ペトロ 小島栄師

 

「新・新人類と化石族」長崎公教神学校長・小島栄

世代間の断絶が取り沙汰されて久しいが、若者たちと過ごしていると、その隔たりに戸惑ったり苦笑したりすることがある。そして世の父親族母親族の苦労を案じたりする。かってに同族意識を燃え立たせるのであろう。

 毎年、夏になると高校生とキャンプする。準備から実行まで、一応学生が自主的にすることになっている。化石族の出番は場所の交渉、経費、車の運転など、彼らにとって必要最小限のことにとどめている。

天才―すべてを楽しく―

5月ころから彼らはキャンプの準備と称してよくミーティングをする。何でも楽しくやるのは得意中の得意で、この時期からすでに彼等なりの「ジョイフル・タイム」が始まっている。7月半ばまでにそれはしばしばくり返される。そのたびに賑やかな様子が教室からただよってくる。今年の組はバッチリ決まりそうだなどと、こちらの期待もしだいに大きくなっていく。

 五島奈良尾町町営のこじんまりしたキャンプ場である。721日、バスに荷物を満載して海を渡り、わが愛する高校生キャンプ組18(プラス1名の運転手は究極の化石組)が到着したところである。

 管理人への挨拶や使用説明もそこそこにテント設営にかかる。ああでもないこうでもないと、その賑やかなこと。バスの荷物をおろしていると設営終わりました。神父様のテントも出来ましたのでどうぞという。楕円状に配置したテントの列に少し離れて化石用のねぐらが用意されている。ありがとう、ごくろうさんなどといいながらも、化石の目線は「少し離れて」いる。テントの方に注がれたままである。そしていろいろ考える。今夜は歌におしゃべりにと、各テントでは深夜まで楽しいことがあるのだろう。大いに騒いでたのしくやったらよかろう。学期中は遊びの時だけでなく祈りの時さえ近隣住民への騒音公害の加害者として気が重くなるような日々を送っているのだから、それに化石の睡眠を妨げないよう配慮してくれたことに感謝しよう。ただ、この点は大切なのに言葉ではうまく表現できないのだが、単に配慮だけではない或る種の微妙な部分もあるようで…。いずれにしろ化石は大自然の中での眠りを満喫させていただこう。

 

カトリック教法、平成元年71

長崎公教神学校、新校舎定礎式

 順調に建設が進められている長崎公教神学校の定礎式が、524日午前11時から建設中の神学校玄関で行われた。

 式には長崎教区側から司式の里脇枢機卿をはじめ、10人の教区司祭、工事関係者側から大林組の8人の合計19人が参列した。式は約15分で終了したが、前後あわせて30分間、工事を中断して行われた。

「キリストという堅固な土台の上にこの神学校を建て、神の国の建設にいそしむことができるよう祈りましょう」という枢機卿の招きの言葉があり、神学校建設委員会、大林組関係者、それに神学校からそれぞれの代表者による共同祈願が行われた。

 続いて礎石が祝福された後、記念品を入れた円筒形のカプセルと礎石が、玄関脇の壁の中に収められ、定礎式は終了した。

 礎石は縦345cm、横465cmで徳山みかげ石製。表面に「定礎」と彫られている。

 カプセルは長さ30cm、直径97cmの円筒形で真鍮製。中には、聖地イスラエルの石と、19871125日に神学校建設委員会が発足して以来、定礎式までの経緯の記録、それに定礎式の記念写真が収められている。
 
 

カトリック教法、昭和60

時代の要請にこたえる司祭養成をめざし奮闘しています

長崎公教神学校長 ペトロ小島 栄

日々感謝

 故プチジャン司教様の創設より120年の歴史をもつ長崎公教神学校は、長崎教区だけでなく他教区にも無数の司祭を送り出してきました。司祭職をめざして日夜研鑽に励む神学生にとって、最強の支えとなるのは先輩にあたる諸神父様方と信徒の方々から寄せられる温かいお祈りと励まし、ご援助などです。ここに神学校の現況をご報告し、日ごろからいただいておりますお祈りやご援助に対し御礼を申し上げたと思います。

神学校の現況

 現在の神学校校舎は浦上教会の下、カトリックセンターの向かいにあります。昭和27年に建てられたもので、かなり老朽化しております。このため日ごろの補修や手入れに追われますが学生たちの心のこもった清掃で内部はなんとか清潔さを保っています。

 今年4月に28名の新入生をむかえた神学校は総勢103名となり、飽和状態を超えた人員になりました。中学生71名、高校生31名、高校卒業生1名です。このうち、他教区および修道会の神学生が21名在籍しています。校舎の収容限度はもちろんですが、時代の要請に応える司祭養成に必要な設備の不備にばかり気をとられ、神学生の養成を現状でいかにするかということを忘れがちになったりしています。

召命形態と変化のきざし

 今のところ、神の呼びかけに応え神学校に入学する神学生の大半は小学校を卒業したばかりの11歳〜12歳の少年たちです。時代とともに親子間のスキンシップも増え、あふれるほどの物に恵まれて育ってきた子供たちです。親離れ、子離れの苦しさや困難を、神学生の家族の人たちは身にしみて感じることでしょう。

 小学校を出たばかりの子供たちの召命と養成はそれなりに貴重なものですし、これからも大切にしていかねばならないでしょう。神父様をはじめ子供をもつ信徒のみなさの、召命に対する熱意によって召命が増えつつある現状を考えると、教区の将来に希望がもてると同時に背負いきれないほどの責任の重大さに身の引きしまる思いがします。

 召命を受ける年齢や動機はさまざまです。しかしここ数年、召命を高校卒業前後受ける傾向もみられるようになってきました。昭和582学期になって、長崎市内の公立校と私立校から高校3年生の編入生がありました。現在、福岡大神学校哲学科1年に在学中です。また、今年度は、この春長崎市内の公立校を卒業し、九州大学工学部の入学試験に合格を決めたひとりの学生が、大学入学を辞退し本校で共同生活を送りながらラテン語の勉強に精を出しています。この学生も来年春は福岡大神学校へ進むことでしょう。

 このように司祭への召命はその時期、年齢、動機ともに多種多様ですが、神からの呼びかけに応えようとする点では同じです。ただ、最近まで主流を占めてきた中学1年からの召命形態に、わずかではありますが変化のきざしがみえるように思います。

神学校の支えとなるもの

 神学生の養成には当然のことながら養成費が必要となります。

 昭和60年度の養成費は、神学生ひとりにつき年間約55万円です。このうち、教区信徒のみなさんが捧げてくださった養成費の中から、教区会計を通じて41万円を当神学校にいただいております。残り14万円はローマからの補助金と信徒有志の方々の温かい御芳志によって補充されています。

 信徒有志による御芳志の有り難みが養成を担当してみてはじめてよくわかります。校舎の老朽化に伴う補修に加えてわずかの設備をととのえるにも思わぬ経費がかかります。年間予算に限界を感じ迷っているとき、有志の信徒や団体からいただく御芳志によって危機を脱することができたことが幾度あったかわかりません。

 教区全域にわたる無数の信徒のみなさからご援助をいただいていることをご報告し、心からの御礼を申し上げます。

 最後にもっとも多くいただいている、みなさまからのお祈りに対し、御礼申し上げます。祈りによる支えなしには司祭や修道者の奉仕も活動もあり得ないと思います。神学生の場合も同じです。召命を受けた神学生たちが、与えられた環境の中で召命の道を歩み続けることができるよう、今後もよりいっそうのお祈りをお願いいたします。

 
 
 

カレーに しびれる

「おい、このカレー、カレーのにおいのするや?」「いや、いっちょん せん。」「なんか、こうー、アクの強うなか?」「うん、おかしか……。」

 だれが決めたわけでもないが、キャンプ中に一食はカレーライスと相場は決まっている。それが最初に登場した。食事班の、煙に悩まされながら文字通り汗と汗と涙を流して出来上がった尊い作品である。それにケチをつけるなんて、いくら仲間同志だからといっても許せない。

 当然のことだがキャンプ場にはガス器具などない。ここでも炊飯のすべてをかまどでしなければならない。新・新人類はこのてのものに極端に弱い。神学校から積み込んできた薪(古椅子などの解体材)をかまどに並べたりかさねたりして、これに新聞紙をまるめては火をつけて放り込んでいる。だが、自然の道理はそう簡単ではない。無謀かつ大胆である。もうもうと煙が出るだけでかんじんの薪にはいっこうに火は移りそうもない。ことわりもなしに涙があふれ出るだけである。

 酷なようだがこの種のことはしばらく苦労させた後、手を貸す方がよい。ころあいを見て化石は近くの枯れ枝を使って火をつけてやる。どうだ、まいったか。ナルホド!?

 その、汗と涙の作品をたべている同じ口でケチをつけている。たとえ出来上がっためしが赤茶けた「キャンプめし」であったとしても、である。

 ジュースを飲んでいた化石も、どんぶりに盛られた「作品を」いただくことにする。彼等の目が同意を求めていっせいに化石に注がれる。不審な顔つきで黙々と食べているのは食事班の数名だけである。彼等は目線をそらしたままである。何かがあった……。

 「舌のしびれるごとある。」すでに食べ終わったひとりが言う。俺も俺もとみんながコミニュティ・スピリットを発揮する。化石はなんともないのかなと言いたげである。化石にはそのように聞こえるのである。この際、ことの真相を究明する必要がある。正直に感想を言う方がよい。正直の心に神宿るというではないか。「ほんとににおいのせんね−。ばってん、私のベロはどうもなかばい。」「素意や、神父様がぜんぶ食べてしもうとらんけんでしょう。」「そうかな。」

 どんぶりの底が見えるころになって、化石の舌にも感覚が少々麻痺してきた。「こいや、なんのアクやろう。ひょっとしたらジャガのアクじゃなかと?」

 不気味な沈黙のうちに化石も不思議なカレーを終わる。

 とつぜん沈黙を破ったのは食事班のY君。それをきいて炊事場へ飛んだのはI君。「肉ばいためるとにつこうた油は……あいや どのアブラや?」

 油の入った小びんを2本、I君が両手に持っている。心なしか青ざめている。

 量の減っとる方がカレーにつこうたやつね、などといいながら、I君は蓋を取って確認する。両方とも指につけてみたり、においをかいでみたり……。ことの真相が明確になったとき、I君は身の危険を感じたのだろう。近くに彼の姿はなかった。

キャンプが近づいたころ、食事班の班長が化石のところへ経過報告にやって来た。化石は現地での買い物はしなくていいようにと、@米、調味料など、寮の厨房から出せるものは出来る限りそれで間に合わせること、Aほかのものは近くのストアでそろえること、の2点を彼に伝えた。なにしろ、キャンプ場は町の商店街から遠い。それに離島では、なにもかも値段が高い。忠実な班長は指示どおりに準備したのだが、同じ型の空きビン2本にサラダ油と食器洗剤ママレモンを入れ、目印もしないで他の準備に熱中したのである。そんなことを知るはずもないI君は、2本のうちの1本をもってきて「油」を焼き、肉をいため、しびれのきくママレモン・カレーをつくりあげてしまった!

化石のほうも反省している。サラダ油と食器洗剤ぐらい新しいものを買わせればよかった。両方とも中身は同じ色をしているではないか。同じビンに入れたらだれだって見分けがつくはずがない。間違えたI君に責任はない。しかし、ここでウジウジしていてもどうにもなるまい。それにしても、おなかの方はだいじょうぶかな?「おなかのゴロゴロいうごとある。」案の定、おいでなすった。

「こら、よう聴け。この中で一番おなかの弱かとは、私ぞ。自慢じゃなかばってん、1年まえは、おなかの調子のおかしゅうなって、2ヶ月あまり入院したぞ。まだ、ようなっとらんばい。やられるとやったら、私が一番先に痛うなるはず。私のおなかは どおーもなか。ママレモンばすこーし食べたけんて、そがん かーたんに おなかの痛うなるもんね。ほんとに痛うなったもんは夜中でもよかけん私に言うてこい」

「ママレモンを食べさせたのは……オレだ―――。」

いたたまれないのだらう。I君は闇の中でみんなから離れ、裏山に向かって叫んでいる。化石も胸が痛む。

だが、彼等はひとしきりI君をはやしたてた後、ディスコ調の音楽と騒ぎのなかであと片付けに余念がない。忘れてはならない。新…新人類はなにごともパフォーマンスしてしまうのが得意中の得意である。

いつのまにかI君もみんまに合流している。

巻頭言「熱意をしてこそ」小島栄(長崎カトリック神学院)

2年まえの6月、フランスのある校区事務所で働く日本人修道女から絵はがきをいただいた。教区の大神学校が召命現象のため閉鎖され、これを事務所として使用していること、先日久しぶりに司祭叙階式があり2名の新司祭が誕生したことなどが書かれていた。驚くほどのことでもないが新司祭のうち一人は53歳、もう一人は37歳だという。しかもここ数年司祭の誕生がなく、ほんとうに久しぶりの司祭叙階式であったこと、司祭減少のため地方の小さな教会は閉鎖・統合のやむなきに至っているという。

召命の減少は世界的な傾向である。第二バチカン公会議以降、司祭たちは雪崩のようにその職を放棄し還俗して行った。当然青少年の司祭志願者も減少していく。窮余の策として小教区を統廃合し、信徒を助祭に登用する。それでも「生き残り」の司祭たちと信徒にのしかかる犠牲はいっこうに軽くならないようである。

わが国においても司祭召命の減少は同じである。第二バチカン公会議を境にして閉鎖・縮小された神学校は枚挙にいとまがない。そのような状況の下で長崎教区の神学校は召命の減少もなく今日に至っている。何故だろうか。

特質すべきは教区長と司祭たちの召命に対する熱意であり、これに応えようとする信徒の姿勢である。枢機卿も司教も、小教区訪問をはじめ信徒と接する折あるごとに信徒指定の司祭職への召命をうながしてきた。それは司祭がいなくなった過去の禁教令時代に信徒の信仰生活がいかに困難を極めたか、司祭をどれほど待ち望んでいたかを過去の記録や口伝から貴重な宝として持ち続けているからであろう。また教会の将来が司祭の増加にかかっているとの認識からであろう。

小教区で活動する司祭たちの熱意も教区長のそれに匹敵していると思う。召命の苗床と言われる家庭の信仰の状況は司牧を担当している司祭でなければわからない。信仰の厚い家庭で成長した青少年たちを自己の後継者として教区の命運を託すべく、彼等の心眼を司祭職へと向け、神学校へ送るという作業は並大抵のことではない。司祭のすすめに応じて司祭職へトライしようという決意に至る信徒とその子弟はいわずもがなである。

召命は信徒、司祭、歴代教区長の熱意と犠牲によってこそ実を結ぶ。創立以来125年を経た日本の西の果ての神学校は彼等の熱意が続く限りその使命を果たすことが出来るといえよう。
 

カトリック教法、平成元年121

「新しい歴史に向かって」 長崎カトリック神学院院長 小島 栄

 日本におけるキリスト教史輝く信徒発見の出来事から、間もなく125年が経過しようとしています。

 信徒発見と同じ年に、大浦の地で産声をあげた長崎公神学校は、歴史の荒波にもまれながら、着実にその歩みを続けてきました。この間、信徒の祈りと犠牲に支えられて多数の司祭を全国に輩出しています。

 大浦南山手、浦上、大浦東山手、大村、そして大浦南山手など転々としていた神学校は、昭和279月、浦上の橋口町に転居しました。爾来37年司祭職志願者の青少年たちの青春を刻み育んできました。しかしその老朽化は如何ともし難く、加えて召命の増加傾向への対応を迫られる時期が来ていたことはご承知の通りです。

 このたび、信徒の皆様の計り知れない犠牲と熱意によって、昭和637月に始まった新しい神学校の工事がようやく完了し、去る116日、里脇枢機卿と教皇大使カルー大司教様の手によって祝別され落成式が行われた。教区内外から参列してくださった多数の方々とともに、新装なった神学校の完成の喜びを分かち合いました。信徒の皆様には、神学生養成のために多大の犠牲とお祈りをいただいていることを痛感していますが、とくに今回の工事につきましては、改めてその感を強くしました。皆様の犠牲、ご厚情、お祈りなしには今回の建築は実現しなかったからです。心から御礼申し上げます。

 去る1112日、住み馴れた旧神学校から新しい神学校に転居しました。神学生たちは、恵まれた生活環境に目を見張り、戸惑いさえ感じられます。この「新しい革袋」である神学校で、「新しいぶどう酒」(マタイ九の17)として勉学と修養に励むことにいたします。

 司祭養成の苗床である神学校は、名称も新しく「長崎のカトリック神学院」として、新たな一歩を進み始めました。皆様には建てていただいた、この学舎から多くの司祭が誕生しますよう、全力を尽くして養成指導に邁進する所存です。今後ともお祈りと犠牲で神学生を支えてくださいますようお願いし、落成と転居のご挨拶、御礼を申し上げます。

カトリック教法、平成451

司祭の休養と研修を兼ねた「サバティカルイヤー」実施

司祭叙階後ある一定の年数を経た司祭が、しばらく宣教・司牧の現場を離れ休養と長期の生涯養成、あるいは研修コースに参加することを目的とした、リフレッシュ・充電期間の制度化を図る上で注目される初の試みである。

 小島神父(54)はその第1号として、1年間アメリカで研修する。

小島神父談話

 教区の神父さま方、信徒の皆さんに支えられて、9年間、神学院院長としてつとめさせていただきました感謝しています。
 
 

「金の輝き」浅子教会主任司祭小島栄

稲佐小教区小教区設立50周年にあたり、心からお慶び申し上げます。

人間の世界では種々の出来事を折にふれて記念し祝うものですが、なかでも「金」の50周年記念は私たちの心に特別な喜びをもたらしてくれます。

50歳に成長した稲佐小教区と信徒みなさまに心からお祝い申し上げます。

稲佐教会の献堂式は1950(昭和25)年の復活祭だったそうです。小教区としての独立準備は、その少し前だったのでしょうか。前年に聖フランシスコ・ザビエルの日本渡来400年を祝ったばかりの時期に建てられた木造の教会は聖フランシスコ・ザビエル教会、幼稚園もフランシスコ幼稚園でした。中町小教区から独立しての稲佐小教区の発足は祝福と喜びに満ちたものであったことが想像できます。現在のロザリオ幼稚園の敷地にあった教会は、当時わずかの信徒が自分の山から杉材を切り出したり浄財を出しあったりして建てられたのでしょう。

その稲佐教会に私は1964(昭和39)9月から約2年間お世話になりました。同じ年の319日に司祭に叙階されたばかりでしたので、まさに私の駆け出しが稲佐教会でした。35年を経た今、すべてが懐かしく思い起こされます。

そこは活気に満ちていました。午前中はフランシスコ幼稚園の園児たちの遊び相手をつとめ、午後になるとたくさんの子どもたちとの「けいこ」を待ち受け、日が暮れると仕事を終えた青年たちが三々五々集まり、毎晩のように笑い声があふれていました。青年会、JOC、レジオマリエなどで一日が終わってしまいました。6畳部屋と土間を改造したけいこ部屋(数年前までは教え方さん夫婦が住んでいたそうです)にも、釣鐘のロープにもナメクジが出没していましたが、そんなものはどうでもいいくらい楽しいものでした。「神父さま、きょうのミサは終わったとですか」との声にハッと目覚めて時計を見ると午前3時だったりしても、その老婦人とコンタツグリをして6時のミサ開始を待つのも楽しみのひとつでした。生意気だった若造司祭を温かく見守り指導してくださった中田武次郎神父様、神戸屋の浜端さんをはじめ当時の役員のみなさま、ありがとうございました。

30年あまり転々として、現在私は佐世保市の北端にある浅子教会に居ます。3年前、心臓がストライキを起こしそうになったので冠動脈を新品と取り替えました。手術の結果が最高で、元気を取りもどしています。どの任地でも最高の信徒に恵まれ、司祭として勤めさせていただけることに日々感謝しています。

50年から更に新しい半世紀へ。私の司祭職の始まりを温かく育んでくださった稲佐教会と信徒のみなさまの益々のご発展を祈ります。

 
 

「円熟へ向かって走れ」浅子教会主任司祭小島栄

長崎教区の神学講座が開講25周年を迎えられました。こころからお慶び申し上げます。

私がこの神学講座と関わったのは、浦上教会で働いた1974年以降の3年間でした。念願の(?)主任司祭として宝亀教会で細々と司牧をしていましたが、善良な信徒に恵まれて、大変しあわせな日々でした。「鶏口となるも牛後となるなかれ」を固く信じていた私は傷心のうちに浦上教会へと行きました。どの教会にいてもすべてが勉強になると確信している現在、当時は若さのかけらを引きずっていたのだと懐かしく思います。そのような状況のもとで、週に2回神学講座事務局の仕事のために浦上教会から「通勤」しました。松永司教様が局長でしたので、気楽に取り組んでいたように記憶しています。

さらに幸運にもすばらしい2名の局員に恵まれていました。シスター飯村(レンプトリスチン)シスター藤岡(援助マリア会)です。講座の立案から日程、講師の交渉の下準備を含めて事務関係のすべてをテキパキと片づけていました。私は彼女たちからの報告を受けて、必要に応じて松永司教様に報告したり相談したりの、早くいえばメッセンジャーのようなものでした。私の在任中にシスター飯村はハイチに派遣されて旅立って行きました。貧しさと奉仕を追求する姿勢に圧倒される思いでした。シスター藤岡は現在も福山の学校で頑張っておられるのでしょうか。私の優柔不断な性格のためにお二人に与えた心労を心からお詫びしたいと思います。

有名無名の局員たちの地道な奉仕によって神学講座も大きく発展しています。この4月からは佐世保地区でも神学講座が開講される予定です。地区信徒たちが長い間念願していたものがやっと実現するようです。関係者のご尽力に感謝するとともに、今後ますますのご発展を祈ります。



  
   
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