ペトロ 小島栄師

 

「ほんものとにせもの」長崎教区神学講座事務局長・小島栄

先日読んだ雑誌の中に、骨董の鑑定力についての記事があった。名産といわれる酒や漬け物などを味わい分けることができるかどうかという話が発展してのことであったが、骨董の鑑定力を修得するにはほんものだけを見ていれば大丈夫だという。ほんものにせものを比べるのではなく、ほんものだけに直接触れ、見ているうちに、にせものが来たらすぐにわかるようになるそうである。

こんにち、モノの力が下降線をたどり、加えて人に対する信頼関係さえもあやふやになった感が強い。いきおい人は心底から信頼のおけるもの、偽りのないものへと心をひかれ、それを求めるようになってくる。

私とキリストとの出会いは38年前にさかのぼる。その出会いの時以来、私はキリストへの志向を大切にしようと努力してきた。そのキリストはほんものなのかにせものなのか、自分ではいまだに判別がつかない。ほんもののキリストにばかり接しているからであろうか、それとも偽キリストなるものが自分のまわりにほんとうに存在しないからであろうか。

ベトナム動乱のとき、われられは南ベトナムの国情もあまり知らないままに、ただ政権担当者の交替だけが、彼ら国民を救う道だと考えた。そしてそれを行動に移すことがほんもののキリスト者のすがただとして、内外に向けて盛んな働きかけをしていた人たちも日本のカトリック界にいた。それをできない私などは、ある種のうしろめたさを感じながら、彼らの活動に目を見張ったものである。

動乱も終わって数カ月たった現在、南ベトナムの国民が、カトリック信徒が、以前に増してどれだけ真に“解放”されて幸福になっているかということについては、いまだ聞いたことがない。

去る9月、全国要理教育担当者会議が東京で開催された。後手にまわったとの感は強いにしても、重い腰をようやくあげてもらったことに、率直な喜びを表したいと思う。会議中の講演の中で“要理教師自身のメンタリティーの変化”が強く要望されたという。しかし、それはほんものへ到着するための変化でなければならない。いたずらに時勢の波に踊らされて、やみくもに消え失せるようなものであってはならないと思う。

要理教師には、真のキリストを示し、それを子どもたちと共に生きてゆく重大な任務がある。先ずわれわれはそれを探さねばならない。メンタリティーの変化をと言われてみれば反省させられる点は多々あるが、それによって焦燥にかられることもなかろう。

ほんもののキリスト、それは「頭や知識で理解するものでなく、熱くたぎる心で知るものである」という、会議中の司教様の言葉を大切にしてゆきたい。

「信徒の自立を妨げるもの」桐教会主任小島栄

新しい年度に入って2ヶ月が経った。各小教区では神の民の発展を目指して軌道上加速を続けていることだろう。

とくに新・転任の司祭や要理教師を迎えた教会の信徒たちは、かれらの熱意あふれる宣教司牧に期待を寄せながら見守っていることだろう。

「使途職」の名のもとに信徒の自立が叫ばれて久しい。現状を冷静に眺めると、当初目指していた方向へは遅々として進まずの感が強い。実際には効果があがっているのだろうけれど、それが明確ではないのは、われわれを取り囲む状勢の変化があまりにも急激だからであろうか。 

当初目指していたもの、それは教会の従来の機構にヨコ型社会の要素を取り入れようとする試みであったと思う。教会のすべてにおいて司祭や修道者が中心であり、すべての機構の頂点を独占し、信徒はいつも「従」で画一化されていた。この顕著な主従関係に活を入れようとしたのが、当初の信徒使途職と呼ばれる動きであったと思う。

信徒に理想の姿を取り戻してもらう鍵は、指導者と呼ばれる人たちが勇断をもって権力の座からの脱皮をはかることである。一般社会でもいえることであるが、大衆は、いわゆる権力の座にある人たちが権力の傘の下でしか物事に対処できないこと、さらにその姿勢から出てくる解決や結論は、だいたいにおいて大衆から遊離したところに落ち着くことに気づいている。

教会の指導者から権力を取り去ったら、残るものは何だろう。残るものがあるとして、信徒はそれを心からの信頼や希望、心のよりどころにすることができるだろうか。他の権力には滅法弱い「権力者」にカミシモを脱いでもらったとき、痛みをもった大衆と同じヨコの線上になにを見いだすことができるのだろう。

権威や権力は人の集団が存在する限り必要である。しかしそれは、必要最小限度のものであってほしい。信徒と指導者間に面従腹背の構図をくり返さないためにも。

信徒が名実ともに自立するのは、いつのことだろう。
 
 

カトリック教法

ひとこと「このごろ思うこと」桐教会小島 栄

 「世俗の福音化」が叫ばれて久しくなる。それは位階的使徒職にあずかる教皇、司教、司祭の任務と並行して、世俗性を特徴とする信徒は「世俗の中に生活し、現世的活動に従事し、世の中のものを神のみ旨に従って秩序づけながら、神の国を求めるように召されている」(教会憲章31)からである。

 「神の救いの計画が万国万代のすべての人に到達する」(同33)ために招かれている信徒がその使命を果たすためには、同時に教会全体の理解と協力がなければならない。なぜなら教会は信徒だけで成り立っていないのは当然だが、同時にそれは指導者固有のものでもないからである。

 はたして現在の教会には信徒が世俗の中で本来の使命にそった活動に邁進できるような体質が本当に在るのだろうか。世俗における信徒の活動は政治、経済、文化、教育、家庭など多岐におよぶ。

 そこでの使徒的活動は教会の一部の人たちの私情によって曲げられたり妨げられたりしてはならないし、個人的な利害関係で助長されてもならない。

 生活のあかしで世俗を福音化する、いわゆる使途職の特徴は多様性である。世俗福音化の方向がそなわっている限り、なにびともこれを妨げたり無関心ではいられずはずがない。信徒使途職は多様性の中でこそ真価を発揮できるものであり、これを画一化しようとするとき、教会は形骸化と機能麻痺の一途をたどることになるだろう。

 

「拝啓主任神父様」小島栄

大窄政吉神父様

 長崎公教神学校が大浦から浦上に移転(19529月)した同じ年の11月、第9代目の校長神父様を迎えました。新しい校長神父様は小柄ながら禿げた頭に貫禄があり、背筋をピンと張って歩く姿はキュッキュッと鳴る革靴の音も手伝って威圧感を漂わせていました。歓迎式では学生を代表してプレゼスの川原さん(現在の川原師)が「菊花薫るこのよき日…」と切り出したことだけ記憶しています。当時私は中学2年生でした。

 自らをハゲ爺と呼び(私たちもそう呼んでいました)、堅い内容の話しの時は特に笑顔とジョークを交えていました。そして学生が真剣に考えるように方向づける話術を備えておられました。ちょうど長崎教区経営の東陵学園が神言会経営の南山学園に移管されたばかりで、教区神学生も南山に通学していたことを考えると、私たちには分からない困難なことが種々あったことと思います。神学生たちもそれまでのゆったりした雰囲気からピーンと張り詰めた状態に変わっていったようです。

 当時はまだ食糧難でした。敗戦直後に大村で極貧の生活を送った先輩諸氏の生活には及ばないものの、やはり空腹の日々は続いていました。会計係の深堀栄市師の懸命(賢明?)なやりくりのご努力もさることながら、一家の責任者としてのご配慮、ご苦労は尋常ではなかったとお察しいたします。

 それでも神学校は活気に満ちていました。祈りと勉強に加えて厳しい規律が課せられていましたが学生の方には陰にこもった反感などはなく、むしろそれを当然のこととして取り組んでいこうとする気風があったように思います。「ハゲ爺に説教されたバイ」と学生がいうときは、語る側にも聞く側にもカラッとした雰囲気がありました。神父様は父親を演ずるのが上手だったように思います。校長室に行くとコタツに入って読書する師の姿を見せられ、聖体訪問に行くとそこにも祈っている司祭の姿がありました。よき師、よき友、そしてよき兄貴役の深堀師、苦しいけれど幸せな青春の日々でした。

 青春の苦い思い出が一つあります。高校1年の冬、夜の自習時間に2号室でY君と二人でしていたヤミ(こっそり何かを食べる)には、ほんとうはお気づきになっていたのですね。Y君が下校途中で……以下原稿なし

カトリック教法、昭和48111

ひとこと「秋風」 ペトロ小島 栄(宝亀教会)

都会の喧噪から離れた生活をするようになってもうすぐ3年になる。赴任後しばらくは人の出入りもあるにはあったが、それもあわただしく途切れしまった。気が遠くなるような静けさの中にひとりポツンと置かれた状態で数カ月を茫然と過ごした。ときどき人を探してあちこちをかけずりまわった。賄婦さえいない、がらんとした、暗い司祭館へ帰りたくないという気さえした。雨の夜など、こわれた雨どいから地面にたたきつける水の音に身をすくませたことも合った。前途多難を思わせた。

静寂になれ、近くの野や山へ出かけるようになって、自分のまわりにこそ今まで探していた「人」たちがいることに今さらのように気付いた。ずいぶん遠廻りした感があるが、いま、この羊たちこそ自分の宝だと思っている。この人たちを除いたら、わたしの司祭としての生命はすでになくなっているからである。

彼等はよく司祭のために祈りを捧げる。とくに子供たちはそうである。ご本人たちはごく当たり前の気持ちかもしれないが、こちらは感謝の気持ちでいっぱいになる。何気なく香部屋に入ったときなど「神父さまのために祈りましょう」という聖堂からの黄色い声に、思わず立ち止まることがある。感謝と同時にこの子供たちのためになにがなんでもという勇気が強くなる。それにしても思っていることの十分の一も実現できない自分の非力さに気付くとき、責任感だけが重くのしかかってくる。政治的にはもちろん、教区行政の面でも取り残され、忘れられた、そんな色彩の強い地域に住む彼等に、キリストの心だけは頼りになることを悟ってもらいたいとねがう。あらゆる機会を利用し全力を集中してどん欲なまでに彼等に信仰の喜びを味あわせたい。秋風にふかれながら、もの想うこのごろである。

 
 

カトリック教法、昭和60

時代の要請にこたえる司祭養成をめざし奮闘しています

長崎公教神学校長 ペトロ小島 栄

日々感謝

 故プチジャン司教様の創設より120年の歴史をもつ長崎公教神学校は、長崎教区だけでなく他教区にも無数の司祭を送り出してきました。司祭職をめざして日夜研鑽に励む神学生にとって、最強の支えとなるのは先輩にあたる諸神父様方と信徒の方々から寄せられる温かいお祈りと励まし、ご援助などです。ここに神学校の現況をご報告し、日ごろからいただいておりますお祈りやご援助に対し御礼を申し上げたと思います。

神学校の現況

 現在の神学校校舎は浦上教会の下、カトリックセンターの向かいにあります。昭和27年に建てられたもので、かなり老朽化しております。このため日ごろの補修や手入れに追われますが学生たちの心のこもった清掃で内部はなんとか清潔さを保っています。

 今年4月に28名の新入生をむかえた神学校は総勢103名となり、飽和状態を超えた人員になりました。中学生71名、高校生31名、高校卒業生1名です。このうち、他教区および修道会の神学生が21名在籍しています。校舎の収容限度はもちろんですが、時代の要請に応える司祭養成に必要な設備の不備にばかり気をとられ、神学生の養成を現状でいかにするかということを忘れがちになったりしています。

召命形態と変化のきざし

 今のところ、神の呼びかけに応え神学校に入学する神学生の大半は小学校を卒業したばかりの11歳〜12歳の少年たちです。時代とともに親子間のスキンシップも増え、あふれるほどの物に恵まれて育ってきた子供たちです。親離れ、子離れの苦しさや困難を、神学生の家族の人たちは身にしみて感じることでしょう。

 小学校を出たばかりの子供たちの召命と養成はそれなりに貴重なものですし、これからも大切にしていかねばならないでしょう。神父様をはじめ子供をもつ信徒のみなさの、召命に対する熱意によって召命が増えつつある現状を考えると、教区の将来に希望がもてると同時に背負いきれないほどの責任の重大さに身の引きしまる思いがします。

 召命を受ける年齢や動機はさまざまです。しかしここ数年、召命を高校卒業前後受ける傾向もみられるようになってきました。昭和582学期になって、長崎市内の公立校と私立校から高校3年生の編入生がありました。現在、福岡大神学校哲学科1年に在学中です。また、今年度は、この春長崎市内の公立校を卒業し、九州大学工学部の入学試験に合格を決めたひとりの学生が、大学入学を辞退し本校で共同生活を送りながらラテン語の勉強に精を出しています。この学生も来年春は福岡大神学校へ進むことでしょう。

 このように司祭への召命はその時期、年齢、動機ともに多種多様ですが、神からの呼びかけに応えようとする点では同じです。ただ、最近まで主流を占めてきた中学1年からの召命形態に、わずかではありますが変化のきざしがみえるように思います。

神学校の支えとなるもの

 神学生の養成には当然のことながら養成費が必要となります。

 昭和60年度の養成費は、神学生ひとりにつき年間約55万円です。このうち、教区信徒のみなさんが捧げてくださった養成費の中から、教区会計を通じて41万円を当神学校にいただいております。残り14万円はローマからの補助金と信徒有志の方々の温かい御芳志によって補充されています。

 信徒有志による御芳志の有り難みが養成を担当してみてはじめてよくわかります。校舎の老朽化に伴う補修に加えてわずかの設備をととのえるにも思わぬ経費がかかります。年間予算に限界を感じ迷っているとき、有志の信徒や団体からいただく御芳志によって危機を脱することができたことが幾度あったかわかりません。

 教区全域にわたる無数の信徒のみなさからご援助をいただいていることをご報告し、心からの御礼を申し上げます。

 最後にもっとも多くいただいている、みなさまからのお祈りに対し、御礼申し上げます。祈りによる支えなしには司祭や修道者の奉仕も活動もあり得ないと思います。神学生の場合も同じです。召命を受けた神学生たちが、与えられた環境の中で召命の道を歩み続けることができるよう、今後もよりいっそうのお祈りをお願いいたします。



  
   
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