ペトロ 下口 勲

大司教館

1975年4月、里脇大司教より辞令を受け、大浦教会助任司祭から大司教館勤務になりました。もともと3年間大司教館に居候していましたから、転任のための移動は部屋が1階から2階の秘書の執務室に移動するだけでした。しかし、仕事の中身は助任時代と比べると全く変わりました。電話の受付、お客の接待、大司教様が堅信式や会議や大会など所用のため出かけるとき大司教館の車を運転すること、堅信など小教区の典礼行事で行事の中心であるミサ典礼が滞りなく、しかも荘厳に挙行されるように典礼奉仕をすること、面会希望者の受け付け、接待などが主な仕事でした。予約した面会希望者は南山手町の旧大司教館で受け付けることがありましたが、毎週月曜日と木曜日の午後カトリックセンターで受け付ました。両日午後、旧大司教館で昼ご飯をいただいてから、ブラックの愛車クラウンでカトリックセンターにでかけ、予約したお客と3階奥のご自分の執務室で面談しましたが、お客がいないときにはしっかりお勉強をなさっていました。午後6時の夕食をセンターの神父さま方と一緒にいただいた後、隣の厨房に出向かれて当時から賄いの奉仕をしていたお告げのマリアのシスター方と歓談なさる場合がありました。両手の拳を軽く頭上にあげてシスター方とにこやかに談笑されるときのガッツポーズは自然体で大司教さまによく似合っていました。旧大司教館に帰ると、必ずシスター肥喜里が出迎え、愛犬コリー“次郎”をかわいがってから自室に戻っていました。当時いろんな職業の方が旧大司教館とカトリックセンターに来訪されましたが、日本語しかできないわたしには外国人を受け付けと接待がいつも苦手でした。韓国でハンセン病患者の施設設立者リー神父は施設拡張と運営資金の調達のために何度も大司教様に面会を申し込まれました。一回目の面会は許可され、大司教様の浦上教会、仲町教会、飽の浦教会での主日ミサで献金の募集をする許可を受けました。師はミサの中で当時の韓国でハンセン病患者が置かれている悲惨な窮状を流暢な日本語で呼びかけた。その結果、わたしたちがびっくりするほどの多額の寄付金を手にして帰国されました。翌年もまた来日され大司教様に寄附の許可を受けるための面会の申し込みをされました。わたしは大司教様の意向に従い、何度も断りました。しかし師はなんどもしっこくわたしの執務室に来られて、面会の取り次ぎをするように懇願されました。うるさいので、やむなく、その旨を大司教様に伝えると、大司教様は、彼の熱意に押され、いったん断っていた面会を許可することがありました。これは来訪を希望する方と大司教様との板挟みにあって困った事例のひとつです。大司教館には電話で大司教さまに面会の申し込みをされる方だけでなく、主任司祭の司牧に対しての苦情や批判の電話、それに司祭や信徒から直接大司教と話を希望する電話がありました。そのような方にどのように対処するかは秘書の務めでしたが、取り次ぎの判断を誤り、電話を申し込んだ方と大司教様に迷惑をかけてしまったことが何回かありました。

大司教様はいつも旧大司教館に隣接した小さな建物の2階にある小聖堂に出向き、一人で早朝ミサをしていました。その後は旧大司教館2階のご自分のお部屋兼執務質で神学の勉学に励むことが多く、事務的な仕事以外は宮川神学顧問を通してイタリア語や英語の神学書を注文して精読され、カトリックセンターで開催されていた神学講座や聖書講座で教えることをご自分の大切な仕事とし、生き甲斐としておられました。大司教様の身辺のお世話はお告げのマリア修道会のシスターがしていましたが、わたしの時にはシスター肥喜里が奉仕者でした。お客が来訪されとき意外には午前10時と午後3時が通常のおやつの時間でした。このときはシスターが煎れたコーヒーとおやつをいただき、仕事に疲れたときや夜の時間帯にはよく水戸黄門など時代劇のテレビドラマを視聴されていました。司教団や他教区の司祭、それに長崎教区の司祭たちからは保守的な司教だという評価を受けていました。確かにそのような保守的な面がありましたが、教皇さまに対しては特別な尊敬と従順のこころを持っておられましたし、同じ地元出身の大阪教区田口枢機卿に対しても先輩として尊敬されていました。公的には親分肌のような方に見えても、実際は、裏表のないあっさりした性格でした。いつも私たちは司教様には気軽に用件を伝えることができていました。釣りが大好きでときどき木鉢教会の信徒戸村大工の持ち船で教区会計の川原師などを誘い、一緒に五島沖でイトヨリやアマダイ釣りを楽しんでおられました。食事はわたしの時は松永師、深堀師、それにわたしと4人で旧大司教館1階の大食堂で昼食と夕食をなさっていましたが、食事の時間がとても早かったので、同伴するのも大変でした。堅信などのミサの説教が長いことで知られていましたが、わたしが秘書をしていた頃によく口にいていたことばがいくつか記憶に残っています。その内、二つだけに絞って紹介すると、一つは世俗化に関することばで「都会は信仰の墓場である」ということです。もう一つは堅信後の歓迎会の席で保護者によく話されていたことばで「子供を4人恵まれるなら、その内の一人を男の子でも、女の子でも神に献げなさい」ということばです。現在、平戸市田平(瀬戸山)教会での堅信式に向かう途中、田平教会に近づいてから乗用車クラウンのタイヤがパンクしてタイヤ交換に手間取り、司教様と田平の信徒に迷惑をかけたこと、上五島青砂ヵ浦教会での堅信式のご馳走の席で生ものを食べ過ぎて胃腸をこわし、翌日の仲知教会での堅信式の典礼奉仕が出来なかったことがありましたが、当時の仲知主任の永田師から何の典礼奉仕もしていないのに堅信ミサの謝礼をいただき恥ずかしい思いをしたこと、当時から平戸島方面での堅信式は日帰りでしたが、帰り道の途中にある近海町付近の手打ちうどん屋に立ち寄り一緒にご馳走になったことなどが想い出となっています。全国レベルの行事としての思い出は、1976年、京都府亀岡の大本教本部で開催された第7回世界連邦・平和促進宗教者大会であります。全国から各宗派の上長が集まり、平和の原点を和解に求めることを、宗派を超えて認め合い、それを共に祈願し、広く市民、世界に訴えました。大会二日目の各宗派の上長の荘厳な儀式が印象に残っている。と1978年、大阪の病院に入院の大阪教区の田口枢機卿をお見舞いされたときに同伴できたことである。

わたしが秘書をしていたとき秘書の仕事そのものは楽でしたが、その代わり、秘書の休暇はほとんどないに等しい状況でした。昼であろうと夜であろうといつでも大司教様の用件に対応できる体制を心がけていなければならなかい決まりみたいな雰囲気がありました。このため大司教様に仕える立場にあった秘書のわたしには、勤務時間と私的時間や休暇とが曖昧であったことが辛いことでした。それは前任者の時から続いている状況だったと記憶しています。1年に一度東京で開催された一週間に渡る定例司教会議と臨時の司教会議の時が唯一ほっと出来る休暇のときでした。私の場合大司教館の任期は3年間でしたが、その期間2回司教会議で、司教館を留守であることを利用して海外旅行したことは想い出になっています。一回目はフィリピンへ旅行しました。マリア会の清水神父さまにお願いしてフィリッピンで当時在留日本人のために活躍していたレデンプトール会修道会司祭の西本師を頼って旅行しました。西本師は事情が分かっておられて、忙しいのにわたしのための時間を作り、神父様が司牧していたフィリッピンでは一番大きくて有名な教会巡り、マニラ海岸での夕日の見学、夜は社交場にも案内し、ご自分もつきあってくださいました。今考えると実に迷惑千万なことであったろうに思っています。もう一回海外旅行は韓国旅行です。そのときには滑石教会の隣接地の幼稚園で働いていた宮崎カリタス会のシスターにお願いしての旅行でした。当時はまだ韓国の経済は低く、豊かさを謳歌していた日本人旅行者が社会問題になっていました。いわゆるパーチーと称して女を買うキーセン旅行の盛りのときでした。わたしも格安のツアー旅行でしたが、ツアー旅行者とは往復の飛行機だけが一緒で、韓国国内では単独行動をとることが許可されていました。ツアー旅行会社予約の高級ホテルに一泊した翌日早朝、日本人の宮崎カリタス会のシスターにホテルまで迎えに来ていただき、その後はグループと別行動をとりました。宮崎カリタス会は国際的な修道会で、すでに韓国でもいろんな教会で奉仕し、志願生を養成する大きな修練院がありまました。その修練院で司教様がおいでたときに宿泊するという部屋に泊めていただくという名誉を受けました。翌日のミサでの日本の教会の迫害と殉教の歴史についての説教は大変関心ももって聞いていただきました。その後、シスターから韓国の教会にも迫害と殉教の歴史があること、韓国のカトリック教会は日本と異なって、信徒が中心になって作り上げた歴史であるということをお聞きしました。

短期の巡礼旅行でしたが、その間、シスターからソウル教区の司教座聖堂やソウルで開催されたという国際聖体大会の会場、韓国人殉教記念碑跡、それにソウル市の貧民街も案内されました。帰国前日の夕食は司教並みの特別な待遇を受けましたが、そのときいただいたタイの石焼き料理が大変美味しかったことを記憶しています。わたしは日本から持参した日本製の缶入りのコーヒーをお土産にしただけでしたが、よい想い出をつくって帰国できました。

里脇大司教様の場合、秘書のわたしが執務室にいつも待機しておればご安心の様子でしたので、わたしの方も、執務室にいながらくつろげるように工夫し、当時としては高価なステレオを購入してクラシックの音楽を聴くことや読書することなど心がけて大司教館の職員としての仕事を果たすように努力したつもりです。そのステレオはこれまで何回か部品を交換しましたが、まだ現役で使っています。ところで大司教館時代の3年間に多くの大浦の信者にお世話になりましたが、その内の一人は鹿児島教区司祭で大浦出身司祭小川靖忠師のお父様の小川健太郎氏です。彼は秘書の事情に通じていたので、しばしば時間に余裕のあるわたしの執務室に遊びに来ていました。彼は退職前の職業が新聞社でしたので日本の政治、経済、長崎教区の司牧状況に通じていましたので、時間つぶしの相手としては最適な方でした。彼から将棋を教えてもらい、彼に薦められて切手を収集し、カメラ一式を購入しましたが、一度だけ彼からおしかりを受けたことがあります。それは大司教館勤務になったとき、私の後を継いだ大浦助任の浜口師にわたしの乗用車を無償提供したことに対してのおしかりでした。乗用車はわたしが何年も働き、やっとの思いで購入したいのちの結晶である。それを相手が同じ仲間だとしても、軽々しく、無償提供したことは愚かなことである。

宗教教育に情熱を注がれた大司教様

子供の要理教育の重要性は、取りたてて言うまでもありません。ことに現代は、信者の子供も受験競争の影響を受け、学校の部活動、塾などで多忙をきわめる厳しい生活環境にあります。そのような環境のなかで、里脇大司教様は1974年、要理教育研究所を設立されました。わたしが大浦助任の2年後のことです。その後も大司教様は、信仰教育に関心を持ち、わたしが大司教館に勤めていた1977年には日本司教団を代表し、ローマで開催された第4回シノドス(世界代表司教会議)に出席されました。シノドスのテーマは要理教育でした。そのときの会議の成果は1979年、教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的勧告「要理教育」として発表されました。この文書で特に強調されているのは、カテキジスは信仰教育であり、キリスト中心でなければならないこと、カテキジスと日常生活の結びつき、秘跡における信仰の実践、そして、大人の生涯信仰教育の必要性でした。この文書を翌年に里脇大司教様自ら翻訳され、発行されました。そもそも大司教様が1971年にカトリックセンターを建設されたのもカテキスタを要請するということが目的でした。だから大司教様は自ら神学講座や聖書講座の講師となって長崎教区のカテキスタ養成と信徒の信仰教育に力をつくされました。神学講座の前にはかならずご自分の達筆な筆で原稿を書かれ、その校正をわたしなどにも依頼されました。このように大司教様の信仰教育にかける熱意を知っているはずのわたしは最初の主任司祭となった丸尾小教区でカテキスタとしての使命を果たして誠実に果たしたのか、どうか自分でもよくわかりません。

 

大司教様には運転が荒っぽく、何かにつけ機転がきかず、また能力不足ために何かと不自由をかけたことは確かです。旧大司教館から離れてすでに30年になりますが、コーヒーをたしなむこと、読書すること、クラシック音楽を聴くことの3つは司教館時代からの習慣として今も続いています。

 



  
   
inserted by FC2 system