岩村友彦主任司祭

 
 

カトリック教報 (昭和6041日) 県文化財に提供 久賀島の五輪教会 

建築以来百年余りの歴史を持つ久賀島の五輪教会が、県の文化財として提供されることになった。久賀島は五島で最も厳しい迫害を受けたところで、とくに「牢屋の窄」殉教地は有名である。厳しい迫害の嵐が止み、信仰の自由をかち得た久賀島のキリシタンたちは、迫害に耐えてきた信仰の証しとして、また久賀島の教会の夜明けのしるしとして、文字通り心血を注いで、明治14年浜脇の地に教会を建設した。昭和6年、この教会を鉄筋コンクリートの教会に改築するに及んで、木造の古い教会を五輪の地に移築したのが現在の五輪教会で、百年余りの歴史を有している。しかし年を追うにつれ老築化もはげしく、修繕も効果がなくなってきたため、信徒の総意により、現在の古い教会を解体して新教会の建設を決定した。ところが「五輪教会は日本式の建築技術をベースにした貴重な文化財」「我が国初期の教会建築技術を知るうえで貴重」「建築学上、貴重な建て物」ということで、福江市教育委員会、とくに九州大学工学部など各方面から保存を望む声が強く、次々と調査団が来島して現地調査を行った。その結果、里脇枢機卿の賛同と信徒の総意で「県の文化財」として提供することに決定された。幸いにも教会建設用地として近くの土地(約百坪)が信徒から寄贈され、新教会の建設のにも支障はなくなった。五輪教会は現在、戸数8戸で信徒数40数人、小さな教会である。信徒たちは私財をささげ、いま新教会建設にけん命に取り組んでいる。全家族漁業を営み、若い後継ぎもちゃんと残っており活気にあふれている。新教会は今年5月に完成予定。

 
 

カトリック教報  (昭和6161日) 新五輪教会完成 (久賀島)

下五島久賀島の五輪教会が新築され、623日に献堂式が行われた。献堂式は午後2時から下五島地区地区長・浜口庄八神父の司式で行われ、同時に11人の子供たちが堅信の秘跡を受けた。梅雨のぐずついた天気にもかかわらず、神の家の完成を祝って久賀島と下五島各地から百余人の信徒や修道女が駆けつけ、9人の共同司式の司祭たちとともに、信仰の証しとして完成した教会で熱心に感謝の祈りを捧げた。新しい聖堂はコンクリートブロック造りで広さは80平方メートル(24坪)。敷地は地元信者から寄贈された。初めの計画では旧五輪教会は老朽化のため取り壊され、その跡地に新聖堂がたてられることになっていたが、建築学上、貴重な文化財として現地保存の要望が高まり、そのすぐ近くに新聖堂を造ることになったものである。五輪教会は現在8世帯。建設にあたっては、全世帯が力を合わせて労働奉仕し完成にこぎつけた。また、資金面では里脇枢機卿のご好意による教区からの補助と、五輪教会出身者など久賀島内外からたくさんの寄付が集まり、地元の主任司祭岩村神父を始め、信徒一同は心から感謝している。
 
 

カトリック教報 (昭和6371日)    (第735号)

教会見て歩き   浜脇教会   (下五島地区)

 

福江港より定期船で緑の木立が繁る無人小島の点在する海上を走ること40分、久賀島の表玄関、田ノ浦港に着く。港よりバスに便乗、間もなく浜脇教会(福江市田ノ浦町)が見えてきた。長年の風雪に耐えてきたと思われる。この聖堂には、先祖から伝承された格調高い信仰のぬくもりが、訪れる人に安らぎを与えるような雰囲気が漂っている。浜脇小教区(岩村知彦)は浜脇教会の他に、五輪教会と牢屋の窄殉教記念聖堂は、信徒の先祖たちが迫害を受けて殉教した場所に建てられている。先祖たちは神への愛に生きるためこの島へ移住した。しかし、この島の生活条件を満たす便利な地域には、すでに他宗の人たちが住みついていた。先祖たちはやむなく、辺ぴな荒れ地を開墾し、制約された土地で貧しい生活を強いられながらも、信仰に生きる喜びを大切のし、純粋に神への愛を全した。こうした先祖たちの尊い血と汗で培われた地で、現在信徒たちは農業と漁業、養蚕などで生計を立てている。この島全域にわたり過疎化現象は激しい。今年3月には田ノ浦小学校も閉鎖に追い込まれた。

 

現在久賀島の全人口は1000人弱と言われ、その中の約20%がカトリック信者である。子供たちは中学生を含めて20人ぐらい。中学を卒業するとほとんどが就職・進学で島を去っていく。信徒たちは素朴で司祭を大切にする。殉教者の子孫にふさわしくこれまで多くの聖職者を育てて来た。共同体としてのまとまりも良く、対外的にも評価は高い。10人ほどいる青年たちは、教会の良き働き手として、実年層のアドバイスを受けながら意欲的に活動している。文集や機関紙などの編集にも取り組み、日曜日の典礼聖歌なども担当している。さらに町の行事にも積極的に参加して町民からも大いに期待されている。「教会と町民との関りは大切にしています。表面的にはお互いに融和しているし、特にカトリックを排斥することはありませんが、迫害の影響は考え方の中に根強く残っている感じがします。カトリックを理解しても、その中から教会が望むような姿に発展するには時間がかかるでしょう。」と岩村神父は語った。また、青年たちが結婚相手に不自由」していることも深刻な悩みとなっている。迫害時代の名残りが色濃く残る土地での福音宣教。むずかしいと思うが、信徒たちが「静」の信仰から時のニーズに応えて「動」の信仰へと目覚めた時、大きな成果がもたらされるにちがいない。(中村 妙子)
 

カトリック教報 (昭和6371日)    (第735号)

教会見て歩き   浜脇教会   (下五島地区)

 

福江港より定期船で緑の木立が繁る無人小島の点在する海上を走ること40分、久賀島の表玄関、田ノ浦港に着く。港よりバスに便乗、間もなく浜脇教会(福江市田ノ浦町)が見えてきた。長年の風雪に耐えてきたと思われる。この聖堂には、先祖から伝承された格調高い信仰のぬくもりが、訪れる人に安らぎを与えるような雰囲気が漂っている。浜脇小教区(岩村知彦)は浜脇教会の他に、五輪教会と牢屋の窄殉教記念聖堂は、信徒の先祖たちが迫害を受けて殉教した場所に建てられている。先祖たちは神への愛に生きるためこの島へ移住した。しかし、この島の生活条件を満たす便利な地域には、すでに他宗の人たちが住みついていた。先祖たちはやむなく、辺ぴな荒れ地を開墾し、制約された土地で貧しい生活を強いられながらも、信仰に生きる喜びを大切のし、純粋に神への愛を全した。こうした先祖たちの尊い血と汗で培われた地で、現在信徒たちは農業と漁業、養蚕などで生計を立てている。この島全域にわたり過疎化現象は激しい。今年3月には田ノ浦小学校も閉鎖に追い込まれた。

 

現在久賀島の全人口は1000人弱と言われ、その中の約20%がカトリック信者である。子供たちは中学生を含めて20人ぐらい。中学を卒業するとほとんどが就職・進学で島を去っていく。信徒たちは素朴で司祭を大切にする。殉教者の子孫にふさわしくこれまで多くの聖職者を育てて来た。共同体としてのまとまりも良く、対外的にも評価は高い。10人ほどいる青年たちは、教会の良き働き手として、実年層のアドバイスを受けながら意欲的に活動している。文集や機関紙などの編集にも取り組み、日曜日の典礼聖歌なども担当している。さらに町の行事にも積極的に参加して町民からも大いに期待されている。「教会と町民との関りは大切にしています。表面的にはお互いに融和しているし、特にカトリックを排斥することはありませんが、迫害の影響は考え方の中に根強く残っている感じがします。カトリックを理解しても、その中から教会が望むような姿に発展するには時間がかかるでしょう。」と岩村神父は語った。また、青年たちが結婚相手に不自由」していることも深刻な悩みとなっている。迫害時代の名残りが色濃く残る土地での福音宣教。むずかしいと思うが、信徒たちが「静」の信仰から時のニーズに応えて「動」の信仰へと目覚めた時、大きな成果がもたらされるにちがいない。(中村 妙子)

カトリック教報 (昭和56101日)   

ロザリオの月   黒島教会  (佐世保) 岩村 知彦

10月はロザリオの月と呼ばれている。1年のほとんどの月が特別に祈りの目標となる名称をもっている。しかしこのことを知る人はだんだん少なくなってきているように思われる。長崎の信者たち、つまり私たちの先祖たちが、250年という長い間、一人の司祭もなく、きびしい迫害をのりこえて、信仰を守り通してこられたのは、ある教会暦に従っていろいろな祝いを誤りなく行ってきたことが、その理由の一つであると言われているそうである。これはとりもなおさず、私たちの先祖が、生活の中の祈りにきちんとした目標をもっていたということではないだろうか。目標をもった祈りというものは、やはり心の集中も違うだろうし、なによりも、生活を変えて行く力をもっているのではないだろうか。私たちの日頃の祈り、祈り方などを反省してみる必要があるのではなかろうか。ところで不思議なことに、他の月の名称はほとんど忘れさられても、5月と10月も聖母マリア様と関係の深い月は、よく記憶され、何らかの信心業が行われている。ここにも聖母マリア様と日本の教会の特別な結びつきの一端を見る思いがする。そして一時期、すたれたロザリオの祈りも、教皇様を始めとする様々な人びとのすすめにより、少しずつ復興のきざしを見せている。すばらしいことである。教会とともにつづけられ、教えの霊的勝利を与え続けてきた祈りは、やはり続けられていく価値を持つものである。さて、今月はロザリオの月にあたり、いつもとは少々異なった気持ちで、この祈りを唱えたいものである。そのためにこの祈りについて研究してみることは有意義なことではないだろうか。まず、ロザリオの歴史について簡単に見ることにしよう。大神学生時代の典礼の授業のノートをひきだし、教授の知識を拝借することにする。初代教会時代(6~7世紀頃)ある修道会の修道士たちの間に、義務であった詩編を暗記し唱えるかわりに主祷文を50回唱えなければならないという習慣があり。そのために数を知るため、同じような玉が一本のひもでつながっているものを使用したそうである。12世紀の後半、天使祝詞の一部分ができると、主祷文のかわりに唱えられるようになり、それとともにこの祈りがマリア様への信心業となっていったのである。この信心業は教会によってつくられたものではなく、信者たちの祈りの習慣から生まれて来たものなのである。こうして時代を終えることによって、今のロザリオが形成され、現在の形になったのは、15世紀のフランシスコ会の努力による。ついで、ドミニコ会の聖者、アレン=ド=ラ=ロケ(13世紀)の運動のおかげで全ヨーロッパにロザリオが広まったそうである。ちなみに今の玄義が出来上がったのは、16世紀頃である。そして17世紀(1622)にはすでに日本に入っていたのである。この祈りのもつ意味については、最近出版さえた、「祈りと使徒職」いう本を参照されるとよいのではなかろうか。この本の中で松永司教様は、ロザリオの祈りのもつすばらしさについて、簡単明瞭に説明してくださっている。今月、私たちはロザリオの祈りを、こうして意識的に唱えるように努め、自己の信心を深めるのに役立てて行きたいものである。最後になるが、今月は、この祈りを個人で唱えるばかりでなく、共同体として唱える努力を各教会でされてはどうだろうか。それはすばらしいことだと思うし、さらに先唱の担当などを定め、その人は祈祷書のことばに縛られずに自分なりの表現によって、他の信者たちの念祷を導いていけるようになれば、この祈りが自分たちのものとなっていくのではないだろうか。さあ、私たちの信仰は、立ちどまるということは出来ないのです。努力を日々くりかえし、怠慢な、怠惰な心と戦って、ロザリオの祈りを唱えましょう。*ロザリオの祈りについては「ロザリオのこころ」(松永司教著)が黙想のためには好評です。(編集部より)



  
   
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