ペトロ 下口 勲

序文

今年の6月までカトリック教会は司祭年をお祝いしている。改めて司祭の意義や使命を見つめ直し、司祭一人一人が聖性に向けて歩むように決意を新たにするためであろう。司祭も一人の人間であり、さまざまな悩みや弱さを抱えている。時として、人間には天使のようにすばらしい一面と、反対に悪魔のような、醜い一面との二面性がある。そのことはだれでも少し自分の過去を振り返ってみるとすぐわかります。たとえばわたしたちは毎日、いろいろ良いことをします。親切、思いやり、助け合いなどたくさんのすばらしいことをします。しかし、その同じ人間が、目をそらしたくなるようなひどいことをします。たとえばいじめ、人の悪口、批判、わがまま、利己主義などいろいろな悪いことをします。そんなことを考えると、人間は矛盾だらけの偽善者といってもいいでしょう。しかもわたしたちはそのような二面性を持つ存在でありながら、弱さや醜さの面は隠し、良い面だけを見せたがるどうしようもない傾向がある。それは社会生活を円滑に生きるためには時として必要な処世術かもしれません。しかし人格の成熟のためには、すばらしい面だけでなく、自分の醜い面を見つめることが大切なことだと思う。

 

「裏を見せ、表を見せて散る紅葉かな」これは良寛和尚の辞世の句とされている。この句のようにわたしも37年の司牧の裏も表も客観的に見ることができればいいのですがなかなかそうできないのが現実です。かつて、薬物依存症者を支える会の幹事であったとき、「長崎ダルク」主催の総会で羨ましく思うことがありました。薬物依存者自身が薬物依存症になった辛くて悲しい経験を赤裸に語る姿である。実に過去の苦い経験を赤裸に語ることがとても上手であった。何のてらいもなく、ごく自然に他人の前で語っていた。かれら薬物依存者はそれまでの仲間とのミーティングで自分の過去の過ちを繰り返し語ることに慣れていることもあるのでしょう。それにしても、私はとても他人の前で自分の弱さを赤裸々に話すことにはどうしても抵抗を感じてしまう。

 

それでいながら、自分は人が評価しているように立派な人間でも神父でもない。人間として、相も変わらず未熟なままの惨めな弱い人間、罪深い人間です。これまでの37年の司祭人生には目を覆いたくなるほどたくさんの失敗があります。これまでたくさんの信徒をことばや態度で傷付けたことが、覆水盆にかえらずどうすることもできない。遠い過去において犯した自分の卑劣な行為に対して良心的に苦しみ、悩み、呵責を覚えることがしばしばであります。従って、そのような汚れた司祭の半生を振り返ることは、とても辛いことであり、悲しいことでもある。しかしそのようないわば傷だらけの人生の中にも、人のために尽くしたことの喜びが幾度もあった。信徒と共に泣き、笑うことも人生を生きていることの喜びを共に分かち合うこともあった。

 

自分の信仰の原点に帰り、新しく出発し直そうもう一度最初からやり直したい、これこそが惰性な信仰生活に落ち込んでしまっているわたしを立て直す方法ではないでしょうか。また過去を振り返ることで、今後の司祭生活で「一体何が大切か」ということが見えてくる。司祭のわたしにとって一番大切なこと、それはいつもキリストの心を心として日々新たにし、新しい時代にふさわしい祈りの人、たゆまない福音宣教者、よき牧者となることです。

大浦教会助任時代

わたしは1972320日、里脇浅次朗大司教によって浦上教会で谷川正美師と高見三明師と一緒に叙階の恵みをうけました。外国語に強く頭脳が明晰であった谷川正美師と高見三明師はそれぞれローマに留学することになりましたので、教区で司牧するのはわたし一人となりました。最初の任地は大浦教会の助任司祭でした。そこでのわたしの仕事は、わたしと一緒に大浦小教区に赴任された深堀明義師の司牧宣教活動を補佐することでした。わたしたちが司祭になった年は学生運動が盛んな年でした。テレビで浅間山山荘事件が生中継で放送されていました。同じ頃、安保反対の学生が全国から佐世保に集合しデモ闘争した事件がマスコミで盛んに報道されていました。田中角栄が総理大臣を務め、中国と日中平和条約を結んだ年でもあります。また、同年冬。札幌で開催されて冬期オリンピックで「日の丸飛行隊」のメダル独占が多くの人に勇気と感動を与えた。経済成長がまだ続いていた時代で終身雇用が約束され、国民の大半は自分の生活は中流だと考える人は国民の8割にも達し、国民の生活は比較的安定していた時代です。その頃の長崎の町は、漁業にしても造船業にしても、観光業にしてもかなり潤っていました。観光シーズンになると、いつも大浦天主堂には全国から観光ツアーや修学旅行の学生が足の踏み場もないくらい大勢押しかけ、そのため旧大浦教会の信者は主日ミサのたびごとに殺到する観光客によってミサが妨害され、新しい教会を近くの教区所有の土地に造ることが急務となっていました。しかし敷地内居住者の立ち退きについて、居住者と教会側との間の交渉はこじれ教会建設は長引いていました。その頃も大浦小教区に司祭館はなかったので主任も助任も旧司教館に居候していました。朝食はコーヒーだけで、昼と夜の食事は司教様、それに秘書の片岡神父様、それにお告げの指導司祭の松永神父様と一緒でした。

助任の主な仕事

平日のミサは東琴平町のマリア園に通い、主日ミサは、主任と交代でした。大浦の巡回教会であった大山教会も、主任と交代で主日ミサをしていました。平日の水曜日の大山の子供たちの要理の指導とミサはわたしが受け持ちました。

また、新戸町に折られる信徒の子供たちのために1ヵ月に1回、戸町中学校で用務員をしていた信徒の橋本氏の二階の一間を借りて要理の指導をしていました。青年会の指導司祭、小学生と中学生の要理、レジオマリエと聖書研究会の指導司祭、地区集会、それに信徒の冠婚葬祭が主な仕事でした。その頃、カトリック教会での結婚式がブームになっていました。全国から北は北海道から南は沖縄から結婚式の申し込みがありました。それは福音宣教の仕事として、主任司祭が担当されました。月曜日は市内司祭の定休日。その頃はボーリングが流行っていましたので、わたしも先輩司祭から誘いを受け、一緒にボーリングを楽しむことがありました。松永師からは観光客が多いので時間があれば、大浦教会を訪れる人のために案内をすればいいのではないかという助言をしばしば受けていました。必要性は分かっていましたが、案内する自信も時間の余裕もなく、巡礼者から特別に頼まれない限りしませんでした。悔やまれます。また、主任司祭の深堀師は大浦の主任司祭の仕事の他に、連合婦人会の指導司祭、大司教館の会計、純心高校での授業、未信徒同士の結婚式、諸宗教委員会の担当司祭、長崎教区神学生の担当司祭、教区の典礼委員長など小教区以外の仕事のため教会を留守にすることが多く、反対に、助任のわたしが部屋にいることが多かった。そのことにいち早く気づいたのは松永師で、この大浦小教区ではどちらが主任司祭なのかわからないとぼやかれることが時々ありました。他方、松永師、当時秘書の片岡師、主任の深堀師と一緒に信徒の家に食事の招待を受けることもありました。この助任時代は司祭になりたてのほやほやのときで、ミサの説教など司祭としての基本的な司牧活動の務めを果たすことが精一杯の時期であり、全国から集団で殺到する観光客のために時間をさいて案内することなどは、生活の余裕とゆとりがなかった。レジオマリエの若いメンバーと日頃教会に離れている家庭を訪問することや、毎週、定期的に青年会の有志のために聖書研究会を開催したことや、ときどき戸町地区の婦人会の有志を集めてみことばの分かち合いをしたことや、車の免許を取得してからは子供たちを連れて山や海にドライブを楽しみ、想い出になるように記念写真をとってあげていたことくらいのことしかしていない。当時大浦には会員が15名を程度の青年会がもと神学生だった小西会長を中心に教会奉仕活動や親睦のための活動をしていましたが、指導司祭のわたしは若かったにもかかわらず、青年会活動を盛り上げ、会員相互の交わりを深める奉仕の使命を果たさなかった、という思いがあります。

主任司祭深堀明義師

大浦時代の深堀師はわたしにとって最初の主任司祭でした。里脇大司教の秘蔵っ子といえるほどに信頼されていた彼は小教区の主任の仕事の他に、教区のたくさんの仕事を託されていた。年齢がわたしより丁度10才年上でしたが、大浦時代の深堀師はまだ36才と若い主任司祭で活力に満ちた司牧をなさった。小柄であるだけに小回りが利き、急勾配で狭苦しい敷地の中の教会や司教館を駆け巡っていくつもの仕事を要領よくさばいていました。

その頃の大浦教会には仲町から援助マリア会の景山シスターが小中学生の要理と典礼奉仕で見えていました。わたしたち3人は土曜日の午前9時、主任司祭の部屋で次の週の典礼当番のことや小中学生の要理の当番のことや地区集会と教会行事の役割分担についての打ち合わせをしていました。主任の深堀師は、主日ミサでは小柄なのにマイクなどはまったく必要でなく、大きな声量で熱意をもって説教する深堀師。説教は10分程度、論理的に話されていた。マリア会の司祭木寅師は普段海星高校で教えていましたが、主日のミサの手伝いにみえていました。わたしは告白場でその説教を聞く機会がありましたが、師の説教は、主日ミサ福音のメッセージを信徒の社会生活と家庭生活に適応させ、具体的な体験談を交えて話されていた。その説教は知性よりも心にしみる説教で信徒に好評でした。わたしは木寅師のように知性だけでなく、信者の感情と心に響く説教となるよう工夫しましたが、そのことがいつもストレスとなり、胃が痛む思いをしながら準備していました。他方、深堀師はいつも多忙であり、説教の準備にわたしのように空しい時間をつぶす余裕はなかったのではないかと思っている。彼はお酒も滅法につよく、司教館の1階の大食堂で夜9時過ぎ、ビールとかウイスキーを飲みながらテレビを独りで視ている師の姿をみかけることがよくありました。そのような師の姿は仕事を果たし終えた充実感と安堵した気持ちと独りでゆっくりとして時間を過ごすことが交錯しているように見えました。

当時、司教館の居住者は里脇司教様の他に松永師、深堀師とわたしの4人だけでしたが、松永師と深堀師は司教様からあつい信頼を受けていました。松永師はお告げのマリア修道会指導司祭としての仕事の他に、神学講座の講師、教区報「教報」に掲載する記事の執筆活動、教区主催の典礼行事での説教、講演会活動など教区を代表する優秀な司祭であることの高い評価を司祭や信徒だけでなく、司教様からも受けていました。他方、鹿児島教区長時代から里脇司教に仕えて来ていた深堀師は、近くで長年培ってきた信頼関係がありましたから、教会の行事を報告することや司教から依頼されたことは手際よくこなし、タイミング良く報告できる知恵にたけていました。教区主催の典礼行事などの帰りにもわたしが運転する大司教の車に便乗していましたが、そのような時に二人の対話を聞きながら運転していると、互いの間には親子のような親近感がある対話となっていました。しかし司教様から信頼されている故の苦労もあったようで、時には司教様からおしかりを受けることもあったようです。わたしが大司教館に転任になってから、大浦の新教会落成ミサが厳かに里脇司教司式で挙行されました。双方に新教会建設の功績がありましたが、どうしてか大司教様は深堀師が手渡す落成謝礼を拒否されました。板挟みになったわたしが預かることになりましたが、この事例などは普段のお二人の揺るぎない信頼関係があったことの証拠だと思っています。わたしも仕事の上のミスをして大司教様に迷惑をおかけしたことがありましたが、彼のように怒られることはありませんでした。

大山教会巡回

大山教会巡回の際には司祭館に寝泊まりをし、お告げのマリア大山修道院の大山院長から食事の世話をしてもらいました。大山特産のタケノコシーズンになると豚肉と味噌で調理した大皿一杯のタケノコはとても美味しくいただきました。時にはいただいたタケノコを大司教館の賄いにお願いして作って食べましたが、この料理に関しては大山院長と大山の信徒のつくったものが美味しかったです。当時大山でも要理のけいこに参加する子供たちは多く、その中から数名お告げのマリア修道女になっているのは大変喜ばしいことです。
 



  
   
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