歴代主任司祭

 
 

7)堅信

初聖体を済ませた児童は苦労を知らぬ主任の指導のもとなを黙想を続け堅信の準備をなした。本年は早坂司教さまご発病以来初めての御巡廻なので信者等は8がつ23,24の両日にわたって聖堂を始めとし道中にアーチを造り装飾を凝らし歓迎のときをまった。やがてご乗船福吉丸が沖に見えると「集まれ」の号令と共に百余の受堅者は海岸に規律正しく整列した。流石は昨日イエズス様を頂いた児童だけあって、私語するものすら一人も見つけみつからぬ。発動汽船が海岸に着くが早いか待ち構えておった児童たちは数日来神学生の指揮のもとに練習せし「ヴィヴァ」の奉祝歌をば、海も驚け波立てよとばかりに歌いだした。

明くれば25日午前8時半ミサを告げる鐘が鳴り響くと司教閣下は田川、梅木両師を従えさせられエッテェ、サチエルドスの聖歌に迎えられ優しい御目を信者の上に注ぎつつ御入堂、祭壇の方にお進みになった。ミサが始まるや山本神学生に訓練されし児童たちは一斉に天使の如き声を揃えて聖歌を歌いだした。ミサに続いて堅信の式があり、百三十余の児童たちはここに初めて早坂司教様の御手により生涯消えうせることなき印象をその魂に刻まれて勇敢なるキリストの兵士となった。

終わって司教様の訓示、児童の謝辞記念撮影等があり二度とかえらないこの日は閉じられた。翌26日死去様は久賀島にお渡りになった。児童たちは司教様をお送り申すため海岸に集合した。福吉丸がまさに岸を離れようとするその時再び「ヴィヴァ」を歌い終わって司教閣下万歳を三唱し司教閣下もまた万歳を唱えて児童のそれに応えられたああこの嬉しい日が何時までも続いたらばとの思いはわればかりでなくすべての受検者胸中に渦巻きたつのであった。

既にキリストの兵士となった児童たちはこれからいよいよ救霊の敵に向かって勇ましく闘い一度は天国の彼岸に到達しなければならないが、それまでには随分と悪戦苦闘を覚悟しなければならぬ。われ等はこれを思う時彼らのためよく千難万苦に耐えもってその信仰を全うするの勇気を祈らざるを得ない。
 
 

カトリック教報、昭和13年1015

教会巡拝記、堂崎教会の巻、侘しい風景と大きな教会、 VKP

奥浦の風景は、景勝に恵まれた五島でも屈指の秀麗さである。俗っぽい絢爛さからおよそかけ離れた、物静かな、侘しい山と海との気品の調和が私の心を引きつけた。海に落ち込んだ崖浜の狭い平地にそそり立つ赤レンガの堂崎天主堂と、砂州の上野古びた司祭館とが、またしっくりとこの調和の中に溶け込んでいる。

 

昔伝道師養成所であったという司祭館は、もうかなりの老体である。寄る年波の疲労が屋根にも床にも目に見えて現れている。その1室で、主任司祭の田川神父様が病後のお体を養って居られた。大きな山鳩が1羽、部屋の中でバタバタしている。始め私は、それをここの飼鳩だと思っていた。それほどここの雰囲気は、大自然の息吹きの中にあるのである。

鳩は間もなく飛び去った。海が小波を立ててまえ庭に打ち寄せている。 明治14年、マルマン師が建てられた木造のあとに、ペルー師によって新聖堂が起工されたのは、明治40年であった。42年、赤レンガの広壮な聖堂が落成してクザン司教の手で祝別された。

文明開化の潮にいまだ洗われない当時の五島の、しかもこの僻陬(へきすう)の地に天を突く高塔をいただいてそびえるレンガ建ての教会はこの地方の人々にとって、この世もものと思えない驚異の種であった。参観人が引きも切らずここを訪れ、賛嘆の声を放って帰り、またその噂を広めた。五島を巡ってもっとも目に付くのは教会の建物である。人里離れた山間海辺にぽつねんと置き忘れたように建っている。大きな建物が間の抜けたような感じさえ与えるのであるが、日曜日、ミサの時刻ともなれば、山から海からエチオピア兵のように信者たちが集まってくる。そして聖堂も狭いまでに満ち溢れるのである。

ギーギーと櫓の音も静かに素朴な信者たちが、奥浦の内外から堂崎教会の砂洲にこぎ寄せる有様は、まことその昔、ご主人の説教を聞くべくい集した善意の人々を思い出させる。

辞し去ろうとする私を送り、神父さまは砂州の端まで出てくださった。顔も着物も汚れきった子供が2・3人座り込んで遊んでおり、その中あくまで汚れた男の子が砂の上にうつ伏してメソメソと泣いている。細い山道を登りながらふと振り返ると、神父さまは、かがみながらくだんのなき坊主を抱き起こしておられた。
 
 

カトリック教報、昭和13年1015

教会巡拝記、堂崎教会の巻、侘しい風景と大きな教会、 VKP

奥浦の風景は、景勝に恵まれた五島でも屈指の秀麗さである。俗っぽい絢爛さからおよそかけ離れた、物静かな、侘しい山と海との気品の調和が私の心を引きつけた。海に落ち込んだ崖浜の狭い平地にそそり立つ赤レンガの堂崎天主堂と、砂州の上野古びた司祭館とが、またしっくりとこの調和の中に溶け込んでいる。

 

昔伝道師養成所であったという司祭館は、もうかなりの老体である。寄る年波の疲労が屋根にも床にも目に見えて現れている。その1室で、主任司祭の田川神父様が病後のお体を養って居られた。大きな山鳩が1羽、部屋の中でバタバタしている。始め私は、それをここの飼鳩だと思っていた。それほどここの雰囲気は、大自然の息吹きの中にあるのである。

鳩は間もなく飛び去った。海が小波を立ててまえ庭に打ち寄せている。 明治14年、マルマン師が建てられた木造のあとに、ペルー師によって新聖堂が起工されたのは、明治40年であった。42年、赤レンガの広壮な聖堂が落成してクザン司教の手で祝別された。

文明開化の潮にいまだ洗われない当時の五島の、しかもこの僻陬(へきすう)の地に天を突く高塔をいただいてそびえるレンガ建ての教会はこの地方の人々にとって、この世もものと思えない驚異の種であった。参観人が引きも切らずここを訪れ、賛嘆の声を放って帰り、またその噂を広めた。五島を巡ってもっとも目に付くのは教会の建物である。人里離れた山間海辺にぽつねんと置き忘れたように建っている。大きな建物が間の抜けたような感じさえ与えるのであるが、日曜日、ミサの時刻ともなれば、山から海からエチオピア兵のように信者たちが集まってくる。そして聖堂も狭いまでに満ち溢れるのである。

ギーギーと櫓の音も静かに素朴な信者たちが、奥浦の内外から堂崎教会の砂洲にこぎ寄せる有様は、まことその昔、ご主人の説教を聞くべくい集した善意の人々を思い出させる。

辞し去ろうとする私を送り、神父さまは砂州の端まで出てくださった。顔も着物も汚れきった子供が2・3人座り込んで遊んでおり、その中あくまで汚れた男の子が砂の上にうつ伏してメソメソと泣いている。細い山道を登りながらふと振り返ると、神父さまは、かがみながらくだんのなき坊主を抱き起こしておられた。
 
 

カトリック教報、昭和3821

田川伊勢松師逝く

去る1227日、黒島教会主任マテオ田川伊勢松師が死去された。66歳。

 同師は111日の諸聖人の大祝日のミサを黒島教会で捧げられたが、その後疲労が甚だしく、すぐに佐世保市の病院で診療を受けられたが、肺がんにかかっていたため日々衰弱、間もなく三浦町教会に病床を移して治療につとめられた。1226日夜遅く容態が急変、すぐに終油を受けられ、翌29日午前230分対に帰天された。

 葬儀は信者たちの要望によって黒島教会に遺体を運び、山口大司教さま司式、今村悦夫師、中島万利師ら30余名の司祭のほか、純心聖母会、聖脾姉妹会修道女、信徒多数参列の下に29日午前10時から営まれた。赦祷式のあと同教会共同墓地に、マルマン、青木、中村吾作師らの墓の側に葬られた。

 故田川師は明治29年浦上に生まれ、同42年山口大司教さまらと一緒に長崎神学校に入学、大正11年トンスラ、同1537日大浦天主堂で司祭に叙階された。その後、福江、浅子、出津、中町の各教会を経て、昭和23年から14年間黒島教会主任をつとめられた。都合36年間、司祭として忠実に聖務に精励されたが、殊に原爆に見舞われた当時中町教会主任として数々の苦労をなめ、仮聖堂および仮司祭館の建立に尽力された。

 

カトリック教報、昭和3971

田川伊勢松師の墓碑建立

田川伊勢松師(浦上出身。昭和37年黒島教会在任中帰天)の墓碑が、黒島の教会墓地に建立、関係地方の神父さま方や信者たちが参列して祝別された。 墓碑は地元の黒島石(花崗岩)を用い、藤山登氏がつくった。

 
 

中町天主堂仮聖堂建設 (中町教会記念誌、p6669

 昭和2089日、浦上上空に投下された原子爆弾によって、中町天主堂は、塔と外壁の残骸を残すのみで、司祭館も付属の建物も焼失した。当時の模様を伝道婦野浜アイさんは次ように話された。「田川神父様は、2日ほど前から香焼、陰の尾と告解の秘蹟を授けるために出向いて留守でした。 神父様は、お出かけの際、万一の時の御聖体捧持について注意されていました。当時、教会跡地の中には、4箇所ほど防空壕がありましたが、その壕へ捧持するよう指図されていました。

 突然“ピカー”と閃光が走りました。咄嗟に部屋の中で伏せました。棚の上のものや壁土などが身体の上に落ちてきました。御聖体の事に気づき、身体のまわりにあったものを跳ね飛ばして、聖堂へ走りました。入口の戸は爆風で飛ばされてなくなっており、聖堂は柳張りの天井が落ち、棒の柱も倒れ掛かり、瓦礫に埋まっていました。瓦礫を乗り越えて、御聖櫃に近づいて見ると御聖櫃はどうにもなっていませんでした。十字架もそのままで、すぐ開けることができました。午後4時ごろ聖堂が焼けていると聞きました。」

 昭和20815日、戦火はやんだものの、敗戦というかって経験した事のない事態が信徒たちの心に重くのしかかっていた。半世紀に及ぶ歴史を刻み、信徒たちが慣れ親しんできた聖堂は無く、ミサに与るためには、ある人は本河内へ、またある人は大浦へ、飽くの浦へと最寄の教会へ行かねばならなかった。田川神父と伝道婦の野浜アイさんらは大浦の新学校に仮住いであったから、洗礼も結婚のための準備もすべて大浦まで出かけなければならない不便な状態であった。信徒の生活は、戦災の後片付けに終われる中で、食べるものも事欠く状態の中で、これからどうして生きていったらいいか不安な日々であった。原爆で家族を、家を失った人、自らも傷つき後遺症に苦しむ人、戦場で父を夫を子供を失った人など、悲惨な戦争の傷跡はすべての人々の家庭をおおっていた。やがて応召した人々が故郷を目指して帰ってき始めた。そうした気運の中から誰言うことも無く“自分たちの教会を作ろう”ということになり田川神父様を先頭に話し合いを重ね、互いに乏しい中から資金と労力を持ち寄る事となったのである。

 

田川神父さまの思い出  (中町教会記念誌、p70

 中町の仮聖堂を完成して間もなく黒島教会へ転任された田川神父様は、昭和1712月より2211月まで5年間にわたって司牧あたられた。大東亜戦争末期の軍事一色に塗りつぶされた、厳しい時代から始まって、戦後の混乱期でさぞご苦労の多かった事と思う。

 信徒の大部分は戦場へ、兵器生産へと召集され、老人と婦女子だけの教会、さらに原爆による聖堂の焼失と、教会の歴史の中でもかってなかった困難に遭遇され、自らも被爆されたのであった。聖堂焼失後の1年余り、大浦での仮住いを余儀なくされた中で、敗戦のどん底にあえぐ信徒たちに希望を与え巻脚半をまとい陣頭に立って、遂に仮聖堂を完成に導かれたのであった。

 神父様を知ることのできる数少ない資料の中に、立山の田中義雄氏(故人)が、戦争に出征するとき、神父様は駅まで見送られ、布で包み首から下げられるように造ったメダイを下さったとのことである。その田中氏は、激戦に次ぐ激戦で戦友の多くを失ったが、私が生きながらえて帰国できたのは、ひとえにメダイのお陰であったと語られた。神父様は無口な方で一面厳しい方のように見られていたが、信者の教育に熱心で、そのお人柄を知った人たちは、「本当に人間味溢れる心の温かい方でした」と語ってくれた。この記念誌作成にあたり黒島の墓地をお尋ねした。墓碑には、マテオ田川伊勢松の墓196212月27日帰天。68歳と刻まれており、没後23年を過ぎていることを知った。墓は、黒島教会創立者マルマン神父様ほか、お二人の神父様と一画をなしてあった。

 
 

拝啓 田川主任神父様  (拝啓主任神父様)

出津教会

お告げのマリア修道会 松下 ヨシ

 神父様が外海町出津教会八代目主任司祭として赴任なさった頃、私たちは若く、何も分からず神父様には申し訳なかったような感じがいたします。

 あの頃、大東亜戦争が始まり、日本は津々浦々まで軍事色に染められました。片田舎の私たちの所にもその影響があったことがかすかな記憶として残っています。

 神父様は、昭和17111日までの2年間、出津教会でご活躍くださいました。賄いにまだ若い甥の清さんという方がいらしたことを覚えています。

 神父様は、時々保育所や私たちが仕事をしている所にも顔を出してくださったり、ある時は、ド・ロ神父様が手がけてくださった野道の墓の側の山きりしている所まで来られ、ご自分も上着を脱いで「よき」を振り上げ、ぱんぱんと木を割ってくださったことがあります。女性の手ですると長くかかる仕事もあっという間のことでした。また珍しいおやつを買ってくださったり、ある時は私たちがいったこともない雲仙見物にも連れていってくださったことが偲ばれます。

 私たちは神父様が来られるのをイエズス様を迎えるように喜び合いました。神父様は心と体全部でいろいろな労苦を分かち合ってくださいました。今思えば、黙々とナザレの街で働かれたイエズス様のお姿そのものだったと感じています。戦時中であっても、私たちの心の中はいつも愛で満たされていたと思います。

 田川神父様は、主任神父様として短い期間でしたが、本当に親切で心優しい神父様であったと私たちの記憶に残っています。今手許にある長崎法人司教区創設50年史「旅する教会」を開きますと、神父さまのお写真のお顔は、まさに柔和と優しさに満ちあふれ、今更のように在りし日を懐かしく感じました。どうぞ神父様、私たちの心と体を通して喜びの訪れ福音を伝える事によって、主イエズス様を愛する時間が増えていきますように、天国の主なる神様にお取次ぎください。

 

幼きイエズス会、終戦までの活躍

幼きイエズス会が幼稚園をはじめたのは昭和143月でした。当初園児は60名ほどで、多くは信者の子供たちでした。立山、中町、銭座、西坂、稲佐あたりの子供たち特に稲佐からの子供たちが多かったようです。稲佐からの子供たちは、全員徒歩で稲佐橋まで歩いて来て、ひとかたまりになって、私たちを待っているのでした。稲佐は今のようではなく稲佐山の中腹あたりの不便なところから、毎日通園するのです、子供たちは本当によく歩きました。大部分の父兄は五島、平戸方面から移住された方々で子供に対する教育の熱心さには感銘をうけたものです。

私たちは、稲佐橋で子供たちを受け取って、銭座の子供たちと併せて6070名ほどをつれて中町まで歩くのです。帰りも同じようにして歩いたものでした。昭和16年に今村神父様が着任されましたが、1年程で田川神父様となりました。昭和16年には園児120名、17年には140名と年を追って、園児数が増加しました。園の活動が一般に理解されるようになって、未信者の入園者が多くなっていました。

昭和18年には園児数は200名と増加し、園舎も一階の殆どと、二階の3クラスを幼稚園として使い、他を裁縫学校として利用しました。園には、ピアノが一台ありましたが、当時としては珍しいものでした。昭和19年後半に入ると、戦争は益々激しくなり、20年に入ってからは度重なる空襲に7月にはもう近所の子供たちだけになり、7月の終わり頃、長崎駅付近に爆弾が落とされ、83日には三菱が爆撃されて園も遂に休園状態になりました。

 
 

お告げのマリア修道会記念誌「礎」

1941(昭和16)年67日、修道院に小聖堂が完成した。創立以来、祈りと聖体訪問のために13回、片道40分の道のりを堂崎教会まで通っていたが、病弱な人や老人をはじめ、多忙を極めるすべての会員たちは常にご聖体の前で祈ることができるようになり、大きな喜びであった。1947(昭和22)年、田川伊勢松師は黒島教会主任として着任すると、幼児教育の場をと思い立ち、準備を始めた。194949日、教会経営の保育所として「幸福愛児園」(定員60名)を開設した。

 

田川主任神父時代(昭和612月〜昭和146月)

昭和6

1212日、第1回カトリック大講演会

長崎市内4教会連合青年会主催、第1回カトリック大講演会が長崎袋町公会堂で開かれた。

講演は、「世界におけるカトリック」田口師、「現代社会におけるカトリックの意義」九大

教授大沢章氏、「思想国難」早坂司教の順で行われた。

 

昭和7年

110日、浜脇天主堂で、満蒙派遣軍に対する戦勝祈願及び追悼会         

浜脇天主堂では、満蒙派遣軍に対する戦勝祈願及び追悼会が行われた。在郷軍人、分会長、

役場員、警察官、郵便局長、3小学校長、その他教員数名が出席した。        

1月24日、トラピスト大修道院長ご来島仏国、ブリク・ベクのトラピスト大修道院長ド

ン・ルイ師は、北海道当別の修院長ベネヂクト師を伴い、22日来崎されたが、24日の夜

来島され福江、久賀島において、父兄に挨拶し、トラピスト生活の一端を報告し安心させ

られた。

 

昭和101224日、(昭和11115日、カトリック教報)

堂崎天主堂の御降誕

本年の御降誕は好天気に恵まれ、特に盛大を極めた。告白者は600余。田川師は夜中のミ

サを堂崎で歌い、朝7時のミサも堂崎で行い、続いて聖体降伏式を執行し、それから福江

に行ってみると富江の信者が見えていたので、告白を聴き、10時にミサを献げ、聖体降伏

式を執行された。告白の数は飽の浦の900余、中町の千3百、浦上の25(4人の神父)

に比較するとあまり多いとはいえないが、その数だけであれこれと批評するわけには行か

ない。とにかく、よく働かれたというべきである。
 
 

昭和1259日、

福江、奥浦教会150人の信者が井持浦ルルドに団体参詣

聖母に捧げられた5月の佳日、福江、奥浦教会の信者150人は主任司祭田川師に引率され、玉之浦「ルルドの聖母」巡礼所に団体参詣した。59日、空は紺碧に晴れ渡り絶好の参詣日和である。ミサ後一同祐徳丸、福吉丸の2隻に乗り込んで、堂崎天主堂を出発したのが午後1時、音に聞こえた長崎鼻の難所も無事に乗り切り午後4時玉之浦着。迎えた玉之浦青年団の楽隊を先頭に手に手に国旗を翻しながら聖母堂に進む。

玉之浦主任中田師は、信者一同と共に一行を迎えられる。聖体降伏式を終わって、ルルド参詣、田川師は「母としての聖母」と題して、誠心あふれる説教をして一同に感銘を与えられる。一同法悦に浸りながら参詣所で祈り中夕闇が濃くなり、手に手に提灯を携えて行列を行い聖母賛美の歌を合唱しつつ一日を終わった。翌朝一同のため歌ミサが捧げられ前日同様の行事が繰り返されて、予定のプログラムが終了母なる聖母に別れを惜しみながら帰途に着いた。

 

 

昭和1283日、玉之浦ルルド、宿泊所落成

長崎教区信者の巡礼地として知られる五島玉之浦のルルドに参詣する信者は、年々莫大な

数にのぼり、五島各地の信者等は、発動船をしたてて団体参詣するのを例とするほどであ

った。しかるに惜しいかな、宿泊所の設備がなく、玉之浦町の旅館にも遠いので不便を極

め、ことに病人らの参詣に非常に不便を感じていたが、83日、落成式があり、浦川臨

時教区長の手によって祝別された。

 

昭和12815日、堂崎天主堂で盛大な祈願祭

下五島カトリック諸団体共同主催のもとに、815日堂崎天主堂で盛大な、皇軍武運長久

祈願祭を執行した。在郷軍人会員、婦人会員、男女青年団員、戸主、小学児童等、1500

参集、五島中学配属将校久米少佐、村長、小学校長、在郷軍人会長らの入場が終わると田

川師の感銘ある説教、同師司式のもとに厳かに祈願祭が執行された。式後久米少佐から約

一時間半に亘る講演があり、終わって男女青年団バザーを催し純益金は国防献金として献

納した。

 

昭和129月、長崎教区信者数 56,343人、奈留島 1,269人、久賀島 875人、福江 

2,054人、水の浦 1,485人、三井楽 2,386人、玉之浦 1,579 

 
 

昭和129月、長崎教区信者数 56,343人、奈留島 1,269人、久賀島 875人、福江 

2,054人、水の浦 1,485人、三井楽 2,386人、玉之浦 1,579人 

 

昭和121123日、井持浦天主堂で教会連合慰霊祭

福江町、ほか下五島7か町村(奈留、久賀、奥浦、岐宿、三井楽、玉の浦)のカトリック教

会連合戦没将兵慰霊祭は1123日、玉の浦町井持浦天主堂で厳かに執行された。玉之浦

町長代理、学校長、巡査部長、軍人会、愛婦、国婦各会長及び幹部など来賓50余名、

主催者たる西田、田川、浜田、七田、畑田、今村、中田各神父参列、各町村の信者は堂の

内外にあふれている。午前9時、一同聖堂前に整列して東方遥拝、国家斉唱の後入堂、中

田師の挨拶の辞についで田川師は山口長崎市教の弔電を披露、防共聖戦に殉じた勇士をた

たえる説教があり、終わって西田師司式、今村、畑田両師助祭の下に荘厳な追悼祭と謝祷

式とが執行された。七田師指揮の聖歌隊が追悼詩の哀調を謡するとき、日の丸の国旗に守

られ蘭の花輪と陸海軍軍帽とを載せられた仮棺に向かい祭主西田師の献香あり各神父これ

にならい謝祷式を終わった。終わって別室で懇談会を開き1130分天皇陛下と出征将兵

の万歳を三唱して散会した。なお当日カトリック少年団は、式中信者や司祭、来賓などの

喜捨を集めて1245銭を得たので日の丸の小旗に包んで巡査部長を通じ即日国防献金と

して献納した。

 

昭和13327日、下五島堅信式

下五島教会堅信式は、327日から43日に亘り、山口司教の手で厳かに執行され、633名に授堅された。

 

昭和13427日、水の浦天主堂、待望の落成式

従来の水の浦天主堂は久しき以前から破損甚だしく信徒の集合に堪えがたく改築を急がれた。主任司祭浜田師は、赴任当初から建築に腐心されたが、このほど完成し427日落成式が行われ、511日、山口司教によって祝別式が挙行された。新聖堂は長さ15間に幅6間の堂々たる建物で雲を突くかのような尖塔と共にその輝かしい姿を水の浦部落に横たえている。

 

昭和13512日、司教閣下を迎えて、武運長久東洋平和祈願祭

山口司教閣下をお迎えした井持浦教会では、12日、西田、浜田両師が助祭、副助祭に奉じされて厳かな、皇軍武運長久と、東洋永遠の平和確立との為の祈願祭を執行した。聖堂前に各団体が整列すると、東方遥拝、国家合唱に式は始まり司教さまの防共聖戦の意義と銃後者の覚悟についてのちから強い訓話があり聖体降伏式をもって終了した。

 

昭和13512日、ルルドの聖鐘祝別

玉之浦ルルドの聖鍾は、聖母崇敬の心篤いフランシヅコ釜窄栄助夫妻の献金により着荷、山口司教の手で祝別された。

 

昭和13517日、連合巡礼団ルルド参詣

517日、福江、堂崎、久賀島3教会信者百余名は、田川、七田師引率の下に大巡礼団を組織、皇軍武運長久国威宣揚を祈願するため、大挙して玉の浦ルルドに参詣した。当日午後1時出発、7時から聖体降伏式と提灯行列がおこなわれた。翌朝、田川師司式の歌ミサ、皇軍武運長久と東洋平和確立のために祈った。歌は、堂崎慈恵院の聖歌隊が奉唱した。

 

昭和136月4日、初聖体組少女、ルルド参詣

福江教会初聖体組少女11名は、玉之浦ルルドに感謝参詣すべく奥浦慈恵院福江分院峰副

院長に引率されて、正午福江教会を出発玉の浦に向かった。

 

昭和14年1月7日、井持浦教会、修築拡張

日本のルルドと称せられる井持浦教会は、建築後すでに42年を経過、木造の聖堂は腐朽狭隘耐えられなくなったのでその修築拡張が急がれたが新春を向かえて見事に竣工、1月7日、司教代理西田師により祝別式が挙行された。従来の西側廊下を取り入れて、窓を後退させ、内部の子柱を取りのぞいて天井は全部テックス張り、壁も塗り替えられて、広く明るくきれいに改装された。正面に日の丸と十字架と桜花を案配したマークが輝いているのも新日本の聖堂らしく喜ばれている。総工費201円57銭であるがさすがにルルドの聖堂だけあって匿名献金や、参詣者の寄付や信者の労力奉仕で所要の経費は賄われた。

 

昭和13318日、濱口師、遥かローマで叙品

長崎教区の6師が大浦天主堂で叙品される3月21日より3日早く3月18日、教区からローマ留学中アントニオ濱口庄八師が、プロバガンダ大学を卒業されめでたく叙品された。叙品の翌19日、午前7時から、聖フランシスコ・ザビエルの片腕を安置するゆかりの祭壇である、キェザ・ジェズ(イエズス会聖堂)の聖フランシスコ祭壇で初ミサを捧げられた。中町教会主任で教会を原爆で焼かれ無宿人となられた田川神父、浦川司教と誓い親戚にあたる。

 
 

                     
                     
                     
                     
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