいい   ずっこけている方がいい。   夫として父親として完璧である。申し分ない。不満はない、しかし、妻として甘えられない。息がつまりそうである。自分を出せない。   妻として、母として完璧である。隙がない。   しかし、夫として安らぎがない。監督されているようで落ち着かない。   お互いに、相手は心の隙間を埋めてくれる人であってほしいと期待している。緊張しないで自分を出せる雰囲気を作ってほしいと願っている   そばにいるだけで安らぎを覚える人であってほしいと念じている。   家庭は人間港である。外から疲れて帰ってきて安らぐ場である。心身の活力を回復するところである。元気に出ていく場所である。   あるタクシ−の運転手は言う。妻からニコリとして送り出された日は、慎重に快適に運転して事故を起こさない。妻と口論して出勤した日は荒い運転をして事故に遭いやすい。「夫は妻を愛しなさい。妻は夫を畏れ敬いなさい」(エフェソ52633)   愛とは相手を幸せにすることです。

 
 

川上 信仰と愛の共同体  主任司祭 

川上忠秋 “つどい”より    

 

明けましておめでとうございます。新鮮な心で新しい旅を歩み始めていると思います。教会は信仰共同体です。同じ信仰に結ばれた兄弟たちが一つの心になって共に歩いて行きます。信仰はお互いを結ぶ鎖であると同時に神と私たちを一致させる橋です。イエズスご自身も祈られました。「私たちが一つであるように、彼らも一つにしてください。」(ヨハネ1722)   教会は愛の共同体です。  同じキリストの愛に生きる人たちの集まりです。愛は黄金の徳です。愛に生きる時は黄金の瞬であり永遠の時です。  心の暖かさとぬくもりを持ってお互いに接していくことが私たちの生きる姿勢であるべきです。常に人の幸せと救いを願い、そのために尽くしていきたいと思います。

 

   愛は内の仲間たちに向かうだけでなく、外に窓を開いていくべきです。外の人達も私たちの兄弟たちです。   イエズス様は仰せになっています。  「互いに愛し合いなさい。私があなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによって人は皆、あなたたちが私の弟子であることを認めるであろう」(ヨハネ133435)   初代教会のキリスト者たちの模範がここにあります。   一同はひたすら使徒たちの教えを守り、兄弟的交わりを大切にし、パンを手で分け、祈りをしていました。喜びと真心を持って食事を共にし、神を称えました。彼らはすべての民に好意を持たれました。主は日々、救われる人々を信者の数に加えてくださいました。   昨年よりも今年と信仰の面においても愛徳の点でも一歩前進し、変化し、進歩したいと思います。

 

もう一歩前進、プラスワンを目指しましょう。止まることは退歩することです。より良い方へと、一人ひとり自分を変えていきましょう。そうすることに次第にこの共同体は光ってきます。生き生きした共同体に脱皮します。光は大浦教会から周りに広がっていくことを願っています         

 
 

川上 天主堂の信仰の灯は新教会に引き継がれた 

主任司祭川上忠秋 “つどい”より       

 

永遠の都ロ−マ。長崎は日本のロ−マ。   大浦天主堂は長崎の信仰のシンボルであり、長崎の顔です。日本の信仰はこの大浦天主堂から発しました。歴史ある天主堂です。輝かしい、重いものがあります。誇りある伝統があります。天主堂は国宝となり、一般社会に解放されました。   小教区の信徒たちのミサ、祈り、典礼儀式などが不可能になりました。今から20年前にキリスト者たちの信仰生活、内的生活の必要性から、ここに新しい大浦天主堂が建立されました。いわば大浦教会は天主堂の分身として誕生したのです。

大浦天主堂の信仰の灯は大浦教会に引き継がれました。天主堂の伝統と歴史は大浦教会を通して流れ、継続し、延長しています。    「10年一昔」と言われています。「20年は二昔」となります。教会の素晴らしい歴史をこつこつと刻んでいきたいと思います。外観よりも中味です。信仰、愛徳、司牧、福音宣教、一致協力、ボランティア活動などを通してキラキラと輝く共同体を建設していきましょう。「小さくともキラリと光る教会」「外に向かった愛の共同体」を目指して前進していきましょう。  「あなたが鳴らさなければ鐘は鐘でない あなたが歌わなければ聖歌は聖歌ではない あなたが愛さなければ愛ではない あなたが祈らなければ祈りは祈りではない」

 
 

川上忠秋 拝啓主任神父様 

 

岩永静雄神父様  

神父様の主任時代に召し出しを受け、叙階された者の一人として、今もその面影は消えることはありません。  神父様はおそらく、司祭の中で最後の馬上の人であったと思います。信者達は馬の姿を見ると、何処であろうと恭しく合掌しました。神父様が病人にご聖体を運んでおられたからです。馬上の主任神父司祭はあのナポレオン皇帝のように威厳と神秘に満ちたお方だったに違いありません。  ある日、夏休み中の中学校の校庭に馬上の神父様が現われました。すると二人の先生が「神父さん、馬に乗せてくれませんか」と願い出ました。神父様は快く許可しました。先生たちは大喜びで馬上の人となったのですが、主人が代わって馬はびくともしません。

 

「ハイドウ、ハイドウ」。かけ声は一人前なのですが、馬は「ヒヒ−ン」と馬鹿にしたようにせせら笑うだけです。そこで主任神父様が馬のおしりを軽くたたいて合図すると、嬉しそうに校庭を駆け回りました。そして師は馬とともに風のように来て、風とともに去っていきました。  神父様は司祭館に居ないときは、聖堂の中で祈っていました。あるいは聖堂の周りを気違い散歩しながらロザリオをつまぐっていました。「真理は単純さの中にあり、簡潔さの中に見える」と言う言葉があります。まさに師は白は白、黒は黒、単純明快本音でお話しなさるお方でした。そのことが、たぶん厳しい印象を与えたのかもしれません、しかし、その厳しさの中に温かさが秘められていました。現金収入が乏しく、麦が買えず、カンコロ飯ばかり食べている人がいると、麦を買ってそっと差し入れをしてくださる神父様の姿を、信者は見逃してはいなかったのです。

 

口では厳しいことを言いながら、裏では救いの手を差し伸べておられました。照れ屋だったのです。  事実は見えるが真実は見えないと言われます。「砂漠が美しいのはどこかに井戸を隠しているからだよ」と『星の王子さま』の中で言われています。ともすれば、厳しさだけが目につきがちだった神父様、人々は砂漠を感じたかもしれません。しかし、その砂漠はこんこんと湧き出る井戸を隠し持ったものでした。その隠れた井戸が、今も私の中で湧き出て、私の貧しい司祭の日々を潤しています。 

 

(馬込教会主任司祭)


  
   
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