ペトロ 小島栄師

 

ペテロ小島栄

1937年(昭和12年)10月11日生まれ、浜脇小教区出身。

1964年(昭和39年)3月19日、司祭叙階。

1964年(昭和39年)8月1日、稲佐教会助任。

1966年(昭和41年)8月1日、神学院。

1970年(昭和45年)4月1日、中町教会助任。

1971年(昭和46年)5月1日、宝亀教会主任。

1974年(昭和49年)3月20日、浦上教会。

1977年(昭和52年)1月29日、桐教会。

1977年(昭和52年)5月15日、桐教会主任。

1983年(昭和58年)3月19日、神学院。

1992年(平成4年)5月3日、サバチカノ。

1993年(平成5年)6月1日、浅子教会主任。

2001年(平成13年)3月19日、田平教会。

2005年(平成17年)4月1日、福江教会主任。

2009年(平成21年)4月、浦上教会主任。

カトリック教法、昭和40121

あなたの心に「イエズスさまがお生まれになるように」

ペトロ小島栄(稲佐教会助任)

今年もまたクリスマスがやってまいります。11月に入って間もない或る日、所用で街へ行きましたところ、或る店のウインドウにクリスマスの飾り付けをしているのを見かけました。クリスマスまでにはまだ1ヶ月もあるのにとヘンな気持ちで帰ってきましたが、あとでよく考えてみるとこんなことはごく当たり前のようです。たいていの会社や店などでは半年も前の暑い夏のころからいわゆる「クリスマス・セール」の計画を立てて、プレゼントや飾り  ?  ようになると商店街には一足先にクリスマスがやって来て、そのための広告や飾りが盛んに行われているのです。

 街の豪華な飾りや雰囲気は行く人の目や耳を楽しませてくれます。そして日本は世界中で一番キリスト教的な国ではないかとさえ思うときがあります。しかし残念ながらほとんどが金もうけや快楽のためのクリスマスとなっています。店から流れ出て来るジングルベルもネオンの光も、お客を一人でも多く引き寄せるためであり、少しでも多く  ?   豪華な飾りやメロディは12256日になるとはやくも姿を消してしまいます。その人たちにとって、もはやキリストさまは必要ないからです。キリストさまのないクリスマスといわれるのもこのためでしょう。ところで私たちキリスト信者の準備はどうでしょうか。私たちもキリストさまをまだ知らない人たちと同じような気持ちでクリスマスを迎えようとしているのではないでしょうか。

 私たちにとってクリスマスはただのお祭り騒ぎでなく、もっと深い意義のあるものでなければなりません。なぜならクリスマスというのは神と人間との間の愛のまじわりを意味する祝いだからです。二千年前にベトレヘムでお生まれになったイエズスさまは、今度私たちひとりひとりの心に生まれようとしておられます。これこそ私たちにとって本当のクリスマスだといえるでしょう。このことを真剣に考えるならば、カラ騒ぎのクリスマスなど何の意味もないことがわかるでしょう。

 「キリストさまが百度、千度お生まれになろうとも私たちの心に生まれるのでなければ何の益があるだろう」という昔の人のことばを思い出します。

 イエズスさまというとなんだか私たちからかけ離れた、遠いお方のように考えがちですが、そうではありません。むしろ私たちに一番身近なお方であるといえるでしょう。貧しい大工ヨゼフさまを父親に、平凡な一女性にすぎなかったマリアさまを母としてお生まれになったのです。御降誕の夜には旅館に泊まることさえ出来ない状態でした。うまぶねの中にお生まれになったイエズスさま!イエズスさまを含めて聖家族は私たちと同じような、いやもっと貧しい境遇にあったことでしょう。何の飾り気もない幼いイエズスさまの姿を想像すると、これに魅せられない者はないでしょう。

 世の賢い人たちは半年も前からあるいは1ヶ月も前からクリスマスの準備をしています。その目的は私たちのとは違いますがこの人たちの熱意、意気込みは模倣してもよいと思います。私たちは早くから心の準備にとりかかりましょう。イエズスさまが喜んで私たちの心に来られるように、そして沢山お恵みをくださいますように。自分のおち入りやすい罪や欠点を改めたり、祈りや小さな犠牲を捧げて四週間の待降節を心の大掃除にあてるようにしたいものです。この努力を怠ることは二千年前の御降誕の夜、宿を拒んだあの宿の主人になることを示しています。そのような人たちの心にはイエズスさま―いまも昔と同じように―お生まれになることはないでしょう。四週間の待降節をよく準備いたしましょう。ただクリスマスの直前に告解するだけでなくその前から自分の欠点や罪を改め、祈りと犠牲をお捧げしましょう。クリスマスの23日前になって買い物帰りにチョイと教会に立ち寄って告解をするのがやっとでは、「インスタント準備のそしりを免れないでしょう。

 みなさんの心にイエズスさまがお生まれになりますように。

カトリック教法、昭和40年5月10

「おかあさん」と呼ぶときのよろこび  

ペトロ小島 栄

 3月はじめから4月の半ばにかけて、私たちは四旬節の特別な犠牲を捧げてきました。そしてアレルヤの聖歌と共にキリスト様のご復活を祝いその意義をわきまえて自分の霊的生活に少しでも役立てようとつとめています。

 自然界の方もこれに負けじとばかり躍動し、希望に満ちているようです。五月ともなると肌を刺す雪や霜もなくなり、早春につきものの湿っぽい冷気も次第に姿を消して、地に青草が萌え、山の木々も花に埋もれています。

 このように大自然が生命のいぶきで飾られている五月を、私たちの霊的生命の母である聖マリアの月として特別に聖母への信心をすすめているのは、まさにふさわしいことだといわねばなりません。ご復活をむかえた喜びの心と自然界とが一緒になって聖母マリアを賛美するのですから。

 さて、イエズスさまは十字架上でおなくなりになる直前、十字架のもとにいた弟子に向かって「これがあなたの母です」(ヨハネ1927)といわれました。この時イエズスさまはマリアさまを私たちのお母さんとしてお与えになったのです。

 親子の間には深い愛情があります。特に母親と子供の間にはそうです。そしてこの母子間の愛情はお互いに話すこと(会話)によって芽ばえ、次第に大きくなっていきます。幼い子供が一番はじめにおぼえる言葉は普通「お母さん」とか「ママ」とかいうものです。そしてこの言葉を口にする時子供は満足です。幸福です。なぜならその時子供はこの世で一番偉大な者信頼できる者のそばに居るのですから。母親の方も子供からお母さんと呼ばれ話しかけられる時は非常な喜びを感じるでしょう。そして楽しかったことやつらかったことを語る日常の会話でこの喜びは大きくなり、親子の愛も成長してゆくのです。お互いに話すことが少ない家庭ではそれだけ親とこの間の愛の成長が妨げられているといえるでしょう。

 聖母に対して深い信頼をもってお祈りするとき聖母はこれを聞いてくださいます。そしてそれは確かに私たちのためになります。百年前の信者発見のとき、古い信者の口をついて出たのはマリア様のご像についてでありました。もし昔の信者たちに聖母に対する信心がなかったならば、どうしてこの言葉を口にすることが出来たでしょうか。またどうして信仰を告白することが出来、どうしてカトリック信者だとわかっていただくことが出来たでしょうか。

 聖母月にあたり、特に聖母マリアの生涯について考え、日常生活の模範とするようにいたしましょう。いつでも神さまのお望みにすなおに従われたマリアさま、ナザレトで貧しいうちにも幸福な家庭生活を送って居られたマリアさまを想像し、私たちもこれをまねるようにいたしましょう。カナの婚宴でイエズスさまはマリアさまの願いをきいて下さったように、私たちがマリアさまにお願いするお祈りもイエズスさまはきき入れて下さるという強い信頼をもちましょう。

 マリアさまはいま天国でちょうどこの世のお母さんのように、私たちひとりひとりの世話をして下さいます。そしておん子イエズスさまに私たちのことをお話になっているのです。

 マリア様と出来るだけしばしばお話をいたしましょう。会話はお互いの心を通じさせ、愛を芽ばえさせるものです。幼い子供のような愛情と強い信頼心をもって話しかけるとき、マリアさまはきっと私たちのはなしに耳をかたむけて下さるでしょう。そして母親としての愛を私たちに注いで下さるにちがいありません。

カトリック教法、昭和4331

ひとこと 「召出しはかていから」 

 ペトロ小島 栄

 「神父さまになたっちゃ、ばからしかもんねえ……」これが小学6年生の、しかもカトリック信者の子供の口から出てきた言葉である。小学生に接する機会の少ない私は「けいこ」のお手伝いや黙想会のときなど、子供たちに将来のことについてたずねてみる。司祭や修道者の志願者が年々減少しているといわれているおりから、子供たちに少しでも聖職への関心を持たせようとのねらいで話しをしてみるのだが、子供たちの方は気にとめそうもない。「いちばん楽な仕事で、しかもいちばんお金になる仕事」を望んでいる子供が非常に多いのにはおどろかされる。先日の新聞によると高校生の中にも社会のために役立つ仕事(福祉関係)を選びたいというものが目立って少なく、いわゆる鳴かず飛ばずでいいから平穏無事な生活を送りたいという者が増加しているという。それは奉仕の精神、自己犠牲の精神の欠如のせいだろうか。あるいは奉仕や犠牲の機会に恵まれず、そこからくる霊的喜び(それは断じて自己満足と異なる)をあまり経験しないからだろうか。子供が家庭からうける影響は、実に大きいといわれる。この点で家庭に在る大人の言動、考えに大きな責任がある。しかしながら司祭や修道者になることに「ばからしさ」を思わせるほどの家庭、社会を想像するとき、そこには霊魂の尊さ、救霊の大切なこと、ましてそのために働くことの崇高さといったことを真剣に考えている様子はうかがえない。聖職者への召出しの第一歩は家庭である。昨今の、あまりにも物質一本やりの世相から子供を守るのは家庭以外にない。家庭が救霊に無関心であれば、家庭の救霊に特別の関心を示す司祭や修道者さえもこの世にいなくなるということを常に銘記しておくべきである。

カトリック教法、昭和4611

みことば 「主の公現(13日)」 ペトロ小島 栄

 あたらしい年をむかえ、あたらしい気持ちで教会へ足を運ぶ。毎年のように同じことをくりかえすのであるが、今年もまたこの新鮮な気持ちを一年を通して持ち続けることができればと思う。

 1971年最初の主日と主の公現の祝日。福音宣布の使命をもつわれわれキリスト者が祖国日本をながめるととき、あふれんばかりの闘志とほのかな希望の光とを感ずる。日本カトリック教会の将来は、われわれが希望をもって使命達成に努力する限り明るい。

 救い主を生んだ地、ベトレヘムは偉大な姿として描かれている。

 ユダの地、ベトレヘムおまえはユダの諸侯のうちでけっして小さなものではない。おまえからひとりのかしらが出て、わたしの民、イスラエルの牧者となるからである。(マテオ26

 日本について、われわれキリスト者について、そして福音宣布の将来についても、つねに希望をもって生きて行こう。選民として特別に神から信仰に選ばれた民族ではないが、その中には少数ながら信仰の光に導かれ、信仰に召されたわれわれが居ることを確認したい。

 エルサレム、起きよ、光を放て、神の栄光が輝き、おまえの光が現れた。(イザヤ61)世の光なるキリストがわれわれにも来てくださった。この1年間、キリストをむかえ、キリストを標榜しながらすすんで行きたいものである。

 

カトリック教法、昭和4631

ひとこと「通じ合い」 ペトロ小島 栄

ひとそれぞれの性格でそんなこともあるのだろうと思うのだけれど、自分の考えや意見を、わかってもらいたい相手にどうしても通じさせ得ないときほどもどかしく苦しいことはない。なにを言っても無駄だと思うときほど、空虚感におそわれることはない。心の通じ合い(恋愛感情ではない)ということをのべたいのであるが、人間の世界では一方通行であってはならないし、それがまかり通っている限り、その集団や社会には遠からず破壊が訪れるであろうことは歴史が証明している。身体にも自然の要求といわれる「つうじ」がある。これが変調をきたすと、ひとは苦しみはじめる。こちらがいくらその気になってあせってみても、おなかがどれほど騒いでみても、かんじんかなめの関所が開いてくれないことにはどうにもならない。ものの本によると、これが度重なるとニキビという小さな爆発物となって現れるそうである。

 人間相互の心の通じが狂ってくると、それはビキニの核爆発にも匹敵するくらいの勢いですべてを破壊してしまうような気がする。人間から人間らしさを取り上げ、キリスト信者の信者らしさを、聖職者のもってしかるべき諸徳をも取り上げ、こわしてしまうだろう。

家族、職場、小教区、CA関係の諸団体、修道会、教区司祭の団体、その他いずれにおいても、上下関係における相互理解が強く要求される時代である。

上に立つ人が一方的に何かを押しつけるとき、それは信仰と従順をかくれ蓑にとした暴君でしかあり得ないし、下のものが自分の主張のみに固執するとき、それは「多数」と信念という美名の刃物をふりまわす狂徒となりさがってしまうだろう。

おたがいの考えや気持ちをどれだけわかろうとつとめ、実際にわかっているか。年々複雑になっていく人間関係のなかで、これは重要な鍵であると思う。その努力がなされたあとで、「聖霊のみちびき」うんぬんが高らかにうたいあげられていいと思うのだが……。
 



  
   
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