岩村友彦主任司祭

 

― 巻頭言 ―   ゆっくりしかし確実な歩みを  岩村 知彦

長い間、多くの人々の犠牲と祈りによって準備されたNICEU長崎大会は、様々な思いを残して無事終了いたしました。大会は、展望=福音宣教する日本の教会の刷新のために=と題する答申を提出いたしました。「家庭の現実」に具体的に応えるよりも、現実を踏まえて、教会がどのように変化しなければならないかを求めた答申です。これは、第二バチカン公会議の精神によく沿ったものだと思います。  私は今回恵まれてこの大会に参加することができましたが、「全国」と名のつく大会への参加は、三度目です。一度は高校生になってすぐ、二度目は、神学生の終わりごろ、長崎で開かれた青年の全国大会でした。この全国大会の後、各地の青年会は、多くの所で衰退していきました。原因は、後に解ったのですが、全国大会に参加するために多くの青年会が無理をしたためだと言うことでした。NICEU長崎大会中、参加した青年たちは、全国ネットワークづくりを宣言しました。それは少しずつ実を結んでいるようです。急がずに、現代の発達した機器を上手く使いながら確実な歩みを続け、大きな実りをもたらすことを期待したいと思います。何かの大会が開かれれば、何か大きな変化を多くの人びとが期待いたします。けれども大きな変化は、大きな犠牲を必要とします。そのために失敗する場合が多いのです。NICEの成果は、日本の教会が大きな目標を掲げればよいのではなく、地区の教会が活発に活動するようになればよいのではなく、ある教会の一部の人が、成果を上げればよいのではなく、信徒一人ひとりが福音宣教の努めに目覚め具体的に活動したり、援助したりするようにならなければならないのです。信徒一人ひとりへの呼びかけですから、そんなに急に成果が目に見えるわけではありません。小さな歩みっを、継続していくしかないのです。小さな歩みは、時どき成果を確かめていくしかないのです。大会準備中、「まだNICETの精神も十分浸透していないのに、なぜNICEUを開くのか」と言う疑問が提出されていました。小さな、たゆまぬ歩みですから、刺激が必要ですし、励ましが必要です。そのために、どんな形であれ、新たな大会の開催を希望したいと思います。福音宣教は、教会に属するすべての人びとの義務ですが、その大きな成果が上がるとき、信徒たちの働きが、大きな役割を果たしたことを知らなければなりません。信徒一人ひとりは、自分たちの働きの重要さに目覚めなければならないのです。けれども大会前も大会中も、問題にされたのは、「司祭たちに問題がある」と言うことでした。司祭たちの目覚めは、ゆっくりではなく、急いで確実なものでなければならないのかも知れません。 (奈留教会主任司祭) 

―聖書に親しむ―  悪い怠惰なしもべ   岩村 知彦

福音書の中でイエズス様は、いろいろなたとえ話を使いながら、弟子たちに、教えを述べておられます。そして、その理由をイエズス様ご自身、次のように説明しておられます。「あなたたちには、天の国の秘義を悟る恵みが与えられているが、あの人たちには与えられていない。持っている人は、さらに与えられて豊になるが、持たない人は、持っているものまでも取りあげられる。だから、わたしは、たとえ話であの人たちに語るのである。彼らは見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。」(マタイ131113

この注意は、私たちもよく気に留めておかなければならないことではないでしょうか。今から、タラントのたとえ話をご一緒にみていくわけですが、先の注意の中にあるように、私たちはこのたとえ話を、もっと謙遜に捉えることを忘れないようにしないとイエズス様の心、神の望み、信仰の真の姿を見失うことになるような気がします。 さてタラントのたとえ話は、マタイ福音書に次のように語られています。(マタイ2514~30)また、天の国は次のように言えよう。

ある人が旅に出るとき、そのしもべたちを呼んで、自分の財産を彼らに預けた、。主人はしもべたちの能力に応じて、ある者には5タラント、ある者には2タラント、ある者には1タラントを預けて、旅に出た。5タラント預かった者は、ただちに出かけて行き、それを使って商売をし、ほかに5タラントもうけた。同じように、2タラントの者も、ほかに2タラントもうけた。ところが、1タラント預かった者は、出て行って土を掘り、主人の金を埋めておいた。かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、決算を求めた。そこで5タラント預かった者が進み出て、別に5タラントをさし出し、『ご主人さま、わたくしに5タラントをお預けになりましたが、ごらんください。わたくしはほかに5タラントもうけました』と言った。主人は『よくやった。善良で忠実な僕よ。おまえはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。さあ、おまえの主人と喜びをともにしなさい』と言った。それから2タラントの者も進み出て、『ご主人さまわたしに2タラントお預けになりましたが、ごらんください、ほかに2タラントもうけました』と言った。主人は、『よくやった。善良で忠実な僕よ、おまえはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。さあ、おまえの主人と喜びをともにしなさい』と言った。ところで、1タラント預かった者は、進み出て言った。『ご主人さま、わたしは、あなたがきびしいかたで、自分でまかなかった土地の収穫を自分のものにし、自分でふるいにかけなかったものをかき集めるかたであることを知っています。わたしはこわかったので、出て行き、あなたのタラントを土の中に埋めておきました。ごらんください。これがあなたのものです』。すると、主人は言った。『なまけ者の悪い僕よ。おまえは、わたしがまかなかった土地の収穫を自分のものにし、自分でふるいにかけなかったものをかき集めることを、知っていたというのか。それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうすれば、わたしは帰って来たとき、元金に利子をつけて、返してもらえたのに。さあ、この男からそのタラントを取りあげて、10タラント持っている人に与えよ。持っている人は与えられて、さらに豊になり、持っていない人は、持っている物までも取りあげられる。この役に立たない僕を、外の闇に投げ出せ。そこには嘆きと歯ぎしりがある。』(マタイ2514~30)同じたとえ話が、ルカ福音書にも語られています。(ルカ1911~27)。

 
 

しかし、ご存知のように、それぞれの福音書記者が、直接に語りかける対象を異にしているのと、記者自身のいろいろな違いから細かい点で異なっています。まず、その点を少し見ることにしましょう。マタイ福音書(主人)ルカ福音書(王)マタイ(能力の違う3人の僕)ルカ(10人のしもべ)マタイ(それぞれにちがうタラント)ルカ(1ムナずつ)このように素材が、少しずつ異なっています。そして、この違いによって、ある解説書は、2つのたとえ話は、別のたとえ話としたほうがよいとしていましたが、そこまでは考える必要はないかと思います。ところで、前述の違いを見る前に、このたとえ話を読むたびごとに、気にかかってしかたがないことを、先に解決しておきたいと思います。それは、このたとえ話に出てくる「銀行」という言葉です。日本語の訳のうえからこの言葉が、出てきたのか、それとも本当にイエズス様の時代に、銀行があったのかということです。今回この仕事を依頼されなければ、あるいは、いつまでも疑問として、残っていたのかもしれません。しかし調べてみると、イエズス様の時代に確かに「銀行」が、あったようです。現在のようにきちんと整備されたものではないでしょうが、イスラエルは、陸海を通じてアジアとアフリカとヨーロッパの交通の要衝に位置し、長い歴史を通じて、特にチグリス・ユーフラテス流域の文化とナイル流域の文化の通り道としての通商が行われていましたのでディアスポラ(ギリシャ語で四散、離散の意味でユダヤ人が征服者の命により強制移民、国外追放に処せられ、国外に離散している状態をいう)という悲しい原因も加わり、商業の規模は増大して行き、穀物を主とする輸出入と銀行業が、イエズス様の時代にもすでにかなり発達を見せていたということです。小さな気懸りが解決されたところで、本来の問題にもどることにしましょう。

マタイとルカのタラントのたとえ話の中の素材の違いは、2人の福音記者の書く姿勢の違いと、目指した対象の違いからきています。ルカはよりイスラエル人の歴史を踏まえて書こうとする姿勢を取り、マタイの「主人」よりも「王」という言葉を使っています。それはルカが、その福音書の最初に言明していることです。ルカ13に『わたくしもまた、すべての事を初めから詳しく調べましたので、あなたのために、それらを順序立てて書き送るのがよいと思います』と、あります。ルカは、紀元前4年にあった事件を踏まえて、「王」という言葉を使っています。ヘロデ大王の子であり、遺言によって彼の後継者であるアラケオが、父の国の新王となる承認をローマ皇帝から得るため、ローマへ旅立ちました。彼が、ローマにいる間にユダヤ人は、50人の使者を皇帝に送り、アラケオのことを訴え、王になることに反対したのです。アラケオは、パレスチナ全土の王にはならなかったのですが、ユダヤ・サマリア・イドマヤを治める分国領主となり、帰ると彼に反対したユダヤ人やサマリア人に残酷な仕打ちをしたのだそうです。マタイ222~23にエジプト避難から、帰ったイエズス様一行が、ガリラヤ地方に難を避け、ナザレという町に行ってそこに住んだと書かれていますが、同じ事件を踏まえています。次に、マタイに出てくる能力の異なる3人のしもべと、それぞれに与えられた異なるタラントと、ルカに出てくる10人のしもべとそれぞれに与えられた1ムナの素材の違いについて考えてみましょう。この違いは、2人の福音書のねらう対象の違いに原因があるようです。マタイは、ユダヤ人をその主な対象としましたし、ルカは、異邦人からの改宗者をその主な対象としています。このために、マタイは、ユダヤの階級社会の仕組みと、神から最も恵まれた民であるという考えに支配されて、能力の違う3人のしもべとタラントという大きな財産の登場となったようです。

 
 

タラントは、デナリの6000倍から10000倍にあたり、当時の労働者に日当が、1デナリですからいかに大きな財産かわかりますし、主人の信頼の大きさも容易に理解できます。これに対しルカは、より自由な立場と、平等の考えを持ち、恵みに対する謙虚さに満ちています。このためルカは、能力の差別をせず10人にしもべを登場させ、預けられるお金も、1ムナ(1デナリの60分の1)と、少額を預けるに過ぎないのです。どちらかというと、イエズス様の心に近いのは、ルカの方であると言われています。以上のような違いはありますが、教えの中心は一つですので、これからそれを求めていくことにしましょう。ところで最初のほうに、このたとえ話をもっと謙遜に捉えたいと書きましたが、それは、ある神父様の次の言葉が印象深く頭の中に残っていたからです。『真の信仰とは、私たちが救われる可能性の全くないところに、神が、救いを与えられるかたが、ご自分のほうから救いを与えられたことを、信じることである。私たち日本人は、気をつけないと自分が何かするから、その結果として救いが与えられると考え易い傾向をもっている。仏教や神道の影響かもしれないが・・・・。』確かに、このことは一般に私たちが、陥り易い誤りであり、カトリックの信仰が受け入れ難い印象を与え、何か与えられなければ何もしない雰囲気をつくりだしています・祈れば、すぐに結果が出てくる宗教は、よい宗教であり、結果の出てこないものは、悪い、駄目な宗教であると判断するような短絡的な考え方を生み出しています。現実に、この考えに合った宗教が、現在の宗教ブームに支えられて、異状に成長しているのです。

タラントのたとえ話も、自分の説教を思い返してみた時、その誤りに陥りかけていたのではと思い始めています。何故なら、積極的によく応えた僕のほうに目が向きすぎて、悪い怠惰な僕は忘れがちになっているからです。他のたとえ話、例えば「見失った羊」、「なくした銀貨」(ルカ154~10)に述べられているが、神の望み、イエズス様の心であるならば、悪い怠惰な僕こそ、このたとえ話の中心になるのだと思います。よく応えた僕に目が向くのは、自分は怠惰な悪い僕ではない、そうなりたくないという思いが、そうさせるのかもしれませんが、一番大きな原因は、タラントのたとえ話の最初の言葉を見過ごしているからではないでしょうか。

最初に「天の国は、次のように言えよう」とあります。即ち、このタラントのたとえ話は、天の国についての教えであり、天の国は、人がいかに応えたからといって、その結果として与えられるものではなく、人は例外なく、悪い怠惰な僕なのです。唯、神から豊に恵まれていることに感謝し、その心の表れが、よく応える積極的な行為となっていくだけのことです。「できること、当然のことをしたまでです」という心を、いつも持ち続けなければならないと思います。消極的な考え方のようですが、この思いを心にしっかりと留めておけば、活動的な人が陥る誤りに、陥らないですみます。宣教という表立った活動がさけばれる現在、悪い怠惰な僕であるという思いを忘れず、神の望み、イエズス様の心を見失わないで、積極的に参加していきたいと思います。そこには、必ず、豊な実りを神が準備して下さっています。(浜脇教会)

 
 

―聖書に親しむ―   宝さがし    岩村 知彦   

大半は、金持ちか 『ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちるもので腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやってきては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた』(ルカ1619~23)前述したのは、有名な「ラザロと金持ちのたとえ話」の一部分です。よくご存知のように金持ちが罰されたのは、金持ちであったためでも、遊びくらしていたためでもありません。自分の身近にいる貧しい人に目を向けなかった、無関心であったからです。このたとえ話を思い出させる一つの事件が、報道されました。それは、ある中学校で起きた殺人事件です。普段から「いじめ」にあっていた一人の中学生が、上級生から、体育館の用具置き場のまるめてあったマットの中に逆さに放りこまれ、放置されて窒息して死んでしまったのです。殺してしまった中学生たちは、もちろん問題ですが、その現場には、少なくとも40数名の中学生がいたということのほうも、誰一人助けなかったということのほうも大変な問題ではないでしょうか。子供たちの大半は、「たとえ話」の中の金持ちになってしまったのでしょうか。そしてこのことは、ある評論家が言っていたように「人間そのものが、変ったんだ」ということで片付けてよい問題なのでしょうか。

 
 

子供のすべては、予備軍 

最近は、余り行かなくなりましたが、保育園に時々行って子供たちと遊ぶことがあります。そんなとき、部屋の床や廊下に落ちたゴミを見付け、拾うように言うことがあります。その時返ってくる言葉は、たいていが「それは誰々が散らしたもので、私がしたのではない」と言うもので、素直に、すぐに拾ってゴミ箱に持って行く子供の何と少ないことか。また最近は、幼児虐待が社会問題化しつつあると言います。そして、問題を起すのは、まじめなお母さんが多いのだそうです。何が原因かと調べてみると、問題のお母さんの大半が、「子供が育児書通り育ってくれない」というのだそうです。子供は、育児書のためにあるのでしょうか。育児書の大半は、育児の経験が実際にはない人が書いているという話も聞いたことがあります。そのような子供は、どうなるのでしょう。育児書のために虐待される子供は、いったいどうなるのでしょうか。マニュアル通りに育った子供は、マニュアルしか理解できないのではないでしょうか。もうかなり以前から「近頃の子供は、理解できない」と言われていました。現在は、この理解できなかった子供たちが、親になり、さらにもっと理解できない子供たちを育てているのではないでしょうか。このような人たちに、聖書の次の言葉を贈るのは、もう手遅れでしょうか。全く無駄なのでしょうか。『安息日は人のためにもうけられたのであって、人が安息日のためにあるのではない。それゆえ、人の子は安息日に対しても主である』(マルコ227~28)子育ては、大変な苦労であることは事実ですが、「人を育てる」ことは、「共に育つこと」であり、「互いに豊かになっていくこと」なのではないでしょうか。何故、それが、虐待の場となり、大きな悲しみを与える場となっているのでしょうか。 

知らない宝  『天の宝は畑に隠されている宝に似ている。それを見つけた人はそのまま隠しておき、喜びのあまり、持ち物をことごとく売り払い、その畑を買う。また、天の国はよい真珠を捜し求める商人に似ている。その人は高価な真珠を一つ見出すと、持ち物をことごとく売りに行き、そして、それを買う。また天に国は、海に投げ入れられていろいろのものを集める網に似ている。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは選んで器に集め悪いものは、外に捨てる。』(マタイ1344~4812月は受験シーズンです。

はちまきを締めて頑張る。小学生、中学生、高校生を見ます。彼らにとっての目標は、より多く勉強して、より多くの知識を身につけ、よりよい上の学校に、進学することです。けれども、彼らに与えられている目標は実際は、より容易に、より良いものを得るための手段にしかすぎません。本当に得なければならないものは、どの時代の時も教えられないのです。ですから彼らは、残念なことに本当の真理を、人生がそのためにある宝を知らないのです。このことは彼らに対する「何が、今欲しいですか?」という質問の答えによく現れています。彼らの大半は「とりあえず、お金が欲しい」と答えます。何を買うという答えも持たずに、ただ手段だけしか求められないのです。年頃になれば、「恋人が欲しい」と答える人もいるかもしれません。この答えにしても、人と人との交わりを通して互いが豊になっていこうという目的ではなく、自分が満足する手段として求めているにすぎません。しかし、手段しか与えられず、本当に求めなければならないものを教えられないことを、彼らはちゃんと気づいているのではないでしょうか。かれらは、自分にとって都合のよいことは何かを、すぐに気付き、すべてを自分の都合のよいように使おうとするのですから。「いじめ」の原因も、このあたりにあるのではないでしょうか。本当に求めなければならないものを理解できない「あせり」が、弱い者をいじめるということで発散されているのではないでしょうか。さらに考えすぎかもしれませんが、現在の大半の子供たちが、「父親のように成りたくない」と思っていることではないでしょうか。父親は、人の本当に求めなければならないものを、その模範をもって示してくれるはずのものです。子供にとって軽んじられる存在でしかないならば、ますます、子供たちにとって、本当に発見しなければならない宝は、目にみえないもの、知らないものになっていくのです。  

 

宝を見つける   『そのとき、ペトロが言葉をはさんでイエズスに、「わたくしたちはこの通り一切を捨てて、あなたについて来ました。いったい何をいただくのでしょうか。」と言った。イエズスは一同に仰せになった。「あなたたちによく言っておく。新しい世界が生まれ、人の子が栄光の座に着くとき、わたしについて来たあなたたちも12の座につき、イスラエルの12部族を支配するであろう。また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、畑などを捨てる者は、皆その幾倍もを受け、永遠のいのちを受け継ぐであろう。」』

(マタイ1927~29) 人は誰も「生」を自分だ獲得したものはいません。その生命は与えられたものです。与えられたものであるならば、何故与えられたのか、理由が、あるはずです。そしてもし、人がその理由を完全に知らなければ、目的を完全に達成できなければ、その人の過ごしたときは、何とむなしいものになるでしょうか。生命を与えられた目的を知るときがなければならないのです。私たちの信仰は、この答えとして、「永遠のいのち、永遠の喜び、復活の生命を受け継ぐ」と教えてくれるのです。これ以上のものはありません。生命を与えてくださった神が、ご自分の愛する独り子を犠牲としてささげ、取り戻してくださった「永遠のいのち、永遠の喜び、復活の生命を受け継ぐ」こと以外に私たちの生命の最終目的に成りうるものはありません。私たちの生命が、このようなすばらしいものに変化することのできるものであることを知ることは、その人の「生」をどのように変えることになるのでしょうか。しかし、この変化は、無償で与えられるものではありません。人の協力が必要です。そして、それは与えられている「生」にふさわしく、最終目的に合った生き方をすることです。この生き方は、信仰を持つことで、最も容易に手に入れることができるものです。最近、若いお母さんから「うちの子は初聖体は結構です。私自身、子供の頃信仰しましたが、楽しかったことはありませんでした」という話を聞きます。それでよいのでしょうか。自分が楽しくなかったからといって、子供の真の幸せを奪ってよいのでしょうか。本当の目的につながらない手段としての勉強の苦しみは、より多く背負わそうとするのに・・・。同じ目的を持っていれば、人は互いに協力し合うはずです。何故なら、その方が、容易に目的に到達することを誰もが知っているからです。協力し合えば、争いはなくなり、互いを認め合い、受け入れ合い、許し合うことができます。こうして、人は互いに自分の持っているものを与え合うことができるのです。こうして、誰もが豊かになることができるのです。人がその真の目的を見出せずに貧しくなり、様々な問題が起こっている今こそ、信仰の豊かさを、その持つ宝を人々に伝えなければなりません。私たちに与えられている使命の重要さを再確認し、努力していきたいものです。(奈留教会主任司祭)  

 



  
   
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