山田聡主任司祭

 
 

【 略 歴 】

1957年(昭和32年)浦上に生まれる。1969年(昭和44年)長崎公教神学校入学。

1975年(昭和50年)南山高校卒業。福岡サン・スルピス大神学院に入学。

1982年(昭和57年)助祭叙階。浦上教会出身。

 

カトリック教報  昭和58年3月1日発行

『 司祭叙階を前に 』

〜 逆噴射だけはいたしません 〜      助祭 山田 聡

 

司祭はパイロットみたいなものだと誰かがいった。確かにそうかもしれないと思う。考えてみれば、司祭は教会という飛行機に人を乗せて神様のもとへ運ぶ役目を受けている。

子供の頃、司祭の姿に憧れていた。そう、多くの子供たちがパイロットや総理大臣になるのを夢みるように、私は司祭になることを夢みていた。しばらくの間、司祭になることに何の疑いもいだくことなくすごした。私の目には司祭のすばらしさしか映っていなかったのである。

 

しかし、時がたつにつれて、そのすばらしさの裏にあるものに気づかされた。パイロットはカッコいいし空を飛びたいという誰もが持つ望みを実現出来るすばらしい仕事だ。しかし同時に彼の腕には多くの乗客の命がかかっている。そのためパイロットになるための条件は非常にきびしい。同様に司祭には多くの人の霊魂の救いに対して非常に重大な責任があり、そのため司祭になるにはきびしい条件が求められるということに気づいたのである。それは当然といえば当然であるが、私はこの事実を前に惑いとそこに大きな壁を感じた。実際、司祭職の崇高さと自分の力との間にはあまりにも大きな隔たりがあった。自分の生活も満足におくれない人間に人を導くなどという大それたことが出来るものかという声がした。しかしそう思いつつも司祭への憧れを断ち切ることは出来なかった。

 

私の心は長くこの二つの間で揺れ動いていたが、多くの人の祈りと励ましに支えられて、次第にやってみようという気持ちが強くなって行った。そして司祭になるのは私がそれを選んだからではなく、神様がこの無力な私を選んで下さったのだと思えるようになった。実にイエズス様は、「お前たちが私を選んだのではなく、私がお前たちを選んだのである」(ヨハネ15の16)と私自身にもことばをかけられたのだと思う。自分は無力だからやめる、ではなく、自分が無力だから全てを神様にまかせ、自分の力によってではなくむしろ神様の力によってそれをなしてゆこうと思ったのである。実際、司祭の仕事は神様の力なくしては決してうまくゆくものではない。無力な自分に出来ることは神様に信頼することだけである。

 

聖母マリアは、自分が神の母になるのにふさわしい者であるとは決して思っていなかったはずである。思っていなかったけれども、いや思っていなかったからこそ、神様に全てをまかせ信頼することによって「私は主にお任せする者です。お言葉どおりにこの身に起こりますように」(ルカ1の38)と、その苦しくもすばらしい任務を受け入れ、それを全うされたのだと思う。考えてみれば、パイロットがその任務を全うするのは自分の力だけによるものではなく、管制塔からの指示に従って行うからである。司祭も神様の声に信頼してそれに従う必要がある。私も神様に信頼して、「私について来なさい」(マタイ4の19)というイエズス様の声に従おうと思う。

 

とはいえ、司祭自身に求められるものも大きい。これまでの神学生時代はまだ小さなセスナ機で操縦の練習をしていたようなものだ。しかしこれからはいろんな大きさの飛行機で人を乗せて飛ぶことになる。全くミスをしないでやれる自信はないが、逆噴射やとりかえしのつかないミスで事故を起すことのないように頑張ってゆきたいと思う。

最後に、これまでのお祈りと励ましに心から感謝するとともに、これからも一層のお祈りをお願いしたいと思う。司祭への道を歩む者がもっとふえるようにと願いながら。

 

 

 
 
 

カトリック教報  58年4月号『 今年も司祭叙階の恵み 』

〜山田聡師、浦上から16年ぶり〜

 

長崎教区はこのところ、毎年司祭叙階の恵みをいただいているが、今年も一人の新司祭が誕生した。今年、司祭叙階のお恵みを受けたのは、マテオ山田聡(さとし)師で、浦上協会の上野東部地区出身。26歳。同地区からは過去8人の司祭が輩出しているが、長崎教区司祭は一人もいなかった。また、浦上小教区出身としては片岡久司師(伊王島)以来、実に16年ぶりの慶事となった。

 

叙階式は例年、3月19日(聖ヨゼフの祝日)に行われているが、今年は1日繰り上げて、18日午前10時10分に浦上司教座聖堂で荘厳に挙行された。前日の悪天候とはうってちがい、青空がのぞく日和に恵まれ、聖堂には家族、親戚をはじめ、約800人の参列者が集まった。

式に先立ち浜口庄八師が次のように説教した。「新約聖書のヘブライ人への手紙には、キリストは大司祭であるといわれています。この名称の語源的な意味は、橋かけ、橋渡し≠ニいう意味で、キリストは神と人とを結びつける真の橋渡し≠ニしてこの世においでになりました。

そしてキリストは、弟子をお選びになって自分の後継者とし、神と人との橋渡しの役割をお任せになられました。これには、まず罪から離れて神のもとに立ち帰るよう、人々に呼びかけ回心を勧めるつとめと、秘跡によって救いのために必要 ? ? ? ? ? 性の弱さをもつ、みじめな者の一人であることを忘れてはなりません。キリストは荒野における誘惑の時、これを神のみことばによって退けられました。その誘惑とは @苦労をしないで楽な生活をしなさい A支配者として権力をふるいなさい B人々から称賛され、もてはやされる身分になりなさい、というものでした。司祭になるまでに、たくさんの人の祈りが必要でしたが、司祭になってからは、もっと多くの祈りによる支えが必要です。今後も互いに、祈りによって助け合ってゆきましょう。」

午前10時10分。浦上カテドラル聖歌隊の響き渡る歌声の中、二人の新助祭を先頭に92人の司祭たちが続き、司祭に叙階される山田聡助祭、松永補佐司教、里脇枢機卿が入堂した。

川内和則教会奉仕者と中村満新助祭による聖書朗読のあと、叙階の儀に入り、福岡サン・スルピス大神学院院長の山内清海師により、受階者の確認が  ? ? ? ? ? 全司祭団による聖別のための ? が、深い沈黙の中に行われた後、聖別のための祈願によって、山田聡助祭は叙階された。

ミサ後、新司祭による両親への祝福があり、いつもながらのことではあるが、見守る列席者たちに新たな感動を呼び起こす光景であった。

 

センターで祝賀会

 叙階式のミサの後、カトリック・センターでは、里脇枢機卿、松永司教の霊名(聖ヨゼフ)のお祝いと、山田新司祭の叙階祝いが司祭団によって行われた。司祭団を代表し、中島万利師(諫早)が、里脇枢機卿の病気回復を喜ぶとともに、神から与えられた病苦の意味を考えながら、今後ますます、霊肉ともに精進されますようにと挨拶した。また、新司祭には、新しい風を教区にもたらし、活気ある教区づくりに励んでくれることを期待していると祝いのことばを述べた。つづいて山田新司祭が、感謝の辞を述べ、あたたかな雰囲気の中に祝賀会を終えた。

 
 

類似品にご注意

        浦上教会 山田聡神父

 

 「いつになったら開くんですか」

 少々いらだった様子で、観光客らしい若い女性が司祭館に飛び込んできた。残念ながら浦上教会は、諸般の事情のため現在は教会の戸を開放してはいない。そこで、その剣幕に圧倒されそうになりつつ「ここは開けてないんですよ」と答えると、「だってここに入場料○○円と書いてあるじゃない」とパンフレットらしきものを差し出した。

 因みに、中に入れもしないのにお金を取ったり、それをパンフレットで案内したりすることはない。しかし、彼女は入場料と書いてあるのに(教会の敷地内にも入り口のどこにも書いてはいない)入れないのはおかしいと思い込んでいて、自分が間違えているとは露ほどにも思っていないらしい。

 そこで、彼女のパンフレットを見てみると、案の定、ここを大浦天主堂と間違えているらしい。「ここは、大浦天主堂ではなく、浦上天主堂ですよ」と教えると、なんとなく今度は自分の間違いを棚に上げて、「なぜ、大浦天主堂は入れてここは入れないんですか」と逆に食ってかかってきた。

 説明が長くなるし、その形相に恐れをなして、「いろいろ事情がありまして」済ましたが、彼女が帰っていろんなことを考えさせられた。というのも、確かにこの場合はささいな間違いで笑って済まされることだが、次のようなケースがあったからだ。

 ある日、朝の10時過ぎのこと。中年の男性が司祭館の前をウロウロしているので、不思議に思っていると、突然彼は意を決したようにやって来て、「きょう、ここで○○さんの結婚式があるはずなのですが」と言う。「何時からですか」と聴くと、10時からだと言う。しかし、調べてみてもその式の予定はない。どうも教会を間違えて来たらしい。

 「大浦天主堂の間違いではないですか」と尋ねると、「そうかも知れない」と言って立ち去って行かれたが、もし大浦天主堂だとすると、車でここから15分から20分はかかる。結婚式ミサではなく、式だけだとすると、着いた時にはもう終わっているかもしれない。もし大浦天主堂でなかったらそれこそ悲惨だ。その人が信者であったかどうか、結婚式に間に合ったかどうかは知らない。もちろんはっきりと確かめなかった本人の責任は如何ともし難いが、かわいそうでもあった。

 ともあれ、大浦と浦上は一字違いで確かに間違いやすい。しかも、長崎には教会がたくさんあるし、よそから来た人には判りにくいかも知れない。似ていることは往々にして誤解を生む。もちろん、単に似ていることが悪かろうはずがない。意識的に似せているわけでもないし、簡単に名前を変えるわけにもいかない。しかし、間違える人がいるのもまた事実である。そのことから少し考えてみたい。

 

 似ているものがあり、それを間違う人がいる場合、まず第一に似ているもの自体に責任がない場合がある。例えば「大浦天主堂」と「浦上天主堂」である。それは人を惑わせるのが目的で似ているわけではない。だから間違いの責任は間違う人にある。そのことで、文句を言われたり、食ってかかられたのではたまらない。しかし、間違いやすく、実際に間違う人が多いと分かれば、少しくらいの配慮は必要であろう。一方、間違わせるのが目的でわざと似せる場合もある。例えば、よく売れている、あるいは非常に有名なある商品の名前に似せて物を売る場合である。商品に「類似品にご注意ください」などと、よく書いてあるものを見かけることがあるが、残念ながら、偽物(にせもの)が本物より良いということはほとんどない。中には偽者のほう

 

 さて、後者の場合は非常に問題が多い。間違った人の不注意だ、では済まされないと思う。最近、長崎でもキリスト教の名を語りながら、キリスト教とは全く異なった教えで人々を惑わして、その人の理性を失わせ、彼らを使ってキリスト教と称しながら、一方では数珠を売ったり、いろいろな粗悪品を法外な値段で売りつける団体があると聞く。それに対して「類似品にはご注意ください」だけでは不十分だし、「間違った人が悪い」ではかわいそうだ。しかし、それにもまして注意しなければならないことは、ややもすると、私たち自身が「類似品」になってはいないかということである。

 

 つまり、確かに私たちは間違いなく洗礼を受けた信者であるとしても、じつは名ばかりで、実際には本来と異なる生活をしているのではないかということである。もし、そうであるとすれば、私たち自身が多分に人を惑わす、いわゆる「類似品」だと言わなければならない。そして、この「類似品」があたかも本物のキリスト信者であるかのように思わせてしまう危険性の責任は、私たち自身にあると言わなければならない。

 

 復活祭を迎えた私たちは、けっして類似品ではなく、本物として新たに生まれる必要もあるのではないだろうか。また、毎日惑わされることなく、なおかつ惑わすことのない生活をおくることは本物としての責任と言える。自分の生活を振り返らなければならないのは、なにも四旬節だけの専売特許ではなかろう。

 曰く、「だれにも惑わされないように気をつけなさい。多くのものが私の名を語って現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人々を惑わすであろう」(マルコ13の5〜6)くれぐれも類似品に注意を。

 

還暦の大修理

    浜脇教会

 ここ数年、「牢屋の窄」殉教地をかかえる久賀島を訪れる巡礼者が増えているが、その久賀島の浜脇教会が、還暦を迎えた聖堂の修復を行い、このほど工事を完了した。=写真

 12月13日、下五島地区司祭団を迎え、地区長・浜崎渡神父の主式で、改装成った聖堂で新しい祭壇の祝別と感謝のミサを行い、遠来の浜脇教会出身者も迎えてともに喜びを分かち合った。

 浜脇教会は五島では初めての鉄筋コンクリート造りの教会として、昭和6年に建てられた。それから60年、還暦を迎えた聖堂は修理を繰り返しながら長年の風雪に耐えてきたが、傷みがひどく、聖堂の改修はここ数年来の懸案事項であった。しかも、かつては1,500人を数えた信徒数も現在は200人足らず。工事の着手には二の足を踏まざるを得なかった。しかし、平成3年秋の相次ぐ台風被害で、いよいよ改修を余儀なくされ、大司教の温かい言葉にも支えられて、昨年7月から大進建設によって工事を進めていた。総工費、約3,500万円。信徒の浄財と教区の補助、そして多くの方々の寄付でまかなわれた。
 
         
         
         



  
   
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