川上忠秋 拝啓主任神父様
岩永静雄神父様
神父様の主任時代に召し出しを受け、叙階された者の一人として、今もその面影は消えることはありません。 神父様はおそらく、司祭の中で最後の馬上の人であったと思います。信者達は馬の姿を見ると、何処であろうと恭しく合掌しました。神父様が病人にご聖体を運んでおられたからです。馬上の主任神父司祭はあのナポレオン皇帝のように威厳と神秘に満ちたお方だったに違いありません。 ある日、夏休み中の中学校の校庭に馬上の神父様が現われました。すると二人の先生が「神父さん、馬に乗せてくれませんか」と願い出ました。神父様は快く許可しました。先生たちは大喜びで馬上の人となったのですが、主人が代わって馬はびくともしません。
「ハイドウ、ハイドウ」。かけ声は一人前なのですが、馬は「ヒヒ−ン」と馬鹿にしたようにせせら笑うだけです。そこで主任神父様が馬のおしりを軽くたたいて合図すると、嬉しそうに校庭を駆け回りました。そして師は馬とともに風のように来て、風とともに去っていきました。 神父様は司祭館に居ないときは、聖堂の中で祈っていました。あるいは聖堂の周りを気違い散歩しながらロザリオをつまぐっていました。「真理は単純さの中にあり、簡潔さの中に見える」と言う言葉があります。まさに師は白は白、黒は黒、単純明快本音でお話しなさるお方でした。そのことが、たぶん厳しい印象を与えたのかもしれません、しかし、その厳しさの中に温かさが秘められていました。現金収入が乏しく、麦が買えず、カンコロ飯ばかり食べている人がいると、麦を買ってそっと差し入れをしてくださる神父様の姿を、信者は見逃してはいなかったのです。
口では厳しいことを言いながら、裏では救いの手を差し伸べておられました。照れ屋だったのです。 事実は見えるが真実は見えないと言われます。「砂漠が美しいのはどこかに井戸を隠しているからだよ」と『星の王子さま』の中で言われています。ともすれば、厳しさだけが目につきがちだった神父様、人々は砂漠を感じたかもしれません。しかし、その砂漠はこんこんと湧き出る井戸を隠し持ったものでした。その隠れた井戸が、今も私の中で湧き出て、私の貧しい司祭の日々を潤しています。
(馬込教会主任司祭) |